太平洋セメント都市ごみ・産業廃棄物の受け入れによる廃棄物処理事業の確立と、エコセメントの事業化
セメントを売る会社か、廃棄物を処理する会社か——縮む需要のなかで窯の使い道をどう定めたか
- 概要
- 1998年の合併で発足した太平洋セメントが、セメント窯を廃棄物の処理設備として使い直し、排出者から処理費を受け取る収益事業へ組み替えた経営判断。1998年に環境事業本部を置き、2000年4月にはゼロエミッション事業部として専門部隊を組織した。2001年4月には都市ごみの焼却灰を主原料とするエコセメントの工場が操業を始めた。
- 背景
- 国内セメント需要は1997年のピークから縮み続け、2001年3月期は15%減の7000万トン規模が見込まれた。旧秩父・小野田・日本セメント3社の設備を引き継いだ同社には遊休の焼成炉が10本程度あり、グループ全体で年間売上高に匹敵する9400億円の有利子負債も抱えていた。
- 内容
- 1997年に千葉県から焼却灰の受け入れを打診され、100億円規模の設備投資を要する案件を1998年に引き受けた。処理費収入で投資を回収できると見たためである。営業成績のよい者を集めた100人の部隊が自治体と企業を回り、受け入れる廃棄物は営業開始2年余りで120種類、取引先は190カ所に広がった。
- 含意
- 木村道夫社長は「モノを作る会社から廃棄物処理というサービスを売る会社に変わる」と述べた。2003年3月期の連結営業利益は460億円と過去最高になり、閉鎖候補とされた埼玉工場は優良工場に変わった。国内需要が4割減る間も業界の廃棄物処理量は保たれ、今日の「循環経済形成のキープレイヤー」という自己規定につながっている。
窯は変えず、勘定の立て方を変えた
1450度の焼成炉は、合併の前から同じ場所にあった。変えたのは設備ではなく、そこに入るものを何と呼ぶかであった。石炭灰や高炉スラグを「原価低減に使う副産物」と見ていた会社が、廃棄物を持ち込む相手から処理費を受け取る側に回り、千葉県の要請には100億円を投じて応じている。木村道夫社長が「極端に言えばセメントは副産物」と言い切ったのは、製品を売る会社という自己規定そのものを外しにいった言い方だとみられる。
ただし、これで国内事業が立ち直ったわけではない。エコセメントは普通セメントより生産コストが50%高く、多摩地区の最終処分場を延命させる公共的な効果があって初めて成り立っている。埼玉工場と熊谷工場の製造原価を1トン約1000円下げた処理費収入も、相手のある商売である。この事業が支えたのは縮み続ける国内セメントの採算であって、需要そのものを取り戻したわけではない。稼ぎ方を替える判断と稼ぐ場所を替える判断は、このあと別々に必要になったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
合併しても縮み続けた国内需要
1998年の合併で国内シェア約39%を得ても、需要そのものは縮み続けた。セメントの国内需要は2001年3月期に1997年のピークから15%少ない7000万トン規模となる見込みで、旧秩父・小野田・日本セメントの3社から引き継いだ設備には、遊休の焼成炉が10本程度残っていた。設備廃棄をすれば合理化効果は大きいはずであったが、会社は工場閉鎖や炉の撤去を計画しなかった[1]。
財務の余裕も乏しかった。グループ全体では年間売上高に匹敵する9400億円の有利子負債を抱え、遊休不動産の売却や証券化で2001年3月期中に400億円ほどを圧縮する計画を立てていた。そこへ海外企業への資本参加や買収が重なる。それでも環境関連の設備投資は前年同期比4倍の36億円に増やしており、この分野への傾斜は資金繰りを承知のうえの選択であった[2]。
1450度の窯という設備の性質
判断の前提には、設備そのものの性質があった。セメントの焼成炉は最高で摂氏1450度に達し、ダイオキシンやフロン、PCBまで安全な物質に分解できる。100メートル近い筒の中で木材やプラスチックなどの有機物は燃え尽き、あとにはケイ素やカルシウム、アルミニウム、鉄というセメントの原料成分だけが残る。廃棄物処理と原材料生産を同時にこなす設備が、初めから手元にあった[3]。
石炭火力発電所の石炭灰や製鉄所の高炉スラグは十数年前から原材料に使っていたが、河浦正樹常務によれば「他産業の製造工程から出てくる『副産物』を原価低減に使う感覚だった」という。見方が変わったのは1995年ごろで、受け入れる廃棄物の範囲を広げる研究が始まる。1997年には千葉県から、市町村のごみ焼却場から出る焼却灰をセメント原料に使えないかという要請が持ち込まれた[4][5]。
決断
処理費を受け取る事業として引き受ける
千葉県の要請に、会社はすぐには応じなかった。基礎技術はあっても実用化には専用の生産設備の開発と工場の新設が要り、費用は少なく見積もっても100億円と弾き出された。それでも1998年に引き受けたのは、処理費収入で初期投資が意外に早く回収できると分かったためである。当時の焼却灰の処理費は1トン当たり4万円ほどで、年6万トンなら年20億円以上の収入が見込めた[6]。
組織も作り替えた。合併と同じ1998年に環境事業本部を置き、2000年4月にはこれをゼロエミッション事業部として専門部隊に組み直す。河浦正樹専務が「成績がいい者だけを集めた」という営業担当者100人が、自治体や企業に売り込みをかけた。営業を始めて2年余りで受け入れる廃棄物は120種類、取引先は190カ所に達し、成約率1割ながら年100件のペースで取引先が増えた[7][8]。
会社の位置づけを言い換える
木村道夫社長は、この事業をコスト削減の手段にとどめなかった。「太平洋セメントはモノを作る会社から廃棄物処理というサービスを売る会社に変わる」と述べ、「極端に言えばセメントは事業活動の結果生み出される副産物という位置づけになるだろう」とまで踏み込んでいる。「セメントだけでは斜陽産業だが、新しい基軸を打ち出すことで成長産業に変身できる」というのが、その見立てであった[9]。
研究と設備も廃棄物へ振り向けられた。中央研究所長の下田孝取締役によれば、セメントやコンクリートの研究に割く労力の8割が循環型社会に関連する技術開発になった。代表的な成果が原材料の約7割を都市ごみの焼却灰や下水汚泥でまかなうエコセメントで、千葉県市原市に専用工場を建設した。埼玉工場では減産で休止した炉を15億〜20億円かけて生ごみの発酵プラントに改造している[10]。
結果
「お荷物工場」が優良工場に変わる
2001年4月に三井物産と共同設立した市原エコセメントが操業を始め、3カ月後に熊谷工場、2002年11月には埼玉工場でも処理が始まった。2003年3月期の連結売上高は国内需要の落ち込みで2000年3月期比7%減となったが、営業利益はほぼ2倍の460億円と過去最高を記録する。年120億〜140億円とみられる処理費収入が原料コストの低減に効き、原料に転用した廃棄物は663万トンに達した[11]。
効いたのは全社の数字だけではない。埼玉工場は2本ある炉の1本を2000年に休止し、近い将来の閉鎖候補と見られていたが、年6億円、熊谷工場は年24億円の処理費収入を得る優良工場に変わった。両工場の製造原価は1トン当たり約1000円下がり、国内平均の3000円台に対して3割以上の低減にあたる。鮫島章男社長は社内で「太平洋セメントは今後、廃棄物処理会社を目指す」と語っていた[12][13]。
自治体のごみ処理を担う設備として
事業は自治体の側にも定着した。埼玉県日高市は2002年11月から可燃ごみ・粗大ごみ・業務用ごみ・不法投棄ごみのすべてを埼玉工場に持ち込み、年間約1万5000トンをリサイクルしている。清掃工場を持たずに済み、2012年に満杯と予想された最終処分場は「あと100年はもつ」。東京多摩地区では2006年7月に東京たまエコセメント施設が稼働し、翌年から焼却灰の埋め立てがゼロになった[14][15]。
需要が縮む速度と、処理量が減る速度は違った。国内セメント需要が2004年度の5908万トンから2023年度の3457万トンへ4割減る間に、業界の廃棄物等処理量は2004年度の3089万トンから2022年度の2487万トンへの減少にとどまっている。会社は今日、自らを「循環経済形成のキープレイヤー」と位置づけ、廃棄物・副産物の使用量は国内循環利用量の約10%、リサイクル率40%以上のセメントを製造すると説明している[16][17]。
- 日経ビジネス 2000年10月16日号「太平洋セメント “儲かる”廃棄物処理で世界に打って出る」
- 日経ビジネス 2004年1月19日号「太平洋セメント(セメント製造の国内最大手)ゴミ活用に生き残りかける」
- 週刊東洋経済 2010年8月28日号「企業・産業 『静脈産業』として貢献するセメント産業 ゴミからセメントを造る ゴミ処理場問題に光明」
- 太平洋セメント 2023年度決算説明資料(2024年5月14日)
- 太平洋セメント 有価証券報告書(連結)