第一勧業銀行総会屋関係先への融資と大蔵省検査時の隠蔽、経営陣の総退陣と総務部の廃止

本業の融資として12年続いた特別扱いを、なぜ行内のだれも止められなかったのか

時期 1997年6月
意思決定者(推定) 近藤克彦(頭取)・杉田力之 頭取
論点 総会屋との取引と組織の作り直し
概要
1997年、第一勧業銀行が総会屋への利益供与に問われ、役員40名のうち21名が退任した経営判断。1985年3月に総務部を窓口として始まった融資は延べ69回・総額275億円に達し、二度の大蔵省検査の前には残高を圧縮する工作が行われていた。6月10日、杉田力之常務を新頭取とする首脳の総入れ替えを発表した。
背景
融資の窓口は営業でも審査でもなく総務部であった。株式担保の掛け目は当初から10割で、大手都銀が優良株でも7割にとどめる慣行から外れている。旧第一と旧勧銀の対等合併に由来する二重の人事のもと、頭取人事の抗争の収拾を外部に頼った前歴が、外からの介入を招く余地を残していた。
内容
1990年9月と1994年10月の大蔵省検査の直前、迂回融資で残高を減らし、延滞していた金利をノンバンクに肩代わりさせた。1997年6月10日に役員21名の退任と相談役制度の廃止を発表し、7月31日には常務会を廃して経営会議・業務運営委員会・行内業務監査委員会を置き、総務部そのものを廃止した。
含意
8月6日から実施された行政処分は、法令違反を理由とする銀行への処分として戦後初であった。もっとも格付けは引き下げられず、収益への影響は軽微とされている。処分が数字に表れないことこそ再生を遠ざけるという指摘が、当時から出ていた。
筆者の見解

本業のなかに置かれた特別扱い

株式担保の掛け目を10割にするという一点に、この12年の性格が表れている。大手都銀が優良株でも7割にとどめる慣行を、第一勧銀は小池氏側にだけ外していた。裏金であれば経理に痕跡が残り、当局の目にも触れる。しかし融資は本業であり、稟議も担保も形式だけは整っていたため、275億円の特別扱いは膨大な貸出案件のなかに紛れた。窓口が総務部に固定され、審査部門までがその扱いを追認したことで、行内で異常を指摘する回路が働かなかったとみられる。

役員21名の退任と総務部の廃止によって、人も窓口も入れ替わった。ただ、7月30日に公表された行内調査は、1985年になぜ融資が始まったのかを、取引先の元出版社社長から紹介を受けたとしか書いていない。近藤前頭取が語った「呪縛」の中身は、最後まで説明されなかった。処分が数字に表れないことこそ再生の障害だという当時の指摘は、二年後の格下げと公的資金の申請で裏づけられた。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

総務部が窓口になった1985年の融資

1985年3月、第一勧業銀行の総務部は司法書士の小池嘉矩氏に1億円を融資した。担保の時価は8700万円で、初回から担保を割っている。紹介したのは取引先の元出版社社長で、大物総会屋の木島力也氏であった。村本周三相談役は1997年5月23日、木島氏から「司法書士なので、安心して貸してやってほしい」と紹介されたと証言し、相手が総会屋の関係者であったため扱いに慣れた総務部が対応したと認めている[1][2]

融資はここから膨らんだ。小池隆一氏側への融資は1985年から延べ69回、総額275億円に及び、株価が上昇した1987年に急拡大して1989年にピークを迎えている。株式担保融資では大手都銀が優良株でも掛け目を7割にとどめるのが慣行であったが、小池氏側は当初から10割であった。1988年4月に実行され1週間後に返済された36億円は、東証2部上場の小池酸素工業株をめぐる仕手戦の資金になっている[3][4]

断れない関係を作った組織のかたち

なぜ断れなかったのかを、個人の資質に帰すのは難しい。旧第一と旧勧銀の対等合併で生まれたこの銀行では、二重の人事が続いていた。1976年ごろ、村本周三氏が頭取に就いた前後に、旧第一のライバルであった篠木達夫副頭取が外部の人間に依頼して巻き返しを試み、騒ぎになりかけたため、井上薫氏らがフィクサー的な人物に収拾を依頼したと首脳経験者が語っている。1991年12月にも、次期頭取と目された林裕副頭取ではなく専務の奥田正司氏が指名され、本人が知ったのは発表の3日前であった[5][6]

木島氏の側にも来歴があった。第一勧銀がメインバンクである神戸製鋼所が1965年に尼崎製鋼を吸収合併した際、株主総会を仕切った関西の大物総会屋の「東京支店長」を名乗っていた人物である。1969年に噴出した第一銀行と三菱銀行の合併話でも、反対する側に立って動いた。近藤克彦頭取は辞任会見で、歴代のトップと親密な「大事な客」という認識が行内にあったと述べている。木島氏は1993年に死去したが、融資は止まらなかった[7][8]

決断

二度の大蔵省検査と、残高を消す工作

1990年9月の大蔵省検査を前に、第一勧銀は融資残高そのものを動かした。新宿西口支店が不動産会社ライベックスへ融資した25億円を迂回させ、うち約20億円を小甚ビルが六本木支店から受けていた融資の返済に、残る約5億円を小池嘉矩氏個人の返済に充てて残高を減らしている。同年10月には検査を逃れるためライベックスに融資を肩代わりさせたが、1992年に引き取った。ライベックスは同年11月に倒産している[9][10]

担保もまた形だけであった。1990年から91年にかけて、ライベックスが山梨県に計画した牧丘カントリークラブの開発へ総額約32億円を融資している。担保の「会員資格保証金証書」は、用地買収も終わらず発行もされていない会員権の引換証にすぎない。1990年10月の15億7000万円が担保割れの分岐点となり、1992年には融資と担保のかい離が70億円に達した[11][12]

1994年10月の検査でも同じことが繰り返された。小池嘉矩氏が延滞していた金利分約6億円を、関係の深いノンバンクである大和信用から融資させ、検査が終わったあとに第一勧銀が無担保で同額を融資して返済させている。迂回の担い手であった大和信用と後楽園ファイナンスには役員を派遣し、口頭で債務保証していた。利益供与に問われたのは、1994年以降のおよそ117億円の迂回融資部分であった[13][14]

1997年6月10日、役員40名のうち21名の退任

1997年5月23日、近藤克彦頭取と奥田正司会長が退任を表明し、藤田一郎副頭取を頭取に充てる人事が発表された。ところが藤田副頭取は同じ会見で、融資担当役員だった1995年暮れに融資の事実を知りながら頭取に報告しなかったと明かしている。6月10日、東京地検特捜部は審査を担当していた金澤元副頭取ら4人を逮捕し、迂回融資に審査部門まで関与していた構図が明らかになった。同日、第一勧銀は人事をやり直した[15][16]

新頭取に就いたのは、1966年に日本勧業銀行へ入行した54歳の杉田力之常務であった。都市銀行では最年少である。役員40名のうち21名が退任し、藤森鉄雄相談役ら5名の相談役も顧問に就かずに退いたうえ、相談役制度そのものを廃した。銀行は「第三者を参画させた行内調査をもとに、事件への関与が認められない人材を選任し、いわゆる『たすき掛け』人事も排した」と説明している。同じ事件で退任した役員は野村証券が15名であった[17][18]

結果

戦後初の行政処分と、総務部の廃止

8月6日、大蔵省の行政処分が実施に移された。住宅ローンなどを除く新規融資の開拓と、公共債の引き受け・入札を年末まで禁じ、翌1998年8月まで営業拠点の新設を認めない。加えて、日本版ビッグバンで解禁される投資信託の窓口販売と金融持株会社の活用を1年間禁じた。法令違反を理由に銀行が行政処分を受けるのは戦後初である。ある程度厳しい処分を覚悟していた第一勧銀でさえ、この二つの禁止には驚きの声を上げたとされる[19][20]

7月31日、銀行は経営組織を組み替えた。常務会を廃して経営会議を新設し、その下に業務運営委員会と、通常のラインから独立して法令の遵守を検査する行内業務監査委員会を置いている。総務部そのものも廃止し、5、6人が務めていた総会屋との接触窓口をなくした。総務部を窓口とする雑誌の定期購読も一切やめ、官公庁の出版物を含めて650誌に及んでいる。反社会的との懸念がある取引18件・28億円を洗い出し、新設の社会的責任推進室が3か月で数億円を回収した[21][22][23]

説明されなかった「呪縛」と、数字に表れない代償

1981年の商法改正で総会屋への利益供与が禁じられて以降、銀行がこの容疑で摘発された例はなかった。摘発された企業の多くは裏金を渡していたため当局が把握しやすかったのに対し、金融機関と総会屋の癒着は融資という本業での特別扱いであり、膨大な融資案件のなかに埋もれていた。7月30日に公表された行内調査は、総務部だけでなく審査部・支店・営業部までが融資に関与していたことを示している[24][25]

一方、1985年になぜ融資が始まったのかについて、その調査報告は「昭和60年3月、当行取引先元出版社社長から総務部が小池嘉矩氏の紹介を受けた」としか触れていない。事件を経営者個人の問題と見るのか、互いの領分に口を出さない合併行の風土に帰すのか、報告からは判断がつかない。近藤前頭取が辞任会見で語った「呪縛」の中身は、処分が下った日になっても説明されないままであった[26][27]

事件が残した数字は大きい。融資の実行総額は約475億円、損失見込みは約72億円で、うち直接の融資が延べ275億円・損失見込み約70億円、後楽園ファイナンスと大和信用を経由する迂回分が延べ約200億円であった。逮捕・起訴は役員を含む11名に及び、元頭取の奥田正司氏は7月4日に逮捕されている。旧第一出身の元会長・宮崎邦次氏は6月に自ら命を絶った[28][29]

それでもムーディーズは格付けを引き下げず、収益への影響はほとんどないという点でアナリストの見方は一致した。危機感を弛緩させるこの状況こそ再生への最大の危機である、と当時の誌面は指摘している。摘発の前年度にあたる1997年3月期には、すでに赤字決算となって自己資本を食い、自己資本比率を低下させた。1999年2月の格下げと公的資金の申請を経て、同行は2000年9月の3行統合へ至った[30][31]

出典・参考
  • 週刊東洋経済 1997年6月7日号「一勧・野村をつなぐ深い闇の構図」
  • 週刊東洋経済 1997年6月14日号「都銀 一強八弱一脱落の格差銀行決算」
  • 週刊東洋経済 1997年6月21日号「第一勧銀 首脳「全取り替え」の刷新」
  • 週刊東洋経済 1997年6月28日号「野村・一勧事件がすべてではない」
  • 週刊東洋経済 1997年8月23日号「第一勧銀再生への3つの課題」
  • 週刊東洋経済 1997年8月23日号「大蔵省は野村証券・第一勧銀の制裁バランスを優先」
  • 週刊東洋経済 1997年11月22日号「第一勧銀 信用回復に向け組織刷新」
  • 日経ビジネス 1997年6月2日号(No.893)「第一勧銀が見せた"闇の交際"」
  • 日経ビジネス 1997年6月16日号(No.895)「総会屋を育てた第一勧銀の墓穴」
  • 日経ビジネス 1997年7月28日号(No.901)「第一勧銀に巣食った大物総会屋の『呪縛』」

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