山崎製パンサンエブリーからデイリーヤマザキへ、自前のコンビニ網を築いた判断

売り場は他人に委ねるか、自ら抱えるか——製パン最大手が小売業態を持ち続けた理由

時期 1982年1月
意思決定者(推定) 飯島延浩 社長
論点 販路の自前化と小売業態の保有
概要
1977年12月のサンエブリー設立から1982年1月のサンショップヤマザキ発足、1999年1月のデイリーヤマザキへの商号変更まで、山崎製パンは20年余りをかけて自前のコンビニエンスストア網を築いた。
背景
工場から直接届ける販売店網が同社の収益基盤であったが、量販店とコンビニの台頭で街のパン屋が細り、売り場そのものが移りつつあった。
内容
パン屋のコンビニ業態への転換を進め、デイリー事業部とサンエブリーを統合してチェーン運営会社を置いた。1993年末には2400店を超え、コンビニ業界4位の規模になった。
含意
自社製品の専用販路という性格は最後まで残り、2013年7月に本体へ吸収合併された。店舗数はピークの2500店超から1300店規模へ縮んでいる。
筆者の見解

売り場を抱えることの元は取れたのか

この判断を小売業への進出として採点すると、成績はよくない。店舗数はピークから半減し、単体で見た収益も長く赤字であった。ただ、山崎製パンがこの網に求めていたものは、小売事業そのものの利益とは少し違っていたとみられる。量販店とコンビニに売り場が移るなかで、細っていく取引先のパン屋を業態ごと作り替え、自社製品を置く棚を残す——1977年からの転換は、販売店網という収益基盤を守るための投資という色合いが濃い。棚を確保するための費用として見れば、評価の物差しも変わってくる。

もっとも、その割り切りは同時に上限も定めていた。パンを売るための売り場という性格を保ったまま、大手チェーンが競う商品開発や物流の速さに追いつくのは難しく、専用販路という利点がそのまま伸び悩みの理由にもなった。2013年に本体へ取り込んで営業部門の一部としたのは、小売として独立採算を追う建前を降ろし、当初の位置づけに戻す整理だったとみることができる。売り場を自ら持つか、他人の棚で勝つか——製造業が販路を抱えるときの問いは、いまも残っている。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

販売店網という収益基盤

山崎製パンの事業は、工場から販売店へ商品を直接届ける仕組みの上に立っていた。近くに工場があれば1日に最低2回、大型店には3回まで配送でき、店頭には常に新しいパンが並ぶ。一定の地域を集中して開拓し、その密度で配送効率を上げるやり方を徹底していたため、販売店が増えれば工場の稼働率が上がり、稼働率が上がればさらに店を開拓できるという循環が働いた。1993年末の販売店は全国7万3000店にのぼり、業界2位の敷島製パンの2万5500店を大きく上回っている[1]

この仕組みを支える売り場は、もともと街のパン屋や食料品店であった。ところが1970年代以降、量販店とコンビニエンスストアが伸びるにつれ、一般の販売店は店頭で苦戦するようになる。同社にとってこれは取引先の問題にとどまらず、自社製品を置く棚が細っていくことを意味していた。1967年7月にスーパーヤマザキを設立して流通事業へ入っていたのも、売り場の側へ関わる構えを早くから持っていたためである[2][3]

売り場が量販店とコンビニへ移る

売り場の移動は数字にはっきり表れていた。1985年当時、同社の販売店5万4000店に占めるコンビニの比率は7.1%にすぎなかったが、1993年末には18.5%まで上がった。量販店とコンビニの売上高を合わせると、1993年度には全売上高の47.5%に達している。1973年から取引を続けるセブン-イレブン・ジャパンは1993年末で約5400店を数え、大手チェーンは年間300店以上の出店を続けていた。パンを置く場所の主役が、この10年ほどで入れ替わっていた[4]

新しい領域へ入るとき、山崎製パンは本体から切り離した会社を先に立てる型を持っていた。1976年に創業者の飯島藤十郎社長と実弟の副社長が争った紛争の際、飯島社長の弁護士を務めた小林十四雄氏は、北海道・九州・新潟などへ進出したときも、まず別会社を作って市場を開拓してから本社へ吸収合併してきたと説明している。小売という不慣れな業態に入るにあたっても、同社はこの手順を踏んだ[5]

決断

パン屋をコンビニへ変える

1977年12月、山崎製パンはサンエブリーを設立してコンビニエンスストア事業へ入った。同年10月にはサンロイヤルが店内でパンを焼いて売るインストアベーカリー事業を始めており、売り場の作り替えを二方向から試している。同社が選んだのは、新しい土地に店を建てて回るやり方ではなく、既存の取引先であるパン屋をコンビニへ業態転換させる道であった。1977年からこの転換を進め、細っていく小売店を自社製品の売り場として残そうとした[6][7]

転換の受け皿は1982年1月に整った。同社はデイリー事業部とサンエブリーを統合してサンショップヤマザキを設け、コンビニ事業を本格的に始めている。この会社が「サンエブリー」と「ヤマザキデイリーストアー」の二つの看板を運営し、1999年1月にデイリーヤマザキへ商号を改めた。1977年の進出から数えて20年余り、看板と運営会社を組み替えながら、自社製品を売るための小売網を面として固めた[8][9]

結果

業界4位まで育った網と、その後の縮小

網は10年余りで相応の規模になった。1993年時点でサンショップヤマザキの店舗数は2400店を超え、コンビニ業界4位の位置にあった。同じころ本体の業績も伸びており、1993年12月期の売上高は5362億円、経常利益は266億円と、経常利益では食品2位の味の素に迫っている。パン市場のシェアは1981年の21.6%から1992年に32.2%へ広がり、2位の敷島製パンとの差はむしろ開いた。売り場を自ら抱える戦略は、この時期には数字の裏づけを伴っていた[10][11]

その後の展開は逆を向いた。2012年12月末のデイリーヤマザキは「デイリーヤマザキ」1544店と「ヤマザキデイリーストアー」104店の計1648店にとどまり、既存店の不振で営業損益が赤字へ転じた。山崎製パンは2013年2月14日に吸収合併を発表し、同年7月1日付でコンビニ事業を本体の営業部門へ組み入れている。店舗数はピークの2500店超から1300店規模まで減り、業績の赤字も続いた。自社ブランドの専用販路という性格から最後まで抜け切れなかったところに、この事業の難しさが表れている[12][13]

出典・参考

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