175店という店舗数が、1981年の三井銀行の条件をそのまま表していた。第一銀行を分離した戦後からの差を自力の出店で埋めるには地価が高くなりすぎており、規模の小ささはグループ内での融資シェア9.8%という位置にまで及んでいた。太陽神戸銀行との合併は、店舗と資金量の不足を一度に埋める、当時としては数少ない現実的な手段であったのだろう。合併転換法以降の再編の流れも、大蔵官僚出身の松下康雄氏と末松謙一氏の旧知の関係も、決断を早める条件として重なっていた。
ただ、合併で得た600店近い店舗網は、そのまま収益には変わらなかった。1991年3月期の業務純益987億円は都銀上位6行で最低にとどまり、営業経費は資金量のほぼ等しい第一勧業銀行を1000億円近く上回った。誤算は事業の見立てよりも、対等合併という約束の履行にあっただろう。賃金は高いほうの旧三井へ揃え、本部長は4人ずつ分け、重複する90前後の店舗は一度に削れない。量を取る判断と、量を利益に変える作業は、別の難しさを抱えていた。