1988年の合併を、リサーチとITを組み合わせた先見的な統合とだけ読むのは、後からの筋書きに寄せすぎるとみられる。合併の時点で一つになったのは、顧客が野村證券グループと金融機関で重なるだけの、文化も人材も異なる二つの会社であった。紙の報告書を売る組織と計算機の時間を売る組織を同じ法人へ収めても、両者がかみ合う保証はどこにもない。実際、研究員と技術者を統合するには時間がかかり、一社で一貫して引き受ける体制が固まるのは、合併から数年を経た後のことであった。
もっとも、この合併が独自の位置を生んだのは、統合したこと自体よりも、野村コンピュータシステムが先に共同利用型システムという金融ITの基盤を構築していたからだと推察される。調査で見つけた課題を、その基盤の上で自ら実装できたからこそ、報告書だけでも計算機時間だけでも届かない領域を一社で引き受けられた。二つの会社を一つにした1988年の判断は、派手な多角化ではなく、すでにグループ内に別々にあった機能を接続する動きであった。その地味な接続が、後の収益構造を支える骨格になったと思われる。