{"spec_version":"3","endpoint":"history","stock_code":"5238","company_name":"三菱鉱業セメント","content_lang":"ja","meta_lang":"en","canonical_url":"https://the-shashi.com/tse/5238/","api_url":"/api/5238/history.json","updated":"2026-08-05","license":"© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.","attribution":"The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/5238/","title":"三菱鉱業セメントの歴史概略","sections":[{"start_year":1918,"end_year":1950,"main_title":"三菱合資の鉱山部と炭坑部を継いで発足し、財閥解体で石炭だけが残るまで","subsections":[{"title":"分系会社のなかで最初に株式を公開した会社","text":"三菱鉱業は1918年4月、三菱合資が鉱山部・炭坑部および鉱業研究所の営業一切を継承する形で発足した。発起人は岩崎久彌氏・岩崎小彌太氏・荘清次郎氏ら7名で、4月10日に総株式100万株を引き受け、15日の創立総会を経て19日に設立登記を終えた。1株の金額は50円、資本金は5000万円である。三菱合資へ支払った譲渡対価は41,815,490円62銭だった。社史が別に掲げる純財産額は41,216,659円62銭で、差額には九州炭砿汽船株式の評価額などが含まれると推定されている。初代の取締役会長には、三菱合資の管事だった木村久壽彌太氏が就任した。分系会社では社長という呼称が三菱合資の岩崎小彌太社長を指したため、各社の代表者は会長と称した。\n\n発足時の事業所は、高島・鯰田・上山田・新入・方城・美唄・大夕張など11の炭坑と、吉岡・尾去沢・佐渡・生野・明延など14の鉱山、大阪と直島の両製煉所、鉱業研究所、牧山骸炭製造所を合わせて29か所におよんだ。本店には総務・会計・調査・商務・用度・採鉱・採炭・機械・電気・土木の10課が置かれた。三菱合資の鉱山部が4課、炭坑部が3課だったことと比べると、継承と同時に組織が拡充された。1920年10月には炭砿の経営管理を強めるため鉱業所制を採り、新入・鯰田・方城・上山田の筑豊4炭坑を筑豊鉱業所にまとめた。石炭と金属という二つの鉱業を一つの会社が抱える形は、以後30年あまり続いた。\n\n1920年1月、木村会長が三菱合資の総理事に就任したのに伴い、岩崎小彌太氏が第2代会長となった。同年3月の臨時株主総会で資本金を5000万円から1億円へ倍額増資し、これに合わせて三菱の分系会社としては初めて株式を公開した。三菱合資は自社が持つ旧株40万株を1株100円で縁故者へ売り出し、新株の一部は本社と分系会社の従業員へ1株12円50銭で分譲した。増資は北海道への進出に加え、朝鮮と樺太での事業拡張に必要な資金を賄うためだった。岩崎小彌太会長は株式公開を三菱のコンツェルン化に伴う当然の帰結と説明し、他人の資本と従業員を事業へ参加させる意味を与えた。株式は翌1921年5月2日に東京株式取引所へ上場された。公開は他の分系会社へも波及するとみられたが、実際には1934年の三菱重工業株40万株の公開まで行われなかった。","references":[{"title":"三菱鉱業社史（三菱鉱業セメント、1976年）第2編第1章第1節 三菱鉱業株式会社の設立","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱鉱業社史（三菱鉱業セメント、1976年）第2編第2章第9節 設立より終戦までの概況","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱鉱業社史（三菱鉱業セメント、1976年）第2編第3章第1節 占領政策と三菱鉱業の再建","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の三菱昭和史（大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年）第3章 戦後の混乱の中で","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史：明治百年（1968年）3編 企業の歴史 p28 三菱鉱業","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"会長制のもとで外地へ広がり、敗戦で失ったもの","text":"岩崎小彌太会長は1924年5月に退任し、三谷一二氏が第3代会長として12年間その座にあった。1936年5月には河手捨二氏が第4代会長に就いた。分系会社が一律に採ってきた会長制は、1941年2月に三菱重工業が取締役社長の制度を設けたことで崩れ、三菱鉱業も同年11月に本社の承認を得て会長の下に社長を置いた。初代社長は小村千太郎氏である。翌1942年5月、河手会長の任期満了を機に会長制そのものを廃止し、小村社長が代表取締役となった。社業が多岐にわたり国内経済機構が複雑化したため代表取締役陣を強化する、というのが定時株主総会での説明だった。\n\n満州事変を境に外地への進出が活発になり、三菱鉱業は朝鮮・中国・満州・南方に多数の事業所を持つに至った。1940年9月には九州炭砿汽船を合併し、資本金は2億370万円に増えた。国内の炭砿・鉱山・製煉所と海外の事業場を併せ持つ、指折りの規模の会社だった。しかし1945年の敗戦により、朝鮮・中国・満州・南方に置いた海外の事業所はすべて失われた。後年に社長となる大槻文平氏は、戦争前の三菱鉱業を国の興隆に貢献した大会社と述べたうえで、敗戦で数多い海外の全事業所を失ったと合併記念式典の挨拶で振り返った。","references":[{"title":"三菱鉱業社史（三菱鉱業セメント、1976年）第2編第1章第1節 三菱鉱業株式会社の設立","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱鉱業社史（三菱鉱業セメント、1976年）第2編第2章第9節 設立より終戦までの概況","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱鉱業社史（三菱鉱業セメント、1976年）第2編第3章第1節 占領政策と三菱鉱業の再建","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の三菱昭和史（大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年）第3章 戦後の混乱の中で","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史：明治百年（1968年）3編 企業の歴史 p28 三菱鉱業","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"二分割で金属を手放し、石炭だけの会社になる","text":"敗戦の翌1946年4月に持株整理委員会令が施行された。同委員会は、財閥解体の対象となった制限会社のなかから該当する会社を持株会社に指定し、解散を含む整理や分割を指令する機関である。三菱財閥の有力企業はいずれも持株会社に指定された。三菱鉱業も同年8月、会社経理応急措置法にもとづく特別経理会社の指定を受けた。同年12月には公職追放令の適用が拡大され、小村社長と4人の常務が同時に追放された。残った役員のなかから総務部長だった羽仁路之氏が社長に就任した。1947年12月には過度経済力集中排除法が施行され、非財閥系を含む巨大会社の再編成が進められた。\n\n三菱重工業は3分割の指令を受け、三菱商事にいたっては解散を命じられた。三菱鉱業でも分割指令を見越して社内でいくつもの案が検討され、非公式にはGHQの反トラスト課から7分割案も伝えられていた。一時は炭砿・鉱山・金属加工の3分割やむなしという方針に傾いたこともある。最終的に決まったのは石炭と金属の二分割で、1950年4月、石炭部門を残す三菱鉱業が存続会社となり、金属部門は太平鉱業として分離した。太平鉱業は後に三菱金属鉱業と商号を変え、1973年10月に三菱金属となる。羽仁社長は太平鉱業の社長へ移り、三菱鉱業の社長には資材部長だった高木作太氏が就任した。\n\n分割によって三菱鉱業が失ったものは大きかった。戦前からの歴史を見ても、石炭は10年ごとに起こる戦争で一時の利益を上げることはあっても長続きせず、収益はむしろ金属によって支えられていたからである。その金属部門が切り離された以上、石炭に代わるものがない限り経営の安定は望めなかった。1950年6月に始まった朝鮮戦争の特需は石炭ブームをもたらし、1951年度の全国出炭量は4650万トンと戦後最高を記録した。当時のヤマの暮らしは他産業に比べて恵まれており、賃金水準は高く、社宅の家賃は安く、学校も病院も備わっていた。しかしブームは長続きせず反動不況が訪れ、石炭は以後の長い斜陽の時代に入った。","references":[{"title":"三菱鉱業社史（三菱鉱業セメント、1976年）第2編第1章第1節 三菱鉱業株式会社の設立","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱鉱業社史（三菱鉱業セメント、1976年）第2編第2章第9節 設立より終戦までの概況","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱鉱業社史（三菱鉱業セメント、1976年）第2編第3章第1節 占領政策と三菱鉱業の再建","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の三菱昭和史（大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年）第3章 戦後の混乱の中で","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史：明治百年（1968年）3編 企業の歴史 p28 三菱鉱業","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1950,"end_year":1955,"main_title":"石炭に代わる事業を探した末に別会社方式でセメントへ踏み出すまで","subsections":[{"title":"高炭価問題と四千人におよぶ人員整理","text":"1949年末ごろから鉄鋼業界を中心に高炭価をめぐる議論が出ていた。ところが一般産業界が反動不況に陥っていたときも石炭は売り手市場だったため、石炭各社は原料炭を中心にさらに値上げへ踏み切り、みずから高炭価問題を促した。加えて労働側は会社側が提案した賃金据え置きに反対して大幅な賃上げを求め、政府の緊急調整が発動されるまで63日におよぶ長期ストライキに入った。この争議はユーザー側に石炭供給への不安を与え、高炭価と相まって重油への転換を速めた。エネルギー革命は、需要家の側から石炭産業へ押し寄せてきた。\n\n石炭各社は増産体制を見直し、出炭制限と合理化に取り組まざるをえなくなった。三菱鉱業は1953年7月、4000人におよぶ人員整理を提案した。当時九州事務所長だった大槻氏がこの合理化を担当した。炭砿には九州各地から集まった独身者が多く、郷里へ戻って農業に従事できたことから深刻な失業問題にはならなかったが、それだけでは必要な数に足りず家族持ちも対象とせざるをえなかった。そこで社内に職業部を新設し、大阪や名古屋まで出張して就職の斡旋にあたった。三井鉱山が指名解雇で臨んだのに対し、三菱鉱業は希望退職で対応した。","references":[{"title":"私の三菱昭和史（大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年）第3章 二社分割後、私は取締役に","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の三菱昭和史（大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年）第7章 セメント部門へ進出","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の三菱昭和史（大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年）第7章 企業整備に追われる","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱鉱業社史（三菱鉱業セメント、1976年）第3編第5章第1節 三菱セメントの設立","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史 2篇（1955年）日本会社史 26_セメント p393 三菱セメント","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"肥料も海運も退けてセメントが残った理由","text":"人員整理に現れたように石炭の前途が暗くなったとき、石炭に代わる事業を探す検討が社内で始まった。1952年1月4日の本店年始交歓会の席上、高木作太社長が調査・企画部門の新設を提唱し、これにもとづいて2月1日に調査部が設置された。調査部が候補として並べたのは肥料・海運・ガス・コークス・セメントである。比較検討の結果、三菱グループ各社と競合しないこと、保有する技術を応用できること、将来の需要増が見込めること、そして石炭の安定した需要先になることの四つを理由に、セメント事業がもっとも有望との結論になった。\n\n役員会でセメント進出がすんなり決まったわけではない。大槻氏と同時に取締役となった石田三朝氏は、日本セメントに勤める親戚がセメント事業は決して有望ではないと日ごろ話していたと述べ、強い慎重論を唱えた。経済復興とともに需要が増えるとしても、まったく新規に大きな設備投資を行い、日本セメントと小野田セメントという既存の大手と競わなければならず、その不安は役員のあいだで共有されていた。それでも石炭だけで食える見通しがない以上はセメントに賭けるほかなく、役員会は最終的に進出を承認した。セメント事業への参入を会社の方針として決めたのは、1953年7月のことである。","references":[{"title":"私の三菱昭和史（大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年）第3章 二社分割後、私は取締役に","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の三菱昭和史（大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年）第7章 セメント部門へ進出","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の三菱昭和史（大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年）第7章 企業整備に追われる","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱鉱業社史（三菱鉱業セメント、1976年）第3編第5章第1節 三菱セメントの設立","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史 2篇（1955年）日本会社史 26_セメント p393 三菱セメント","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"直営を避け、三菱系二十社の共同出資会社にした判断","text":"もう一つの論点は、セメント事業を三菱鉱業が直営するか別会社に委ねるかだった。ここでも意見は分かれたが、三つの理由から別会社方式が有利との結論に達した。第一に、工場建設に当面10数億円を要するのに対し、石炭不況下の三菱鉱業には独力で調達する力がなく、新会社なら資金調達の道が開けて危険の分散にもなる。第二に、一事業部門とすれば頻繁にストライキを行っていた炭労傘下の組合が生まれる可能性があり、新しい管理方式の導入が難しくなる。第三に、黒崎地区では三菱化成工業や旭硝子と密接な関係を生じるうえ、旭硝子自身がセメント進出計画を持っていた。\n\n1953年8月10日、三菱鉱業はセメント事業計画を進めるため企画部を新設し、調査部を廃止した。企画部長には山中正夫調査部長が就き、調査部員は全員が移った。工場用地は当初、同年4月に解散した日本アルミニウムの黒崎工場施設を包括的に譲り受けて転用する方針だった。ところが敷地は三菱化成の黒崎工場に隣接する借地で、返却時にはさら地とする契約になっていた。三菱化成は自社工場の拡張用地に予定しており、セメント工場からのダスト飛来も嫌って難色を示す。代替地として提示された洞海湾埋立地のC部は道路も港湾も鉄道も白紙の状態だったが、企画部が地盤の支持力から工期・工事費まで調べたうえで、三菱鉱業はC部への変更に踏み切った。\n\n新会社の社名は難航した。三菱鉱業の首脳は三菱セメントを望んだが、岩崎家は当初から三菱の社名を冠することに難色を示し、社内には黒崎セメントという案も出た。企画部は販売上どうしても三菱の名が要ると進言し、首脳部は三菱電機の高杉社長、三菱地所の石黒会長、三菱銀行の千金良頭取に対し、社名の可否が新会社の興廃を分けると訴えた。社長会である金曜会は、三菱系各社の出資協力で設立される会社であるとして冠称を認めた。資本金は当初3億円の計画から6億円に引き上げられ、1954年2月1日に三菱セメントが成立した。出資比率は三菱鉱業が51.8%、明治生命が10%、三菱化成工業と旭硝子が各8%である。初代社長には三菱鉱業副社長の小堀音治氏が現職のまま就いた。","references":[{"title":"私の三菱昭和史（大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年）第3章 二社分割後、私は取締役に","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の三菱昭和史（大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年）第7章 セメント部門へ進出","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の三菱昭和史（大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年）第7章 企業整備に追われる","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱鉱業社史（三菱鉱業セメント、1976年）第3編第5章第1節 三菱セメントの設立","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史 2篇（1955年）日本会社史 26_セメント p393 三菱セメント","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1955,"end_year":1971,"main_title":"炭砿を一つずつ閉じ、社名を残すために石炭生産部門を切り離すまで","subsections":[{"title":"十四あった炭砿が七つになるまでの合理化","text":"1955年8月、政府はそれまでの石炭合理化政策を集大成した石炭鉱業合理化臨時措置法を公布した。施行は9月1日である。石炭鉱業整備事業団による非能率炭砿の買上げ、坑口開設許可制、標準炭価制度による炭価引き下げ指導、出炭制限の共同行為が柱である。同時に重油ボイラー設置制限法によって重油の輸入と使用を抑える保護策もとられた。三菱鉱業は同年8月に調査部を再び設置し、石炭に関係する新規事業と海外事業の調査に当たらせた。ここから1950年代後半にかけて、崎戸製塩、大夕張メタノール工場、東北砂鉄の買収、筑豊機械製作所の設立、チリのアタカマ鉄鉱石開発が順に具体化した。\n\n1956年秋のスエズ動乱で中東原油が入らず重油と輸入炭が値上がりすると、炭砿は久しぶりに活気づいた。だが1956年以降の増産気運と炭主油従の政策は、結果として石炭産業の合理化を遅らせ、構造的な危機をかえって尖鋭にした。神武景気が終わると貯炭が急増し、スエズ動乱の短期終息で海上運賃も下がって重油が値下がりした。1959年10月、石炭協会は1963年度までに1958年度比でトン当たり800円の炭価引き下げを掲げたが、石炭鉱業審議会は1200円の引き下げを答申した。差額400円のうち250円は政府の近代化助成と減税で、150円は流通経費の合理化で埋めることで折り合った。\n\n不採算のヤマのスクラップ化は避けられなくなった。三菱鉱業は1955年の筑豊五山と勝田の合理化を皮切りに、油戸、飯塚、上山田、方城、勝田、新入、芦別と閉山を重ねた。1963年11月に西島直己社長の後を受けて大槻氏が社長に就いた時点で、炭砿の数は7となり、合理化が始まった1953年の半分に減っていた。従業員数も1万人と3分の1以下である。それでも1964年度の出炭量は424万トンで、1953年度に比べて1割の減少にとどまった。閉山と並行して優良炭砿へ投資を集中させた効果が現れていた。大槻社長は就任後、南大夕張の新砿開発に着手した。当時は新しく石炭のヤマを開発する企業がなく、日本開発銀行の平田敬一郎総裁からも止めたほうがよいと忠告された。着工は1966年秋、営業出炭は1970年8月で、最新鋭の機械設備と保安設備を備えた坑内は日本一のヤマと呼ばれた。","references":[{"title":"私の三菱昭和史（大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年）第7章 企業整備に追われる","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の三菱昭和史（大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年）第7章 炭砿の相つぐ閉山","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の三菱昭和史（大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年）第7章 石炭部門の分離・独立","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱鉱業社史（三菱鉱業セメント、1976年）第3編第6章第2節 三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1978年9月号 三菱鉱業セメント（小林久明社長講演）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"石炭協会会長として縮小均衡をまとめた社長の判断","text":"数次の石炭対策でも効果は上がらず、1967年には全国一社案、全国三社案、石炭鉱業国有化案といった再編論が主要各社や社会党から出た。1968年2月には石炭鉱業審議会の植村甲午郎会長から、各社の石炭部門の固定資産を無償で提供させ、それを限度に債務の第二次肩代わりを行って石炭部門を外した第二会社を設立するという私案が示された。大槻氏は同年4月に石炭協会会長へ就任し、業界の意見をまとめて官庁や政界との折衝にあたった。錦の御旗であった年産5000万トン規模の放棄を確認せざるをえず、縮小均衡の方針で各方面と交渉した。\n\n1969年1月に決まった第四次石炭対策は、私企業体制での再建を前提としつつ、なお事業の継続が困難な企業は勇断をもって進退を決めるべきだという考えに立っていた。大槻社長はここで、石炭産業に国家管理的な規制が避けられないのなら伝統ある三菱鉱業の名を残すために石炭部門を分離する、という結論に達した。第四次対策が石炭部門と非石炭部門の経理区分の明確化を求めていたことにも沿っていた。政府の助成を受けている限り配当ができなかったため、分離は復配の条件をつくる意味も持つ。スクラップ・アンド・ビルドをほぼ終え、体力に余力があるこの機会を捉えるのが得策と判断された。\n\n1969年9月、三菱鉱業は石炭生産部門を分離した。九州地区の高島鉱業所と鯰田炭砿は三菱高島炭砿へ、北海道地区の大夕張鉱業所と南大夕張開発事務所は三菱大夕張炭砿へ譲渡された。ここでも三菱を社名に冠せるかが問題になった。金曜会が冠称に求める条件は一定規模の事業であることと将来も発展する見込みがあることで、石炭会社は後者に不安があった。大槻社長は炭砿がなくなるときは日本のヤマがなくなるときであり、最後まで残るヤマだと訴え、三菱重工業の藤井深造社長らの賛成を得て全員一致となった。分離にあたっては財産を分け、負債をできるだけ軽くして新会社の経営の安定を図った。","references":[{"title":"私の三菱昭和史（大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年）第7章 企業整備に追われる","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の三菱昭和史（大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年）第7章 炭砿の相つぐ閉山","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の三菱昭和史（大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年）第7章 石炭部門の分離・独立","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱鉱業社史（三菱鉱業セメント、1976年）第3編第6章第2節 三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1978年9月号 三菱鉱業セメント（小林久明社長講演）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"子会社が本体を追い越し、九年ぶりの復配に届く","text":"本体が炭砿を閉じ続けたあいだ、三菱セメントは伸びていた。セメント事業へ参入したタイミングの良さに加え、三菱鉱業の人的資源、三菱というブランド、三菱系各社の協力が支えとなり、技術革新を中心とする合理化を続けて成長した。1963年には西独ポリジウス社のサスペンション・プレヒーター方式を採用した東谷工場を建設した。当時この方式の小規模なキルンは西独で稼働していたものの、大型化できるかどうかは未知数だった。東谷工場の大型キルンが成功したため、以後は増設も黒崎工場の湿式キルンの改造もこの方式で進め、東谷工場の建設開始から約5年で全工場のサスペンション・プレヒーター化をほぼ終えた。\n\n1968年5月、三菱セメントは豊国セメントの株式を100%保有した。豊国セメントは1918年設立のセメント業界の名門で、1959年に同社の要請で三菱セメントが経営に参加していた会社である。三菱セメントの主導で苅田工場の大拡張計画と、苅田工場と東谷鉱山をベルトコンベヤーで直結する石灰石輸送路計画が実行に移された。1971年1月には豊国セメントが本店事務所を三菱セメント本店内へ移し、本店業務を三菱セメントの各部が処理する体制に変えた。1972年5月には三菱セメントの山中正夫社長が豊国セメント社長を兼務した。\n\n石炭生産部門を切り離した三菱鉱業は、石炭販売と石油製品販売、建材の三部門を柱とする体制になった。新体制にふさわしく組織も簡素になり、業績は期を追って上向いた。1971年3月期には9年ぶりに年6分の復配を行った。三菱セメントとのあいだには業績と配当の面でなお隔たりが残っていたものの、体質改善と復配によって合併への大きな障害は取り除かれた。石炭生産部門の分離を提案した1969年5月の経営協議会で大槻社長は、三菱セメントとの合併は天の声を聞いて対処したいと述べていた。合併問題はここから具体化に向かった。","references":[{"title":"私の三菱昭和史（大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年）第7章 企業整備に追われる","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の三菱昭和史（大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年）第7章 炭砿の相つぐ閉山","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の三菱昭和史（大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年）第7章 石炭部門の分離・独立","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱鉱業社史（三菱鉱業セメント、1976年）第3編第6章第2節 三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1978年9月号 三菱鉱業セメント（小林久明社長講演）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1972,"end_year":1990,"main_title":"三社合併で総合資源会社を名乗り、四十年ぶりに金属と再び一つになるまで","subsections":[{"title":"業績較差を増資で埋めた三社合併の設計","text":"三菱セメントを設立した1954年の時点で、経営基盤が固まり三菱鉱業の経営が安定した時には両社を合併するという含みがあった。しかし三菱セメントが順調に伸びる一方で三菱鉱業はエネルギー革命の渦中にあり、機はなかなか熟さない。三菱セメントに出向した社員には出されたという意識があり、いまさら業績不振の三菱鉱業と合併して何のメリットがあるかという声も出ていた。復配で障害が消えたところで、大槻社長は三菱セメントの山中社長へ合併を申し入れた。山中氏は2年先輩で、最初は別会社方式とするがいずれ一緒になるという信念を持ち続けた人である。返答は承知した、やりましょうという即答だった。社名も、両社の名を足した三菱鉱業セメントというその場の案で決まった。\n\n1972年7月の会談で両社長が合併の諸条件に最終合意し、8月9日に3社の取締役会の承認を得て覚書が締結された。覚書は、三菱セメントが9月30日を割当日として倍額増資を行うこと、1973年4月1日付で三菱鉱業を存続会社として合併し合併比率を1対1とすることを定めた。あわせて豊国セメントの株式は全額消却すること、新会社の社名を三菱鉱業セメントとし相互保有株式を消却して資本金を125億円とすることも決めている。最大の問題は三菱鉱業と三菱セメントの業績較差だったが、三菱セメントの倍額増資と両社保有株式の一部消却によって、両社の株主をほぼ対等に遇することができた。\n\n社員人事の一元化も大きな問題だった。3社はそれぞれ労使関係の歴史を持ち、資格制度は三菱鉱業が2職掌2段階、三菱セメントが従業員について2職掌6段階、豊国セメントは事務員・技術員・現業員の3職掌で資格段階を持たないという違いがある。賃金や退職手当にも差があった。会社側は新会社にふさわしい全社一本の職員資格制度を導入し、労働条件は三菱鉱業の職員労働条件を基準に調整する方針を示した。1972年9月から経営協議会の特別委員会で協議を重ね、12月27日に合意が成立した。合併に先立つ1973年1月1日、三菱セメント従業員の三菱鉱業職員への移籍が完了した。","references":[{"title":"三菱鉱業社史（三菱鉱業セメント、1976年）第3編第6章第2節 三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱鉱業社史（三菱鉱業セメント、1976年）第3編第6章第4節 三菱鉱業セメントの現況と展望","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の三菱昭和史（大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年）第7章 三菱セメントとの合併","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1978年9月号 三菱鉱業セメント（小林久明社長講演）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社年鑑 1986年版（日本経済新聞社、1985年）5238 三菱鉱業セメント","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1989年7月17日号 p19 名門企業を襲う人材飢饉","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年9月30日号 p38 三菱マテリアル「無機材料の百貨店」への道","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"石油危機のあとに残ったセメントという主力","text":"1973年4月1日、3社は予定どおり合併し三菱鉱業セメントが発足した。資本金125億円、セメント・石炭・石油・建材の4部門を柱に年間売上高は1000億円を超え、傘下に100社の子会社と関係会社を擁した。会長には山中氏、社長には大槻氏が就いた。翌2日の合併記念式典で大槻社長は、国の内外において三菱グループを代表する総合資源会社を目指すと述べ、技術革新に遅れぬよう研鑽する会社など5項目を全社員に示した。大槻社長は同じ挨拶で、この合併をもともと一つのものが一つになったという当然の成り行きだと述べた。\n\n発足の半年後、1973年10月の中東戦争に端を発した石油危機が経営環境を変えた。石炭側の整理も同じ時期に進んだ。三菱大夕張炭砿は1973年8月20日に大夕張炭砿を閉山し、1927年の開発以来40数年の操業を終えた。同年12月15日には三菱大夕張炭砿と三菱高島炭砿が合併して三菱石炭鉱業となり、1974年1月15日には端島鉱が閉山した。1890年に三菱が操業を継承してから84年、軍艦島の名で知られた島の炭砿である。1974年1月以降は三菱石炭鉱業の産出炭を買取り販売から受託販売へ切り替えたため、三菱鉱業セメントの石炭販売量は計上されなくなった。\n\n1973年度下期のセメント販売量は475万トンで、業界3位・シェア12.4%に上がった。1977年度は年産930万トン、シェア11.8%である。日本セメントの12.5%、小野田セメントの12.3%に次ぐ位置で、宇部セメント11.2%、住友セメント11.1%が続いた。上位5社が11%台から12%台に並ぶ分散した業界だった。この時期の同社は業界のサスペンション・プレヒーター化率が約65%だったのに対し100%を達成しており、1人当たり生産量は年約1万600トンと業界平均の6200トンを大きく上回っていた。重油消費量も電力消費量も業界平均を下回る。歴史の浅さが強みになったと、小林久明社長は1978年の講演で述べた。","references":[{"title":"三菱鉱業社史（三菱鉱業セメント、1976年）第3編第6章第2節 三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱鉱業社史（三菱鉱業セメント、1976年）第3編第6章第4節 三菱鉱業セメントの現況と展望","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の三菱昭和史（大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年）第7章 三菱セメントとの合併","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1978年9月号 三菱鉱業セメント（小林久明社長講演）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社年鑑 1986年版（日本経済新聞社、1985年）5238 三菱鉱業セメント","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1989年7月17日号 p19 名門企業を襲う人材飢饉","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年9月30日号 p38 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三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱鉱業社史（三菱鉱業セメント、1976年）第3編第6章第4節 三菱鉱業セメントの現況と展望","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の三菱昭和史（大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年）第7章 三菱セメントとの合併","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1978年9月号 三菱鉱業セメント（小林久明社長講演）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社年鑑 1986年版（日本経済新聞社、1985年）5238 三菱鉱業セメント","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1989年7月17日号 p19 名門企業を襲う人材飢饉","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年9月30日号 p38 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