ハートファイナンス設立(1984年・第一勧業銀行の決断)

更新:
論点消費者金融に別会社で参入するか
第一勧業銀行:業績の推移
売上高(億円)経常利益率(%)
都市銀行初となる消費者金融専門会社の設立と、取引先企業との提携ローンの導入

何をなぜ決めたか:都市銀行初となる消費者金融専門会社の設立と、取引先企業との提携ローンの導入

概要

1984年10月11日、第一勧業銀行は消費者金融専門会社ハートファイナンスの設立を発表し、11月12日に同社を設立した。資本金は3億円で、都市銀行が自前の消費者金融専門会社を持つ最初の例であった。同行の直接出資は5%、残る95%は関連会社が持った。

営業開始は当初12月中旬を予定していたが、東京都への貸金業者の登録が殺到して事務が混み、1985年1月28日へずれ込む見通しとなった。

背景

1981年5月の新銀行法の成立を機に、大蔵省は関連会社の業務範囲を段階的に広げた。1982年3月の第2次措置を皮切りに規制の緩和が続き、保証会社が親銀行以外の相手へ消費者ローンの保証を行うことが認められ、1983年8月には抵当証券業務が、同年11月に、周辺業務として貸金業を営む関連会社を設立することが、それぞれ認可された。

同行は1983年2月にカード会社ハートクレジットサービスを設けて消費者金融の収益源としていたが、1984年3月末の住宅ローンを除く消費者ローンは665億円、国内貸出の0.6%にとどまり、本体では金利・担保・営業時間の制約を外せずにいた。

内容

10万〜50万円の小口無担保ローン(年26.0%)から100万円以上の有担保ローンまで6種類を並べ、軸には取引先企業と組む企業提携ローン(年13.5〜18.0%)を据えた。当面の店舗は東京・八重洲の本店だけ、人員は10人程度で、2〜3年内に融資残高50億円を積む計画であった。

ローン専門の営業ときめ細かい対応、独自のローン商品で同行の消費者金融業務を補完する位置づけで、返済口座には他行の口座も使え、同行と取引のない顧客にも貸し出した。

含意

羽倉信也頭取は合併以来の行風を改める取り組みについて『くり返しくり返し意識革命を訴えて、それを組織や物的裏付けなど施策面でバックアップした』と語り、都銀初の消費者金融会社の設立は、その下で生まれた施策の一つに数えられた。一方、他行はイメージ低下と採算を懸念して様子見にとどまり、焦げつき比率が1%を大きく下回る銀行と30%以上に及ぶ業者の差から、銀行が個人へ無担保で貸す難しさも当時から指摘されていた。

いつ何が起きたか7件
考察:5%の出資が示すもの
考察

考察:5%の出資が示すもの

ハートファイナンスに第一勧業銀行が直接出した資本は5%にすぎず、残る95%は関連会社が持った。資金量では日本一を掲げながら、個人への無担保融資では利息制限法の上限も、担保に取れるものも、午後3時に閉まる窓口も動かせない。その制約を外す場所として、本体から一歩離れた会社が選ばれたのだろう。羽倉信也頭取の言う『銀行の窓口で貸しにくい人』という線引きは、銀行そのものを変えずに個人へ貸すための線引きでもあった。

ただ、この会社が背負った条件は軽くない。焦げつきが1%を下回る世界で育った銀行員が、30%に達する世界の選別を身につけられるかは、開業の時点では見通せなかった。低い金利は、返済に行き詰まった借り手を先に呼び寄せる。店舗は八重洲の一店、人員は10人、2〜3年内に融資残高50億円という目標も、資金量日本一の規模から見ればごく小さい。その後の残高がどこまで積み上がったのかは、社史にも数字で示されていない。

Yutaka Sugiura, 2026年7月
参考文献

参考文献

参考
  • 日経ビジネス 1985年1月21日号
  • 第一勧業銀行二十年史(第一勧業銀行, 1992年)
  • Decide 1985年3巻1号

次に読む決断

免責事項およびポリシー