磐城セメントの起業は、1906年に横浜で立案[1]された計画に始まる。福島県石城郡大野村の八茎鉱山は和銅年間の発見とも伝えられる古い銅山で、1906年7月からオット・ライメールス商会[2]と鉱山業者の西村準三郎氏の共同出資による八茎鉱山合資会社の経営に移った。鉱区一帯が石灰石山だったため、銅を掘れば大量の石灰石がずり石として出た[3]。この石灰石を使うセメント事業に着目したのが、同商会幹部で八茎鉱山の社長を務めた横浜の事業家広瀬金七氏と、東京の事業家岩崎清七氏[4]である。両氏はドイツ塩や外米の輸入を通じて懇意[5]な間柄にあった。八茎鉱山の豊富な石灰石を活用できること、東北地方にセメント工場が一か所もないこと、1906年4月のサンフランシスコ地震[6]の影響でセメント輸出が盛んなこと。この三つを両氏は事業の根拠に挙げた[7]。
セメント事業を決めた両氏は、交友と取引のあった京浜地区の事業家に呼びかけて発起人を募った[8]。推進役となった創立委員は、横浜在住の安部幸兵衛氏・広瀬金七氏・岡野利兵衛氏・吉永仁蔵氏と、東京在住の岩崎清七氏・佐久間福太郎氏・安部林右衛門氏・西村準三郎氏の8名で、岩崎氏が創立委員長を務めた[9]。発起人は34名、賛成人は東京・横浜・磐城を中心に153名[10]にのぼった。創立委員は安部幸兵衛氏を除く7名で八茎鉱山を視察し、工場用地を福島県石城郡四倉町に決めた[11]。当初は常磐線で一駅北寄りの双葉郡久之浜町を予定していた[12]が、事情により急遽変更した。横浜市太田町三丁目52番地の創立事務所[13]で発起人総会が開かれたのは1907年1月30日[14]で、この席で起業設計書・営業収支予算書・定款を審議し、承認した。資本金は150万円、株式3万株[15]を見込む計画とした。
ところが、発起人総会と同じ1907年1月、東京株式相場が突然暴落[16]した。2月から6月にかけて関東・東海地方を中心に40余の中小銀行で支払停止と取付けが続出[17]し、6月の第一回株式払込みでは1株につき12円50銭[18]が集まらず、会社設立そのものが困難になった。創立委員長の岩崎清七氏は、設立を一時打ち切って損勘定を発起人で分担する[19]ほかないという見解を述べた。これに反対したのが、創立委員のなかで最年長にあたる安部幸兵衛氏[20]だった。安部氏は、石灰石山まで見に行って有望だと決めた経緯を挙げ、機械もすでに全部注文済み[21]だとして一歩も引かなかった。1907年11月29日、横浜市港町の浜港館で創立総会[22]が開かれ、株主の田原当一氏の動議により資本金は100万円へ減額[23]することを決議した。株式総数も3万株から2万株に減り、取締役会で吉永仁蔵氏が初代社長に、西村準三郎氏が専務[24]に選ばれた。
資本金の減額は建設計画を狂わせした。第一回株式払込金は起業設計書の37万5000円から25万円に減り[25]、重役会の大勢は当初計画の回転窯を諦めて、当時の業界で一般的だった竪窯[26]へ切り替える方向に傾いた。これに猛反対したのが、三重セメントから招聘されて1907年12月に技師長となった岡田萬次氏[27]である。岡田氏は、ここで10万円余りの資金を惜しんで竪窯にすれば会社は将来かならず泡沫会社の運命をたどる[28]と述べ、当初計画どおりの回転窯導入を主張した。竪窯は連続作業ができず、一窯一回の焼成に4日から7日を要し、焼出量も13トン程度[29]にとどまる。重役陣はこの主張を認めて竪窯案を撤回し、不足する資金は1株につき5円の第二回株式払込みで10万円を調達[30]して建設費に充てた。導入した回転窯はアリス・チャーマー社製で、径7フィート・長さ100フィート[31]の大きさがあった。
四倉工業所は1908年9月19日に完成[32]し、試運転を開始した。試運転には、日本で最初の原石焼成法[33]を用いた。1903年に回転窯を導入した浅野セメント深川工場[34]は、石灰石を焼いてつくった生石灰を機械的に粉末にし、粘土とともに回転窯へ送る生灰焼成法[35]をとっていた。これに対し岡田萬次技師長が考案した原石焼成法[36]は、石灰石を生石灰にせず原石のまま自然乾燥し、乾燥した粘土と混ぜて粉砕して、直接回転窯へ送り込む方法である。仮焼の工程がない分、製造法が簡単で操業管理も品質管理も容易[37]になる。試運転は成功し、第二期事業報告書は、製品の試験成績がきわめて優良で、日本で一、二と称されるものに比べて劣らない[38]と記した。操業を始めたのは1908年10月[39]で、製造関係の従業員は当初15人ほど[40]しかいなかった。原石焼成法はその後、日本のセメント工場の通常の焼成法になった[41]。
創業当初の業績は損失が続いた。初めて純益金2446円を計上した1909年度下期[42]にも期末の累積赤字は2万1319円あり、創業費6236円を含めると2万7555円の欠損[43]だった。そこで1910年6月29日の臨時株主総会[44]で、資本金を100万円から85万円へ減額[45]することを決議した。同年10月30日までに1株につき21円払込済みの株式3000株を4万3082円で買い入れて消却[46]し、払込額6万3000円との差で1万9918円の差益[47]を得た。1910年度下期の決算は、純益金7911円とこの減資差益を合わせた2万7829円から欠損金2万2793円を差し引き、創業以来の累損を一掃したうえで5036円の繰越金[48]を残した。翌1911年度上期には純益金が前期比5.1倍の4万518円[49]に達し、年8%弱にあたる1万7000円を初配当[50]に充てた。この配当水準を1914年度上期まで維持[51]した。
第一次世界大戦の好況は磐城セメントの財務を厚く[52]した。1914年度下期に1万3278円だった純益金[53]は、1916年度下期に15万3231円、1917年度上期に16万1164円、同年度下期には30万1118円[54]に伸びた。配当は1916年度下期から1920年度下期まで8期にわたり、特別配当を含めて年20%から30%[55]を続けた。1918年に仙台市で設立された塩釜セメント[56]は、工場を着工しないうちに大戦終結を迎え、磐城セメントに合併を申し入れた。1920年3月1日に財産の引継ぎが終わり[57]、資本金は300万円となって22万6286円の合併差益[58]が生じた。1923年9月1日の関東大震災では、震源地から300キロメートル離れた四倉工業所に被害はなく[59]、東京市京橋区の本社事務所が焼失した。健康がすぐれなかった吉永仁蔵社長は同年11月30日に病気静養のため辞任[60]し、12月20日、岩崎清七氏が第二代社長[61]に就いた。
震災の復興需要を見込んだ各社の増産と輸入の増加が重なり、セメント市況はトン当り40円前後から11円台へ急落[62]した。1924年10月5日、全国18社が加盟する第一次セメント連合会[63]が発足し、生産制限と最低価格の協定が始まった。加盟18社には大阪窯業も含まれる[64]。磐城セメントは1925年6月1日に日出セメントを合併して湊工業所[65]を得たが、生産制限を企業規模の大小にかかわらず一律に適用する方式は一社多工場の大会社に有利[66]であり、輸出分を制限の適用外とする扱いも輸出可能な大会社しか恩典を受けないと考えた。そして1926年1月26日、岩崎社長名の文書で連合会へ脱退を通告[67]した。翌27日には高木百行常務が浅野セメントの浅野総一郎社長[68]を訪ねて事情を説明した。
連合会は1926年3月1日の臨時総会で磐城セメントの除名[69]を決めたが、浅野セメントの斡旋で休止中の帝国・鈴木両社から合計1万1515樽の能力融通[70]を受けることがまとまり、4月15日に復帰した。同年6月に東京株式取引所へ株式を上場[71]し、7月10日には鈴木セメントを合併して東京工業所[72]を開いた。1927年3月の金融恐慌でセメント各社の金融難が深まると、岩崎社長は家業の岩崎商店時代から取引のあった三菱商事の三宅川会長を訪ね[73]て製品の販売委託を申し入れ、1928年3月7日に一手販売契約[74]が結ばれた。手数料は売値の2.5%[75]、三菱商事は受渡済み契約品の手取額の70%を立て替えて支払い、その残高総額は100万円[76]を超えないものと定めた。契約期間は5年で、以後5年ごとに更新[77]された。1930年8月には社員15名を解雇[78]して全従業員の給与を切り下げ、無配は1930年度の2期にとどまり、1931年度上期には4%へ復配[79]した。
1932年以降、満州事変後の軍事費膨張と時局匡救事業[80]でセメント需要は回復した。ところが各社が拡張に走り新会社の設立も相次いで生産能力が需要の伸びを上回り、セメント連合会の生産制限率は年平均で常に50%を超えた[81]。制限下でも既設工場の拡張は続い[82]た。磐城セメントは1932年12月、月産能力4000トンの増強[83]をめざして四倉・湊両工業所の設備拡充を決めた。時局匡救事業は農村恐慌の深刻だった東北地方に多く[84]、この方面を営業基盤とする磐城セメントは工場拡張に踏み切った。1933年2月20日の役員会は、さらに予算125万円[85]をもって湊工業所にキルン1基を新設することを決めた。全国能力比率が1930年12月の7.88%から1932年12月には7.43%[86]へ落ち、このままでは連合会加盟会社中6位に転落[87]しかねないという判断による。工事は1934年10月と11月に完成し、湊工業所の月産能力は4万300トンに増えた[88]。
同じ時期、磐城セメントは同業他社への出資を重ね[89]た。1933年6月、大同電力と東邦電力[90]が資金調達のため手放した豊国セメント株を、競争会社への直接売却をはばかる両社の事情から三菱商事を名義上の買い手として買い取り[91]、1934年4月に譲り受けた株数は3万4500株[92]にのぼった。1935年11月には子会社の七尾セメントに資本金の半額100万円を出資させて敦賀セメント[93]を傍系会社とし、1937年6月に富山セメントの株式2万900株[94]を取得、同年9月には東武鉄道の根津嘉一郎社長が設立した富国セメント[95]の過半数株を取得した。七尾を含む5社を傘下に収めた結果、外地工場を含めた経営規模は浅野・小野田の両社と比べて遜色のない[96]ところまで達し、業界三大会社の地位が確立した。1938年5月、岩崎社長は創立30周年の訓示をレコードに吹き込み[97]、六大セメント会社を統制下に置いて月産能力30万トンに達した[98]と従業員に語った。
日中戦争下で国家統制が強まる[99]なか、業容の拡大は合併という形をとった。1940年12月1日、傘下の富国セメントを合併[100]して資本金は2800万円、年産能力は122万2800トン[101]に達した。これを機に1941年1月9日、四倉工業所を四倉工場[102]、湊工業所を八戸工場、富国の葛生工場を栃木工場と改称[103]した。一方、七尾セメントは1939年、休止中のキルンを使って大江山鉱山の含ニッケル鉱土から含ニッケル鉄を試験製錬[104]し、1941年8月に製鉄事業法第三条の許可[105]を得て本格生産に入った。1941年11月26日、磐城セメントは企業整備の形で七尾セメントと豊国セメント[106]を合併し、同日付で敦賀セメントも合併した。資本金は4150万円へ増え、七尾と苅田の2工場[107]が加わった。商工大臣に提出した合併申請書は、含ニッケル鉄の増産が時局下の重要資材として必要[108]であることを合併理由に挙げていた。
太平洋戦争下、磐城セメントの工場はセメント以外の軍需物資へ転換[109]した。七尾工場は1942年4月に3号キルンも含ニッケル鉄の生産へ移し[110]、セメント生産を休止した。栃木工場は1943年11月に当局から全面転換の命令[111]を受け、1944年5月からキルン2基をともにドロマイトクリンカー[112]の生産へ切り替えた。ドロマイトクリンカーは製鋼用平炉や電気炉の補修に欠かせない資材[113]で、その工業化は日本では磐城セメントが最初である。1943年5月29日、岩崎清七氏が初代会長[114]に、専務の岩崎清一郎氏が第三代社長[115]に就いた。同年9月30日には政府の企業整備方針に沿って常陸セメントを合併[116]し、日立工場を加えて工場は7か所に広がった。1944年4月、セメント11社はすべて第二次指定で軍需会社[117]となり、政府は岩崎清一郎社長を生産責任者に、各工場長を生産担当者[118]に指名した。
戦争末期に七尾工場長を務めた小湊恒太郎氏[119]は後年、工場名が磐城セメント七尾含ニッケル鉄工場から護国第一四四一工場へ再度改称された[120]と回想している。1945年8月の終戦で、台湾・満州・中国に広げた事業はすべて失われた[121]。海外の会社に対する有価証券投資や融資金などの損失は合計1647万3741円[122]に達し、これは1946年8月の特別経理会社指定時における総資産の18%[123]を占めた。セメント生産数量も、1942年度の72万8001トンから1945年度には12万3130トン[124]まで落ちた。配当は1945年度上期から止まっ[125]た。終戦から9日後の1945年8月24日、斎藤次郎常務は部長と工場長に宛てた書簡[126]で、製品ごとの需要見通し、工場ごとの復旧方針、資金と人員の扱い、原価切下げの必要を細かく指示した。1946年4月10日には磐城セメント労働組合が結成[127]され、翌11日、取締役会長の岩崎清七氏が83歳で死去[128]した。
1948年2月、磐城セメントは過度経済力集中排除法の審査対象に指定[129]を受けた。セメント業界では日本・小野田・大阪窯業・宇部の各社も同時に指定[130]を受けた。ただし磐城セメントは、戦時中の企業整備で取得した日立・敦賀・苅田の3工場[131]を、すでに旧所有者へ返還するか、その手続きを進めていた。指定時点の業容は八戸・四倉・栃木・七尾の4工場・月産能力3万8400トン・全国シェア10%[132]で、1948年5月にこの事情と経緯を文書で持株会社整理委員会へ提出[133]したところ、7月に指定は取り消された[134]。同年8月に企業再建整備計画を提出し、9月30日付で認可[135]を得た。1948年4月9日には岩崎清一郎社長が会長に退き[136]、常務の斎藤次郎氏が第四代社長[137]に就いた。同年12月には全額出資で東京コンクリート工業を設立し、1949年11月に日産能力150立方メートルの業平橋工場[138]を完成させて、12月から日本で最初の生コンクリート生産[139]を始めた。
磐城セメントは1949年5月、東京証券取引所市場第一部に上場[140]した。翌1950年1月にセメントの統制が撤廃[141]されると、斎藤次郎社長は4工場体制のままでは自由競争下の健全経営はできないと判断した。八戸・四倉・七尾の3工場は寒地にあって[142]冬季の不需要期の影響を強く受けるため、関東以西にあと2、3の工場を持つことが最も望ましい[143]と1950年8月の臨時株主総会資料で説明した。同年11月1日、磐城セメントは東洋セメント・富士セメント・助六石灰工業の3社を合併[144]し、資本金は2億2500万円に増えた[145]。東洋セメントの工場は小倉工場となり、門司港に隣接して接岸荷役施設[146]を持つことから輸出専用工場の役割を担った。助六石灰工業は岐阜石灰工場に変わっ[147]た。同年12月、磐城セメントは本社を栃木県安蘇郡葛生町へ移した[148]。生産拠点の近くに本社を置くべきだという斎藤次郎社長の考え[149]による。
1954年7月、磐城セメントは総工費約30億円[150]をかけて浜松工場を完成させた。日本で最初の本格的なレポールキルン2基[151]を備え、月産能力は2万5200トン[152]に達した。レポール方式は原料をペレットに造粒し、キルン排ガスの熱で乾燥と仮焼を済ませてから焼成する製造方式で、乾式キルンでクリンカー1トン当り160万から180万カロリー[153]を要した焼成熱量を、90万から100万カロリーへ下げられる。建設の狙いは電源開発の佐久間ダム向けセメントの供給[154]にあった。磐城セメントは佐久間・秋葉の両ダムへ中庸熱セメント約40万トンと普通セメント約40万トン[155]を納め、総使用量の80%を供給[156]した。1955年12月の役員会で各工場のレポール化[157]を決め、1963年までにキルンを新設16基・改造13基行い、うち18基をレポール方式[158]とした。1960年3月31日には川崎重工業系の川崎セメントを合併[159]し、大垣工場を岐阜工場として引き継いだ。
エネルギー革命で石炭産業が斜陽化するなか、住友石炭鉱業は石炭の自家使用と雇用問題への対策[160]を兼ねてセメント事業への進出を計画した。同じ福島県で新工場を計画していた磐城セメントは、県内での重複投資による過剰生産を憂慮[161]し、住友系の新会社が田村郡内に工場を建てるならば技術援助と販売ルートの提供[162]を行うと申し入れた。斎藤次郎社長は1961年にかけて住友銀行の堀田庄三頭取に提携を申し入れた[163]。1962年6月に住友系5社の出資で福島セメントが設立[164]され、磐城セメントは1963年5月、福島セメントと住友石灰工業を合併[165]して資本金は35億円へ増えた[166]。月産能力のシェアはこれにより12.77%から16.06%へ上がった[167]。合併で引き継いだ田村工場では、1963年6月から7月にかけてレポール方式のキルン3基が完成し、月産能力7万トンで操業[168]が始まった。
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|---|---|---|---|---|
| 広瀬金七氏・岩崎清七氏らによるセメント製造会社設立の企図 | ★ | |||
| 1907〜1931年八茎鉱山の残石から起こした後発6社目の船出と、三菱商事に委ねた販売 | 磐城セメントを資本金100万円で設立、本店は横浜市太田町 | ★★★ | ||
| 吉永仁蔵氏が初代社長に就任 | ★ | |||
| 四倉工場の新設 | ★ | |||
| 資本金85万円への減資と、減資差益金による累積損失の一掃 | ★★ | |||
| 1911年度上期に利益4万518円を計上、年8%の初配当 | ★★ | |||
| 塩釜セメントの合併と、増資による資本金300万円への拡大 | ★★ | |||
| 吉永仁蔵氏の病気辞任を受け岩崎清七氏が第二代社長に就任 | ★ | |||
| 日の出セメントの合併による八戸工場の取得 | ★ | |||
| セメント連合会への脱退通告 | ★★ | |||
| セメント連合会への復帰 | ★★ | |||
| 東京株式取引所への株式上場 | ★ | |||
| 鈴木セメントの合併と東京工業所の設置、資本金524万円 | ★ | |||
| 大阪窯業セメントの設立 | ★ | |||
| 三菱商事との製品一手委託販売契約の締結 | ★★★ | |||
| 七尾セメント七尾工場の竣工、本格的な湿式焼成法の採用 | ★ | |||
| 第二次セメント連合会の存続契約への調印 | ★★ | |||
| 昭和恐慌への対策としての全社員の給与切下げ | ★★ | |||
| 1931年度上期決算からの年4%への復配 | ★★ | |||
| 1932〜1963年統制と戦時転換をくぐり、集中排除法の指定を経て住友へ合流するまで | 七尾セメントにおける含ニッケル鉄の試験製錬の開始 | ★★ | ||
| 富国セメントの合併による現・栃木工場の取得 | ★ | |||
| 湊・四倉・葛生の各工業所の八戸・四倉・栃木工場への名称変更 | ★ | |||
| 七尾セメントの合併による七尾工場の取得 | ★ | |||
| 企業整備による豊国セメントの合併、資本金4150万円 | ★★ | |||
| 七尾工場のキルン3基の含ニッケル鉄生産への全面転換 | ★★ | |||
| 岩崎清一郎氏の第三代社長就任と岩崎清七氏の初代会長就任 | ★ | |||
| 企業整備による常陸セメントの合併と日立工場の取得 | ★ | |||
| 七尾工場の海軍監督工場への指定、4月には軍需会社指定 | ★★ | |||
| 栃木工場のドロマイトクリンカー生産への全面転換 | ★★ | |||
| 終戦にともなう満蒙・台湾などの海外資産の喪失 | ★★ | |||
| 決算無配への転落、1949年度上期まで無配が継続 | ★★ | |||
| 磐城セメント労働組合の結成と岩崎清七会長の死去 | ★ | |||
| 制限会社令による制限、8月には特別経理会社に指定 | ★★ | |||
| 過度経済力集中排除法の適用指定、7月に指定取消し | ★★ | |||
| 敦賀工場・苅田工場の分離 | ★ | |||
| 斎藤次郎氏の第四代社長就任 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部への上場 | ★ | |||
| 戦後初の配当の実施 | ★★ | |||
| 東洋セメントの合併 | ★ | |||
| 大阪窯業セメントによる伊吹工場の新設 | ★ | |||
| 浜松工場の新設 | ★ | |||
| 川崎セメントの合併による現・岐阜工場の取得 | ★ | |||
| 大阪窯業セメントによる高知工場の新設 | ★ | |||
| 福島セメント・住友石灰工業の合併 | ★ | |||
| 定時株主総会における商号変更と本社移転の承認可決 | ★★ | |||
| 大阪窯業セメントの大阪セメントへの商号変更 | ★ | |||
| 磐城セメントの住友グループ加入と、住友セメントへの商号変更 1963年、月産能力で業界3位・配当30%を続けていた磐城セメントが、斎藤次郎社長の申し入れによって住友グループに加わり、10月1日付で1907年以来の社名を住友セメントへ改めた経営判断。翌1964年6月には住友グループの社長会である白水会に加盟した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 1963〜1983年住友の名を継いだ商号変更と、高度成長の終わりに現れた2期連続の最終赤字 | 本社の東京都台東区北稲荷町への移転 | ★ | ||
| 住友グループの社長会である白水会への加盟 | ★★ | |||
| 和歌山セメント・西浜開発ほか2社の合併、資本金55億円 | ★★ | |||
| 滋賀興産の合併による多賀工場・彦根工場の取得 | ★ | |||
| 赤穂第一工場の新設 | ★ | |||
| 古賀進氏の第五代社長就任 | ★ | |||
| 経営改善総合対策委員会の設置、12月には要綱を発表 | ★★ | |||
| 住友石炭鉱業社長の藤末尚氏の第六代社長就任 | ★★ | |||
| 工場閉鎖と希望退職を含む合理化案の労働組合への提示 | ★★ | |||
| 七尾工場・多賀工場の閉鎖 | ★★ | |||
| 希望退職の実施による約1200人の退職 | ★★ | |||
| 赤穂第二工場の新設 | ★ | |||
| 小倉工場の東洋セメントへの分離 | ★ | |||
| 今川彦二氏の第七代社長就任 | ★★ | |||
| 経営改善推進本部の設置と100億円削減対策の実施 | ★★ | |||
| 四倉工場の生産休止とスミセスレート建材の解散 | ★ | |||
| 本社機構改正にともなう新素材開発室の設置 | ★★ | |||
| 1982年度決算の無配、1985年度まで無配が継続 | ★★ | |||
| 1984〜2026年事業部制で始めた多角化、大阪セメントとの合併、そして静電チャックが育つまで | 別途積立金の取崩しによる未処理損失金の補填の承認可決 | ★★ | ||
| 非セメント部門の売上構成比を50%とする10年計画の策定と、「電・光・石・化」4分野への進出 1985年4月、住友セメントが1985年度からの中期三ヵ年実行計画『RCP作戦』を決め、これを最初の3年とする10年計画のなかで、子会社を含むベースの非セメント部門売上構成比を8.7%から50%へ引き上げる目標を掲げた経営判断。今川彦二社長の主導により、エレクトロニクス・オプトエレクトロニクス・セラミックス・超微粒子の4分野へ進出した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 浜松工場の閉鎖 | ★ | |||
| 中期三ヵ年実行計画「RCP作戦」の策定 | ★★ | |||
| 出資比率50%によるスミセ電子の設立 | ★ | |||
| 四倉工場の閉鎖 | ★ | |||
| 応用光電研究室の全株式の取得 | ★ | |||
| 赤穂第一工場と赤穂第二工場の統合による赤穂工場の発足 | ★ | |||
| 秋芳鉱業の設立 | ★ | |||
| OAシステム事業部門の分離と住友セメントシステム開発の設立 | ★ | |||
| 住友金属工業と共同での和歌山高炉セメントの設立 | ★ | |||
| エステックの設立 | ★ | |||
| 株式の追加取得による千代田エンジニアリングの子会社化 | ★ | |||
| スミセ建材の設立 | ★ | |||
| 青木海運の買収 | ★ | |||
| 住友セメントと大阪セメントの合併による住友大阪セメントの発足 | ★★★ | |||
| 彦根工場の閉鎖 | ★ | |||
| スミセ興産の合併 | ★ | |||
| 渡邊穰 | 田村工場の閉鎖 | ★ | ||
| 渡邊穰 | 泉石灰工業と栃木興産の合併による泉工業の発足 | ★ | ||
| 渡邊穰 | 伊吹工場におけるセメント生産の中止 | ★★ | ||
| 渡邊穰 | 株式の追加取得による栗本コンクリート工業の子会社化 | ★ | ||
| 渡邊穰 | 東京エスオーシーによる市川エスオーシー生コンの合併 | ★ | ||
| 関根福一 | 関根福一氏の代表取締役社長就任 | ★★ | ||
| 関根福一 | エスオーシー建材と新北浦商事の合併 | ★ | ||
| 諸橋央典 | 諸橋央典氏の代表取締役社長就任 | ★★ | ||
| 諸橋央典 | 石炭高騰下での1トン2,000円級の値上げの反復と、生コン向け取引慣行の見直し 石炭市況の高騰でセメント事業が営業赤字に陥った2022年前後、住友大阪セメントが1トン2,000円級の値上げを繰り返し、生コンクリート業界との価格交渉の慣行を動かして転嫁を通した経営判断。諸橋央典社長のもとで、2025年4月出荷分からの三度目の改定まで続いた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 諸橋央典 | 東京証券取引所の市場区分見直しによるプライム市場への移行 | ★ |
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事実根拠:出所(住友大阪セメント)