1873年〜 第一国立銀行と日本勧業銀行——二つの国策銀行が別々に負った役割
- 1873年第一国立銀行が開業し、渋沢栄一が総監役に就く
- 1896年国立銀行としての営業満期に伴い、普通銀行の第一銀行として再発足
- 1897年日本勧業銀行法に基づき日本勧業銀行が設立される
- 1902年第一銀行が韓国で中央銀行の役割を担う
- 1921年日本勧業銀行が全国の農工銀行の合併に着手する
- 1927年第一銀行が東海銀行を、1931年に古河銀行を合併し五大銀行の一角を占める
- 1943年国家的要請により三井銀行と対等合併し、帝国銀行が発足
渋沢栄一と第一国立銀行——制度は米国式、経営は英国式
1873年6月、資本金244万円で第一国立銀行が設立された。前年11月に公布された国立銀行条例に基づくわが国最初の銀行で、条例を立案したのは大蔵省の官吏だった渋沢栄一氏である。「国立」といっても国有でも官庁でもなく、条例に基づく銀行という意味にすぎない。資本金の大半は旧幕時代からの両替商である三井組と小野組が出したうえで、双方の代表が頭取に、渋沢栄一氏が総監役に就いた。制度の下敷きを米国のナショナル・バンクに求めたのは大蔵少輔の伊藤博文氏で、英国式の中央銀行設立を説く吉田清成氏と激しく対立したすえ、大蔵大輔の井上馨氏の裁断で伊藤案が採られている。 [1][2][3]
- [1]第一国立銀行は1873年6月11日に資本金244万円で設立された、国立銀行条例による日本最初の銀行である
- [2]国立銀行条例を立案したのは大蔵省の渋沢栄一で、第一国立銀行の総監役に就いた
- [3]制度を米国式にしたのは伊藤博文の進言で、英国式を説く吉田清成と対立したすえ井上馨の裁断で伊藤案が採られた
制度は米国から借りたが、経営の理念は英国から入った。政府が招いた英国人銀行家のアラン・シャンドは、銀行簿記の実務だけでなく、短期資金の取り扱いを重んじる健全経営の原則を教えている。第一国立銀行はその指導を受けて帳簿と事務の組織を一つずつ整え、後年150を超える国立銀行と多数の私立銀行が生まれる際、そこで体系化された様式が手本になった。他行の行員が机を並べて業務を見習う出向研修の慣行は昭和初期まで残り、1929年に入行した井上薫氏も、自行に第一銀行の行員でない者が混じって同じ仕事をしていたと回想している。 [4][5]
- [4]政府が招いた英国人アラン・シャンドが銀行簿記と英国式サウンド・バンキング(健全経営)の原則を指導した
- [5]第一国立銀行で体系化された帳簿組織と事務組織が後発銀行の手本となり、他行員の出向研修が昭和初期まで続いた
1882年の日本銀行設立で国立銀行は紙幣発行権を失い、第一国立銀行も1896年9月に営業満期を迎えて、資本金450万円の普通銀行「第一銀行」として新発足した。以後は商工業の金融に専念し、1901年の金融恐慌では商工業者の救済にあたって、かえって預金を増やしている。海外では国立銀行時代の釜山支店を足がかりに韓国各地へ店舗を広げ、1909年に韓国銀行が設立されるまで、同地で中央銀行の役割を担った。昭和期には1927年に東海銀行を、1931年に古河銀行を合併して20余の支店を加え、五大銀行の一角を占めるに至った。 [6][7][8]
- [6]1896年9月に国立銀行としての営業満期を迎え、資本金450万円の普通銀行・第一銀行として新発足した
- [7]釜山支店を起点に韓国各地へ店舗を広げ、1909年に韓国銀行が設立されるまで韓国における中央銀行の役割を果たした
- [8]1927年に東海銀行、1931年に古河銀行を合併して20余の支店を加え、五大銀行の一角となった
- [1]第一国立銀行は1873年6月11日に資本金244万円で設立された、国立銀行条例による日本最初の銀行である
- [6]1896年9月に国立銀行としての営業満期を迎え、資本金450万円の普通銀行・第一銀行として新発足した
- [7]釜山支店を起点に韓国各地へ店舗を広げ、1909年に韓国銀行が設立されるまで韓国における中央銀行の役割を果たした
- [8]1927年に東海銀行、1931年に古河銀行を合併して20余の支店を加え、五大銀行の一角となった
- [2]国立銀行条例を立案したのは大蔵省の渋沢栄一で、第一国立銀行の総監役に就いた
- [5]第一国立銀行で体系化された帳簿組織と事務組織が後発銀行の手本となり、他行員の出向研修が昭和初期まで続いた
- [3]制度を米国式にしたのは伊藤博文の進言で、英国式を説く吉田清成と対立したすえ井上馨の裁断で伊藤案が採られた
- [4]政府が招いた英国人アラン・シャンドが銀行簿記と英国式サウンド・バンキング(健全経営)の原則を指導した
農工業に長期低利の資金を——日本勧業銀行という別の設計
もう一方の源流である日本勧業銀行は、商業銀行とは正反対の設計で生まれている。1897年6月、日本勧業銀行法に基づき資本金1000万円(4分の1払込)で設立された特殊銀行で、構想そのものは1881年にさかのぼり、単行法の公布は前年4月であった。設立の趣旨は農工業の改良発達に置かれ、不動産を担保に、あるいは無抵当で、長期低利の資金を供給することを役割とした。資金は預金ではなく勧業債券で集めた。1910年からは預金業務も始めているが、当初は総額と運用の方法に制限のある付随業務にとどまっている。短期資金を商工業に回す第一銀行とは、集め方も貸し方も異なっていた。 [9][10]
- [9]日本勧業銀行は1897年6月7日、日本勧業銀行法に基づき資本金1000万円(4分の1払込)で設立された
- [10]設立趣旨は農工業の改良発達で、不動産担保または無抵当で長期低利の資金を供給し、資金は債券で集めた
業務の幅は法改正のたびに広がった。1905年の工場抵当法で工場財団への融資の道が開け、これが企業担保金融の始まりとなる。1906年には東北の凶作救済を機に、大蔵省預金部の資金を貸し出す機関という役割も加わった。1911年には融資の目的制限が撤廃されて農工業だけの銀行から一般の不動産銀行へと性格が変わり、都市の住宅建設や中小商工業の資金需要にも応じられるようになった。そして1921年から1944年にかけて全国の農工銀行46店を合併し、全国に支店を持つ唯一の不動産銀行となる。この店舗網は、半世紀後に第一勧業銀行が受け継ぐ最大の資産になった。 [11][12]
- [11]1905年の工場抵当法で工場財団への融資が可能になり、これが同行の企業担保金融の始まりとなった
- [12]1921年から1944年にかけて全国の農工銀行46店を合併し、全国に支店を持つ唯一の不動産銀行となった
- [9]日本勧業銀行は1897年6月7日、日本勧業銀行法に基づき資本金1000万円(4分の1払込)で設立された
- [10]設立趣旨は農工業の改良発達で、不動産担保または無抵当で長期低利の資金を供給し、資金は債券で集めた
- [11]1905年の工場抵当法で工場財団への融資が可能になり、これが同行の企業担保金融の始まりとなった
- [12]1921年から1944年にかけて全国の農工銀行46店を合併し、全国に支店を持つ唯一の不動産銀行となった
帝国銀行——戦時下の対等合併が残したもの
1943年4月、国家的要請により第一銀行は三井銀行と対等合併し、資本金2億円の帝国銀行が発足した。相手の三井銀行は1876年に開業したわが国最初の私立銀行で、前身の三井両替店は1683年にさかのぼる。第一と三井は明治の初めに第一国立銀行の設立で手を組み、その後は五大銀行として並び立ってきた二行であった。新銀行は旧第一銀行本店を本店とし、会長には明石照男氏が就いている。翌1944年8月には十五銀行も合併して資本金2億2000万円となり、わが国最大の普通銀行として金融界と産業界に指導的な地位を占めた。渋沢栄一氏が最初の一行を開いてから70年、規模では頂点に立った。 [13][14]
- [13]1943年4月、第一銀行は三井銀行と対等合併して帝国銀行を設立し、旧第一銀行本店を本店として明石照男が会長に就いた
- [14]翌1944年8月に十五銀行を合併し、わが国最大の普通銀行となった
だが、規模と融和は別の話であった。旧第一系の行員には、人事の扱いをめぐる不満が合併の当初から残る。井上薫氏は、人事政策に根ざす不満と合併の効率に対する不満が行内にくすぶっていたと書き残している。支店長の数では三井出身者が旧第一出身者を上回るようになり、それも不満の種になった。戦時下の統合そのものは、当時の要請としては筋が通っていた。狂ったのは人事の配分で、対等の名を掲げながら均衡を欠いたことが、旧第一系の行員に記憶として残る。1948年の分離運動も、1971年の合併交渉も、この記憶を出発点にしている。 [15]
- [15]井上薫は帝国銀行時代に人事政策に根ざす不満と合併効率への不満が行内にくすぶっていたと記し、後年の合併判断の根拠とした
- [13]1943年4月、第一銀行は三井銀行と対等合併して帝国銀行を設立し、旧第一銀行本店を本店として明石照男が会長に就いた
- [14]翌1944年8月に十五銀行を合併し、わが国最大の普通銀行となった
- [15]井上薫は帝国銀行時代に人事政策に根ざす不満と合併効率への不満が行内にくすぶっていたと記し、後年の合併判断の根拠とした