第一勧業銀行都市銀行初の消費者金融専門会社ハートファイナンスの設立と、取引先企業との提携ローンの導入
本体で貸すか、別会社で貸すか——他行が様子見するなかで第一勧業銀行が選んだ個人向け無担保融資の入り口
- 概要
- 1984年10月11日、第一勧業銀行が消費者金融専門会社ハートファイナンスの設立を発表し、翌1985年1月28日に営業を始めた。都市銀行が自前の消費者金融会社を持つ最初の例で、資本金3億円のうち同行の直接出資は5%、残る95%を関連会社が持つ構成であった。
- 背景
- 1983年12月、大蔵省が銀行の関連会社の業務として消費者金融を含む貸金専門業を認める意向を伝えた。同行の消費者ローンは住宅ローンを除くと665億円、国内貸出量の0.6%にとどまり、本体では金利・担保・営業時間の制約を外せずにいた。
- 内容
- 10万〜50万円の小口無担保ローン(年26.0%)から100万円以上の有担保ローンまで6種類を並べ、軸には取引先企業と組む企業提携ローン(年13.5〜18.0%)を据えた。当面の店舗は東京・八重洲の本店だけで、2〜3年内に融資残高50億円を積む計画であった。
- 含意
- サラ金規制2法と大蔵省通達で既存業者が縮んだところへ、都市銀行が最初に足を踏み入れた。他行はイメージ低下と採算を懸念して様子見にとどまり、銀行が個人へ無担保で貸す難しさは、焦げつき比率の差として当時から指摘されていた。
5%の出資が示すもの
ハートファイナンスに第一勧業銀行が直接出した資本は5%にすぎず、残る95%は関連会社が持った。資金量では日本一を掲げながら、個人への無担保融資では利息制限法の上限も、担保に取れるものも、午後3時に閉まる窓口も動かせない。その制約を外す場所として、本体から一歩離れた会社が選ばれたとみられる。羽倉信也頭取の言う「銀行の窓口で貸しにくい人」という線引きは、銀行そのものを変えずに個人へ貸すための線引きでもあった。
ただ、この会社が背負った条件は軽くない。焦げつきが1%を下回る世界で育った銀行員が、30%に達する世界の選別を身につけられるかは、開業の時点では見通せなかった。低い金利は、返済に行き詰まった借り手を先に呼び寄せる。店舗は八重洲の一店、人員は10人、2〜3年内に融資残高50億円という目標も、資金量日本一の規模から見ればごく小さい。その後どこまで積めたのかは、本稿が依拠した同時代の記事からは追えない。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
資金量日本一と、個人ローンの薄さ
1971年の合併で資金量日本一となった第一勧業銀行は、その量を個人向けの融資にほとんど振り向けられずにいた。1984年3月末の消費者ローンは、住宅ローンを含めて1兆766億円、国内貸出量に占める比率は8.9%であった。ただし住宅ローンを除くと665億円、比率にして0.6%にすぎない。大手都銀はいずれも似た状態にあり、個人への無担保融資は資金量の大きさとは不釣り合いな規模にとどまっていた[1]。
本体で個人向けの小口融資を伸ばそうとすると、いくつもの制約が働いた。適用金利は利息制限法で上限が定まり、収益を保つには審査を厳しくして焦げつきを抑えるほかない。自動車やゴルフ会員権を担保に取ることもできず、窓口は午後3時に閉まる。借りたい個人の側から見れば、銀行は金利こそ低いものの、手続きと時間の面では近づきにくい貸し手であったとみられる[2]。
通達と2法で縮んだサラ金業界
参入の下地は、サラ金業界の急な冷え込みでできていた。1983年6月末、大蔵省は宮本銀行局長名の通達で、金融機関にサラ金向け融資を厳に抑制するよう求めた。同年3月末に銀行や生保などがサラ金へ貸していた総額は約1兆1000億円で、業界の融資残高1兆9000億円の6割近くを占めていた。通達から9カ月後の1984年3月末、その残高は9500億円へ縮む。都銀は1年で700億円、生保は500億円を減らした[3]。
規制はもう一段重なった。1983年11月、貸金業規制法と改正出資法が施行され、届け出だけでよかった業者に登録が義務づけられる。2以上の都道府県に店舗を持てば大蔵大臣、1都道府県なら知事への登録となり、1984年10月末に猶予期間が切れれば業者数は半分近くに減るとみられていた。上限金利も年73%から年54.75%を経て年40.004%へ下げる道筋が引かれ、大蔵省は武富士・プロミス・アコム・レイクの大手4社に年39%への引き下げを求めた[4][5]。
決断
本体ではなく、別会社を置く
1983年12月上旬、大蔵省は都銀など民間金融機関に、銀行の関連会社の業務として消費者金融を含む貸金専門業を認めていく意向を伝えた。それまで関連会社に許されたのはファクタリングなどの周辺業務で、貸金・預金・為替という基本業務では設立が認められていない。緩和の理由は二つあった。同年11月に施行された貸金業規制法の対象から関連会社だけを外す根拠がないこと、安い資金を求める個人の需要に銀行本体ではコストと個人情報の収集の面で応えきれないことである[6][7]。
第一勧業銀行は、その方針が伝わってからおよそ10カ月後の1984年10月11日、消費者金融専門会社ハートファイナンスの設立を発表した。資本金は3億円、授権資本は12億円で、株主は同行が5%、残る95%を関連会社が持つ。代表者には遠藤勇一氏が就き、本店は東京・八重洲の新槇町ビル、人員は当面10人程度とした。羽倉信也頭取は「銀行の窓口で貸しにくい人のために設立するのがねらいなんです。もちろん、銀行と取引のない人にも貸します」と語っている[8][9]。
企業提携ローンという軸
商品は非提携と提携の二系統に分かれた。非提携では10万〜50万円の小口無担保ローンを年26.0%、50万〜300万円の無担保ローンを年15.0〜18.0%、不動産やゴルフ会員権などを担保に取る100万円以上を年10.0〜14.5%とする。提携ローンは10万〜300万円で年13.5〜18.0%であった。30万円を1年12回の元利均等で返すと、小口無担保の利息は43,908円となり、銀行のパーソナルローン22,380円より重く、信販の47,412円やサラ金の68,964円より軽い[10][11]。
軸に据えられたのは、取引先企業と組む提携ローンであった。第一勧銀が一部上場の取引先を中心に社内融資制度の有無を調べたところ、社員向けの小口融資制度を持つ企業はきわめて少なく、サラ金から多額の借金をして返済に困る社員を抱えて頭を痛める企業も目立った。営業開始の前から提携の「予約」を申し入れる企業もあり、赤沼二己男・信用開発課長は「提携ローンが軌道に乗れば、当面の目標である50億円の融資残高はすぐにも達成できる」と述べている[12][13]。
結果
1カ月あまり遅れた開業
営業開始は当初の予定より遅れた。1984年12月中旬をめどとしていたが、東京都へのサラ金登録の申請が殺到して事務が混雑し、1カ月あまりずれ込んだ1985年1月28日の開業となる。既存業者をふるいにかける規制が、新たに参入する側の手続きまで滞らせた。当面の店舗は八重洲の本店だけで、1985年度から都内を中心に増やし、2〜3年内に融資残高50億円を積む計画を掲げていた[14][15]。
開業を待たずに、問い合わせは絶えなかった。中井晶一・広報室課長補佐は「朝1番に広報室へかかってくる電話は必ず消費者金融会社に関する問い合わせですよ」「このところ毎日10件近くも問い合わせがきて、関心の高さにビックリしていますよ」と語っている。想定した借り手は、銀行の窓口では貸しにくい人と、銀行と取引のない人であった。大手サラ金の役員は、大手企業の社員が主な対象なら取引客の層が違うとみて、正面からぶつかる相手とは考えていなかった[16][17]。
他行の距離と、指摘されていた懸念
開業の時点で、いくつもの懸念が示されていた。年収が平均を大幅に上回る大企業の部長が借りに来れば、銀行は持ち家で年収も十分と見て融資基準に合格させ、サラ金は他に借りるあてのなくなった人と見て即座に断る。同じ借り手をめぐる見立ては正反対であった。焦げつきの比率も、銀行が1%を大きく下回るのに対し、サラ金では30%以上に達する例がほとんどである。既存のサラ金や信販より低い金利で貸す以上、高金利の返済に困る多重債務者が集まることも見込まれた[18]。
赤沼課長は多重債務者の見分けについて「手抜かりはない」と述べ、設立前に10社近くのサラ金会社に接触してノウハウを蓄え、全国銀行協会連合会や日本割賦協会などの個人信用情報を使う考えを示した。一方、同種の会社をつくった他行はまだない。ある大手都銀の首脳は、興味はあるが銀行のイメージダウンと採算が心配だとして、第一勧銀のお手並みを拝見してから考えると語った。それでも、この一件を機に銀行の消費者金融進出が活発になるとの見通しは、当時から示されていた[19][20]。
- 日経ビジネス 1985年1月21日号(No.396)「第一勧業銀行の“サラ金”会社、企業向け提携ローンが軸」