三菱鉱業セメント三菱セメント・豊国セメントとの3社合併と、三菱鉱業セメントへの商号変更

業績不振の親会社と一緒になって何の得があるか——19年育てた子会社を本体へ吸収する条件を、両社長はどう組んだか

時期 1972年8月
意思決定者(推定) 大槻文平(三菱鉱業 社長)・山中正夫 三菱セメント 社長
論点 子会社セメント事業の本体吸収と業績較差の調整
概要
1972年8月9日に覚書を締結し、1973年4月1日に三菱鉱業・三菱セメント・豊国セメントの3社が合併した経営判断。三菱鉱業を存続会社とし、同日付で商号を三菱鉱業セメントへ変更した。子会社として19年育てたセメント事業を本体へ吸収し、資本金125億円、セメント・石炭・石油・建材の4部門を持つ会社となった。
背景
1954年の三菱セメント設立時から、同社の経営基盤が固まり三菱鉱業の経営が安定した時には合併するという含みが置かれていた。しかし三菱セメントが伸びる一方で三菱鉱業はエネルギー革命の苦境にあり、機が熟さなかった。1971年3月期に三菱鉱業が9年ぶりの復配に漕ぎつけ、合併への大きな障害が取り除かれた。
内容
覚書は、三菱セメントの倍額増資、三菱鉱業を存続会社とする合併比率1対1、豊国セメント株式の全額消却、新資本金125億円を定めた。両社の業績較差は増資と相互保有株式の消却で処理し、3社でばらばらだった資格制度は労使協議を経て1973年1月1日に一本化した。
含意
発足半年後の1973年10月に石油危機が起きたが、初年度下期のセメント販売量は475万トンとなり、業界3位・シェア12.4%へ進んだ。大槻文平社長は新会社を「三菱グループを代表する総合資源会社」と位置づけ、5項目の指針を全社員に示した。
筆者の見解

19年越しの申し合わせが、会談一回で決着した意味

この合併を一回の会談で決めさせたのは、両社長が同じ約束を19年持ち越していたことである。山中社長は三菱鉱業のセメント事業進出時の役員で、「最初は別会社方式とするが、いずれ一緒になる」という考えを持ち続けていた。その確信があったからこそ、社内に「業績不振の三菱鉱業と合併して何のメリットがあるか」という声を抱えたまま、条件を探り合わずに「承知した。やりましょう」と応じられた。1954年に置かれた含みは、1971年3月期の復配で条件が整うと、そのまま履行された。

ただ、その場で決まったのは合意であって、合併そのものではない。業績較差は倍額増資と株式消却で数字のうえは埋まったものの、2職掌2段階・2職掌6段階・3職掌という3社ばらばらの資格制度を一本化する作業には、1972年8月から12月までの労使協議を要した。そして発足の半年後には石油危機が来た。セメント販売量は1974年度に前年を下回り、「総合資源会社」を掲げた新会社は、合併の効果を確かめる前に需要停滞への対応へ回った。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

別会社として出発したセメント事業と、開いた業績の差

三菱鉱業がセメント事業を子会社の形で始めたのは1954年で、その時点で、三菱セメントの経営基盤が固まり三菱鉱業の経営が安定した時には両社を合併させるという含みが置かれていた。ただし1960年代の両社は対照的な道を歩んだ。三菱セメントは技術革新を中心とする合理化を重ね、明治期創業の各社が占めるセメント業界で上位3社に迫るまで伸びた。三菱鉱業はエネルギー革命で需要を失い、閉山と人員整理に追われ、合併は情勢が熟すのを待つほかなかった[1][2]

反対の理由は感情ではなく損得にあった。三菱セメントは三菱鉱業から送り込まれた人員で回っており、出向した社員には内心「出された」という意識が残っていた。合併の話が出れば「やっとここまで苦労してセメント事業を育て、小野田に肉薄できるまでになった。それをいまさら業績不振の三菱鉱業と合併して何のメリットがあるか。単独のままでいいではないか」という声が上がった。育てた側が沈んだ側を引き受ける形になる以上、大槻文平氏はこの声を無視して強行できなかった[3]

1971年3月期の復配と、豊国セメントの一体化

合併への障害は1971年3月期に消えた。三菱鉱業は石炭と石油製品の販売、建材の3部門を中心とする経営に移り、業績を期ごとに回復させて、この期に9年ぶりとなる年6分の復配に漕ぎつけた。三菱セメントとの間には業績でも配当でもなお差が残っていたものの、体質改善と復配によって、合併を阻んでいた最大の条件が取り除かれた。大槻氏も後年、この復配をもって大きな障害が消えたと振り返っている[4][5]

もう一方の当事者である豊国セメントは、1918年設立のセメント界の名門で、1959年に同社の要請を受けて三菱セメントが経営へ参加した。1968年5月に三菱セメントが株式の100%を保有し、1971年1月には豊国セメントが本店事務所を三菱セメント本店内へ移して、本店業務を三菱セメントの各部で処理する体制に改めた。生産と営業でも人事交流と業務提携が進み、1972年5月には三菱セメントの山中正夫社長が豊国セメント社長を兼務した[6][7]

決断

1972年7月、申し入れと即答

1972年7月、大槻社長は三菱セメントの山中社長に合併を申し入れ、「承知した。やりましょう」という即答を得た。この速さを生んだのは、相手が三菱鉱業のセメント事業進出時の役員で、「最初は別会社方式とするが、いずれ一緒になる」という考えを持ち続けてきた人物だったことにある。山中氏は大槻氏の2年先輩にあたり、互いによく知った仲であったから、条件を探り合う段階をそもそも必要としなかった[8]

社内に不満がくすぶる案件で、普通なら「役員会にかけた上で」と含みを残す。山中氏はそうした条件を一言も口にせず、大槻氏が問うた新会社の社名についても、両社の名を足す案をその場で了承した。交渉の材料になり得たものを自ら手放した形になる。社名まで決まったことで、以後に残るのは条件の詰めだけになった。両社長は合意を社内へ持ち帰り、1972年8月の取締役会で承認を得た[9]

覚書が埋めた業績較差

合意にもとづき、1972年8月9日、三菱鉱業・三菱セメント・豊国セメントの3社はそれぞれ取締役会を開いて覚書を締結した。覚書は、三菱セメントが同年9月30日を割当日、11月30日を払込期日として倍額増資を行うこと、1973年4月1日付で3社が合併し、三菱鉱業を存続会社として合併比率を1対1とすること、豊国セメント株式を全額消却すること、新社名を三菱鉱業セメントとし新資本金を125億円とすることの4点を定めた[10]

最大の難所は、三菱鉱業と三菱セメントの業績較差が大きいことにあった。覚書はこれを、三菱セメントの倍額増資と、三菱鉱業が持つ三菱セメント株式の全額および三菱セメントが持つ三菱鉱業株式の一部の消却という二段の操作で処理した。増資で三菱セメント株主の持ち分を厚くし、相互保有分を消すことで、両社の株主をほぼ対等に遇し得る形にした。合併契約書は1972年9月21日に締結され、11月末の株主総会で3社の承認を得た[11][12]

結果

三つの資格制度を一本にしてからの発足

合併の実務では、社員人事の一元化が最も大きな問題の一つになった。3社の資格制度はそれぞれ異なり、三菱鉱業は事務・技師と書記・技手の2職掌2段階、三菱セメントは自社従業員について2職掌6段階、豊国セメントは事務員・技術員・現業員の3職掌で資格段階を持たなかった。賃金や退職手当にも差があった。会社側は新会社にふさわしい全社一本の資格制度を導入し、従来の資格を考慮しながら格付けし直す方針をとった[13]

三菱鉱業は1972年8月28日に職員組合の連合体である菱職連との臨時中央経営協議会へ合併を付議し、9月22日から特別委員会で新しい人事制度を協議して12月27日に合意した。三菱セメントの労使協議も11月27日に決着し、合併に先立つ1973年1月1日、三菱セメント従業員の三菱鉱業職員への移籍が完了した。3社は予定どおり1973年4月1日に合併し、資本金125億円の三菱鉱業セメントが発足した[14][15]

「総合資源会社」を掲げた半年後の石油危機

発足翌日の1973年4月2日、本店で開かれた合併記念式典で大槻社長は、新会社を資本金125億円、セメント・石炭・石油・建材の4事業部門を持ち、年間売上高1,000億円を超え、子会社・関係会社100社を傘下に置く「三菱グループを代表する総合資源会社」と位置づけた。あわせて、技術革新への研鑽、事務刷新と精鋭主義、誠実勤勉の美風、上下左右のコミュニケーション、未来を見詰めることの5項目を、目指すべき目標として全社員に示した[16][17]

発足時の日本経済は過熱気味の景気にあったが、1973年10月の石油危機を境に、政府の総需要抑制策のもとでスタグフレーションへ転じた。それでも初年度の売上高は上期608億円、下期747億円と伸び、セメント販売量は下期に475万トンへ達して業界3位、シェア12.4%へ進んだ。需要停滞が効いたのは翌1974年度で、販売量は上期410万トン、下期417万トンへ落ちた[18][19][20]

出典・参考
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第2節 三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第4節 三菱鉱業セメントの現況と展望
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 三菱セメントとの合併

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