三菱鉱業セメント の歴史

創業

1918年

創業者

※三菱財閥

創業地

東京市麹町区八重洲町(現・東京都千代田区丸の内)

直近売上高(1985/3)

2,161億円

長期業績と転換点(1976/3〜1985/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1953年にセメント事業へ直営ではなく別会社で参入したのか
A 1950年4月の過度経済力集中排除法で金属部門が太平鉱業として分離され、三菱鉱業には石炭だけが残った。収益をむしろ支えてきたのは金属だったため、代わりの事業が要る。1952年2月に置いた調査部は肥料・海運・ガス・コークス・セメントを比べ、三菱グループ各社と競合せず保有技術を応用でき、石炭の安定した需要先にもなるセメントを選んだ。直営を避けたのは、工場建設に必要な10数億円を石炭不況下の三菱鉱業が独力で調達できず、一事業部門とすれば炭労傘下の組合が生まれる可能性もあったからである
Q なぜ1969年に創業以来の本業だった石炭生産部門を分離したのか
A 1967年には全国一社案や石炭鉱業国有化案まで論じられ、1968年2月には各社の石炭部門の固定資産を無償で提供させる植村私案が示された。石炭協会会長を務めた大槻文平社長は、国家管理的な規制が避けられないのなら伝統ある三菱鉱業の名を残すために石炭部門を分離すると判断した。政府の助成を受けている限り配当ができず、分離は復配の条件でもあった。1969年9月に高島鉱業所と鯰田炭砿を三菱高島炭砿へ、大夕張鉱業所と南大夕張開発事務所を三菱大夕張炭砿へ譲渡し、1971年3月期に9年ぶりの復配に至った
Q なぜ1973年に子会社だった三菱セメントと合併したのか
A 三菱セメントは設立当初から、経営基盤が固まり三菱鉱業の経営が安定した時には合併するという含みを持っていた。しかし三菱セメントが成長する一方で三菱鉱業はエネルギー革命の渦中にあり、出向した社員からは業績不振の本体と合併して何の利点があるかという声も出ていた。1971年3月期の復配で障害が消え、大槻社長の申し入れに三菱セメントの山中正夫社長は即答で応じた。業績較差は三菱セメントの倍額増資と相互保有株式の消却で埋め、1973年4月1日に豊国セメントを加えた3社が合併して資本金125億円の三菱鉱業セメントが発足した

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

1918年〜 三菱合資の鉱山部と炭坑部を継いで発足し、財閥解体で石炭だけが残るまで

  1. 1918年 三菱合資の鉱山部と炭坑部を継承し資本金5000万円で設立
  2. 1918年 11炭坑・14鉱山・製煉所2か所を含む29事業所での営業開始
  3. 1920年 資本金1億円への倍額増資と分系会社で初の株式公開
  4. 1921年 東京株式取引所への株式上場
  5. 1940年 九州炭砿汽船の合併による資本金2億370万円への増加
  6. 1946年 会社経理応急措置法にもとづく特別経理会社への指定
  7. 1950年 過度経済力集中排除法による石炭部門と金属部門への2分割

分系会社のなかで最初に株式を公開した会社

三菱鉱業は1918年4月、三菱合資が鉱山部・炭坑部および鉱業研究所の営業一切を継承[1]する形で発足した。発起人は岩崎久彌氏・岩崎小彌太氏・荘清次郎氏ら7名[2]で、4月10日に総株式100万株を引き受け、15日の創立総会[3]を経て19日に設立登記を終えた。1株の金額は50円、資本金は5000万円[4]である。三菱合資へ支払った譲渡対価は41,815,490円62銭[5]だった。社史が別に掲げる純財産額は41,216,659円62銭[6]で、差額には九州炭砿汽船株式の評価額などが含まれると推定されている。初代の取締役会長には、三菱合資の管事だった木村久壽彌太氏が就任[7]した。分系会社では社長という呼称が三菱合資の岩崎小彌太社長を指したため、各社の代表者は会長と称した[8]

  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第1章第1節 三菱鉱業株式会社の設立
    • [1]三菱鉱業は1918年4月に三菱合資会社の鉱山部・炭坑部および鉱業研究所の業務一切を継承して設立された
    • [2]発起人は岩崎久彌・岩崎小彌太・荘清次郎・原田鎭治・串田萬蔵・木村久壽彌太・重松養二の7名だった
    • [3]1918年4月10日に発起人7名で総株式100万株(1株50円)を引き受け、15日に第1回払込を完了し創立総会を開いた
    • [4]三菱鉱業の設立時の資本金は5000万円だった
    • [5]営業譲渡契約書第2条の対価は41,815,490円62銭で、表28の純財産額41,216,659円62銭とは異なり、社史は差額に九州炭砿汽船株式評価額等が含まれると推定している
    • [6]社史の表28に示された純財産額41,216,659円62銭は営業譲渡契約書第2条の対価41,815,490円62銭と異なり、社史は差額に九州炭砿汽船株式評価額等が含まれると推定している
    • [7]初代の取締役会長には三菱合資の管事であった木村久壽彌太が選出された
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第2章第9節 設立より終戦までの概況
    • [8]三菱の分系会社では社長は三菱合資の岩崎小彌太社長を指すため、分系各社の代表は会長と称した

発足時の事業所は、高島・鯰田・上山田・新入・方城・美唄・大夕張など11の炭坑[9]と、吉岡・尾去沢・佐渡・生野・明延など14の鉱山[10]、大阪と直島の両製煉所、鉱業研究所、牧山骸炭製造所を合わせて29か所[11]におよんだ。本店には総務・会計・調査・商務・用度・採鉱・採炭・機械・電気・土木の10課[12]が置かれた。三菱合資の鉱山部が4課、炭坑部が3課[13]だったことと比べると、継承と同時に組織が拡充された。1920年10月には炭砿の経営管理を強めるため鉱業所制を採り[14]、新入・鯰田・方城・上山田の筑豊4炭坑を筑豊鉱業所にまとめた。石炭と金属という二つの鉱業を一つの会社が抱える形は、以後30年あまり続いた。

  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第1章第1節 三菱鉱業株式会社の設立
    • [9]設立時の事業所は炭坑が高島・鯰田・上山田・新入・方城・金田・相知・芳谷・美唄・大夕張・芦別の11か所だった
    • [10]鉱山は吉岡・面谷・尾去沢・槇峯・荒川・佐渡・生野・明延など14か所だった
    • [11]三菱鉱業の事業所は11炭坑・14鉱山・大阪と直島の両製煉所・鉱業研究所・牧山骸炭製造所の合計29か所におよんだ
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第2章第9節 設立より終戦までの概況
    • [12]本店には総務・会計・調査・商務・用度・採鉱・採炭・機械・電気・土木の10課が設置された
    • [13]三菱合資の鉱山部には総務・技術・鉱石・会計の4課、炭坑部には総務・技術・会計の3課しかなかった
    • [14]1920年10月に事業所の経営管理を強めるため炭砿に鉱業所制が採用され、新入・鯰田・方城・上山田の筑豊4炭坑は合併されて筑豊鉱業所となった

1920年1月、木村会長が三菱合資の総理事に就任[15]したのに伴い、岩崎小彌太氏が第2代会長となった。同年3月の臨時株主総会で資本金を5000万円から1億円へ倍額増資[16]し、これに合わせて三菱の分系会社としては初めて株式を公開[17]した。三菱合資は自社が持つ旧株40万株を1株100円で縁故者へ売り出し[18]、新株の一部は本社と分系会社の従業員へ1株12円50銭で分譲[19]した。増資は北海道への進出に加え、朝鮮と樺太での事業拡張に必要な資金[20]を賄うためだった。岩崎小彌太会長は株式公開を三菱のコンツェルン化に伴う当然の帰結[21]と説明し、他人の資本と従業員を事業へ参加させる意味を与えた。株式は翌1921年5月2日に東京株式取引所へ上場された[22]。公開は他の分系会社へも波及するとみられたが、実際には1934年の三菱重工業株40万株の公開まで行われなかった[23]

  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第1章第1節 三菱鉱業株式会社の設立
    • [15]1920年1月に木村久壽彌太が三菱合資の総理事に就任して三菱鉱業の会長を辞任し、岩崎小彌太が第2代会長に就任した
    • [16]1920年3月3日の臨時株主総会で資本金を5000万円から1億円へ倍額増資することが決議された
    • [17]増資に伴い三菱鉱業の株式が三菱の分系会社中で初めて公開された
    • [18]三菱合資は所有する三菱鉱業株式(旧株)40万株を1株100円で縁故者に売り出した
    • [19]三菱合資に割り当てられる新株の一部は本社および分系会社の従業員に1株12円50銭で分譲された
    • [20]倍額増資は数年前からの北海道進出に加え、朝鮮・樺太への進出による事業拡張資金の調達を必要としたためだった
    • [21]岩崎小彌太は株式公開を三菱のコンツェルン化に伴う当然の帰結と位置づけ、会社事業に他人の資本を加え従業員をも参加させて経営すると述べた
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第1章第2節 自売方式への転換
    • [22]1921年5月2日に三菱鉱業の株式が東京株式取引所に上場された
    • [23]株式公開は小彌太会長告辞の趣旨からすれば他の分系会社にも波及すると思われたが、現実には昭和9年の三菱重工業株式40万株の公開に至るまで全く実施されなかった
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第1章第1節 三菱鉱業株式会社の設立
    • [1]三菱鉱業は1918年4月に三菱合資会社の鉱山部・炭坑部および鉱業研究所の業務一切を継承して設立された
    • [2]発起人は岩崎久彌・岩崎小彌太・荘清次郎・原田鎭治・串田萬蔵・木村久壽彌太・重松養二の7名だった
    • [3]1918年4月10日に発起人7名で総株式100万株(1株50円)を引き受け、15日に第1回払込を完了し創立総会を開いた
    • [4]三菱鉱業の設立時の資本金は5000万円だった
    • [5]営業譲渡契約書第2条の対価は41,815,490円62銭で、表28の純財産額41,216,659円62銭とは異なり、社史は差額に九州炭砿汽船株式評価額等が含まれると推定している
    • [6]社史の表28に示された純財産額41,216,659円62銭は営業譲渡契約書第2条の対価41,815,490円62銭と異なり、社史は差額に九州炭砿汽船株式評価額等が含まれると推定している
    • [7]初代の取締役会長には三菱合資の管事であった木村久壽彌太が選出された
    • [9]設立時の事業所は炭坑が高島・鯰田・上山田・新入・方城・金田・相知・芳谷・美唄・大夕張・芦別の11か所だった
    • [10]鉱山は吉岡・面谷・尾去沢・槇峯・荒川・佐渡・生野・明延など14か所だった
    • [11]三菱鉱業の事業所は11炭坑・14鉱山・大阪と直島の両製煉所・鉱業研究所・牧山骸炭製造所の合計29か所におよんだ
    • [15]1920年1月に木村久壽彌太が三菱合資の総理事に就任して三菱鉱業の会長を辞任し、岩崎小彌太が第2代会長に就任した
    • [16]1920年3月3日の臨時株主総会で資本金を5000万円から1億円へ倍額増資することが決議された
    • [17]増資に伴い三菱鉱業の株式が三菱の分系会社中で初めて公開された
    • [18]三菱合資は所有する三菱鉱業株式(旧株)40万株を1株100円で縁故者に売り出した
    • [19]三菱合資に割り当てられる新株の一部は本社および分系会社の従業員に1株12円50銭で分譲された
    • [20]倍額増資は数年前からの北海道進出に加え、朝鮮・樺太への進出による事業拡張資金の調達を必要としたためだった
    • [21]岩崎小彌太は株式公開を三菱のコンツェルン化に伴う当然の帰結と位置づけ、会社事業に他人の資本を加え従業員をも参加させて経営すると述べた
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第2章第9節 設立より終戦までの概況
    • [8]三菱の分系会社では社長は三菱合資の岩崎小彌太社長を指すため、分系各社の代表は会長と称した
    • [12]本店には総務・会計・調査・商務・用度・採鉱・採炭・機械・電気・土木の10課が設置された
    • [13]三菱合資の鉱山部には総務・技術・鉱石・会計の4課、炭坑部には総務・技術・会計の3課しかなかった
    • [14]1920年10月に事業所の経営管理を強めるため炭砿に鉱業所制が採用され、新入・鯰田・方城・上山田の筑豊4炭坑は合併されて筑豊鉱業所となった
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第1章第2節 自売方式への転換
    • [22]1921年5月2日に三菱鉱業の株式が東京株式取引所に上場された
    • [23]株式公開は小彌太会長告辞の趣旨からすれば他の分系会社にも波及すると思われたが、現実には昭和9年の三菱重工業株式40万株の公開に至るまで全く実施されなかった

会長制のもとで外地へ広がり、敗戦で失ったもの

岩崎小彌太会長は1924年5月に退任し、三谷一二氏が第3代会長として12年間[24]その座にあった。1936年5月には河手捨二氏が第4代会長[25]に就いた。分系会社が一律に採ってきた会長制は、1941年2月に三菱重工業が取締役社長の制度を設けた[26]ことで崩れ、三菱鉱業も同年11月に本社の承認を得て会長の下に社長を置いた。初代社長は小村千太郎氏である。翌1942年5月、河手会長の任期満了を機に会長制そのものを廃止[28]し、小村社長が代表取締役となった。社業が多岐にわたり国内経済機構が複雑化したため代表取締役陣を強化する[29]、というのが定時株主総会での説明だった。 [27]

  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第2章第9節 設立より終戦までの概況
    • [24]岩崎小彌太は1924年5月に会長を辞任し、三谷一二が第3代会長に就任して12年間在任した
    • [25]1936年5月に河手捨二が第4代会長に就任した
    • [26]1941年2月に三菱重工業が慣習を改め、取締役会長のほかに取締役社長の制度を設置した
    • [27]三菱鉱業は1941年11月に本社の承認を得て河手会長の下に取締役社長制を布き、初代社長に小村千太郎が就任した
    • [28]1942年5月に河手捨二の任期満了に伴い取締役会長制を廃止し、取締役社長制へ切り替えた
    • [29]社長制設置の理由は、社業が多岐多端となり国内経済機構が複雑化したため代表取締役陣を強化する必要があるというものだった

満州事変を境に外地への進出が活発[30]になり、三菱鉱業は朝鮮・中国・満州・南方に多数の事業所を持つに至った。1940年9月には九州炭砿汽船を合併し、資本金は2億370万円[31]に増えた。国内の炭砿・鉱山・製煉所と海外の事業場を併せ持つ、指折りの規模[32]の会社だった。しかし1945年の敗戦により、朝鮮・中国・満州・南方に置いた海外の事業所はすべて失われた[33]。後年に社長となる大槻文平氏は、戦争前の三菱鉱業を国の興隆に貢献した大会社と述べたうえで、敗戦で数多い海外の全事業所を失ったと合併記念式典の挨拶で振り返った[34]

  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第2章第9節 設立より終戦までの概況
    • [30]昭和6年9月に勃発した満州事変を契機とする軍需ブームを背景に三菱鉱業の外地への進出が活発化した
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第3章第1節 占領政策と三菱鉱業の再建
    • [31]三菱鉱業は1940年9月に九州炭砿汽船を合併し、資本金は2億370万円に増加した
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第2節 三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併
    • [32]戦争前の三菱鉱業は国内の炭砿・鉱山・製煉所とともに海外にも多数の事業場所を持つ指折りの大会社だった
    • [33]昭和20年の敗戦により三菱鉱業は数多い海外の全事業所を失った
    • [34]大槻社長は3社合併記念式典の挨拶で戦前の三菱鉱業の姿と敗戦による海外事業所の喪失に触れた
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第2章第9節 設立より終戦までの概況
    • [24]岩崎小彌太は1924年5月に会長を辞任し、三谷一二が第3代会長に就任して12年間在任した
    • [25]1936年5月に河手捨二が第4代会長に就任した
    • [26]1941年2月に三菱重工業が慣習を改め、取締役会長のほかに取締役社長の制度を設置した
    • [27]三菱鉱業は1941年11月に本社の承認を得て河手会長の下に取締役社長制を布き、初代社長に小村千太郎が就任した
    • [28]1942年5月に河手捨二の任期満了に伴い取締役会長制を廃止し、取締役社長制へ切り替えた
    • [29]社長制設置の理由は、社業が多岐多端となり国内経済機構が複雑化したため代表取締役陣を強化する必要があるというものだった
    • [30]昭和6年9月に勃発した満州事変を契機とする軍需ブームを背景に三菱鉱業の外地への進出が活発化した
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第3章第1節 占領政策と三菱鉱業の再建
    • [31]三菱鉱業は1940年9月に九州炭砿汽船を合併し、資本金は2億370万円に増加した
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第2節 三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併
    • [32]戦争前の三菱鉱業は国内の炭砿・鉱山・製煉所とともに海外にも多数の事業場所を持つ指折りの大会社だった
    • [33]昭和20年の敗戦により三菱鉱業は数多い海外の全事業所を失った
    • [34]大槻社長は3社合併記念式典の挨拶で戦前の三菱鉱業の姿と敗戦による海外事業所の喪失に触れた

二分割で金属を手放し、石炭だけの会社になる

敗戦の翌1946年4月に持株整理委員会令が施行[35]された。同委員会は、財閥解体の対象となった制限会社のなかから該当する会社を持株会社に指定し、解散を含む整理や分割を指令する機関[36]である。三菱財閥の有力企業はいずれも持株会社に指定[37]された。三菱鉱業も同年8月、会社経理応急措置法にもとづく特別経理会社の指定[38]を受けた。同年12月には公職追放令の適用が拡大され、小村社長と4人の常務が同時に追放[39]された。残った役員のなかから総務部長だった羽仁路之氏が社長に就任[40]した。1947年12月には過度経済力集中排除法が施行[41]され、非財閥系を含む巨大会社の再編成が進められた。

  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 大企業の分割相つぐ
    • [35]1946年4月に持株整理委員会令が制定・施行され、財閥解体の対象となる制限会社から持株会社を指定して整理・分割を指令した
    • [36]持株整理委員会は財閥解体の対象となった制限会社の中から該当会社を持株会社として指定し、解散を含む整理や分割など再編成を指令する機関だった
    • [37]三菱財閥の有力企業はいずれも持株会社として指定され、三菱鉱業もその一つだった
    • [41]1947年12月に過度経済力集中排除法が制定・施行され、非財閥系企業を含む巨大会社の再編成が推進された
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第3章第2節 石炭復興政策と三菱鉱業
    • [38]三菱鉱業は1946年8月11日に会社経理応急措置法による特別経理会社に指定された
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 二社分割後、私は取締役に
    • [39]1946年12月の公職追放令の適用拡大により小村千太郎社長と4人の常務が同時に追放された
    • [40]追放後に残った役員のうち総務部長だった羽仁路之が社長に就任した

三菱重工業は3分割の指令を受け、三菱商事にいたっては解散を命じられた[42]。三菱鉱業でも分割指令を見越して社内でいくつもの案が検討され、非公式にはGHQの反トラスト課から7分割案[43]も伝えられていた。一時は炭砿・鉱山・金属加工の3分割やむなし[44]という方針に傾いたこともある。最終的に決まったのは石炭と金属の二分割で、1950年4月、石炭部門を残す三菱鉱業が存続会社となり、金属部門は太平鉱業として分離[45]した。太平鉱業は後に三菱金属鉱業と商号を変え、1973年10月に三菱金属となる[46]。羽仁社長は太平鉱業の社長へ移り、三菱鉱業の社長には資材部長だった高木作太氏が就任[47]した。

  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 大企業の分割相つぐ
    • [42]三菱重工業は持株整理委員会から三分割の指令案を示され、三菱商事はGHQの覚書によって解散を命じられた
    • [43]分割指令を予想して社内でいくつかの案が検討され、非公式ながらGHQの反トラスト課から7分割案が伝えられた
    • [44]一時は炭砿・鉱山・金属加工の3分割もやむなしとの方針に傾いた
    • [45]1950年4月に石炭部門の三菱鉱業(存続会社)と金属部門の太平鉱業の2社に分割された
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)資料編 年表
    • [46]太平鉱業はのちに三菱金属鉱業となり、1973年10月に三菱金属へ商号変更した
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 二社分割後、私は取締役に
    • [47]羽仁路之は金属部門の太平鉱業の社長となり、石炭部門だけとなった三菱鉱業の社長には資材部長だった高木作太常務が就任した

分割によって三菱鉱業が失ったものは大きかった。戦前からの歴史を見ても、石炭は10年ごとに起こる戦争で一時の利益を上げることはあっても長続きせず、収益はむしろ金属によって支えられていた[48]からである。その金属部門が切り離された以上、石炭に代わるものがない限り経営の安定は望めなかった[49]。1950年6月に始まった朝鮮戦争の特需は石炭ブームをもたらし、1951年度の全国出炭量は4650万トンと戦後最高[50]を記録した。当時のヤマの暮らしは他産業に比べて恵まれており、賃金水準は高く、社宅の家賃は安く、学校も病院も備わっていた[51]。しかしブームは長続きせず反動不況が訪れ[52]、石炭は以後の長い斜陽の時代に入った。

  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 セメント部門へ進出
    • [48]戦前からの三菱鉱業の歴史では石炭は10年ごとの戦争で一儲けはしても長続きせず、経営はむしろ金属によって支えられていた
    • [49]金属部門が分割された以上、それに代わるものがない限り経営の安定はおぼつかなかった
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 二社分割後、私は取締役に
    • [50]1950年6月に勃発した朝鮮戦争の特需により石炭ブームが訪れ、1951年度の出炭量は4650万トンと戦後最高を記録した
    • [51]当時のヤマの生活は他に比べ恵まれており、賃金水準は高く社宅の家賃はきわめて安く、学校も病院も完備していた
    • [52]石炭ブームは長続きせずすぐに反動不況が訪れ、それが石炭斜陽時代の幕開けとなった
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 大企業の分割相つぐ
    • [35]1946年4月に持株整理委員会令が制定・施行され、財閥解体の対象となる制限会社から持株会社を指定して整理・分割を指令した
    • [36]持株整理委員会は財閥解体の対象となった制限会社の中から該当会社を持株会社として指定し、解散を含む整理や分割など再編成を指令する機関だった
    • [37]三菱財閥の有力企業はいずれも持株会社として指定され、三菱鉱業もその一つだった
    • [41]1947年12月に過度経済力集中排除法が制定・施行され、非財閥系企業を含む巨大会社の再編成が推進された
    • [42]三菱重工業は持株整理委員会から三分割の指令案を示され、三菱商事はGHQの覚書によって解散を命じられた
    • [43]分割指令を予想して社内でいくつかの案が検討され、非公式ながらGHQの反トラスト課から7分割案が伝えられた
    • [44]一時は炭砿・鉱山・金属加工の3分割もやむなしとの方針に傾いた
    • [45]1950年4月に石炭部門の三菱鉱業(存続会社)と金属部門の太平鉱業の2社に分割された
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第3章第2節 石炭復興政策と三菱鉱業
    • [38]三菱鉱業は1946年8月11日に会社経理応急措置法による特別経理会社に指定された
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 二社分割後、私は取締役に
    • [39]1946年12月の公職追放令の適用拡大により小村千太郎社長と4人の常務が同時に追放された
    • [40]追放後に残った役員のうち総務部長だった羽仁路之が社長に就任した
    • [47]羽仁路之は金属部門の太平鉱業の社長となり、石炭部門だけとなった三菱鉱業の社長には資材部長だった高木作太常務が就任した
    • [50]1950年6月に勃発した朝鮮戦争の特需により石炭ブームが訪れ、1951年度の出炭量は4650万トンと戦後最高を記録した
    • [51]当時のヤマの生活は他に比べ恵まれており、賃金水準は高く社宅の家賃はきわめて安く、学校も病院も完備していた
    • [52]石炭ブームは長続きせずすぐに反動不況が訪れ、それが石炭斜陽時代の幕開けとなった
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)資料編 年表
    • [46]太平鉱業はのちに三菱金属鉱業となり、1973年10月に三菱金属へ商号変更した
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 セメント部門へ進出
    • [48]戦前からの三菱鉱業の歴史では石炭は10年ごとの戦争で一儲けはしても長続きせず、経営はむしろ金属によって支えられていた
    • [49]金属部門が分割された以上、それに代わるものがない限り経営の安定はおぼつかなかった

1950年〜 石炭に代わる事業を探した末に別会社方式でセメントへ踏み出すまで

  1. 1950年 過度経済力集中排除法による石炭部門と金属部門への2分割
  2. 1950年 金属部門を継承した太平鉱業の分離と高木作太氏の社長就任
  3. 1952年 高木作太社長の提唱による調査部の設置と多角化の検討開始
  4. 1953年 4000人におよぶ人員整理の提案
  5. 1953年 石炭に代わる事業としてのセメント選定と、三菱系各社共同出資による三菱セメントの設立 直営か、別会社か——石炭不況下の資金と労務が、参入の形をどう決めたか
  6. 1954年 三菱系各社の共同出資による三菱セメントの設立(資本金6億円)
  7. 1955年 筑豊五山と勝田の合理化を皮切りとする炭砿整理の開始

高炭価問題と四千人におよぶ人員整理

1949年末ごろから鉄鋼業界を中心に高炭価をめぐる議論[53]が出ていた。ところが一般産業界が反動不況に陥っていたときも石炭は売り手市場だったため、石炭各社は原料炭を中心にさらに値上げへ踏み切り[54]、みずから高炭価問題を促した。加えて労働側は会社側が提案した賃金据え置きに反対して大幅な賃上げを求め、政府の緊急調整が発動されるまで63日におよぶ長期ストライキ[55]に入った。この争議はユーザー側に石炭供給への不安を与え、高炭価と相まって重油への転換を速めた[56]。エネルギー革命は、需要家の側から石炭産業へ押し寄せてきた。

  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 二社分割後、私は取締役に
    • [53]1949年末ごろから鉄鋼業界から高炭価論議が出ていた
    • [54]一般産業界が反動不況に陥っているときも石炭は売り手市場だったため、石炭各社は原料炭を中心にさらに値上げに踏み切り高炭価問題を促進した
    • [55]会社側が提案した賃金据え置きに炭労が強く反対して大幅ベースアップを要求し、政府の緊急調整発動による終息まで63日にわたる長期ストが行われた
    • [56]長期ストはユーザー側に石炭供給への不安感を与え、高炭価とあわせて重油転換を急速に推進しエネルギー革命を促進した

石炭各社は増産体制を見直し、出炭制限と合理化に取り組まざるをえなくなった[57]。三菱鉱業は1953年7月、4000人におよぶ人員整理を提案[58]した。当時九州事務所長だった大槻氏がこの合理化を担当[59]した。炭砿には九州各地から集まった独身者が多く、郷里へ戻って農業に従事できたことから深刻な失業問題にはならなかった[60]が、それだけでは必要な数に足りず家族持ちも対象とせざるをえなかった。そこで社内に職業部を新設し、大阪や名古屋まで出張して就職の斡旋[61]にあたった。三井鉱山が指名解雇で臨んだのに対し、三菱鉱業は希望退職で対応[62]した。

  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 二社分割後、私は取締役に
    • [57]石炭各社はこれまでの増産体制を見直し、出炭制限と合理化に取り組まざるをえなくなった
    • [58]三菱鉱業は1953年7月に4000人におよぶ人員整理を提案した
    • [59]大槻文平は1952年2月に九州事務所長へ転任しており、九州地区でこの合理化を進めた
    • [60]当時の炭砿には九州各地から集まった独身者が多く、郷里に帰って農業に従事できたため深刻な失業問題にならなかった
    • [61]社内に職業部を新設して就職斡旋を行い、周辺に有力企業が乏しいため大阪・名古屋へ出張して就職を依頼した
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 炭砿の相つぐ閉山
    • [62]1953年の企業整備で三井は指名解雇を実施したのに対し、他社は希望退職で対応した
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 二社分割後、私は取締役に
    • [53]1949年末ごろから鉄鋼業界から高炭価論議が出ていた
    • [54]一般産業界が反動不況に陥っているときも石炭は売り手市場だったため、石炭各社は原料炭を中心にさらに値上げに踏み切り高炭価問題を促進した
    • [55]会社側が提案した賃金据え置きに炭労が強く反対して大幅ベースアップを要求し、政府の緊急調整発動による終息まで63日にわたる長期ストが行われた
    • [56]長期ストはユーザー側に石炭供給への不安感を与え、高炭価とあわせて重油転換を急速に推進しエネルギー革命を促進した
    • [57]石炭各社はこれまでの増産体制を見直し、出炭制限と合理化に取り組まざるをえなくなった
    • [58]三菱鉱業は1953年7月に4000人におよぶ人員整理を提案した
    • [59]大槻文平は1952年2月に九州事務所長へ転任しており、九州地区でこの合理化を進めた
    • [60]当時の炭砿には九州各地から集まった独身者が多く、郷里に帰って農業に従事できたため深刻な失業問題にならなかった
    • [61]社内に職業部を新設して就職斡旋を行い、周辺に有力企業が乏しいため大阪・名古屋へ出張して就職を依頼した
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 炭砿の相つぐ閉山
    • [62]1953年の企業整備で三井は指名解雇を実施したのに対し、他社は希望退職で対応した

肥料も海運も退けてセメントが残った理由

人員整理に現れたように石炭の前途が暗くなったとき、石炭に代わる事業を探す検討が社内で始まった[63]。1952年1月4日の本店年始交歓会の席上、高木作太社長が調査・企画部門の新設を提唱[64]し、これにもとづいて2月1日に調査部が設置[65]された。調査部が候補として並べたのは肥料・海運・ガス・コークス・セメント[66]である。比較検討の結果、三菱グループ各社と競合しないこと、保有する技術を応用できること、将来の需要増が見込めること、そして石炭の安定した需要先になること[67]の四つを理由に、セメント事業がもっとも有望との結論になった[68]

  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 セメント部門へ進出
    • [63]1953年の人員整理にみるように石炭産業の前途に暗いカゲが出てきたとき、石炭に代わる新しい事業はないかという経営多角化の検討が社内で進められた
    • [64]1952年1月4日の本店年始交歓会の席上で高木作太社長が調査・企画部門の新設を提唱した
    • [65]提唱にもとづき1952年2月1日に調査部が設置された
    • [66]調査部を中心に肥料・海運・ガス・コークス・セメントなど新規事業の可能性と優劣を検討した
    • [67]検討の結果セメント事業が一番有望との結論となり、その理由は三菱グループ各社と競合しない・保有技術が応用できる・将来の需要増が見込める・石炭の安定需要先となるの4点だった
    • [68]新規事業の可能性と優劣を検討した結果、セメント事業が一番有望との結論となった

役員会でセメント進出がすんなり決まったわけではない[69]。大槻氏と同時に取締役となった石田三朝氏は、日本セメントに勤める親戚がセメント事業は決して有望ではないと日ごろ話していた[70]と述べ、強い慎重論を唱えた。経済復興とともに需要が増えるとしても、まったく新規に大きな設備投資を行い、日本セメントと小野田セメントという既存の大手と競わなければなら[71]ず、その不安は役員のあいだで共有されていた[72]。それでも石炭だけで食える見通しがない以上はセメントに賭けるほかなく、役員会は最終的に進出を承認[73]した。セメント事業への参入を会社の方針として決めたのは、1953年7月[74]のことである。

  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 セメント部門へ進出
    • [69]セメント進出はすんなり決まったのではなく、役員会で慎重論が出た
    • [70]大槻文平と同時に取締役になった石田三朝が、親戚が日本セメントに勤めておりセメント事業は決して有望ではないといっていたとして慎重論を強く唱えた
    • [71]新規に大きな設備投資を行い日本セメント・小野田という既存大手と太刀打ちできるかに一抹の不安があった
    • [72]既存の大手メーカーと太刀打ちできるかどうかに一抹の不安がなかったわけではなかった
    • [73]石炭だけで食える見通しがない以上セメントに賭けるしかなく、役員会は最終的にゴーのサインを出した
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第2節 三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併
    • [74]三菱鉱業が三菱鉱業のセメント事業進出を会社方針として正式に決定したのは1953年7月である
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 セメント部門へ進出
    • [63]1953年の人員整理にみるように石炭産業の前途に暗いカゲが出てきたとき、石炭に代わる新しい事業はないかという経営多角化の検討が社内で進められた
    • [64]1952年1月4日の本店年始交歓会の席上で高木作太社長が調査・企画部門の新設を提唱した
    • [65]提唱にもとづき1952年2月1日に調査部が設置された
    • [66]調査部を中心に肥料・海運・ガス・コークス・セメントなど新規事業の可能性と優劣を検討した
    • [67]検討の結果セメント事業が一番有望との結論となり、その理由は三菱グループ各社と競合しない・保有技術が応用できる・将来の需要増が見込める・石炭の安定需要先となるの4点だった
    • [68]新規事業の可能性と優劣を検討した結果、セメント事業が一番有望との結論となった
    • [69]セメント進出はすんなり決まったのではなく、役員会で慎重論が出た
    • [70]大槻文平と同時に取締役になった石田三朝が、親戚が日本セメントに勤めておりセメント事業は決して有望ではないといっていたとして慎重論を強く唱えた
    • [71]新規に大きな設備投資を行い日本セメント・小野田という既存大手と太刀打ちできるかに一抹の不安があった
    • [72]既存の大手メーカーと太刀打ちできるかどうかに一抹の不安がなかったわけではなかった
    • [73]石炭だけで食える見通しがない以上セメントに賭けるしかなく、役員会は最終的にゴーのサインを出した
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第2節 三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併
    • [74]三菱鉱業が三菱鉱業のセメント事業進出を会社方針として正式に決定したのは1953年7月である

直営を避け、三菱系二十社の共同出資会社にした判断

もう一つの論点は、セメント事業を三菱鉱業が直営するか別会社に委ねるかだった[75]。ここでも意見は分かれたが、三つの理由から別会社方式が有利との結論に達した[76]。第一に、工場建設に当面10数億円を要するのに対し、石炭不況下の三菱鉱業には独力で調達する力がなく[77]、新会社なら資金調達の道が開けて危険の分散にもなる[78]。第二に、一事業部門とすれば頻繁にストライキを行っていた炭労傘下の組合が生まれる可能性[79]があり、新しい管理方式の導入が難しくなる。第三に、黒崎地区では三菱化成工業や旭硝子と密接な関係を生じるうえ、旭硝子自身がセメント進出計画を持っていた[80]

  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 セメント部門へ進出
    • [75]セメント事業を三菱鉱業単独で行うか別会社として三菱グループ各社の共同出資にするかが論点となった
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第5章第1節 三菱セメントの設立
    • [76]比較検討の結果、主として3つの理由により別会社方式が有利であるとの結論に達した
    • [77]セメント工場建設のため当面10数億円の資金を要するが、石炭不況下にある三菱鉱業独力での資金調達は困難だった
    • [78]新会社によれば資金調達の道が開かれると同時に危険の分散を図ることができた
    • [79]三菱鉱業の1事業部門とした場合は炭労傘下の組合が生まれる可能性があり、労務管理その他新しい管理方式の導入が困難になるおそれがあった
    • [80]黒崎地区では三菱化成工業・旭硝子と密接な関係を生じ、旭硝子はみずからセメント進出計画を持っていた

1953年8月10日、三菱鉱業はセメント事業計画を進めるため企画部を新設し、調査部を廃止[81]した。企画部長には山中正夫調査部長が就き、調査部員は全員が移った[82]。工場用地は当初、同年4月に解散した日本アルミニウムの黒崎工場施設を包括的に譲り受けて転用する方針[83]だった。ところが敷地は三菱化成の黒崎工場に隣接する借地で、返却時にはさら地とする契約[84]になっていた。三菱化成は自社工場の拡張用地に予定しており、セメント工場からのダスト飛来も嫌って難色を示す[85]。代替地として提示された洞海湾埋立地のC部は道路も港湾も鉄道も白紙の状態だったが、企画部が地盤の支持力から工期・工事費まで調べたうえで、三菱鉱業はC部への変更に踏み切った[86]

  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第5章第1節 三菱セメントの設立
    • [81]1953年8月10日に三菱鉱業はセメント事業計画を推進するため企画部を新設し調査部を廃止した
    • [82]企画部長には山中正夫調査部長が就任し、調査部の全員が企画部に移った
    • [83]1953年4月に日本アルミニウムが解散する運びとなり、清算会社の黒崎工場施設を包括的に譲り受けてセメント工場に転換する方針で進められていた
    • [84]日本アルミニウムの工場敷地は三菱化成黒崎工場の西方隣接地を賃借したもので、工場閉止の際はさら地として返却する契約だった
    • [85]三菱化成は敷地を黒崎工場の拡張用地に予定しており、セメント工場からのダスト飛来を嫌って跡地への建設に難色を示した
    • [86]代替地の洞海湾埋立地C部は道路・鉄道・港湾等の関連施設が全く白紙の状態だったが、企画部がC部の地盤の支持力を調査し工期や工事費を詳細に検討したうえで計画変更に踏み切った

新会社の社名は難航した[87]。三菱鉱業の首脳は三菱セメントを望んだが、岩崎家は当初から三菱の社名を冠することに難色を示し、社内には黒崎セメントという案も出た[88]。企画部は販売上どうしても三菱の名が要ると進言し、首脳部は三菱電機の高杉社長、三菱地所の石黒会長、三菱銀行の千金良頭取[89]に対し、社名の可否が新会社の興廃を分けると訴えた。社長会である金曜会は、三菱系各社の出資協力で設立される会社であるとして冠称を認めた[90]。資本金は当初3億円の計画から6億円に引き上げられ[91]、1954年2月1日に三菱セメントが成立[92]した。出資比率は三菱鉱業が51.8%、明治生命が10%、三菱化成工業と旭硝子が各8%[93]である。初代社長には三菱鉱業副社長の小堀音治氏が現職のまま就いた[94]

  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第5章第1節 三菱セメントの設立
    • [87]新会社設立の準備でまず当面した重要な問題は社名だった
    • [88]三菱鉱業首脳部は社名を三菱セメントとすることを希望したが、岩崎家は最初から三菱の社名を冠することに難色を示し、社内では黒崎セメントという案も出た
    • [89]三菱鉱業首脳部は三菱電機高杉社長・三菱地所石黒会長・三菱銀行千金良頭取に対し、三菱の社名を付けるか否かが新会社興廃の岐路となると強調した
    • [90]三菱社長会である金曜会は、三菱系各社の出資協力により設立される会社であるから三菱の社名を冠して差し支えないと承認した
    • [91]三菱セメントの資本金は当初3億円と計画されたが、三菱銀行宇佐美営業部長の助言と全体の資金計画を考慮して6億円と決定された
    • [92]1954年2月1日に設立登記を完了し三菱セメント株式会社が成立した
    • [94]初代社長には三菱鉱業副社長の小堀音治が現職のまま就任した
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 セメント部門へ進出
    • [93]三菱セメントの資本金6億円の出資比率は三菱鉱業51.8%、明治生命10%、三菱化成工業と旭硝子が各8%ほかだった
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 セメント部門へ進出
    • [75]セメント事業を三菱鉱業単独で行うか別会社として三菱グループ各社の共同出資にするかが論点となった
    • [93]三菱セメントの資本金6億円の出資比率は三菱鉱業51.8%、明治生命10%、三菱化成工業と旭硝子が各8%ほかだった
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第5章第1節 三菱セメントの設立
    • [76]比較検討の結果、主として3つの理由により別会社方式が有利であるとの結論に達した
    • [77]セメント工場建設のため当面10数億円の資金を要するが、石炭不況下にある三菱鉱業独力での資金調達は困難だった
    • [78]新会社によれば資金調達の道が開かれると同時に危険の分散を図ることができた
    • [79]三菱鉱業の1事業部門とした場合は炭労傘下の組合が生まれる可能性があり、労務管理その他新しい管理方式の導入が困難になるおそれがあった
    • [80]黒崎地区では三菱化成工業・旭硝子と密接な関係を生じ、旭硝子はみずからセメント進出計画を持っていた
    • [81]1953年8月10日に三菱鉱業はセメント事業計画を推進するため企画部を新設し調査部を廃止した
    • [82]企画部長には山中正夫調査部長が就任し、調査部の全員が企画部に移った
    • [83]1953年4月に日本アルミニウムが解散する運びとなり、清算会社の黒崎工場施設を包括的に譲り受けてセメント工場に転換する方針で進められていた
    • [84]日本アルミニウムの工場敷地は三菱化成黒崎工場の西方隣接地を賃借したもので、工場閉止の際はさら地として返却する契約だった
    • [85]三菱化成は敷地を黒崎工場の拡張用地に予定しており、セメント工場からのダスト飛来を嫌って跡地への建設に難色を示した
    • [86]代替地の洞海湾埋立地C部は道路・鉄道・港湾等の関連施設が全く白紙の状態だったが、企画部がC部の地盤の支持力を調査し工期や工事費を詳細に検討したうえで計画変更に踏み切った
    • [87]新会社設立の準備でまず当面した重要な問題は社名だった
    • [88]三菱鉱業首脳部は社名を三菱セメントとすることを希望したが、岩崎家は最初から三菱の社名を冠することに難色を示し、社内では黒崎セメントという案も出た
    • [89]三菱鉱業首脳部は三菱電機高杉社長・三菱地所石黒会長・三菱銀行千金良頭取に対し、三菱の社名を付けるか否かが新会社興廃の岐路となると強調した
    • [90]三菱社長会である金曜会は、三菱系各社の出資協力により設立される会社であるから三菱の社名を冠して差し支えないと承認した
    • [91]三菱セメントの資本金は当初3億円と計画されたが、三菱銀行宇佐美営業部長の助言と全体の資金計画を考慮して6億円と決定された
    • [92]1954年2月1日に設立登記を完了し三菱セメント株式会社が成立した
    • [94]初代社長には三菱鉱業副社長の小堀音治が現職のまま就任した

1955年〜 炭砿を一つずつ閉じ、社名を残すために石炭生産部門を切り離すまで

  1. 1955年 筑豊五山と勝田の合理化を皮切りとする炭砿整理の開始
  2. 1955年 石炭鉱業合理化臨時措置法の公布にともなう調査部の再設置
  3. 1957年 大手会社の閉山第1号となる油戸炭砿の閉山と石炭鉱業整備事業団への売山
  4. 1963年 三菱セメント東谷工場第1号キルンの火入れとサスペンション・プレヒーター方式の採用
  5. 1963年 西島直己氏の後任としての大槻文平氏の社長就任
  6. 1969年 石炭生産部門の分離と、三菱高島炭砿・三菱大夕張炭砿の設立 国家管理をともなう全国再編か、自力での分離か——大槻文平社長は創業以来の石炭部門をどう切り離したか
  7. 1971年 9年ぶりとなる年6分の復配

十四あった炭砿が七つになるまでの合理化

1955年8月、政府はそれまでの石炭合理化政策を集大成した石炭鉱業合理化臨時措置法を公布した[95]。施行は9月1日[96]である。石炭鉱業整備事業団による非能率炭砿の買上げ、坑口開設許可制、標準炭価制度による炭価引き下げ指導、出炭制限の共同行為[97]が柱である。同時に重油ボイラー設置制限法によって重油の輸入と使用を抑える保護策[98]もとられた。三菱鉱業は同年8月に調査部を再び設置し、石炭に関係する新規事業と海外事業の調査に当たらせた[99]。ここから1950年代後半にかけて、崎戸製塩、大夕張メタノール工場、東北砂鉄の買収、筑豊機械製作所の設立、チリのアタカマ鉄鉱石開発[100]が順に具体化した。

  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 企業整備に追われる
    • [95]石炭鉱業合理化臨時措置法は1955年8月10日に公布され、9月1日に施行された
    • [97]合理化法の内容は石炭鉱業整備事業団の創設による非能率炭砿の買上げ、坑口開設許可制、標準炭価制度による炭価引き下げ指導、出炭制限などの共同行為だった
    • [98]政府は同時に重油ボイラー設置制限法の制定などにより重油の輸入・使用を抑える石炭保護政策もとった
    • [99]1955年8月に再度調査部が設置され、石炭に関係のある新規事業および海外事業の調査・企画に当たった
    • [100]崎戸製塩の設立(1955年9月)から大夕張メタノール工場建設事務所(1957年1月)・東北砂鉄鋼業の買収(1957年2月)・筑豊機械製作所の設立(1958年1月)・チリのアタカマ鉄鉱山開発の開始(1959年2月)まで、1950年代後半に順次具体化した
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)資料編 年表
    • [96]石炭鉱業合理化臨時措置法は1955年8月10日に公布され、9月1日に施行された

1956年秋のスエズ動乱で中東原油が入らず重油と輸入炭が値上がり[101]すると、炭砿は久しぶりに活気づいた。だが1956年以降の増産気運と炭主油従の政策は、結果として石炭産業の合理化を遅らせ、構造的な危機をかえって尖鋭にした[102]。神武景気が終わると貯炭が急増し[103]、スエズ動乱の短期終息で海上運賃も下がって重油が値下がりした。1959年10月、石炭協会は1963年度までに1958年度比でトン当たり800円の炭価引き下げを掲げたが、石炭鉱業審議会は1200円の引き下げを答申[104]した。差額400円のうち250円は政府の近代化助成と減税で、150円は流通経費の合理化で埋める[105]ことで折り合った。

  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 企業整備に追われる
    • [101]1956年秋に勃発したスエズ動乱で中東原油が入らず、海上運賃の上昇で重油・輸入炭が値上がりした結果ヤマは久し振りに活気に包まれた
    • [102]1956年以降の石炭増産気運と炭主油従政策は結果的に石炭産業の合理化を遅らせ、構造的危機を一層尖鋭化させた
    • [103]神武景気が終わって不況局面に入ると貯炭が急増し、スエズ動乱の短期終息で海上運賃も下がり重油が値下がりして石炭に対する優位性を回復した
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 炭砿の相つぐ閉山
    • [104]1959年10月に石炭協会は1963年度までに1958年度比トン当たり800円の炭価引き下げを骨子とする新合理化長期計画を発表し、石炭鉱業審議会は1200円引き下げ計画を答申した
    • [105]引き下げ幅の差額400円のうち250円は政府の近代化助成や減税措置、残り150円は流通経費の合理化で埋めることで折り合った

不採算のヤマのスクラップ化は避けられなく[106]なった。三菱鉱業は1955年の筑豊五山と勝田の合理化を皮切りに、油戸、飯塚、上山田、方城、勝田、新入、芦別と閉山を重ねた[107]。1963年11月に西島直己社長の後を受けて大槻氏が社長に就いた[108]時点で、炭砿の数は7となり、合理化が始まった1953年の半分に減っていた。従業員数も1万人と3分の1以下である。それでも1964年度の出炭量は424万トンで、1953年度に比べて1割の減少[110]にとどまった。閉山と並行して優良炭砿へ投資を集中させた効果が現れていた[111]。大槻社長は就任後、南大夕張の新砿開発に着手した。当時は新しく石炭のヤマを開発する企業がなく、日本開発銀行の平田敬一郎総裁からも止めたほうがよいと忠告[113]された。着工は1966年秋、営業出炭は1970年8月[114]で、最新鋭の機械設備と保安設備を備えた坑内は日本一のヤマと呼ばれた[115][109][112]

  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 炭砿の相つぐ閉山
    • [106]1200円引き下げ計画の前提が崩れ、不採算ヤマのスクラップ化は不可避となった
    • [107]三菱鉱業は1955年に筑豊五山・勝田の合理化を皮切りに、油戸・飯塚・上山田・方城・勝田・新入・芦別などを相ついで閉山した
    • [108]1963年11月に西島直己社長のあとを受けて大槻文平が社長に就任した
    • [109]大槻文平の社長就任時点で三菱鉱業の炭砿数は7となり、合理化が始まった1953年に比べて半分に減り、従業員数も1万人と3分の1以下に減っていた
    • [110]1964年度の出炭量は424万トンで、1953年度に比べ10%減にとどまった
    • [111]出炭量の減少が1割にとどまったのはこの間のスクラップ・アンド・ビルドの効果が現われていたためである
    • [112]大槻文平は社長就任後に南大夕張の新砿開発に着手したが、当時新しく石炭ヤマを開発する企業はなく反対意見も少なくなかった
    • [113]日本開発銀行の平田敬一郎総裁からも新しくヤマを開発するのは止めたほうがよいと忠告された
    • [114]南大夕張炭砿の開発着手は1966年秋で、営業出炭は1970年8月だった
    • [115]南大夕張炭砿は最新鋭の機械設備と保安設備を完備し、日本一のヤマといわれた
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 企業整備に追われる
    • [95]石炭鉱業合理化臨時措置法は1955年8月10日に公布され、9月1日に施行された
    • [97]合理化法の内容は石炭鉱業整備事業団の創設による非能率炭砿の買上げ、坑口開設許可制、標準炭価制度による炭価引き下げ指導、出炭制限などの共同行為だった
    • [98]政府は同時に重油ボイラー設置制限法の制定などにより重油の輸入・使用を抑える石炭保護政策もとった
    • [99]1955年8月に再度調査部が設置され、石炭に関係のある新規事業および海外事業の調査・企画に当たった
    • [100]崎戸製塩の設立(1955年9月)から大夕張メタノール工場建設事務所(1957年1月)・東北砂鉄鋼業の買収(1957年2月)・筑豊機械製作所の設立(1958年1月)・チリのアタカマ鉄鉱山開発の開始(1959年2月)まで、1950年代後半に順次具体化した
    • [101]1956年秋に勃発したスエズ動乱で中東原油が入らず、海上運賃の上昇で重油・輸入炭が値上がりした結果ヤマは久し振りに活気に包まれた
    • [102]1956年以降の石炭増産気運と炭主油従政策は結果的に石炭産業の合理化を遅らせ、構造的危機を一層尖鋭化させた
    • [103]神武景気が終わって不況局面に入ると貯炭が急増し、スエズ動乱の短期終息で海上運賃も下がり重油が値下がりして石炭に対する優位性を回復した
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)資料編 年表
    • [96]石炭鉱業合理化臨時措置法は1955年8月10日に公布され、9月1日に施行された
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 炭砿の相つぐ閉山
    • [104]1959年10月に石炭協会は1963年度までに1958年度比トン当たり800円の炭価引き下げを骨子とする新合理化長期計画を発表し、石炭鉱業審議会は1200円引き下げ計画を答申した
    • [105]引き下げ幅の差額400円のうち250円は政府の近代化助成や減税措置、残り150円は流通経費の合理化で埋めることで折り合った
    • [106]1200円引き下げ計画の前提が崩れ、不採算ヤマのスクラップ化は不可避となった
    • [107]三菱鉱業は1955年に筑豊五山・勝田の合理化を皮切りに、油戸・飯塚・上山田・方城・勝田・新入・芦別などを相ついで閉山した
    • [108]1963年11月に西島直己社長のあとを受けて大槻文平が社長に就任した
    • [109]大槻文平の社長就任時点で三菱鉱業の炭砿数は7となり、合理化が始まった1953年に比べて半分に減り、従業員数も1万人と3分の1以下に減っていた
    • [110]1964年度の出炭量は424万トンで、1953年度に比べ10%減にとどまった
    • [111]出炭量の減少が1割にとどまったのはこの間のスクラップ・アンド・ビルドの効果が現われていたためである
    • [112]大槻文平は社長就任後に南大夕張の新砿開発に着手したが、当時新しく石炭ヤマを開発する企業はなく反対意見も少なくなかった
    • [113]日本開発銀行の平田敬一郎総裁からも新しくヤマを開発するのは止めたほうがよいと忠告された
    • [114]南大夕張炭砿の開発着手は1966年秋で、営業出炭は1970年8月だった
    • [115]南大夕張炭砿は最新鋭の機械設備と保安設備を完備し、日本一のヤマといわれた

石炭協会会長として縮小均衡をまとめた社長の判断

数次の石炭対策でも効果は上がらず、1967年には全国一社案、全国三社案、石炭鉱業国有化案といった再編論が主要各社や社会党から出た[116]。1968年2月には石炭鉱業審議会の植村甲午郎会長から[117]、各社の石炭部門の固定資産を無償で提供させ、それを限度に債務の第二次肩代わりを行って石炭部門を外した第二会社を設立する[118]という私案が示された。大槻氏は同年4月に石炭協会会長へ就任し、業界の意見をまとめて官庁や政界との折衝にあたった[119]。錦の御旗であった年産5000万トン規模の放棄を確認せざるをえず、縮小均衡の方針で各方面と交渉[120]した。

  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 石炭部門の分離・独立
    • [116]1967年には全国一社案、全国三社案、石炭鉱業国有化案など石炭主要各社や社会党からドラスチックな再編論議が起こった
    • [117]1968年2月に石炭鉱業審議会の植村甲午郎会長から石炭協会会長に対しいわゆる植村私案が提示された
    • [118]植村私案は各社石炭部門の鉱区・設備など固定資産を無償で提供させ、それを限度として債務の第二次肩代わりをし、石炭部門を外した第二会社を設立するという内容だった
    • [119]大槻文平は1968年4月に石炭協会会長に就任し、石炭業全体の在り方について業界内の意見をとりまとめ官庁・政界などへの働きかけに奔走した
    • [120]それまで錦の御旗であった年産5000万トン規模を放棄する縮小均衡方針を確認せざるをえず、その線で各方面と折衝した

1969年1月に決まった第四次石炭対策は、私企業体制での再建を前提としつつ、なお事業の継続が困難な企業は勇断をもって進退を決めるべきだ[121]という考えに立っていた。大槻社長はここで、石炭産業に国家管理的な規制が避けられないのなら伝統ある三菱鉱業の名を残すために石炭部門を分離する[122]、という結論に達した。第四次対策が石炭部門と非石炭部門の経理区分の明確化を求めていたことにも沿っていた[123]。政府の助成を受けている限り配当ができなかったため、分離は復配の条件をつくる意味も持つ[124]。スクラップ・アンド・ビルドをほぼ終え、体力に余力があるこの機会を捉えるのが得策と判断[125]された。

  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 石炭部門の分離・独立
    • [121]1969年1月に第四次石炭対策が決定され、私企業体制での再建をはかるが事業の継続が困難な企業は勇断をもって進退を決めるべきだという考え方に立っていた
    • [122]大槻文平は石炭産業に対する国家管理的な規制が不可避であるなら、伝統ある三菱鉱業の名を残すために石炭部門を分離しようと結論した
    • [123]分離は第四次対策にある石炭部門と非石炭部門の経理区分の明確化に沿うものでもあった
    • [124]政府の助成を受けている限り配当ができなかったので、石炭部門を分離することで復配の条件を作る狙いもあった
    • [125]それまでにスクラップ・アンド・ビルドをほぼ完了し体力的にもまだ余力のあるこの機会を捉えるのが得策と判断した

1969年9月、三菱鉱業は石炭生産部門を分離した。九州地区の高島鉱業所と鯰田炭砿は三菱高島炭砿へ、北海道地区の大夕張鉱業所と南大夕張開発事務所は三菱大夕張炭砿へ譲渡された。ここでも三菱を社名に冠せるかが問題[127]になった。金曜会が冠称に求める条件は一定規模の事業であることと将来も発展する見込みがあることで、石炭会社は後者に不安があった[128]。大槻社長は炭砿がなくなるときは日本のヤマがなくなるときであり、最後まで残るヤマだと[129]訴え、三菱重工業の藤井深造社長らの賛成を得て全員一致[130]となった。分離にあたっては財産を分け、負債をできるだけ軽くして新会社の経営の安定を図った[131][126]

  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)資料編 年表
    • [126]1969年9月に石炭生産部門を分離し、高島鉱業所および鯰田炭砿の営業を三菱高島炭砿に、大夕張鉱業所および南大夕張開発事務所の営業を三菱大夕張炭砿にそれぞれ譲渡した
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 石炭部門の分離・独立
    • [127]石炭部門の分離・独立にからんで、三菱セメントのときと同様に社名に三菱を冠するのが適当かどうかが問題になった
    • [128]三菱を冠するには一定規模の事業であることと将来とも発展していく見込みがあることという厳しい条件があり、石炭会社は将来性に一抹の不安があった
    • [129]大槻文平は金曜会で、私どもの炭砿がなくなるときは日本のヤマがなくなるときであり最後まで残るヤマだと賛成してほしいと発言した
    • [130]金曜会の会長格であった三菱重工業の藤井深造社長も賛意を示し、全員賛成となった
    • [131]分離の際は三菱鉱業から財産を分け負債もできるだけ軽くして少しでも経営の安定をはかるよう配慮した
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 石炭部門の分離・独立
    • [116]1967年には全国一社案、全国三社案、石炭鉱業国有化案など石炭主要各社や社会党からドラスチックな再編論議が起こった
    • [117]1968年2月に石炭鉱業審議会の植村甲午郎会長から石炭協会会長に対しいわゆる植村私案が提示された
    • [118]植村私案は各社石炭部門の鉱区・設備など固定資産を無償で提供させ、それを限度として債務の第二次肩代わりをし、石炭部門を外した第二会社を設立するという内容だった
    • [119]大槻文平は1968年4月に石炭協会会長に就任し、石炭業全体の在り方について業界内の意見をとりまとめ官庁・政界などへの働きかけに奔走した
    • [120]それまで錦の御旗であった年産5000万トン規模を放棄する縮小均衡方針を確認せざるをえず、その線で各方面と折衝した
    • [121]1969年1月に第四次石炭対策が決定され、私企業体制での再建をはかるが事業の継続が困難な企業は勇断をもって進退を決めるべきだという考え方に立っていた
    • [122]大槻文平は石炭産業に対する国家管理的な規制が不可避であるなら、伝統ある三菱鉱業の名を残すために石炭部門を分離しようと結論した
    • [123]分離は第四次対策にある石炭部門と非石炭部門の経理区分の明確化に沿うものでもあった
    • [124]政府の助成を受けている限り配当ができなかったので、石炭部門を分離することで復配の条件を作る狙いもあった
    • [125]それまでにスクラップ・アンド・ビルドをほぼ完了し体力的にもまだ余力のあるこの機会を捉えるのが得策と判断した
    • [127]石炭部門の分離・独立にからんで、三菱セメントのときと同様に社名に三菱を冠するのが適当かどうかが問題になった
    • [128]三菱を冠するには一定規模の事業であることと将来とも発展していく見込みがあることという厳しい条件があり、石炭会社は将来性に一抹の不安があった
    • [129]大槻文平は金曜会で、私どもの炭砿がなくなるときは日本のヤマがなくなるときであり最後まで残るヤマだと賛成してほしいと発言した
    • [130]金曜会の会長格であった三菱重工業の藤井深造社長も賛意を示し、全員賛成となった
    • [131]分離の際は三菱鉱業から財産を分け負債もできるだけ軽くして少しでも経営の安定をはかるよう配慮した
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)資料編 年表
    • [126]1969年9月に石炭生産部門を分離し、高島鉱業所および鯰田炭砿の営業を三菱高島炭砿に、大夕張鉱業所および南大夕張開発事務所の営業を三菱大夕張炭砿にそれぞれ譲渡した

子会社が本体を追い越し、九年ぶりの復配に届く

本体が炭砿を閉じ続けたあいだ、三菱セメントは伸びていた[132]。セメント事業へ参入したタイミングの良さに加え、三菱鉱業の人的資源、三菱というブランド、三菱系各社の協力が支えとなり、技術革新を中心とする合理化を続けて成長[133]した。1963年には西独ポリジウス社のサスペンション・プレヒーター方式を採用した東谷工場を建設[134]した。当時この方式の小規模なキルンは西独で稼働していたものの、大型化できるかどうかは未知数[135]だった。東谷工場の大型キルンが成功したため、以後は増設も黒崎工場の湿式キルンの改造もこの方式で進め、東谷工場の建設開始から約5年で全工場のサスペンション・プレヒーター化をほぼ終えた[136]

  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第2節 三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併
    • [132]三菱セメントは幾多の試練を乗り越えて成長・発展を続けた
    • [133]三菱セメントはセメント事業に進出したタイミングの良さに加え、三菱鉱業の人的資源・三菱のブランドの力・三菱系各社の協力をバックに技術革新を中心とする経営合理化を推し進めて成長した
  • 証券アナリストジャーナル 1978年9月号 三菱鉱業セメント(小林久明社長講演)
    • [134]1963年に西独のポリジウス社のサスペンション・プレヒーター方式を採用した東谷工場を建設した
    • [135]当時西独でこの方式の小規模なキルンは稼動していたが大型化できるかどうかが問題だった
    • [136]東谷工場建設開始後約5年間で全工場のサスペンション・プレヒーター化をほぼ完了した

1968年5月、三菱セメントは豊国セメントの株式を100%保有[137]した。豊国セメントは1918年設立のセメント業界の名門で、1959年に同社の要請で三菱セメントが経営に参加[138]していた会社である。三菱セメントの主導で苅田工場の大拡張計画と、苅田工場と東谷鉱山をベルトコンベヤーで直結する石灰石輸送路計画[139]が実行に移された。1971年1月には豊国セメントが本店事務所を三菱セメント本店内へ移し、本店業務を三菱セメントの各部が処理する体制[140]に変えた。1972年5月には三菱セメントの山中正夫社長が豊国セメント社長を兼務[141]した。

  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第2節 三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併
    • [137]1968年5月に三菱セメントは豊国セメント株式の100%を保有することになった
    • [138]豊国セメントは1918年に設立されたセメント界の名門会社で、1959年に同社の要請により三菱セメントがその経営に参加した
    • [139]三菱セメントのイニシアチブの下に苅田工場の大拡張計画と、苅田工場と三菱セメント東谷鉱山をベルトコンベヤーで直結する石灰石輸送路計画が実施に移された
    • [140]1971年1月に豊国セメントは本店事務所を三菱セメント本店内に移し、本店業務は三菱セメントの本店各部で処理する体制に移行した
    • [141]1972年5月に三菱セメント山中社長は豊国セメント社長を兼務し、両社合併への布石とした

石炭生産部門を切り離した三菱鉱業は、石炭販売と石油製品販売、建材の三部門を柱とする体制[142]になった。新体制にふさわしく組織も簡素になり、業績は期を追って上向いた[143]。1971年3月期には9年ぶりに年6分の復配[144]を行った。三菱セメントとのあいだには業績と配当の面でなお隔たりが残っていたものの、体質改善と復配によって合併への大きな障害は取り除かれた[145]。石炭生産部門の分離を提案した1969年5月の経営協議会で大槻社長は、三菱セメントとの合併は天の声を聞いて対処したい[146]と述べていた。合併問題はここから具体化[147]に向かった。

  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 三菱セメントとの合併
    • [142]石炭部門を分離した三菱鉱業は分離後も担当した石炭販売のほか石油販売および建材を加えた三部門を柱として経営していくことになった
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第2節 三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併
    • [143]三菱鉱業は石炭・石油製品の販売と建材事業を中心とする経営を推し進め、業績も期を追って向上した
    • [144]1971年3月期に9年ぶりの年6分の復配が行われた
    • [145]三菱鉱業と三菱セメントの間には業績および配当の面でなお懸隔があるものの、体質改善と復配により合併に対する大きな障害が取除かれた
    • [146]1969年5月開催の菱職連との経営協議会の席上、大槻社長は三菱セメントとの合併は天の声を聞いて対処したい旨を表明した
    • [147]合併問題はここにようやく具体化の端緒を得た
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第2節 三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併
    • [132]三菱セメントは幾多の試練を乗り越えて成長・発展を続けた
    • [133]三菱セメントはセメント事業に進出したタイミングの良さに加え、三菱鉱業の人的資源・三菱のブランドの力・三菱系各社の協力をバックに技術革新を中心とする経営合理化を推し進めて成長した
    • [137]1968年5月に三菱セメントは豊国セメント株式の100%を保有することになった
    • [138]豊国セメントは1918年に設立されたセメント界の名門会社で、1959年に同社の要請により三菱セメントがその経営に参加した
    • [139]三菱セメントのイニシアチブの下に苅田工場の大拡張計画と、苅田工場と三菱セメント東谷鉱山をベルトコンベヤーで直結する石灰石輸送路計画が実施に移された
    • [140]1971年1月に豊国セメントは本店事務所を三菱セメント本店内に移し、本店業務は三菱セメントの本店各部で処理する体制に移行した
    • [141]1972年5月に三菱セメント山中社長は豊国セメント社長を兼務し、両社合併への布石とした
    • [143]三菱鉱業は石炭・石油製品の販売と建材事業を中心とする経営を推し進め、業績も期を追って向上した
    • [144]1971年3月期に9年ぶりの年6分の復配が行われた
    • [145]三菱鉱業と三菱セメントの間には業績および配当の面でなお懸隔があるものの、体質改善と復配により合併に対する大きな障害が取除かれた
    • [146]1969年5月開催の菱職連との経営協議会の席上、大槻社長は三菱セメントとの合併は天の声を聞いて対処したい旨を表明した
    • [147]合併問題はここにようやく具体化の端緒を得た
  • 証券アナリストジャーナル 1978年9月号 三菱鉱業セメント(小林久明社長講演)
    • [134]1963年に西独のポリジウス社のサスペンション・プレヒーター方式を採用した東谷工場を建設した
    • [135]当時西独でこの方式の小規模なキルンは稼動していたが大型化できるかどうかが問題だった
    • [136]東谷工場建設開始後約5年間で全工場のサスペンション・プレヒーター化をほぼ完了した
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 三菱セメントとの合併
    • [142]石炭部門を分離した三菱鉱業は分離後も担当した石炭販売のほか石油販売および建材を加えた三部門を柱として経営していくことになった

1972年〜 三社合併で総合資源会社を名乗り、四十年ぶりに金属と再び一つになるまで

三菱鉱業セメントの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1972年 大槻文平社長と山中正夫社長による3社合併の条件合意
  2. 1972年 三菱鉱業・三菱セメント・豊国セメント3社による合併覚書の締結
  3. 1973年 三菱セメント・豊国セメントとの3社合併と、三菱鉱業セメントへの商号変更 業績不振の親会社と一緒になって何の得があるか——19年育てた子会社を本体へ吸収する条件を、両社長はどう組んだか
  4. 1973年 東谷鉱山と苅田工場を結ぶ石灰石輸送路の開通
  5. 1973年 三菱大夕張炭砿と三菱高島炭砿の合併による三菱石炭鉱業の発足
  6. 1974年 三菱石炭鉱業による端島鉱の閉山
  7. 1990年 三菱金属との合併と三菱マテリアルの発足

業績較差を増資で埋めた三社合併の設計

三菱セメントを設立した1954年の時点で、経営基盤が固まり三菱鉱業の経営が安定した時には両社を合併するという含み[148]があった。しかし三菱セメントが順調に伸びる一方で三菱鉱業はエネルギー革命の渦中にあり、機はなかなか熟さない[149]。三菱セメントに出向した社員には出されたという意識があり、いまさら業績不振の三菱鉱業と合併して何のメリットがあるかという声[150]も出ていた。復配で障害が消えたところで[151]、大槻社長は三菱セメントの山中社長へ合併を申し入れた。山中氏は2年先輩で、最初は別会社方式とするがいずれ一緒になるという信念を持ち続けた[152]人である。返答は承知した、やりましょうという即答[153]だった。社名も、両社の名を足した三菱鉱業セメントというその場の案[154]で決まった。

  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第2節 三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併
    • [148]三菱セメントの経営基盤が確立し三菱鉱業の経営が安定した時には両社が合併するとの含みが設立当初からあった
    • [149]三菱鉱業がエネルギー革命の厳しい嵐の中で経営の危機と闘っていたため、両社の合併問題は諸般の情勢が熟するのを待つほかなかった
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 三菱セメントとの合併
    • [150]三菱セメントに出向した人たちは内心では出されたという気持ちを持っており、合併の話になれば業績不振の三菱鉱業と合併して何のメリットがあるかという声も聞かれた
    • [151]1971年3月期の復配で合併に対する大きな障害が取り除かれたのち、大槻文平は三菱セメントの山中正夫社長に合併を申し入れた
    • [152]山中正夫は大槻文平の2年先輩でセメント事業進出のときの役員でもあり、最初は別会社方式とするがいずれ一緒になるという信念を持ち続けた
    • [153]大槻文平の合併申し入れに対し山中正夫は承知した、やりましょうと即答した
    • [154]新会社の社名は両社の社名を足した三菱鉱業セメントという大槻文平の案がその場で決まった

1972年7月の会談で両社長が合併の諸条件に最終合意[155]し、8月9日に3社の取締役会の承認を得て覚書が締結[156]された。覚書は、三菱セメントが9月30日を割当日として倍額増資を行うこと[157]、1973年4月1日付で三菱鉱業を存続会社として合併し合併比率を1対1とすること[158]を定めた。あわせて豊国セメントの株式は全額消却すること、新会社の社名を三菱鉱業セメントとし相互保有株式を消却して資本金を125億円とする[159]ことも決めている。最大の問題は三菱鉱業と三菱セメントの業績較差だったが、三菱セメントの倍額増資と両社保有株式の一部消却によって、両社の株主をほぼ対等に遇する[160]ことができた。

  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第2節 三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併
    • [155]大槻・山中両社長は1972年7月の会談で三菱鉱業・三菱セメント・豊国セメント3社を合併させる諸条件に最終合意した
    • [156]1972年8月9日に3社はそれぞれ取締役会を開催し、その承認を得て覚書が締結された
    • [157]覚書は三菱セメントが1972年9月30日を割当日、11月30日を払込期日として倍額増資を行うと定めた
    • [158]覚書は1973年4月1日付で合併し三菱鉱業を存続会社として三菱セメントとの合併比率を1対1とし、豊国セメントの株式は全額消却すると定めた
    • [159]覚書は新会社の社名を三菱鉱業セメントとし、相互に保有する株式を消却して新資本金を125億円とすると定めた
    • [160]合併に当たっての問題の一つは両社の業績較差が大きいことで、三菱セメントの倍額増資と両社保有株式の一部消却により両社株主の立場をほぼ対等に遇し得た

社員人事の一元化も大きな問題[161]だった。3社はそれぞれ労使関係の歴史を持ち、資格制度は三菱鉱業が2職掌2段階、三菱セメントが従業員について2職掌6段階、豊国セメントは事務員・技術員・現業員の3職掌で資格段階を持たない[162]という違いがある。賃金や退職手当にも差[163]があった。会社側は新会社にふさわしい全社一本の職員資格制度を導入し、労働条件は三菱鉱業の職員労働条件を基準に調整[164]する方針を示した。1972年9月から経営協議会の特別委員会で協議を重ね、12月27日に合意が成立[165]した。合併に先立つ1973年1月1日、三菱セメント従業員の三菱鉱業職員への移籍が完了[166]した。

  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第2節 三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併
    • [161]3社合併に当たって社員人事の一元化は最も大きな問題の一つだった
    • [162]3社の一般社員の人事制度は三菱鉱業が事務・技師、書記・技手の2職掌2段階、三菱セメントが従業員について2職掌6段階、豊国セメントが事務員・技術員・現業員の3職掌で資格段階なしと異なっていた
    • [163]賃金・退職手当などの労働条件にも差異があった
    • [164]新会社にふさわしい全社一本の資格制度を導入し、労働条件は三菱鉱業の職員労働条件を基準として調整する方針で一元化を進めた
    • [165]1972年9月22日から経協特別委員会を集中的に開催して協議を重ね、同年12月27日に円満に合意が成立した
    • [166]3社合併に先立つ1973年1月1日に三菱セメント従業員の三菱鉱業職員への移籍が完了し、社員人事の一元化が実現した
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第2節 三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併
    • [148]三菱セメントの経営基盤が確立し三菱鉱業の経営が安定した時には両社が合併するとの含みが設立当初からあった
    • [149]三菱鉱業がエネルギー革命の厳しい嵐の中で経営の危機と闘っていたため、両社の合併問題は諸般の情勢が熟するのを待つほかなかった
    • [155]大槻・山中両社長は1972年7月の会談で三菱鉱業・三菱セメント・豊国セメント3社を合併させる諸条件に最終合意した
    • [156]1972年8月9日に3社はそれぞれ取締役会を開催し、その承認を得て覚書が締結された
    • [157]覚書は三菱セメントが1972年9月30日を割当日、11月30日を払込期日として倍額増資を行うと定めた
    • [158]覚書は1973年4月1日付で合併し三菱鉱業を存続会社として三菱セメントとの合併比率を1対1とし、豊国セメントの株式は全額消却すると定めた
    • [159]覚書は新会社の社名を三菱鉱業セメントとし、相互に保有する株式を消却して新資本金を125億円とすると定めた
    • [160]合併に当たっての問題の一つは両社の業績較差が大きいことで、三菱セメントの倍額増資と両社保有株式の一部消却により両社株主の立場をほぼ対等に遇し得た
    • [161]3社合併に当たって社員人事の一元化は最も大きな問題の一つだった
    • [162]3社の一般社員の人事制度は三菱鉱業が事務・技師、書記・技手の2職掌2段階、三菱セメントが従業員について2職掌6段階、豊国セメントが事務員・技術員・現業員の3職掌で資格段階なしと異なっていた
    • [163]賃金・退職手当などの労働条件にも差異があった
    • [164]新会社にふさわしい全社一本の資格制度を導入し、労働条件は三菱鉱業の職員労働条件を基準として調整する方針で一元化を進めた
    • [165]1972年9月22日から経協特別委員会を集中的に開催して協議を重ね、同年12月27日に円満に合意が成立した
    • [166]3社合併に先立つ1973年1月1日に三菱セメント従業員の三菱鉱業職員への移籍が完了し、社員人事の一元化が実現した
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 三菱セメントとの合併
    • [150]三菱セメントに出向した人たちは内心では出されたという気持ちを持っており、合併の話になれば業績不振の三菱鉱業と合併して何のメリットがあるかという声も聞かれた
    • [151]1971年3月期の復配で合併に対する大きな障害が取り除かれたのち、大槻文平は三菱セメントの山中正夫社長に合併を申し入れた
    • [152]山中正夫は大槻文平の2年先輩でセメント事業進出のときの役員でもあり、最初は別会社方式とするがいずれ一緒になるという信念を持ち続けた
    • [153]大槻文平の合併申し入れに対し山中正夫は承知した、やりましょうと即答した
    • [154]新会社の社名は両社の社名を足した三菱鉱業セメントという大槻文平の案がその場で決まった

石油危機のあとに残ったセメントという主力

1973年4月1日、3社は予定どおり合併し三菱鉱業セメントが発足[167]した。資本金125億円、セメント・石炭・石油・建材の4部門を柱に年間売上高は1000億円を超え、傘下に100社の子会社と関係会社[168]を擁した。会長には山中氏、社長には大槻氏が就いた[169]。翌2日の合併記念式典で大槻社長は、国の内外において三菱グループを代表する総合資源会社を目指すと述べ、技術革新に遅れぬよう研鑽する会社など5項目[170]を全社員に示した。大槻社長は同じ挨拶で、この合併をもともと一つのものが一つになったという当然の成り行き[171]だと述べた。

  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第2節 三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併
    • [167]1973年4月1日に3社は予定どおり合併し三菱鉱業セメント株式会社が発足した
    • [168]新会社は資本金125億円でセメント・石炭・石油・建材の4事業部門を主な柱とし、年間売上高は1000億円を超え傘下に100社に上る子会社・関係会社を擁した
    • [169]新役員として山中正夫が取締役会長、大槻文平が取締役社長に就任した
    • [170]大槻社長は合併記念式典で国の内外において三菱グループを代表する総合資源会社を目指すと述べ、技術革新に遅れぬよう常に研鑽精進する会社など5項目を示した
    • [171]大槻社長は合併記念式典で、もともと1つのものが1つになったということでいわば当然の成行として誕生したと述べた

発足の半年後、1973年10月の中東戦争に端を発した石油危機[172]が経営環境を変えた。石炭側の整理も同じ時期に進んだ。三菱大夕張炭砿は1973年8月20日に大夕張炭砿を閉山し、1927年の開発以来40数年の操業を終えた[173]。同年12月15日には三菱大夕張炭砿と三菱高島炭砿が合併して三菱石炭鉱業[174]となり、1974年1月15日には端島鉱が閉山した。1890年に三菱が操業を継承してから84年、軍艦島の名で知られた島の炭砿である。1974年1月以降は三菱石炭鉱業の産出炭を買取り販売から受託販売へ切り替えたため、三菱鉱業セメントの石炭販売量は計上されなくなった[176][175]

  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第4節 三菱鉱業セメントの現況と展望
    • [172]1973年10月の中東戦争に端を発した石油危機を契機に政府の総需要抑制政策が強化され、経営環境は厳しくなった
    • [173]三菱大夕張炭砿は1973年8月20日に大夕張炭砿を閉山し、1927年に三菱鉱業が新規開発して以来40数年の操業に終止符を打った
    • [174]1973年12月15日に三菱大夕張炭砿と三菱高島炭砿の両社が合併し三菱石炭鉱業として新発足した
    • [175]1974年1月15日に端島鉱は閉山し、1890年に三菱が操業を継承して以来84年にわたり軍艦島の名称で親しまれた炭砿が幕を閉じた
    • [176]1974年1月以降は三菱石炭鉱業の産出炭を従来の買取り販売から受託販売に切り替えたため、三菱鉱業セメントの売上には計上されなくなった

1973年度下期のセメント販売量は475万トンで、業界3位・シェア12.4%[177]に上がった。1977年度は年産930万トン、シェア11.8%[178]である。日本セメントの12.5%、小野田セメントの12.3%に次ぐ位置で、宇部セメント11.2%、住友セメント11.1%[179]が続いた。上位5社が11%台から12%台に並ぶ分散した業界だった。この時期の同社は業界のサスペンション・プレヒーター化率が約65%だったのに対し100%[180]を達成しており、1人当たり生産量は年約1万600トンと業界平均の6200トンを大きく上回っていた[181]。重油消費量も電力消費量も業界平均を下回[182]る。歴史の浅さが強みになったと、小林久明社長は1978年の講演[183]で述べた。

  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第4節 三菱鉱業セメントの現況と展望
    • [177]1973年度下期のセメント販売量は4,751,054トンで業界第3位・シェア12.4%に躍進した
  • 証券アナリストジャーナル 1978年9月号 三菱鉱業セメント(小林久明社長講演)
    • [178]1977年度のセメント生産は年産930万トンで業界シェアは11.8%だった
    • [179]シェアは日本セメント12.5%、小野田セメント12.3%に次ぎ、宇部セメント11.2%、住友セメント11.1%が続く順位だった
    • [180]業界全体のキルンのサスペンション・プレヒーター化率は約65%だったが三菱鉱業セメントは100%だった
    • [181]1人当り生産量は年に約1万600トンと業界平均の約6200トンを大きく上回っていた
    • [182]重油の年間消費量はトン当たり約78で業界平均の86〜87を、電力消費量はトン当たり107〜108kwhで業界平均の120kwh内外をそれぞれ下回った
    • [183]小林久明社長は1978年8月4日の日本証券アナリスト協会企業分析部会の講演で歴史の浅さが今や強味になったと述べた
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第2節 三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併
    • [167]1973年4月1日に3社は予定どおり合併し三菱鉱業セメント株式会社が発足した
    • [168]新会社は資本金125億円でセメント・石炭・石油・建材の4事業部門を主な柱とし、年間売上高は1000億円を超え傘下に100社に上る子会社・関係会社を擁した
    • [169]新役員として山中正夫が取締役会長、大槻文平が取締役社長に就任した
    • [170]大槻社長は合併記念式典で国の内外において三菱グループを代表する総合資源会社を目指すと述べ、技術革新に遅れぬよう常に研鑽精進する会社など5項目を示した
    • [171]大槻社長は合併記念式典で、もともと1つのものが1つになったということでいわば当然の成行として誕生したと述べた
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第4節 三菱鉱業セメントの現況と展望
    • [172]1973年10月の中東戦争に端を発した石油危機を契機に政府の総需要抑制政策が強化され、経営環境は厳しくなった
    • [173]三菱大夕張炭砿は1973年8月20日に大夕張炭砿を閉山し、1927年に三菱鉱業が新規開発して以来40数年の操業に終止符を打った
    • [174]1973年12月15日に三菱大夕張炭砿と三菱高島炭砿の両社が合併し三菱石炭鉱業として新発足した
    • [175]1974年1月15日に端島鉱は閉山し、1890年に三菱が操業を継承して以来84年にわたり軍艦島の名称で親しまれた炭砿が幕を閉じた
    • [176]1974年1月以降は三菱石炭鉱業の産出炭を従来の買取り販売から受託販売に切り替えたため、三菱鉱業セメントの売上には計上されなくなった
    • [177]1973年度下期のセメント販売量は4,751,054トンで業界第3位・シェア12.4%に躍進した
  • 証券アナリストジャーナル 1978年9月号 三菱鉱業セメント(小林久明社長講演)
    • [178]1977年度のセメント生産は年産930万トンで業界シェアは11.8%だった
    • [179]シェアは日本セメント12.5%、小野田セメント12.3%に次ぎ、宇部セメント11.2%、住友セメント11.1%が続く順位だった
    • [180]業界全体のキルンのサスペンション・プレヒーター化率は約65%だったが三菱鉱業セメントは100%だった
    • [181]1人当り生産量は年に約1万600トンと業界平均の約6200トンを大きく上回っていた
    • [182]重油の年間消費量はトン当たり約78で業界平均の86〜87を、電力消費量はトン当たり107〜108kwhで業界平均の120kwh内外をそれぞれ下回った
    • [183]小林久明社長は1978年8月4日の日本証券アナリスト協会企業分析部会の講演で歴史の浅さが今や強味になったと述べた

名門の翳りと、三菱マテリアルへの合流

小林社長は同じ講演で、長期的にはセメント産業もいずれ斜陽化すると考えており、もう一つの支柱になるものをつくらなければならない[184]と述べ、研究部門への人材と資金の投入を挙げた。石炭で経験した斜陽化を、主力となったセメントについても想定していた。実際、単体の売上高は1981年3月期の2465億円を頂点に4期続けて減り、1985年3月期は2161億円[185]まで落ちた。1985年3月期の売上構成はセメントが1135億円で53%、石油製品が662億円で31%、建材が178億円で8%[186]である。セメントに軸を置きながら石油製品が3割を占める構成は、石炭から石油へ転じた前身の姿を残していた。

  • 証券アナリストジャーナル 1978年9月号 三菱鉱業セメント(小林久明社長講演)
    • [184]小林久明社長は長期的にみればセメント産業はいずれ斜陽化すると考えられるとして、もうひとつの経営の支柱になるものをつくらなければならないと述べ研究部門に人材と資金を投入する方針を示した
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5238 三菱鉱業セメント
    • [185]単体売上高は1981年3月期の2465億円がピークで、以後4期連続して減収となり1985年3月期は2161億円だった
    • [186]1985年3月期の売上構成はセメント1135億円53%、石油製品662億円31%、建材178億円8%、その他186億円9%だった

1989年の三菱鉱業セメントは、大卒採用で2年続けて東京大学の学生を採れずにいた[187]。事務系10人・技術系16人という採用規模[188]はそれまでと変わらないものの、技術系の学生集めには苦労し、実績のなかった私立大学からも採り始めていた[189]。藤村正哉社長は学生が抱く同社のイメージを地味・伝統的・安定性と受け止めており[190]、明るい社風や挑戦的といった学生の好むイメージとの違いを認めている。企業イメージの向上には広報が要ると認めながら、藤村社長はやるとすれば一社ではなくセメント業界全体で展開すべきだと考えていた[191]。テレビCMを流しているセメント会社は他になく、採用人数に比べて費用が見合わないという理由[192]である。取締役相談役の大槻氏は当時、臨時行政改革推進審議会の会長を務めていた[193]

  • 日経ビジネス 1989年7月17日号 p19 名門企業を襲う人材飢饉
    • [187]三菱鉱業セメントは1989年時点で2年ばかり続けて東大生の採用がゼロだった
    • [188]1989年春の大卒採用は事務系10人・技術系16人でここ4〜5年とほぼ同じ人数だった
    • [189]技術系の学生の採用に苦労し、採用実績の全くなかった技術系の私立大学からも採り始めた
    • [190]藤村正哉社長によると同社に対して学生が抱くイメージは地味・伝統的・安定性といったものが多く、学生が好む明るい社風・挑戦的という企業イメージとは明確な違いがあった
    • [191]藤村正哉社長は企業PRの重要性を痛感しつつ、やるなら一社ではなくセメント業界全体で広報活動を展開すべきだと考えていた
    • [192]鉄鋼メーカーのようなテレビCMを流しているセメント会社は他になく、採用人数に比べてコストが高くなり割が合わないというのが理由だった
    • [193]大槻文平は1989年時点で三菱鉱業セメント取締役相談役であり臨時行政改革推進審議会の会長を務めていた

1990年12月、三菱鉱業セメントは三菱金属と合併し、三菱マテリアルが発足[194]した。1950年の分割から40年を経て、石炭と金属が再び一つの会社へ戻った[195]。三菱金属は銅や亜鉛の精錬が収益の過半を占め、経常利益が1986年3月期の105億円から翌期に56億円へ半減し、その翌期には119億円へ倍増する[196]など、地金市況と為替に業績が振られていた。需要の安定したセメント事業はその振れを埋め、三菱鉱業セメントの側は非セメント事業を広げられる[197]。合併後の1991年3月期は売上高9012億円、経常利益332億円[198]となった。三菱鉱業として発足してから72年[199]、三菱鉱業セメントの商号はここで消えた。

  • 三菱マテリアル 有価証券報告書【沿革】
    • [194]1990年12月に三菱金属と三菱鉱業セメントが合併し、商号を三菱マテリアルに変更した
    • [199]1918年4月の設立から1990年12月の合併まで72年で、三菱鉱業セメントの商号は消滅した
  • 日経ビジネス 1993年10月18日号 p39 三菱マテリアル「素材の百貨店」が裏目
    • [195]三菱マテリアルは戦後の財閥解体による分離以来40年ぶりに合併を果たした会社だった
  • 日経ビジネス 1991年9月30日号 p38 三菱マテリアル「無機材料の百貨店」への道
    • [196]合併前の三菱金属は銅・亜鉛など非鉄金属の精錬事業が収益の過半を占め、経常利益は1986年3月期の105億円が87年3月期に56億円へ半減し、88年3月期には119億円へ倍増するなど収益の不安定さが目立った
    • [197]三菱鉱業セメントと合併すれば需要の安定したセメント事業で業績の不安定さをカバーでき、三菱鉱業セメントも合併で非セメント事業が拡大するという両社の課題を解決し合う合併だった
    • [198]三菱マテリアルの1991年3月期の業績は売上高9012億円、経常利益332億円だった
  • 証券アナリストジャーナル 1978年9月号 三菱鉱業セメント(小林久明社長講演)
    • [184]小林久明社長は長期的にみればセメント産業はいずれ斜陽化すると考えられるとして、もうひとつの経営の支柱になるものをつくらなければならないと述べ研究部門に人材と資金を投入する方針を示した
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5238 三菱鉱業セメント
    • [185]単体売上高は1981年3月期の2465億円がピークで、以後4期連続して減収となり1985年3月期は2161億円だった
    • [186]1985年3月期の売上構成はセメント1135億円53%、石油製品662億円31%、建材178億円8%、その他186億円9%だった
  • 日経ビジネス 1989年7月17日号 p19 名門企業を襲う人材飢饉
    • [187]三菱鉱業セメントは1989年時点で2年ばかり続けて東大生の採用がゼロだった
    • [188]1989年春の大卒採用は事務系10人・技術系16人でここ4〜5年とほぼ同じ人数だった
    • [189]技術系の学生の採用に苦労し、採用実績の全くなかった技術系の私立大学からも採り始めた
    • [190]藤村正哉社長によると同社に対して学生が抱くイメージは地味・伝統的・安定性といったものが多く、学生が好む明るい社風・挑戦的という企業イメージとは明確な違いがあった
    • [191]藤村正哉社長は企業PRの重要性を痛感しつつ、やるなら一社ではなくセメント業界全体で広報活動を展開すべきだと考えていた
    • [192]鉄鋼メーカーのようなテレビCMを流しているセメント会社は他になく、採用人数に比べてコストが高くなり割が合わないというのが理由だった
    • [193]大槻文平は1989年時点で三菱鉱業セメント取締役相談役であり臨時行政改革推進審議会の会長を務めていた
  • 三菱マテリアル 有価証券報告書【沿革】
    • [194]1990年12月に三菱金属と三菱鉱業セメントが合併し、商号を三菱マテリアルに変更した
    • [199]1918年4月の設立から1990年12月の合併まで72年で、三菱鉱業セメントの商号は消滅した
  • 日経ビジネス 1993年10月18日号 p39 三菱マテリアル「素材の百貨店」が裏目
    • [195]三菱マテリアルは戦後の財閥解体による分離以来40年ぶりに合併を果たした会社だった
  • 日経ビジネス 1991年9月30日号 p38 三菱マテリアル「無機材料の百貨店」への道
    • [196]合併前の三菱金属は銅・亜鉛など非鉄金属の精錬事業が収益の過半を占め、経常利益は1986年3月期の105億円が87年3月期に56億円へ半減し、88年3月期には119億円へ倍増するなど収益の不安定さが目立った
    • [197]三菱鉱業セメントと合併すれば需要の安定したセメント事業で業績の不安定さをカバーでき、三菱鉱業セメントも合併で非セメント事業が拡大するという両社の課題を解決し合う合併だった
    • [198]三菱マテリアルの1991年3月期の業績は売上高9012億円、経常利益332億円だった

三菱鉱業セメントの沿革1918〜1990年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
三菱合資の鉱山部と炭坑部を継承し資本金5000万円で設立★★★
11炭坑・14鉱山・製煉所2か所を含む29事業所での営業開始★★
岩崎小彌太氏の第2代取締役会長への就任
資本金1億円への倍額増資と分系会社で初の株式公開★★★
東京株式取引所への株式上場★★
九州炭砿汽船の合併による資本金2億370万円への増加★★
会社経理応急措置法にもとづく特別経理会社への指定★★
公職追放令の適用拡大による小村千太郎社長ら5名の退任★★
過度経済力集中排除法による石炭部門と金属部門への2分割★★★
金属部門を継承した太平鉱業の分離と高木作太氏の社長就任★★
高木作太社長の提唱による調査部の設置と多角化の検討開始★★★
4000人におよぶ人員整理の提案★★
石炭に代わる事業としてのセメント選定と、三菱系各社共同出資による三菱セメントの設立直営か、別会社か——石炭不況下の資金と労務が、参入の形をどう決めたか 詳細を読む★★★
日産500トンのキルン2基で年産34万トンとする事業計画の立案
三菱セメントの発起人会と小堀音治氏の初代社長就任
三菱系各社の共同出資による三菱セメントの設立(資本金6億円)★★★
筑豊五山と勝田の合理化を皮切りとする炭砿整理の開始★★
石炭鉱業合理化臨時措置法の公布にともなう調査部の再設置★★
崎戸製塩の設立
大夕張メタノール工場建設事務所の設置
東北砂鉄鋼業の買収と北海道砂鉄鋼業の設立
大手会社の閉山第1号となる油戸炭砿の閉山と石炭鉱業整備事業団への売山★★
筑豊機械製作所の設立
チリのアタカマ鉄鉱山の開発開始
飯塚炭砿の閉山
東京証券取引所第二部への上場
上山田炭砿の閉山
方城炭砿の閉山
三菱セメント東谷工場第1号キルンの火入れとサスペンション・プレヒーター方式の採用★★
勝田炭砿の閉山
新入炭砿の閉山
西島直己氏の後任としての大槻文平氏の社長就任★★
芦別炭砿の閉山
美唄炭砿の第二会社への分離
南大夕張開発事務所の設置と新鉱開発工事の着手★★
東谷工場の建設開始から約5年での全工場サスペンション・プレヒーター化★★
茶志内炭砿の閉山
古賀山炭砿の閉山
崎戸炭砿の閉山
大槻文平社長の石炭協会会長への就任★★
三菱セメントによる豊国セメント全株式の取得★★
三菱セメント横瀬工場第1号キルンへの火入れ
東京証券取引所第一部への上場
石炭生産部門の分離と、三菱高島炭砿・三菱大夕張炭砿の設立国家管理をともなう全国再編か、自力での分離か——大槻文平社長は創業以来の石炭部門をどう切り離したか 詳細を読む★★★
三菱高島炭砿・三菱大夕張炭砿の営業開始と本店機構の改廃★★
1株の額面金額の500円から50円への変更
三菱高島炭砿による鯰田炭砿の閉山
三菱大夕張炭砿の南大夕張炭砿での営業出炭開始
9年ぶりとなる年6分の復配★★★
三菱セメント中央研究所の横瀬への設置
三菱大夕張炭砿による美唄炭砿の閉山
大槻文平社長と山中正夫社長による3社合併の条件合意★★
三菱鉱業・三菱セメント・豊国セメント3社による合併覚書の締結★★
3社の取締役会承認を経た合併契約書への調印
職員資格制度の一本化と三菱セメント従業員の移籍完了
三菱セメント・豊国セメントとの3社合併と、三菱鉱業セメントへの商号変更業績不振の親会社と一緒になって何の得があるか——19年育てた子会社を本体へ吸収する条件を、両社長はどう組んだか 詳細を読む★★★
山中正夫氏の会長就任と大槻文平氏の社長就任
東谷鉱山と苅田工場を結ぶ石灰石輸送路の開通★★
三菱大夕張炭砿による大夕張炭砿の閉山
三菱大夕張炭砿と三菱高島炭砿の合併による三菱石炭鉱業の発足★★
三菱石炭鉱業による端島鉱の閉山★★
資本金の175億円への増加
第1回物上担保付転換社債65億円の発行
セメント年産930万トン・シェア11.8%で業界3位★★
売上高2465億円の記録と以後4期連続の減収★★
セメント53%・石油製品31%・建材8%・その他9%の売上構成
三菱金属との合併と三菱マテリアルの発足★★★
出典・参考
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第1章第1節 三菱鉱業株式会社の設立
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第2章第9節 設立より終戦までの概況
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第1章第2節 自売方式への転換
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第3章第1節 占領政策と三菱鉱業の再建
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第2節 三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 大企業の分割相つぐ
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第3章第2節 石炭復興政策と三菱鉱業
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 二社分割後、私は取締役に
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)資料編 年表
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 セメント部門へ進出
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 炭砿の相つぐ閉山
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第5章第1節 三菱セメントの設立
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 企業整備に追われる
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 石炭部門の分離・独立
  • 証券アナリストジャーナル 1978年9月号 三菱鉱業セメント(小林久明社長講演)
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 三菱セメントとの合併
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第4節 三菱鉱業セメントの現況と展望
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5238 三菱鉱業セメント
  • 日経ビジネス 1989年7月17日号 p19 名門企業を襲う人材飢饉
  • 三菱マテリアル 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1993年10月18日号 p39 三菱マテリアル「素材の百貨店」が裏目
  • 日経ビジネス 1991年9月30日号 p38 三菱マテリアル「無機材料の百貨店」への道

免責事項およびポリシー