この合併を一回の会談で決めさせたのは、両社が同じ約束を19年持ち越していたことである。1954年の三菱セメント設立時に、同社の経営基盤が固まり三菱鉱業の経営が安定した時には合併するという含みが置かれており、別会社方式はその含みを前提とした暫定の形であった。条件を探り合う交渉を経ずに1972年8月9日の覚書へ進めたのは、この前提が両社で共有されていたためだとみられる。三菱セメントが伸びる一方で三菱鉱業がエネルギー革命の苦境にあるあいだ機は熟さず、1954年に置かれた含みは、1971年3月期の9年ぶりの復配で条件が整うと、そのまま履行された。
ただ、その場で決まったのは合意であって、合併そのものではない。業績較差は倍額増資と株式消却で数字のうえは埋まったものの、2職掌2段階・2職掌6段階・3職掌という3社ばらばらの資格制度を一本化する作業には、1972年8月から12月までの労使協議を要した。そして発足の半年後には石油危機が来た。セメント販売量は1974年度に前年を下回り、"総合資源会社"を掲げた新会社は、合併の効果を確かめる前に需要停滞への対応へ回った。