さくら銀行太陽神戸銀行との対等合併と、さくら銀行への商号変更
量を先に取るか、収益力を先に立て直すか——中位にとどまった三井銀行は、なぜ規模の合併を選んだか
- 概要
- 1990年4月1日、三井銀行が太陽神戸銀行と対等合併し、太陽神戸三井銀行が発足した。行員数2万4000人、店舗は600店近くを数え、預金量で国内最大級の銀行が生まれた。三井銀行側の主導者は末松謙一社長で、合併行は1992年4月にさくら銀行へ商号を変更した。
- 背景
- 三井銀行の店舗数は1981年3月で175店にとどまり、太陽神戸銀行や第一勧業銀行のおよそ半分であった。三井グループ各社の総借入額に占めるシェアも9.8%と、三菱の11.8%・住友の12.8%を下回っていた。戦後に帝国銀行から第一銀行が分離して以来の規模の差が、そのまま残っていた。
- 内容
- 8本部制をとり、本部長8人を旧太陽神戸4人・旧三井4人で分けた。等級は1級・2級・3級に一本化し、合同役員室と本部長協議会を置いた。松下康雄会長は「世界のトップクラスの銀行になる」という目標を掲げ、地価高騰で新規出店が難しいなかで600店近い支店網を得た意義を強調した。
- 含意
- 対等の原則は人事と組織の細部まで貫かれた一方、重複店舗は90前後残り、勘定系システムを富士通へ統一するまで首都圏の店舗統合は棚上げされた。1991年3月期の業務純益987億円は都銀上位6行で最低で、量の獲得が収益へ届くまでには時間がかかった。
量を取る判断と、量を利益に変える作業
175店という店舗数が、1981年の三井銀行の条件をそのまま表していた。第一銀行を分離した戦後からの差を自力の出店で埋めるには地価が高くなりすぎており、規模の小ささはグループ内での融資シェア9.8%という位置にまで及んでいた。太陽神戸銀行との合併は、店舗と資金量の不足を一度に埋める、当時としては数少ない現実的な手段であったとみられる。合併転換法以降の再編の流れも、大蔵官僚出身の松下康雄氏と末松謙一氏の旧知の関係も、決断を早める条件として重なっていた。
ただ、手に入れた600店近い店舗網は、そのまま収益には変わらなかった。1991年3月期の業務純益987億円は都銀上位6行で最低にとどまり、営業経費は資金量のほぼ等しい第一勧業銀行を1000億円近く上回った。誤算は事業の見立てよりも、対等合併という約束の履行にあったとみることができる。賃金は高いほうの旧三井へ揃え、本部長は4人ずつ分け、重複する90前後の店舗は一度に削れない。量を取る判断と、量を利益に変える作業は、別の難しさを抱えていた。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
三井グループでいちばん小さい銀行
三井銀行の非力さは、数字にはっきり出ていた。1981年3月の店舗数は175店で、太陽神戸銀行や第一勧業銀行のおよそ半分、同じ旧財閥系の各行と比べても40店ほど少なかった。三井グループ各社の総借入額に占める三井銀行のシェアは9.8%で、三菱の11.8%、住友の12.8%を下回っていた。系列の中心にいるはずのグループのなかでさえ、資金供給の主役とは言いにくい位置にあった[1]。
この差の始まりは戦後にさかのぼる。戦時中に第一銀行と合併して帝国銀行となり、戦後にその第一銀行が分離した。日経ビジネスは、三井銀行のハンディキャップレースが「戦後の帝国銀行時代、第一銀行を分離した時にスタートした」と書いている。草場敏郎副社長は「せめてあと40店あれば住友とだって対等にやれるのだが」と語った。もっとも、小山五郎会長は店舗不足・資金不足に原因を求める見方を退け、非力さの原因は「自分の方からあきらめてしまう甘さ、ひ弱さ」にあると述べている[2][3]。
合併転換法が開いた再編の流れ
銀行の合併は、1980年代に突然始まったものではない。1968年6月、金融効率化を掲げる大蔵省のもとで金融機関の合併及び転換に関する法律が制定され、同年12月には日本相互銀行が普通銀行の太陽銀行へ転換した。相互銀行から一挙に都市銀行へ移る動きであった。1971年10月1日には第一銀行と日本勧業銀行が対等合併して第一勧業銀行が生まれ、1973年10月1日には神戸銀行と太陽銀行が合併して太陽神戸銀行が発足した[4]。
ただし、大銀行同士の合併がすべて成立したわけではない。1969年元旦、読売新聞が三菱銀行と第一銀行の合併構想を報道したが、この構想は実らなかった。第一銀行会長の井上薫氏が、戦中の三井銀行との合併銀行である帝国銀行時代の苦い経験から、事実上の吸収合併になるとして強く反対したためである。合併の可否を分けたのは規模の計算よりも、対等でありうるかという当事者の確信であった。三井銀行にとっては、自らの過去が他行の合併を止めた例でもあった[5]。
決断
「量がなければ質もない」
1989年夏、三井銀行と太陽神戸銀行は合併を決めた。三井側のねらいは明快であった。当時の社長であった末松謙一氏の認識は「量がなければ質もない」というもので、資金量の少なさゆえに三井グループ内で軽んじられてきた歴史を一挙に挽回することが目的であった、と週刊東洋経済はのちに書いている。合併は、大企業取引の三井と、個人・中小企業取引の太陽神戸が補い合うという見立てのもとで行われた。カネ集めは太陽神戸、融資は三井という役割分担である[6]。
決定の報を、三井銀行名誉会長の小山五郎氏は「大願成就」と呼び、「これで本当に僕の仕事は終わったという感じだ」と語った。80歳での述懐であった。両行の距離を縮めたのは、トップ同士の個人的な関係でもある。三井銀行は三菱、住友という他の財閥系銀行に比べてグループ内での位置がそう高くなく、合併に動きやすい環境にあった。加えて、大蔵官僚だった太陽神戸の松下康雄頭取と三井の末松謙一社長との古くからの関係が、ものをいったと日本産業史は記している[7][8]。
対等を細部まで通した設計
1990年4月1日、太陽神戸三井銀行が発足した。行員数は2万4000人で、第一勧業銀行より5000人多い。役員は66人、店舗は600店近くを数えた。組織は8本部制をとり、本部長8人を旧太陽神戸4人・旧三井4人で分けた。給与等級は1級・2級・3級の3段階に一本化し、合同役員室と本部長協議会を置いた。対等合併という約束を、人事と組織の細部まで通した設計であった[9]。
松下康雄会長は、合併の成否は目標が明確かどうかで決まるとし、「世界のトップクラスの銀行になる」という疑問の余地のない目標があったから順調な合併を実現できた、と語った。店舗については、地価の高騰で銀行の新規出店が難しくなっていたと述べ、「一挙に600店近い支店網をもつ意義は大きい」と続けた。自力では買えなくなった立地を、合併なら一度に手に入れられる。バブルの終わり際に間に合ったという感覚もあり、「嵐の兆しの中で、合併を終えられた」とも述べている[10][11]。
結果
重なった店舗と、動かせないシステム
合併で手に入れた600店近い店舗網は、そのまま重荷にもなった。1991年9月末の国内店舗は本支店510・出張所84の合計594で、東京都231、兵庫県123と旧両行の地盤が重なっていた。同業の店舗開発担当者がみるところ、地域的に重複する店舗は「90くらいある」。第1次の店舗統合は1991年9月末に終わったが、1年半をかけて36店を18店にまとめただけで、第2次は1993年3月をめどに約40店が対象とされた。四谷支店と新宿御苑前支店のように、30メートルしか離れていない組み合わせも残っていた[12]。
統合が進まない理由は、意思よりも技術の側にあった。勘定系システムは旧三井がIBM、旧太陽神戸が富士通で、富士通への統一が決まっていた。旧三井店の移行が完了する1992年10月までは、店舗の多い首都圏の統合が棚上げされた。システム統合の事務量は、1973年の太陽と神戸の合併時の10倍にのぼった。統合した店舗では支店長の下に旧両行出身の副支店長を各1人置き、2年ごとに支店長の出身行を交代させた。対等の原則は、日々の運営にも及んでいた[13]。
統合の遅さは、裏返せば後戻りのできなさでもあった。旧太陽銀行と旧神戸銀行の合併について、業界関係者は「表看板だけ一緒で内部は全く別々の銀行だった」と評している。同じ道をたどらないために店舗を一つずつ束ねた結果、合併から8年を経た1998年には、統合した店舗が100を超えたため店舗群を元の母体銀行に分けられず、もう離婚は不可能だという認識が行内で共有されるにいたった[14][15]。
数字に出た後れと、平仮名の行名
規模は取れても、収益はついてこなかった。1991年3月期の業務純益は987億円で、都銀上位6行のなかで最低であった。国内総資金利ざやは0.09%にとどまり、住友銀行の0.65%との開きは大きい。営業経費は4581億円で、資金量がほぼ同じ第一勧業銀行の3602億円を1000億円近く上回った。うち人件費は2381億円で、賃金水準を高いほうの旧三井に合わせたことも一因とされた。1991年3月末のBIS自己資本比率は7.3%と、都市銀行で唯一8%を下回った[16]。
末松謙一頭取は統合の基準について、「新銀行のために役に立つか立たないか、いいか悪いかを唯一の基準として考えていく」と述べた。それでも旧両行の均衡を崩す作業は速まらず、日経ビジネスの記事は、対等の原則を崩してでも店舗の統廃合を断行し再配置を急がなければ、ボリュームだけのトップバンクという状況が続きかねないと結んでいる。1992年4月、行名はさくら銀行へ変わった。いかめしい名称が並んでいた業界に平仮名の行名が現れたことは、銀行が消費者、預金者を重視する時代に入ったしるしと受け取られた[17][18]。
- 日経ビジネス 1981年6月1日号「三井銀行 脱坊っちゃん銀行へ意識大革命」
- 日経ビジネス 1989年10月9日号「中興の祖は語る」
- 日経ビジネス 1990年4月9日号「編集長インタビュー 松下康雄(太陽神戸三井銀行会長)」
- 日経ビジネス 1991年10月21日号「太陽神戸三井銀行 難航する店舗統合」
- 週刊東洋経済 1998年7月25日号「さくら銀行はどこへ行く」
- 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-銀行再編成の時代」
- 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」