住友大阪セメント の歴史

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創業 1907年
創業者 広瀬金七・岩崎清七
創業地 横浜市太田町(現・神奈川県横浜市中区)
創業
1907年1月30日、横浜市太田町の創立事務所で発起人総会が開かれ、磐城セメントの設立が決まった。福島県の八茎鉱山では銅を掘るたびに大量の石灰石がずり石として出ており、横浜の広瀬金七氏と東京の岩崎清七氏がこれを原料に見立てた。同年1月の株式相場の暴落で第一回払込みが集まらず、資本金は150万円の計画から100万円へ減額して11月29日に創立総会を開催する。1908年10月、福島県四倉町で操業を始めた。国内6社目の後発で、1928年3月には三菱商事と一手販売契約を結び、売る仕事を社外へ委ねている。1963年10月に住友セメント、1994年10月の大阪セメントとの合併で住友大阪セメントとなった。
決断
セメント半分・それ以外半分という同じ配分を、40年おいて二度掲げた。1963年5月、配当30%を続けていた磐城セメントは自ら住友グループへ加わり、社名を住友セメントへ改めた。1974年からの合理化では11工場のうち5工場を閉じ、従業員を3,893名から2,024名へ減らした。それでも収益は戻らず、1985年4月に今川彦二社長が非セメント比率を8.7%から50%へ引き上げる10年計画を立てた。到達したのは15%台にとどまり、1991年には拡大から選別へ切り替えて、研究テーマを3段階に分けて進めない案件を落とす仕組みへ改めている。ここで超微粒子とオプトエレクトロニクスだけを残したことが、現在の高機能品事業の出発点を作った。
現況
営業利益の6割以上を、もうセメントが生んでいない。2026年3月期の連結売上高は2,237億円、営業利益は136億5,000万円で、売上の7割を占めるセメント事業のセグメント利益は54億9,500万円にとどまる。これに対し石灰石などの鉱産品は売上175億円で利益29億8,600万円、半導体製造装置向けの静電チャックを扱う新材料は売上181億円で利益24億7,900万円と、二つで売上の16%から利益の4割を出している。石炭高騰で86億円の営業赤字に沈んだ2023年3月期から3期で黒字へ復したのは、1トン2,000円級の値上げを三度重ねたことと、静電チャックの品種構成が利益を押し上げたためである。
競合
セメントで競う相手と、静電チャックで競う相手は同じではない。国内需要は1990年度の8,630万トンから減り続け、1998年に秩父小野田と日本セメントが合併して太平洋セメントが発足し、三菱マテリアルと宇部興産もセメント事業を統合したため、合併で2位へ上がっていた住友大阪セメントは3位へ下がった。首位の太平洋セメントは廃棄物処理と米国西海岸へ収益源をずらし、宇部興産はセメント事業を合弁へ移して社名をUBEへ改めた。住友大阪セメントはセメントを本体に残したまま、1985年に始めた研究開発の側から半導体製造装置メーカーという別の産業の顧客を得た。競争の焦点は、生コン向けの値決めと、装置向け部材の品種構成の二つへ分かれている。
住友大阪セメント:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2012年3月期2026年3月期

創業ストーリー 八茎鉱山の残石から起こした後発6社目の船出と、三菱商事に委ねた販売 (1907年〜)

日露戦争後の企業熱と、八茎鉱山に積まれた石灰石

磐城セメントの起業は、1906年に横浜で立案[1]された計画に始まる。福島県石城郡大野村の八茎鉱山は和銅年間の発見とも伝えられる古い銅山で、1906年7月からオット・ライメールス商会[2]と鉱山業者の西村準三郎氏の共同出資による八茎鉱山合資会社の経営に移った。鉱区一帯が石灰石山だったため、銅を掘れば大量の石灰石がずり石として出た[3]。この石灰石を使うセメント事業に着目したのが、同商会幹部で八茎鉱山の社長を務めた横浜の事業家広瀬金七氏と、東京の事業家岩崎清七氏[4]である。両氏はドイツ塩や外米の輸入を通じて懇意[5]な間柄にあった。八茎鉱山の豊富な石灰石を活用できること、東北地方にセメント工場が一か所もないこと、1906年4月のサンフランシスコ地震[6]の影響でセメント輸出が盛んなこと。この三つを両氏は事業の根拠に挙げた[7]

  • 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
    • [1]磐城セメントの起業計画は設立前年の1906年に横浜で立案された
    • [2]八茎鉱山は1906年7月にオット・ライメールス商会と西村準三郎の共同出資による八茎鉱山合資会社の経営となった
    • [3]八茎鉱山の鉱区一帯は石灰石山で、銅の採掘と同時にずり石として大量の石灰石が出た
    • [4]セメント事業に着目したのは八茎鉱山社長の広瀬金七と東京の事業家岩崎清七で、有価証券報告書も1906年に両名らが設立を企図したと記す
    • [5]広瀬金七と岩崎清七はドイツ塩や外米の輸入を通じてかなり懇意な間柄だった
    • [6]1906年4月のサンフランシスコ地震の影響でセメント輸出が盛んだったことが起業判断の根拠のひとつになった
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [7]社史は八茎鉱山の豊富な石灰石を活用できること、東北地方にセメント工場が一か所もなかったこと、サンフランシスコ地震の影響でセメント輸出が盛んであったことの三点を挙げ、広瀬・岩崎の両名が事業の将来性と有利性に確信をもったと記す

セメント事業を決めた両氏は、交友と取引のあった京浜地区の事業家に呼びかけて発起人を募った[8]。推進役となった創立委員は、横浜在住の安部幸兵衛氏・広瀬金七氏・岡野利兵衛氏・吉永仁蔵氏と、東京在住の岩崎清七氏・佐久間福太郎氏・安部林右衛門氏・西村準三郎氏の8名で、岩崎氏が創立委員長を務めた[9]。発起人は34名、賛成人は東京・横浜・磐城を中心に153名[10]にのぼった。創立委員は安部幸兵衛氏を除く7名で八茎鉱山を視察し、工場用地を福島県石城郡四倉町に決めた[11]。当初は常磐線で一駅北寄りの双葉郡久之浜町を予定していた[12]が、事情により急遽変更した。横浜市太田町三丁目52番地の創立事務所[13]で発起人総会が開かれたのは1907年1月30日[14]で、この席で起業設計書・営業収支予算書・定款を審議し、承認した。資本金は150万円、株式3万株[15]を見込む計画とした。

  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [8]広瀬金七と岩崎清七は互いの交友・取引関係にあった京浜地区の事業家やオット・ライメールス商会の関係者に呼びかけて新会社設立の発起人を募った
  • 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
    • [9]創立委員8名のうち岩崎清七が創立委員長として中心的役割を果たした
    • [10]創立委員の呼びかけで設立発起人に加わったのは34名、ほかに東京・横浜・磐城を中心に153名の賛成人がいた
    • [11]創立委員は現地視察の結果、工場を福島県石城郡四倉町に建設することを決定した
    • [12]当初は常磐線で一駅北寄りの双葉郡久之浜町を工場地に予定していたが四倉町に変更された
    • [13]創立事務所は横浜市太田町三丁目52番地に置かれ、これが最初の本社となった
    • [14]発起人総会は1907年1月30日に開催され、起業設計書・営業収支予算書・定款が審議承認された
    • [15]起業目論見書の資本金総額は150万円、株式総数は1株50円の3万株だった

ところが、発起人総会と同じ1907年1月、東京株式相場が突然暴落[16]した。2月から6月にかけて関東・東海地方を中心に40余の中小銀行で支払停止と取付けが続出[17]し、6月の第一回株式払込みでは1株につき12円50銭[18]が集まらず、会社設立そのものが困難になった。創立委員長の岩崎清七氏は、設立を一時打ち切って損勘定を発起人で分担する[19]ほかないという見解を述べた。これに反対したのが、創立委員のなかで最年長にあたる安部幸兵衛氏[20]だった。安部氏は、石灰石山まで見に行って有望だと決めた経緯を挙げ、機械もすでに全部注文済み[21]だとして一歩も引かなかった。1907年11月29日、横浜市港町の浜港館で創立総会[22]が開かれ、株主の田原当一氏の動議により資本金は100万円へ減額[23]することを決議した。株式総数も3万株から2万株に減り、取締役会で吉永仁蔵氏が初代社長に、西村準三郎氏が専務[24]に選ばれた。

  • 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
    • [16]発起人総会が開かれた1907年1月に東京株式相場が突然暴落し反動不況が始まった
    • [17]1907年2月から6月にかけ関東・東海地方を中心とした40余の中小銀行に支払停止・取付けが続出した
    • [18]第一回株式払込みの1株12円50銭が集まらず会社設立そのものが困難な状態に追い込まれた
    • [19]岩崎清七は設立を一時打ち切り損勘定を発起人で分担するしか方法がないとの見解を述べた
    • [20]安部幸兵衛は当時60歳で創立委員のなかでは最年長かつ最大の実力者だった
    • [22]創立総会は1907年11月29日に横浜市港町の浜港館で開催された
    • [23]株主田原当一の動議により起業設計書の資本金150万円が100万円へ減額され満場一致で決議された
    • [24]創立総会後の取締役会で社長に吉永仁蔵、専務に西村準三郎が選任された
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [21]安部幸兵衛は石灰石山まで見に行って有望だと決めた経緯を挙げ、セメント事業が急に悪くなったわけではなく機械も全部注文済みだと強硬論を主張して引き下がらなかった
  • 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
    • [1]磐城セメントの起業計画は設立前年の1906年に横浜で立案された
    • [2]八茎鉱山は1906年7月にオット・ライメールス商会と西村準三郎の共同出資による八茎鉱山合資会社の経営となった
    • [3]八茎鉱山の鉱区一帯は石灰石山で、銅の採掘と同時にずり石として大量の石灰石が出た
    • [4]セメント事業に着目したのは八茎鉱山社長の広瀬金七と東京の事業家岩崎清七で、有価証券報告書も1906年に両名らが設立を企図したと記す
    • [5]広瀬金七と岩崎清七はドイツ塩や外米の輸入を通じてかなり懇意な間柄だった
    • [6]1906年4月のサンフランシスコ地震の影響でセメント輸出が盛んだったことが起業判断の根拠のひとつになった
    • [9]創立委員8名のうち岩崎清七が創立委員長として中心的役割を果たした
    • [10]創立委員の呼びかけで設立発起人に加わったのは34名、ほかに東京・横浜・磐城を中心に153名の賛成人がいた
    • [11]創立委員は現地視察の結果、工場を福島県石城郡四倉町に建設することを決定した
    • [12]当初は常磐線で一駅北寄りの双葉郡久之浜町を工場地に予定していたが四倉町に変更された
    • [13]創立事務所は横浜市太田町三丁目52番地に置かれ、これが最初の本社となった
    • [14]発起人総会は1907年1月30日に開催され、起業設計書・営業収支予算書・定款が審議承認された
    • [15]起業目論見書の資本金総額は150万円、株式総数は1株50円の3万株だった
    • [16]発起人総会が開かれた1907年1月に東京株式相場が突然暴落し反動不況が始まった
    • [17]1907年2月から6月にかけ関東・東海地方を中心とした40余の中小銀行に支払停止・取付けが続出した
    • [18]第一回株式払込みの1株12円50銭が集まらず会社設立そのものが困難な状態に追い込まれた
    • [19]岩崎清七は設立を一時打ち切り損勘定を発起人で分担するしか方法がないとの見解を述べた
    • [20]安部幸兵衛は当時60歳で創立委員のなかでは最年長かつ最大の実力者だった
    • [22]創立総会は1907年11月29日に横浜市港町の浜港館で開催された
    • [23]株主田原当一の動議により起業設計書の資本金150万円が100万円へ減額され満場一致で決議された
    • [24]創立総会後の取締役会で社長に吉永仁蔵、専務に西村準三郎が選任された
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [7]社史は八茎鉱山の豊富な石灰石を活用できること、東北地方にセメント工場が一か所もなかったこと、サンフランシスコ地震の影響でセメント輸出が盛んであったことの三点を挙げ、広瀬・岩崎の両名が事業の将来性と有利性に確信をもったと記す
    • [8]広瀬金七と岩崎清七は互いの交友・取引関係にあった京浜地区の事業家やオット・ライメールス商会の関係者に呼びかけて新会社設立の発起人を募った
    • [21]安部幸兵衛は石灰石山まで見に行って有望だと決めた経緯を挙げ、セメント事業が急に悪くなったわけではなく機械も全部注文済みだと強硬論を主張して引き下がらなかった

回転窯を選んだ技師長と、日本で最初の原石焼成法

資本金の減額は建設計画を狂わせした。第一回株式払込金は起業設計書の37万5000円から25万円に減り[25]、重役会の大勢は当初計画の回転窯を諦めて、当時の業界で一般的だった竪窯[26]へ切り替える方向に傾いた。これに猛反対したのが、三重セメントから招聘されて1907年12月に技師長となった岡田萬次氏[27]である。岡田氏は、ここで10万円余りの資金を惜しんで竪窯にすれば会社は将来かならず泡沫会社の運命をたどる[28]と述べ、当初計画どおりの回転窯導入を主張した。竪窯は連続作業ができず、一窯一回の焼成に4日から7日を要し、焼出量も13トン程度[29]にとどまる。重役陣はこの主張を認めて竪窯案を撤回し、不足する資金は1株につき5円の第二回株式払込みで10万円を調達[30]して建設費に充てた。導入した回転窯はアリス・チャーマー社製で、径7フィート・長さ100フィート[31]の大きさがあった。

  • 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
    • [25]資本金減額により第一回株式払込金は起業設計書の37万5000円から25万円に減った
    • [26]重役会の大勢は当時のセメント業界における一般的な設備である竪窯への切替えに傾いた
    • [27]岡田萬次は三重セメントから嘱託技師として招聘され1907年12月に技師長に任命された
    • [28]岡田萬次は10万円余りの資金を惜しんで竪窯にすれば将来必ず泡沫会社の運命をたどると重役会に反対した
    • [29]竪窯は連続作業ができず一窯一回の焼成に4〜7日間を要し焼出量も13トン程度だった
    • [30]不足資金は1株5円の第二回株式払込みで10万円を調達し建設費に充当した
    • [31]導入した回転窯はアリス・チャーマー社製で径7フィート×長さ100フィート、浅野セメントの窯より大型だった

四倉工業所は1908年9月19日に完成[32]し、試運転を開始した。試運転には、日本で最初の原石焼成法[33]を用いた。1903年に回転窯を導入した浅野セメント深川工場[34]は、石灰石を焼いてつくった生石灰を機械的に粉末にし、粘土とともに回転窯へ送る生灰焼成法[35]をとっていた。これに対し岡田萬次技師長が考案した原石焼成法[36]は、石灰石を生石灰にせず原石のまま自然乾燥し、乾燥した粘土と混ぜて粉砕して、直接回転窯へ送り込む方法である。仮焼の工程がない分、製造法が簡単で操業管理も品質管理も容易[37]になる。試運転は成功し、第二期事業報告書は、製品の試験成績がきわめて優良で、日本で一、二と称されるものに比べて劣らない[38]と記した。操業を始めたのは1908年10月[39]で、製造関係の従業員は当初15人ほど[40]しかいなかった。原石焼成法はその後、日本のセメント工場の通常の焼成法になった[41]

  • 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
    • [32]四倉工業所は1908年9月19日に完成し試運転を開始した
    • [33]四倉工業所の試運転は日本で最初の原石焼成法によって行なわれた
    • [34]わが国の回転窯によるセメント製造は1903年の浅野セメント深川工場が最初だった
    • [35]浅野セメント深川工場は生石灰を粉末にして粘土とともに回転窯へ送る生灰焼成法を採用していた
    • [36]原石焼成法は磐城セメントの岡田萬次技師長が考案し実施したものである
    • [38]第二期事業報告書は製品の試験成績が極めて優良で日本で一、二と称されるものと比べて劣らないと記した
    • [39]四倉工業所が操業を開始したのは1908年10月である
    • [40]製造関係の従業員は操業当初15人ぐらいしかいなかった
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [37]原石焼成法は竪窯で石灰石を仮焼する工程がないため製造法が簡単で、操業管理・品質管理が容易だと社史は記す
    • [41]原石焼成法はその後わが国のセメント工場に一般的に採用され、通常の焼成法となった

創業当初の業績は損失が続いた。初めて純益金2446円を計上した1909年度下期[42]にも期末の累積赤字は2万1319円あり、創業費6236円を含めると2万7555円の欠損[43]だった。そこで1910年6月29日の臨時株主総会[44]で、資本金を100万円から85万円へ減額[45]することを決議した。同年10月30日までに1株につき21円払込済みの株式3000株を4万3082円で買い入れて消却[46]し、払込額6万3000円との差で1万9918円の差益[47]を得た。1910年度下期の決算は、純益金7911円とこの減資差益を合わせた2万7829円から欠損金2万2793円を差し引き、創業以来の累損を一掃したうえで5036円の繰越金[48]を残した。翌1911年度上期には純益金が前期比5.1倍の4万518円[49]に達し、年8%弱にあたる1万7000円を初配当[50]に充てた。この配当水準を1914年度上期まで維持[51]した。

  • 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
    • [42]第四期決算にあたる1909年度下期に初めて2446円の純益金を計上した
    • [43]同期末の累積赤字2万1319円に創業費6236円を含めると2万7555円の欠損だった
    • [44]1910年6月29日の第五回定時株主総会に続く臨時総会で減資が決議された
    • [45]資本金は100万円から85万円へ減額された
    • [46]1株21円払込済みの株式3000株を総額4万3082円(1株平均14円36銭)で買入消却した
    • [47]払込額6万3000円に対し買入総額との差で1万9918円の減資差益が生じた
    • [48]第六期決算で創業以来の累損を一掃したうえ5036円の繰越金を計上した
    • [49]第七期(1911年度上期)の純益金は対前期比5.1倍の4万518円を記録した
    • [50]年8%弱にあたる1万7000円を配当金に充当し初配当を実施した
    • [51]1911年度上期の年8%配当は1914年度上期までその水準が維持された
  • 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
    • [25]資本金減額により第一回株式払込金は起業設計書の37万5000円から25万円に減った
    • [26]重役会の大勢は当時のセメント業界における一般的な設備である竪窯への切替えに傾いた
    • [27]岡田萬次は三重セメントから嘱託技師として招聘され1907年12月に技師長に任命された
    • [28]岡田萬次は10万円余りの資金を惜しんで竪窯にすれば将来必ず泡沫会社の運命をたどると重役会に反対した
    • [29]竪窯は連続作業ができず一窯一回の焼成に4〜7日間を要し焼出量も13トン程度だった
    • [30]不足資金は1株5円の第二回株式払込みで10万円を調達し建設費に充当した
    • [31]導入した回転窯はアリス・チャーマー社製で径7フィート×長さ100フィート、浅野セメントの窯より大型だった
    • [32]四倉工業所は1908年9月19日に完成し試運転を開始した
    • [33]四倉工業所の試運転は日本で最初の原石焼成法によって行なわれた
    • [34]わが国の回転窯によるセメント製造は1903年の浅野セメント深川工場が最初だった
    • [35]浅野セメント深川工場は生石灰を粉末にして粘土とともに回転窯へ送る生灰焼成法を採用していた
    • [36]原石焼成法は磐城セメントの岡田萬次技師長が考案し実施したものである
    • [38]第二期事業報告書は製品の試験成績が極めて優良で日本で一、二と称されるものと比べて劣らないと記した
    • [39]四倉工業所が操業を開始したのは1908年10月である
    • [40]製造関係の従業員は操業当初15人ぐらいしかいなかった
    • [42]第四期決算にあたる1909年度下期に初めて2446円の純益金を計上した
    • [43]同期末の累積赤字2万1319円に創業費6236円を含めると2万7555円の欠損だった
    • [44]1910年6月29日の第五回定時株主総会に続く臨時総会で減資が決議された
    • [45]資本金は100万円から85万円へ減額された
    • [46]1株21円払込済みの株式3000株を総額4万3082円(1株平均14円36銭)で買入消却した
    • [47]払込額6万3000円に対し買入総額との差で1万9918円の減資差益が生じた
    • [48]第六期決算で創業以来の累損を一掃したうえ5036円の繰越金を計上した
    • [49]第七期(1911年度上期)の純益金は対前期比5.1倍の4万518円を記録した
    • [50]年8%弱にあたる1万7000円を配当金に充当し初配当を実施した
    • [51]1911年度上期の年8%配当は1914年度上期までその水準が維持された
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [37]原石焼成法は竪窯で石灰石を仮焼する工程がないため製造法が簡単で、操業管理・品質管理が容易だと社史は記す
    • [41]原石焼成法はその後わが国のセメント工場に一般的に採用され、通常の焼成法となった

震災後のカルテル脱退と、三菱商事へ委ねた一手販売

第一次世界大戦の好況は磐城セメントの財務を厚く[52]した。1914年度下期に1万3278円だった純益金[53]は、1916年度下期に15万3231円、1917年度上期に16万1164円、同年度下期には30万1118円[54]に伸びた。配当は1916年度下期から1920年度下期まで8期にわたり、特別配当を含めて年20%から30%[55]を続けた。1918年に仙台市で設立された塩釜セメント[56]は、工場を着工しないうちに大戦終結を迎え、磐城セメントに合併を申し入れた。1920年3月1日に財産の引継ぎが終わり[57]、資本金は300万円となって22万6286円の合併差益[58]が生じた。1923年9月1日の関東大震災では、震源地から300キロメートル離れた四倉工業所に被害はなく[59]、東京市京橋区の本社事務所が焼失した。健康がすぐれなかった吉永仁蔵社長は同年11月30日に病気静養のため辞任[60]し、12月20日、岩崎清七氏が第二代社長[61]に就いた。

  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [52]磐城セメントは第一次世界大戦下の業績好調を背景に財務基盤を強化したと社史は記す
  • 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
    • [53]1914年度下期の純益金は1万3278円にすぎなかった
    • [54]1917年度下期の純益金は30万1118円に達した
    • [55]1916年度下期から1920年度下期までの8期にわたり特別配当を含めて年20〜30%の配当を継続した
    • [56]塩釜セメントは1918年に仙台市国分町で資本金100万円をもって設立された
    • [57]1920年3月1日に合併手続きが終了し塩釜セメントの財産引継ぎが行なわれた
    • [58]塩釜セメントの合併で22万6286円の合併差益を得た
  • 住友セメント八十年史(1987年)第2章 積極経営による不況克服
    • [59]四倉工業所は震源地から300キロメートルほど離れていたため関東大震災による直接的な被害はなかった
    • [60]吉永仁蔵社長は1923年11月30日に病気静養のため辞任した
    • [61]1923年12月20日に岩崎清七が第二代社長に就任した

震災の復興需要を見込んだ各社の増産と輸入の増加が重なり、セメント市況はトン当り40円前後から11円台へ急落[62]した。1924年10月5日、全国18社が加盟する第一次セメント連合会[63]が発足し、生産制限と最低価格の協定が始まった。加盟18社には大阪窯業も含まれる[64]。磐城セメントは1925年6月1日に日出セメントを合併して湊工業所[65]を得たが、生産制限を企業規模の大小にかかわらず一律に適用する方式は一社多工場の大会社に有利[66]であり、輸出分を制限の適用外とする扱いも輸出可能な大会社しか恩典を受けないと考えた。そして1926年1月26日、岩崎社長名の文書で連合会へ脱退を通告[67]した。翌27日には高木百行常務が浅野セメントの浅野総一郎社長[68]を訪ねて事情を説明した。

  • 住友セメント八十年史(1987年)第2章 積極経営による不況克服
    • [62]震災後の供給過剰と乱売競争でセメント市況はトン当り40円前後から11円台にまで急落した
    • [63]1924年10月5日にわが国セメント業界初のカルテルであるセメント連合会が成立し18社が加盟した
    • [65]1925年6月1日に株式比率2対1で日出セメントを合併し湊工業所とした
    • [66]生産制限の一律適用は生産条件の不利な工場を休止できる一社多工場の大会社に有利だと磐城セメントは主張した
    • [67]1926年1月26日に岩崎社長名の文書でセメント連合会へ脱退を通告した
    • [68]翌1月27日に高木百行常務が浅野セメントの浅野総一郎社長を訪ねて事情説明を行なった
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [64]第一次セメント連合会の成立時点の加盟18社には愛知・浅野・磐城・大阪窯業・小野田などが名を連ねた

連合会は1926年3月1日の臨時総会で磐城セメントの除名[69]を決めたが、浅野セメントの斡旋で休止中の帝国・鈴木両社から合計1万1515樽の能力融通[70]を受けることがまとまり、4月15日に復帰した。同年6月に東京株式取引所へ株式を上場[71]し、7月10日には鈴木セメントを合併して東京工業所[72]を開いた。1927年3月の金融恐慌でセメント各社の金融難が深まると、岩崎社長は家業の岩崎商店時代から取引のあった三菱商事の三宅川会長を訪ね[73]て製品の販売委託を申し入れ、1928年3月7日に一手販売契約[74]が結ばれた。手数料は売値の2.5%[75]、三菱商事は受渡済み契約品の手取額の70%を立て替えて支払い、その残高総額は100万円[76]を超えないものと定めた。契約期間は5年で、以後5年ごとに更新[77]された。1930年8月には社員15名を解雇[78]して全従業員の給与を切り下げ、無配は1930年度の2期にとどまり、1931年度上期には4%へ復配[79]した。

  • 住友セメント八十年史(1987年)第2章 積極経営による不況克服
    • [69]セメント連合会は1926年3月1日の臨時総会で磐城セメントの除名を決定した
    • [70]帝国セメント5527樽・鈴木セメント5988樽の合計1万1515樽の能力融通を受ける覚書が締結された
    • [71]株式払込みによる資金調達の円滑化を図るため1926年6月に東京株式取引所へ上場した
    • [72]1926年7月10日に株式比率4対3で鈴木セメントを合併し東京工業所として再開した
    • [73]岩崎社長は岩崎商店時代から取引のあった三菱商事の三宅川会長を訪ね製品の販売委託を申し入れた
    • [74]1928年3月7日に磐城セメントと三菱商事の間で一手販売契約が締結され4月1日から営業が始まった
    • [75]一手販売契約の手数料は売値の2.5%で、のちに2%へ引き下げられた
    • [76]三菱商事は受渡済み契約品について磐城セメントの手取額の70%を立て替えて支払い、残高総額は100万円を超えないものとされた
    • [77]契約期間は昭和3年から5か年で以後5年ごとに更新すると定められた
    • [78]1930年8月に本社5名・四倉7名・湊3名の社員15名を解雇すると同時に全従業員の給与切下げを実施した
    • [79]無配は1930年度上・下期の2期にとどまり1931年度上期に4%へ復配した
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [52]磐城セメントは第一次世界大戦下の業績好調を背景に財務基盤を強化したと社史は記す
    • [64]第一次セメント連合会の成立時点の加盟18社には愛知・浅野・磐城・大阪窯業・小野田などが名を連ねた
  • 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
    • [53]1914年度下期の純益金は1万3278円にすぎなかった
    • [54]1917年度下期の純益金は30万1118円に達した
    • [55]1916年度下期から1920年度下期までの8期にわたり特別配当を含めて年20〜30%の配当を継続した
    • [56]塩釜セメントは1918年に仙台市国分町で資本金100万円をもって設立された
    • [57]1920年3月1日に合併手続きが終了し塩釜セメントの財産引継ぎが行なわれた
    • [58]塩釜セメントの合併で22万6286円の合併差益を得た
  • 住友セメント八十年史(1987年)第2章 積極経営による不況克服
    • [59]四倉工業所は震源地から300キロメートルほど離れていたため関東大震災による直接的な被害はなかった
    • [60]吉永仁蔵社長は1923年11月30日に病気静養のため辞任した
    • [61]1923年12月20日に岩崎清七が第二代社長に就任した
    • [62]震災後の供給過剰と乱売競争でセメント市況はトン当り40円前後から11円台にまで急落した
    • [63]1924年10月5日にわが国セメント業界初のカルテルであるセメント連合会が成立し18社が加盟した
    • [65]1925年6月1日に株式比率2対1で日出セメントを合併し湊工業所とした
    • [66]生産制限の一律適用は生産条件の不利な工場を休止できる一社多工場の大会社に有利だと磐城セメントは主張した
    • [67]1926年1月26日に岩崎社長名の文書でセメント連合会へ脱退を通告した
    • [68]翌1月27日に高木百行常務が浅野セメントの浅野総一郎社長を訪ねて事情説明を行なった
    • [69]セメント連合会は1926年3月1日の臨時総会で磐城セメントの除名を決定した
    • [70]帝国セメント5527樽・鈴木セメント5988樽の合計1万1515樽の能力融通を受ける覚書が締結された
    • [71]株式払込みによる資金調達の円滑化を図るため1926年6月に東京株式取引所へ上場した
    • [72]1926年7月10日に株式比率4対3で鈴木セメントを合併し東京工業所として再開した
    • [73]岩崎社長は岩崎商店時代から取引のあった三菱商事の三宅川会長を訪ね製品の販売委託を申し入れた
    • [74]1928年3月7日に磐城セメントと三菱商事の間で一手販売契約が締結され4月1日から営業が始まった
    • [75]一手販売契約の手数料は売値の2.5%で、のちに2%へ引き下げられた
    • [76]三菱商事は受渡済み契約品について磐城セメントの手取額の70%を立て替えて支払い、残高総額は100万円を超えないものとされた
    • [77]契約期間は昭和3年から5か年で以後5年ごとに更新すると定められた
    • [78]1930年8月に本社5名・四倉7名・湊3名の社員15名を解雇すると同時に全従業員の給与切下げを実施した
    • [79]無配は1930年度上・下期の2期にとどまり1931年度上期に4%へ復配した

傘下5社の取得で到達した業界三大会社の地位

1932年以降、満州事変後の軍事費膨張と時局匡救事業[80]でセメント需要は回復した。ところが各社が拡張に走り新会社の設立も相次いで生産能力が需要の伸びを上回り、セメント連合会の生産制限率は年平均で常に50%を超えた[81]。制限下でも既設工場の拡張は続い[82]た。磐城セメントは1932年12月、月産能力4000トンの増強[83]をめざして四倉・湊両工業所の設備拡充を決めた。時局匡救事業は農村恐慌の深刻だった東北地方に多く[84]、この方面を営業基盤とする磐城セメントは工場拡張に踏み切った。1933年2月20日の役員会は、さらに予算125万円[85]をもって湊工業所にキルン1基を新設することを決めた。全国能力比率が1930年12月の7.88%から1932年12月には7.43%[86]へ落ち、このままでは連合会加盟会社中6位に転落[87]しかねないという判断による。工事は1934年10月と11月に完成し、湊工業所の月産能力は4万300トンに増えた[88]

  • 住友セメント八十年史(1987年)第3章 統制下の業容拡大
    • [80]1932年以降の需要回復は満州事変を契機とする軍事費の膨張と時局匡救事業の実施によるものだった
    • [81]1932年以降の年平均の生産制限率は常に50%を上回り、最低の1933年でも50.1%だった
    • [83]1932年12月に月産能力4000トンの増強をめざして四倉・湊両工業所の生産設備を拡充することを決めた
    • [84]時局匡救事業は農村恐慌が最も深刻だった東北地方に多く、東北を営業基盤とする磐城セメントは工場拡張に踏み切らざるをえなかった
    • [85]1933年2月20日の役員会は予算125万円をもって湊工業所にキルン1基を新設することを決めた
    • [86]全国能力比率は1930年12月の7.88%から1932年12月には7.43%へ低下していた
    • [87]このままでは1934年12月に6.5%程度へ低下し連合会加盟会社中6位に転落しかねない状況にあった
    • [88]第一期工事は1934年10月、第二期工事は11月に完成し湊工業所の月産能力は1万トン増強して4万300トンとなった
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [82]巨額の資金を要する新工場計画は見送られたものの、既存セメント各社は既設工場の拡張を積極的に行なっていた

同じ時期、磐城セメントは同業他社への出資を重ね[89]た。1933年6月、大同電力と東邦電力[90]が資金調達のため手放した豊国セメント株を、競争会社への直接売却をはばかる両社の事情から三菱商事を名義上の買い手として買い取り[91]、1934年4月に譲り受けた株数は3万4500株[92]にのぼった。1935年11月には子会社の七尾セメントに資本金の半額100万円を出資させて敦賀セメント[93]を傍系会社とし、1937年6月に富山セメントの株式2万900株[94]を取得、同年9月には東武鉄道の根津嘉一郎社長が設立した富国セメント[95]の過半数株を取得した。七尾を含む5社を傘下に収めた結果、外地工場を含めた経営規模は浅野・小野田の両社と比べて遜色のない[96]ところまで達し、業界三大会社の地位が確立した。1938年5月、岩崎社長は創立30周年の訓示をレコードに吹き込み[97]、六大セメント会社を統制下に置いて月産能力30万トンに達した[98]と従業員に語った。

  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [89]磐城セメントはこの時期に対外的な積極政策を進め、豊国・敦賀・富国・富山の各セメント会社へ株式投資を行なった
  • 住友セメント八十年史(1987年)第3章 統制下の業容拡大
    • [90]1933年6月に大同電力と東邦電力が資金調達のため豊国セメント株の売却を希望したのを受けて買入れを決めた
    • [91]大同電力と東邦電力は競争会社である磐城セメントへの直接売却をはばかり三菱商事が中継的に名義上の買い手となった
    • [92]三菱商事から譲渡されたのは1934年4月で、買い入れた豊国セメント株は3万4500株だった
    • [93]敦賀セメントは1935年11月に設立され、磐城セメントは子会社の七尾セメントに資本金の半額100万円を出資させて傍系会社とした
    • [94]1937年6月に富山セメントの株式2万900株を取得して経営に参加し傍系会社とした
    • [95]富国セメントは1936年2月に東武鉄道の根津嘉一郎社長によって設立され、1937年9月に磐城セメントが過半数株を取得した
    • [96]5社の過半数株式を取得し外地工場を含めると浅野・小野田の両社と比較してほとんど遜色のない経営規模に達した
    • [97]1938年5月に岩崎社長は創立30周年を迎える訓示をレコードに吹き込み従業員や関係各方面に配布した
    • [98]岩崎社長は訓示で六大セメント会社を統制下に有し月産能力30万トン・年産360万トンに達したと述べた

日中戦争下で国家統制が強まる[99]なか、業容の拡大は合併という形をとった。1940年12月1日、傘下の富国セメントを合併[100]して資本金は2800万円、年産能力は122万2800トン[101]に達した。これを機に1941年1月9日、四倉工業所を四倉工場[102]、湊工業所を八戸工場、富国の葛生工場を栃木工場と改称[103]した。一方、七尾セメントは1939年、休止中のキルンを使って大江山鉱山の含ニッケル鉱土から含ニッケル鉄を試験製錬[104]し、1941年8月に製鉄事業法第三条の許可[105]を得て本格生産に入った。1941年11月26日、磐城セメントは企業整備の形で七尾セメントと豊国セメント[106]を合併し、同日付で敦賀セメントも合併した。資本金は4150万円へ増え、七尾と苅田の2工場[107]が加わった。商工大臣に提出した合併申請書は、含ニッケル鉄の増産が時局下の重要資材として必要[108]であることを合併理由に挙げていた。

  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [99]日中戦争開始後、臨時資金調整法や国家総動員法により政府が経済活動を直接統制できるようになった
  • 住友セメント八十年史(1987年)第3章 統制下の業容拡大
    • [100]1940年11月に商工省の許可を得て12月1日付で富国セメントを合併し同社は解散した
    • [101]富国セメント合併により資本金2800万円・年産能力122万2800トンの規模となった
    • [102]1941年1月9日に四倉工業所を四倉工場、湊工業所を八戸工場、葛生工場を栃木工場と改称した
    • [103]栃木工場は富国セメントが栃木県安蘇郡葛生町に建設した葛生工場を改称したものである
    • [105]1941年8月に製鉄事業法第三条の許可を得て含ニッケル鉄の本格的な生産を始めた
    • [106]1941年11月26日付で七尾セメント・豊国セメント・敦賀セメントの3社を合併した
    • [107]3社合併により資本金は4150万円となり七尾・苅田の2工場が加わった
    • [108]商工大臣へ提出した製鉄事業合併決議内認可申請書は含ニッケル鉄が時局下の重要資材でありその増産を図る必要があると記した
  • 住友セメント八十年史(1987年)第4章 太平洋戦争下の経営
    • [104]七尾工場の含ニッケル鉄は京都府北部の大江山鉱山から供給される含ニッケル鉱土を主原料としていた
  • 住友セメント八十年史(1987年)第3章 統制下の業容拡大
    • [80]1932年以降の需要回復は満州事変を契機とする軍事費の膨張と時局匡救事業の実施によるものだった
    • [81]1932年以降の年平均の生産制限率は常に50%を上回り、最低の1933年でも50.1%だった
    • [83]1932年12月に月産能力4000トンの増強をめざして四倉・湊両工業所の生産設備を拡充することを決めた
    • [84]時局匡救事業は農村恐慌が最も深刻だった東北地方に多く、東北を営業基盤とする磐城セメントは工場拡張に踏み切らざるをえなかった
    • [85]1933年2月20日の役員会は予算125万円をもって湊工業所にキルン1基を新設することを決めた
    • [86]全国能力比率は1930年12月の7.88%から1932年12月には7.43%へ低下していた
    • [87]このままでは1934年12月に6.5%程度へ低下し連合会加盟会社中6位に転落しかねない状況にあった
    • [88]第一期工事は1934年10月、第二期工事は11月に完成し湊工業所の月産能力は1万トン増強して4万300トンとなった
    • [90]1933年6月に大同電力と東邦電力が資金調達のため豊国セメント株の売却を希望したのを受けて買入れを決めた
    • [91]大同電力と東邦電力は競争会社である磐城セメントへの直接売却をはばかり三菱商事が中継的に名義上の買い手となった
    • [92]三菱商事から譲渡されたのは1934年4月で、買い入れた豊国セメント株は3万4500株だった
    • [93]敦賀セメントは1935年11月に設立され、磐城セメントは子会社の七尾セメントに資本金の半額100万円を出資させて傍系会社とした
    • [94]1937年6月に富山セメントの株式2万900株を取得して経営に参加し傍系会社とした
    • [95]富国セメントは1936年2月に東武鉄道の根津嘉一郎社長によって設立され、1937年9月に磐城セメントが過半数株を取得した
    • [96]5社の過半数株式を取得し外地工場を含めると浅野・小野田の両社と比較してほとんど遜色のない経営規模に達した
    • [97]1938年5月に岩崎社長は創立30周年を迎える訓示をレコードに吹き込み従業員や関係各方面に配布した
    • [98]岩崎社長は訓示で六大セメント会社を統制下に有し月産能力30万トン・年産360万トンに達したと述べた
    • [100]1940年11月に商工省の許可を得て12月1日付で富国セメントを合併し同社は解散した
    • [101]富国セメント合併により資本金2800万円・年産能力122万2800トンの規模となった
    • [102]1941年1月9日に四倉工業所を四倉工場、湊工業所を八戸工場、葛生工場を栃木工場と改称した
    • [103]栃木工場は富国セメントが栃木県安蘇郡葛生町に建設した葛生工場を改称したものである
    • [105]1941年8月に製鉄事業法第三条の許可を得て含ニッケル鉄の本格的な生産を始めた
    • [106]1941年11月26日付で七尾セメント・豊国セメント・敦賀セメントの3社を合併した
    • [107]3社合併により資本金は4150万円となり七尾・苅田の2工場が加わった
    • [108]商工大臣へ提出した製鉄事業合併決議内認可申請書は含ニッケル鉄が時局下の重要資材でありその増産を図る必要があると記した
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [82]巨額の資金を要する新工場計画は見送られたものの、既存セメント各社は既設工場の拡張を積極的に行なっていた
    • [89]磐城セメントはこの時期に対外的な積極政策を進め、豊国・敦賀・富国・富山の各セメント会社へ株式投資を行なった
    • [99]日中戦争開始後、臨時資金調整法や国家総動員法により政府が経済活動を直接統制できるようになった
  • 住友セメント八十年史(1987年)第4章 太平洋戦争下の経営
    • [104]七尾工場の含ニッケル鉄は京都府北部の大江山鉱山から供給される含ニッケル鉱土を主原料としていた

軍需会社指定と、海外資産の全損で迎えた終戦

太平洋戦争下、磐城セメントの工場はセメント以外の軍需物資へ転換[109]した。七尾工場は1942年4月に3号キルンも含ニッケル鉄の生産へ移し[110]、セメント生産を休止した。栃木工場は1943年11月に当局から全面転換の命令[111]を受け、1944年5月からキルン2基をともにドロマイトクリンカー[112]の生産へ切り替えた。ドロマイトクリンカーは製鋼用平炉や電気炉の補修に欠かせない資材[113]で、その工業化は日本では磐城セメントが最初である。1943年5月29日、岩崎清七氏が初代会長[114]に、専務の岩崎清一郎氏が第三代社長[115]に就いた。同年9月30日には政府の企業整備方針に沿って常陸セメントを合併[116]し、日立工場を加えて工場は7か所に広がった。1944年4月、セメント11社はすべて第二次指定で軍需会社[117]となり、政府は岩崎清一郎社長を生産責任者に、各工場長を生産担当者[118]に指名した。

  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [109]軍事面の必要から磐城セメントは軍にセメント以外の軍需物資の製造を要請され、七尾・栃木の両工場が全面転換した
  • 住友セメント八十年史(1987年)第4章 太平洋戦争下の経営
    • [110]1942年4月から七尾工場の3号キルンも含ニッケル鉄生産に転換しセメント生産を休止した
    • [111]栃木工場は1943年11月に当局から全面転換の命令を受けた
    • [112]1944年5月から栃木工場はセメント用キルン2基をともにドロマイトクリンカーの生産に切り替えた
    • [113]ドロマイトクリンカーは製鋼用平炉や電気炉の補修に欠かせない資材で、わが国での工業化は磐城セメントが初めてだった
    • [114]1943年5月29日に岩崎清七社長が初代会長に就任した
    • [115]岩崎清一郎専務が第三代社長に就任した
    • [116]1943年9月30日付で政府の企業整備方針にもとづき常陸セメントを合併し日立工場とした
    • [117]1944年4月の第二次指定でセメント11社はすべて軍需会社となった
    • [118]軍需会社指定にともない岩崎清一郎社長が生産責任者、各工場長が生産担当者に指名された

戦争末期に七尾工場長を務めた小湊恒太郎氏[119]は後年、工場名が磐城セメント七尾含ニッケル鉄工場から護国第一四四一工場へ再度改称された[120]と回想している。1945年8月の終戦で、台湾・満州・中国に広げた事業はすべて失われた[121]。海外の会社に対する有価証券投資や融資金などの損失は合計1647万3741円[122]に達し、これは1946年8月の特別経理会社指定時における総資産の18%[123]を占めた。セメント生産数量も、1942年度の72万8001トンから1945年度には12万3130トン[124]まで落ちた。配当は1945年度上期から止まっ[125]た。終戦から9日後の1945年8月24日、斎藤次郎常務は部長と工場長に宛てた書簡[126]で、製品ごとの需要見通し、工場ごとの復旧方針、資金と人員の扱い、原価切下げの必要を細かく指示した。1946年4月10日には磐城セメント労働組合が結成[127]され、翌11日、取締役会長の岩崎清七氏が83歳で死去[128]した。

  • 住友セメント八十年史(1987年)第4章 太平洋戦争下の経営
    • [119]小湊恒太郎は1945年4月に八戸工場長から七尾工場長へ転勤した
    • [120]小湊恒太郎の記述によれば七尾工場は磐城セメント七尾含ニッケル鉄工場から護国第一四四一工場へと再度改称された
    • [122]海外の会社に対する有価証券投資・融資金・受取手形などの損失総額は1647万3741円に達した
    • [123]海外資産の損失は1946年8月の特別経理会社指定時の総資産の18%に相当した
    • [124]セメント生産数量は1942年度の72万8001トンから1945年度には12万3130トンへ激減した
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [121]現地でのセメント生産に活躍した海外の工場も1945年8月の終戦ですべて失われた
    • [125]売上げ・利益とも大幅に落ち込んだ結果、1945年度上期から無配となった
  • 住友セメント八十年史(1987年)第5章 戦後復興とともに
    • [126]1945年8月24日に斎藤次郎常務が部長・工場長へ送った書簡が戦後の会社方針を示達した
    • [127]1946年4月10日に磐城セメント労働組合が結成され従来の工場労組はその支部となった
    • [128]取締役会長の岩崎清七は1946年4月11日に83歳で死去した

1948年2月、磐城セメントは過度経済力集中排除法の審査対象に指定[129]を受けた。セメント業界では日本・小野田・大阪窯業・宇部の各社も同時に指定[130]を受けた。ただし磐城セメントは、戦時中の企業整備で取得した日立・敦賀・苅田の3工場[131]を、すでに旧所有者へ返還するか、その手続きを進めていた。指定時点の業容は八戸・四倉・栃木・七尾の4工場・月産能力3万8400トン・全国シェア10%[132]で、1948年5月にこの事情と経緯を文書で持株会社整理委員会へ提出[133]したところ、7月に指定は取り消された[134]。同年8月に企業再建整備計画を提出し、9月30日付で認可[135]を得た。1948年4月9日には岩崎清一郎社長が会長に退き[136]、常務の斎藤次郎氏が第四代社長[137]に就いた。同年12月には全額出資で東京コンクリート工業を設立し、1949年11月に日産能力150立方メートルの業平橋工場[138]を完成させて、12月から日本で最初の生コンクリート生産[139]を始めた。

  • 住友セメント八十年史(1987年)第5章 戦後復興とともに
    • [129]1948年2月に過度経済力集中排除法の審査対象に指定された
    • [130]セメント業界からは日本(旧浅野)・小野田・磐城・大阪窯業・宇部の各社が指定された
    • [131]日立工場は1947年11月、敦賀工場は1948年2月、苅田工場は1948年3月に旧所有者側へ返還・分離された
    • [132]指定時点の業容は八戸・四倉・栃木・七尾の4工場・月産能力3万8400トン・全国シェア10%だった
    • [133]1948年5月に事情と経緯を文書で持株会社整理委員会へ提出し指定の解除を申し入れた
    • [134]1948年7月に過度経済力集中排除法の指定は取り消された
    • [135]1948年8月に企業再建整備計画を当局へ提出し9月30日付で認可された
    • [136]1948年4月9日に岩崎清一郎社長が会長に退いた
    • [137]斎藤次郎常務が第四代社長に就任した
    • [138]1949年11月に日産能力150立方メートルの業平橋工場が完成し12月から生産を開始した
    • [139]1948年11月の役員会で全額出資による生コン会社設立を決め12月に東京コンクリート工業を設立、日本で最初の生コンクリート生産となった
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [109]軍事面の必要から磐城セメントは軍にセメント以外の軍需物資の製造を要請され、七尾・栃木の両工場が全面転換した
    • [121]現地でのセメント生産に活躍した海外の工場も1945年8月の終戦ですべて失われた
    • [125]売上げ・利益とも大幅に落ち込んだ結果、1945年度上期から無配となった
  • 住友セメント八十年史(1987年)第4章 太平洋戦争下の経営
    • [110]1942年4月から七尾工場の3号キルンも含ニッケル鉄生産に転換しセメント生産を休止した
    • [111]栃木工場は1943年11月に当局から全面転換の命令を受けた
    • [112]1944年5月から栃木工場はセメント用キルン2基をともにドロマイトクリンカーの生産に切り替えた
    • [113]ドロマイトクリンカーは製鋼用平炉や電気炉の補修に欠かせない資材で、わが国での工業化は磐城セメントが初めてだった
    • [114]1943年5月29日に岩崎清七社長が初代会長に就任した
    • [115]岩崎清一郎専務が第三代社長に就任した
    • [116]1943年9月30日付で政府の企業整備方針にもとづき常陸セメントを合併し日立工場とした
    • [117]1944年4月の第二次指定でセメント11社はすべて軍需会社となった
    • [118]軍需会社指定にともない岩崎清一郎社長が生産責任者、各工場長が生産担当者に指名された
    • [119]小湊恒太郎は1945年4月に八戸工場長から七尾工場長へ転勤した
    • [120]小湊恒太郎の記述によれば七尾工場は磐城セメント七尾含ニッケル鉄工場から護国第一四四一工場へと再度改称された
    • [122]海外の会社に対する有価証券投資・融資金・受取手形などの損失総額は1647万3741円に達した
    • [123]海外資産の損失は1946年8月の特別経理会社指定時の総資産の18%に相当した
    • [124]セメント生産数量は1942年度の72万8001トンから1945年度には12万3130トンへ激減した
  • 住友セメント八十年史(1987年)第5章 戦後復興とともに
    • [126]1945年8月24日に斎藤次郎常務が部長・工場長へ送った書簡が戦後の会社方針を示達した
    • [127]1946年4月10日に磐城セメント労働組合が結成され従来の工場労組はその支部となった
    • [128]取締役会長の岩崎清七は1946年4月11日に83歳で死去した
    • [129]1948年2月に過度経済力集中排除法の審査対象に指定された
    • [130]セメント業界からは日本(旧浅野)・小野田・磐城・大阪窯業・宇部の各社が指定された
    • [131]日立工場は1947年11月、敦賀工場は1948年2月、苅田工場は1948年3月に旧所有者側へ返還・分離された
    • [132]指定時点の業容は八戸・四倉・栃木・七尾の4工場・月産能力3万8400トン・全国シェア10%だった
    • [133]1948年5月に事情と経緯を文書で持株会社整理委員会へ提出し指定の解除を申し入れた
    • [134]1948年7月に過度経済力集中排除法の指定は取り消された
    • [135]1948年8月に企業再建整備計画を当局へ提出し9月30日付で認可された
    • [136]1948年4月9日に岩崎清一郎社長が会長に退いた
    • [137]斎藤次郎常務が第四代社長に就任した
    • [138]1949年11月に日産能力150立方メートルの業平橋工場が完成し12月から生産を開始した
    • [139]1948年11月の役員会で全額出資による生コン会社設立を決め12月に東京コンクリート工業を設立、日本で最初の生コンクリート生産となった

レポール方式の先行採用と、住友グループへの合流

磐城セメントは1949年5月、東京証券取引所市場第一部に上場[140]した。翌1950年1月にセメントの統制が撤廃[141]されると、斎藤次郎社長は4工場体制のままでは自由競争下の健全経営はできないと判断した。八戸・四倉・七尾の3工場は寒地にあって[142]冬季の不需要期の影響を強く受けるため、関東以西にあと2、3の工場を持つことが最も望ましい[143]と1950年8月の臨時株主総会資料で説明した。同年11月1日、磐城セメントは東洋セメント・富士セメント・助六石灰工業の3社を合併[144]し、資本金は2億2500万円に増えた[145]。東洋セメントの工場は小倉工場となり、門司港に隣接して接岸荷役施設[146]を持つことから輸出専用工場の役割を担った。助六石灰工業は岐阜石灰工場に変わっ[147]た。同年12月、磐城セメントは本社を栃木県安蘇郡葛生町へ移した[148]。生産拠点の近くに本社を置くべきだという斎藤次郎社長の考え[149]による。

  • 有価証券報告書
    • [140]1949年5月に東京証券取引所市場第一部へ上場した
  • 住友セメント八十年史(1987年)第5章 戦後復興とともに
    • [141]GHQの指示により1950年1月以降セメントの全面的な統制撤廃が実施された
    • [142]八戸・四倉・七尾の3工場は寒地工場であり冬季不需要期の影響を強く受けると斎藤社長は説明した
    • [143]経営の不均衡を是正するには関東以西になお2、3の工場を有することが最も望ましいと株主総会資料は述べた
    • [144]1950年11月1日に東洋セメント・富士セメント・助六石灰工業の3社を合併した
    • [145]3社合併にともなう7500万円の増資で資本金は2億2500万円となった
    • [146]小倉工場は門司港に隣接して接岸荷役施設を持っていたため輸出専用工場の役割を果たした
    • [148]1950年12月に本社を栃木県安蘇郡葛生町へ移転し台東区の旧本社は東京事務所となった
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [147]1950年11月の3社合併により助六石灰工業は磐城セメントの岐阜石灰工場となった
    • [149]斎藤社長は生産拠点の近くに本社をおくべきだと考えており、この時点で名実ともに本社移転が実行された

1954年7月、磐城セメントは総工費約30億円[150]をかけて浜松工場を完成させた。日本で最初の本格的なレポールキルン2基[151]を備え、月産能力は2万5200トン[152]に達した。レポール方式は原料をペレットに造粒し、キルン排ガスの熱で乾燥と仮焼を済ませてから焼成する製造方式で、乾式キルンでクリンカー1トン当り160万から180万カロリー[153]を要した焼成熱量を、90万から100万カロリーへ下げられる。建設の狙いは電源開発の佐久間ダム向けセメントの供給[154]にあった。磐城セメントは佐久間・秋葉の両ダムへ中庸熱セメント約40万トンと普通セメント約40万トン[155]を納め、総使用量の80%を供給[156]した。1955年12月の役員会で各工場のレポール化[157]を決め、1963年までにキルンを新設16基・改造13基行い、うち18基をレポール方式[158]とした。1960年3月31日には川崎重工業系の川崎セメントを合併[159]し、大垣工場を岐阜工場として引き継いだ。

  • 住友セメント八十年史(1987年)第5章 戦後復興とともに
    • [150]浜松工場は総工費約30億円をかけて1954年7月に完成した
    • [151]浜松工場は日本で最初の本格的レポールキルン2基を備えた工場だった
    • [152]完成時の浜松工場の月産能力は2万5200トンだった
    • [153]乾式キルンでクリンカー1トン当り160万〜180万カロリーを要する焼成熱量をレポールキルンは90万〜100万カロリーへ低減できた
    • [154]浜松工場は電源開発の佐久間ダムへ専属的にセメントを納入する話がまとまったため岐阜計画を変更して建設された
    • [155]佐久間・秋葉両ダムに中庸熱セメント約40万トンと普通セメント約40万トンの合計80万トンを供給した
    • [156]両ダムの総使用セメント量の80%を磐城セメントが供給した
  • 住友セメント八十年史(1987年)第6章 高度経済成長期の躍進
    • [157]各工場のキルンをレポール方式へ転換する結論が出たのは1955年12月の役員会である
    • [158]1963年までに新設したキルンは16基、改造は13基に達し、そのうちレポール方式は新設13基・改造5基の計18基だった
    • [159]1960年3月31日をもって川崎重工業系の川崎セメントを吸収合併し大垣工場を岐阜工場として運営した

エネルギー革命で石炭産業が斜陽化するなか、住友石炭鉱業は石炭の自家使用と雇用問題への対策[160]を兼ねてセメント事業への進出を計画した。同じ福島県で新工場を計画していた磐城セメントは、県内での重複投資による過剰生産を憂慮[161]し、住友系の新会社が田村郡内に工場を建てるならば技術援助と販売ルートの提供[162]を行うと申し入れた。斎藤次郎社長は1961年にかけて住友銀行の堀田庄三頭取に提携を申し入れた[163]。1962年6月に住友系5社の出資で福島セメントが設立[164]され、磐城セメントは1963年5月、福島セメントと住友石灰工業を合併[165]して資本金は35億円へ増えた[166]。月産能力のシェアはこれにより12.77%から16.06%へ上がった[167]。合併で引き継いだ田村工場では、1963年6月から7月にかけてレポール方式のキルン3基が完成し、月産能力7万トンで操業[168]が始まった。

  • 住友セメント八十年史(1987年)第6章 高度経済成長期の躍進
    • [160]住友石炭鉱業は石炭の自家使用・雇用問題対策などを目的にセメント事業への進出を企図し石灰石鉱区を取得していた
    • [161]磐城セメントは同一県内における重複投資によって過剰生産に陥る公算が大きいことを憂慮した
    • [162]磐城セメントは住友系新会社が田村郡内に新工場を建設することを条件に技術援助と自社販売ルートでの運営を申し入れた
    • [163]斎藤社長は1961年にかけて住友銀行の堀田庄三頭取に接触し提携を申し入れた
    • [164]1962年6月に住友機械工業を中心とする住友系5社の出資で資本金35億円の福島セメントが設立された
    • [165]有価証券報告書は1963年5月に福島セメント(田村工場)および住友石灰工業を合併したと記す。社史は両社の臨時株主総会決議を経た合併期日を1963年3月31日とする
    • [166]2社の合併で資本金は10億円増加して35億円となった
    • [167]福島セメント・住友石灰工業の合併により住友セメントの月産能力シェアは12.77%から16.06%へ伸びた
    • [168]田村工場は1963年6月下旬に1・2号キルン、7月初旬に3号キルンが完成して操業を開始し、月産能力は7万トンだった
  • 有価証券報告書
    • [140]1949年5月に東京証券取引所市場第一部へ上場した
  • 住友セメント八十年史(1987年)第5章 戦後復興とともに
    • [141]GHQの指示により1950年1月以降セメントの全面的な統制撤廃が実施された
    • [142]八戸・四倉・七尾の3工場は寒地工場であり冬季不需要期の影響を強く受けると斎藤社長は説明した
    • [143]経営の不均衡を是正するには関東以西になお2、3の工場を有することが最も望ましいと株主総会資料は述べた
    • [144]1950年11月1日に東洋セメント・富士セメント・助六石灰工業の3社を合併した
    • [145]3社合併にともなう7500万円の増資で資本金は2億2500万円となった
    • [146]小倉工場は門司港に隣接して接岸荷役施設を持っていたため輸出専用工場の役割を果たした
    • [148]1950年12月に本社を栃木県安蘇郡葛生町へ移転し台東区の旧本社は東京事務所となった
    • [150]浜松工場は総工費約30億円をかけて1954年7月に完成した
    • [151]浜松工場は日本で最初の本格的レポールキルン2基を備えた工場だった
    • [152]完成時の浜松工場の月産能力は2万5200トンだった
    • [153]乾式キルンでクリンカー1トン当り160万〜180万カロリーを要する焼成熱量をレポールキルンは90万〜100万カロリーへ低減できた
    • [154]浜松工場は電源開発の佐久間ダムへ専属的にセメントを納入する話がまとまったため岐阜計画を変更して建設された
    • [155]佐久間・秋葉両ダムに中庸熱セメント約40万トンと普通セメント約40万トンの合計80万トンを供給した
    • [156]両ダムの総使用セメント量の80%を磐城セメントが供給した
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [147]1950年11月の3社合併により助六石灰工業は磐城セメントの岐阜石灰工場となった
    • [149]斎藤社長は生産拠点の近くに本社をおくべきだと考えており、この時点で名実ともに本社移転が実行された
  • 住友セメント八十年史(1987年)第6章 高度経済成長期の躍進
    • [157]各工場のキルンをレポール方式へ転換する結論が出たのは1955年12月の役員会である
    • [158]1963年までに新設したキルンは16基、改造は13基に達し、そのうちレポール方式は新設13基・改造5基の計18基だった
    • [159]1960年3月31日をもって川崎重工業系の川崎セメントを吸収合併し大垣工場を岐阜工場として運営した
    • [160]住友石炭鉱業は石炭の自家使用・雇用問題対策などを目的にセメント事業への進出を企図し石灰石鉱区を取得していた
    • [161]磐城セメントは同一県内における重複投資によって過剰生産に陥る公算が大きいことを憂慮した
    • [162]磐城セメントは住友系新会社が田村郡内に新工場を建設することを条件に技術援助と自社販売ルートでの運営を申し入れた
    • [163]斎藤社長は1961年にかけて住友銀行の堀田庄三頭取に接触し提携を申し入れた
    • [164]1962年6月に住友機械工業を中心とする住友系5社の出資で資本金35億円の福島セメントが設立された
    • [165]有価証券報告書は1963年5月に福島セメント(田村工場)および住友石灰工業を合併したと記す。社史は両社の臨時株主総会決議を経た合併期日を1963年3月31日とする
    • [166]2社の合併で資本金は10億円増加して35億円となった
    • [167]福島セメント・住友石灰工業の合併により住友セメントの月産能力シェアは12.77%から16.06%へ伸びた
    • [168]田村工場は1963年6月下旬に1・2号キルン、7月初旬に3号キルンが完成して操業を開始し、月産能力は7万トンだった

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住友大阪セメントの沿革1906〜2022年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
広瀬金七氏・岩崎清七氏らによるセメント製造会社設立の企図
1907〜1931年八茎鉱山の残石から起こした後発6社目の船出と、三菱商事に委ねた販売磐城セメントを資本金100万円で設立、本店は横浜市太田町★★★
吉永仁蔵氏が初代社長に就任
四倉工場の新設
資本金85万円への減資と、減資差益金による累積損失の一掃★★
1911年度上期に利益4万518円を計上、年8%の初配当★★
塩釜セメントの合併と、増資による資本金300万円への拡大★★
吉永仁蔵氏の病気辞任を受け岩崎清七氏が第二代社長に就任
日の出セメントの合併による八戸工場の取得
セメント連合会への脱退通告★★
セメント連合会への復帰★★
東京株式取引所への株式上場
鈴木セメントの合併と東京工業所の設置、資本金524万円
大阪窯業セメントの設立
三菱商事との製品一手委託販売契約の締結★★★
七尾セメント七尾工場の竣工、本格的な湿式焼成法の採用
第二次セメント連合会の存続契約への調印★★
昭和恐慌への対策としての全社員の給与切下げ★★
1931年度上期決算からの年4%への復配★★
1932〜1963年統制と戦時転換をくぐり、集中排除法の指定を経て住友へ合流するまで七尾セメントにおける含ニッケル鉄の試験製錬の開始★★
富国セメントの合併による現・栃木工場の取得
湊・四倉・葛生の各工業所の八戸・四倉・栃木工場への名称変更
七尾セメントの合併による七尾工場の取得
企業整備による豊国セメントの合併、資本金4150万円★★
七尾工場のキルン3基の含ニッケル鉄生産への全面転換★★
岩崎清一郎氏の第三代社長就任と岩崎清七氏の初代会長就任
企業整備による常陸セメントの合併と日立工場の取得
七尾工場の海軍監督工場への指定、4月には軍需会社指定★★
栃木工場のドロマイトクリンカー生産への全面転換★★
終戦にともなう満蒙・台湾などの海外資産の喪失★★
決算無配への転落、1949年度上期まで無配が継続★★
磐城セメント労働組合の結成と岩崎清七会長の死去
制限会社令による制限、8月には特別経理会社に指定★★
過度経済力集中排除法の適用指定、7月に指定取消し★★
敦賀工場・苅田工場の分離
斎藤次郎氏の第四代社長就任
東京証券取引所市場第一部への上場
戦後初の配当の実施★★
東洋セメントの合併
大阪窯業セメントによる伊吹工場の新設
浜松工場の新設
川崎セメントの合併による現・岐阜工場の取得
大阪窯業セメントによる高知工場の新設
福島セメント・住友石灰工業の合併
定時株主総会における商号変更と本社移転の承認可決★★
大阪窯業セメントの大阪セメントへの商号変更
磐城セメントの住友グループ加入と、住友セメントへの商号変更

1963年、月産能力で業界3位・配当30%を続けていた磐城セメントが、斎藤次郎社長の申し入れによって住友グループに加わり、10月1日付で1907年以来の社名を住友セメントへ改めた経営判断。翌1964年6月には住友グループの社長会である白水会に加盟した。

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★★★
1963〜1983年住友の名を継いだ商号変更と、高度成長の終わりに現れた2期連続の最終赤字本社の東京都台東区北稲荷町への移転
住友グループの社長会である白水会への加盟★★
和歌山セメント・西浜開発ほか2社の合併、資本金55億円★★
滋賀興産の合併による多賀工場・彦根工場の取得
赤穂第一工場の新設
古賀進氏の第五代社長就任
経営改善総合対策委員会の設置、12月には要綱を発表★★
住友石炭鉱業社長の藤末尚氏の第六代社長就任★★
工場閉鎖と希望退職を含む合理化案の労働組合への提示★★
七尾工場・多賀工場の閉鎖★★
希望退職の実施による約1200人の退職★★
赤穂第二工場の新設
小倉工場の東洋セメントへの分離
今川彦二氏の第七代社長就任★★
経営改善推進本部の設置と100億円削減対策の実施★★
四倉工場の生産休止とスミセスレート建材の解散
本社機構改正にともなう新素材開発室の設置★★
1982年度決算の無配、1985年度まで無配が継続★★
1984〜2026年事業部制で始めた多角化、大阪セメントとの合併、そして静電チャックが育つまで別途積立金の取崩しによる未処理損失金の補填の承認可決★★
非セメント部門の売上構成比を50%とする10年計画の策定と、「電・光・石・化」4分野への進出

1985年4月、住友セメントが1985年度からの中期三ヵ年実行計画『RCP作戦』を決め、これを最初の3年とする10年計画のなかで、子会社を含むベースの非セメント部門売上構成比を8.7%から50%へ引き上げる目標を掲げた経営判断。今川彦二社長の主導により、エレクトロニクス・オプトエレクトロニクス・セラミックス・超微粒子の4分野へ進出した。

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★★★
浜松工場の閉鎖
中期三ヵ年実行計画「RCP作戦」の策定★★
出資比率50%によるスミセ電子の設立
四倉工場の閉鎖
応用光電研究室の全株式の取得
赤穂第一工場と赤穂第二工場の統合による赤穂工場の発足
秋芳鉱業の設立
OAシステム事業部門の分離と住友セメントシステム開発の設立
住友金属工業と共同での和歌山高炉セメントの設立
エステックの設立
株式の追加取得による千代田エンジニアリングの子会社化
スミセ建材の設立
青木海運の買収
住友セメントと大阪セメントの合併による住友大阪セメントの発足★★★
彦根工場の閉鎖
スミセ興産の合併
渡邊穰田村工場の閉鎖
渡邊穰泉石灰工業と栃木興産の合併による泉工業の発足
渡邊穰伊吹工場におけるセメント生産の中止★★
渡邊穰株式の追加取得による栗本コンクリート工業の子会社化
渡邊穰東京エスオーシーによる市川エスオーシー生コンの合併
関根福一関根福一氏の代表取締役社長就任★★
関根福一エスオーシー建材と新北浦商事の合併
諸橋央典諸橋央典氏の代表取締役社長就任★★
諸橋央典石炭高騰下での1トン2,000円級の値上げの反復と、生コン向け取引慣行の見直し

石炭市況の高騰でセメント事業が営業赤字に陥った2022年前後、住友大阪セメントが1トン2,000円級の値上げを繰り返し、生コンクリート業界との価格交渉の慣行を動かして転嫁を通した経営判断。諸橋央典社長のもとで、2025年4月出荷分からの三度目の改定まで続いた。

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★★★
諸橋央典東京証券取引所の市場区分見直しによるプライム市場への移行
出典・参考
  • 有価証券報告書
  • 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
  • 住友セメント八十年史(1987年)
  • 住友セメント八十年史(1987年)第2章 積極経営による不況克服
  • 住友セメント八十年史(1987年)第3章 統制下の業容拡大
  • 住友セメント八十年史(1987年)第4章 太平洋戦争下の経営
  • 住友セメント八十年史(1987年)第5章 戦後復興とともに
  • 住友セメント八十年史(1987年)第6章 高度経済成長期の躍進
  • 住友セメント八十年史(1987年)第7章 住友グループの一翼を担って
  • 住友セメント八十年史(1987年)第8章 企業体質の強化をめざして
  • 住友セメント八十年史(1987年)第9章 合理化と積極経営の展開
  • 住友セメント八十年史(1987年)資料編 従業員数の推移
  • 住友セメント八十年史(1987年)第10章 新生住友セメントへ
  • 『会社年鑑 1986年版』(日本経済新聞社、1985年)
  • 私の住友昭和史(1988年)第6章 住友石炭救済と磐城セメントの加入

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