アクリル酸の国産化と高吸水性樹脂(SAP)市場への後発参入がもたらした原料一貫戦略

三洋化成に7年遅れたSAP参入は、なぜ1年でシェア首位への逆転を生んだか

更新:

時期 1970年3月
意思決定者 八谷泰造 社長
論点 石油化学参入とアクリル酸国産化による原料一貫戦略、SAP後発逆転
概要
1959年の石油化学参入に始まり、1970年のアクリル酸国産化、1983年の高吸水性樹脂(SAP)市場への後発参入を経て、日本触媒がアクリル酸からSAPまでの原料一貫生産体制を築き上げた一連の経営判断。三洋化成に7年遅れた参入でありながら、参入から1年で国内生産量首位に立った。
背景
無水フタル酸という単一製品への依存から抜け出すため、日本触媒は1959年に資本金の2倍を超える投資で石油化学へ参入した。気相酸化とバナジウム触媒という自前技術への一貫したこだわりが、その後のアクリル酸事業の土台になった。
内容
1970年、無水フタル酸で磨いた気相酸化技術をアクリル酸の合成へ応用して国産化に成功した。1983年には三洋化成に7年遅れてSAP市場へ参入し、1985年に量産へ移した。
含意
アクリル酸からSAPまでの原料一貫生産体制と、世界最大の紙おむつメーカーP&Gという顧客の獲得が、後発の遅れを覆す決め手となった。1988年には米国法人を設立し、海外展開が始まった。
筆者の見解

一つの技術を次の製品へつなぐという型

1959年の石油化学参入から1970年のアクリル酸国産化、そして1983年のSAP参入に至る一連の判断を貫くのは、原料に近い技術を自前で押さえ続けるという一つの型であったとみることができる。無水フタル酸で磨いた触媒と気相酸化の技術をアクリル酸へ転用し、そのアクリル酸をさらにSAPへとつなげる——既存の技術を次の製品へ展開する経路の連鎖が、後発というハンディキャップを覆す下地になったといえる。

もっとも、この勝利の方程式はP&Gという一社への依存という裏面も抱えていた。海外への生産拠点の広がりも、最大顧客の事業展開に沿う形で進んだ側面が強い。原料一貫という強みと、特定顧客への依存という脆さが表裏一体で育っていった構図は、日本触媒がこの後の時代にどう向き合うかという問いを残しているとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

単一製品依存を脱するための石油化学参入

1959年6月、日本触媒は日本石油化学の川崎コンビナートへ参画し、酸化エチレンプラントを新設した。投資額は9.8億円に上り、当時の資本金4.8億円の2倍を超えた。無水フタル酸という単一製品への依存から抜け出すには石油化学の原料を自前で押さえるしかないという、八谷泰造社長の判断であった。業界関係者からは「潰れる」と揶揄されたが、1960年に姫路工場を新設し、1967年には川崎第二工場も稼働させ、川崎と姫路の2拠点体制を築いていった[1]

石油化学への参入を支えたのは、無水フタル酸で培ってきた自前技術へのこだわりであった。日本触媒は海外からの技術導入が主流であった業界にあって、バナジウム触媒による気相酸化という技術を自社で育て続けてきた。1972年の週刊東洋経済は、無水フタル酸・酸化エチレン・アクリル酸に共通する技術基盤を同社の際立った特徴として伝えている。原料から製品までを自社技術で一貫させるという方針が、この時期すでに輪郭を持ち始めていた[2]

自前技術へのこだわりという企業哲学

日本触媒は化学業界でよく見られた海外技術導入の道を採らず、酸化と触媒に的を絞った自社開発を貫いてきた。1972年の同誌はまた、研究開発費が売上の2%程度という軽い負担でありながら、技術導入費用の節減や独自の低コスト製法という見返りを得ている点を伝えている。基礎研究に広く手を広げるのではなく、酸化触媒という一つの技術領域を掘り下げる方針が、この会社の投資判断の型を作っていた[3]

この技術への執念は、創業者である八谷泰造氏個人の資質とも重なっていた。証券アナリストジャーナルは1968年の講演録で同氏を「酸化の日本触媒」[4]と紹介している。のちに社長を務めた近藤忠夫氏も、八谷氏について「工学博士であり経営者だった」「自分には何もなく、借り物だけで商売する、というような器用さは持ち合わせていない」と振り返っており、石油化学参入という資本金を超える投資判断は、この技術への確信に裏打ちされていた[5]

決断

アクリル酸国産化という技術の転用

1970年3月、姫路のアクリル酸1号機の運転開始を控えたころ、八谷泰造氏は社内報に「この春に完成される数々の工場の様相が、さながら贈られるオモチャを夢にまで見る子供の気持ちに似て、春を待つこと切なる心境である。誠に、経営への執念。空恐ろしきかな。神仏も御照覧あれ」と綴った。日本触媒は無水フタル酸で磨いてきたバナジウム触媒と気相酸化の技術を、そのままアクリル酸の合成に応用する経路を選び、国内で初めてアクリル酸の国産化を実現した[6]

この一文は八谷氏にとって最後の執筆となった。無水フタル酸からアクリル酸へと主力製品の軸を広げつつあった日本触媒は、1981年3月に姫路研究所と川崎研究所を設置し、研究開発体制をさらに強化した。1982年には姫路製造所でメタクリル酸とそのエステルの製造も始め、アクリル系に隣接する製品群を広げていった。技術を一つの領域に絞り込みながら製品群を広げるという、この会社に一貫した投資の型が、ここでも踏襲された[7][8]

三洋化成に7年遅れてのSAP参入

1983年、日本触媒は姫路製造所で高吸水性樹脂(SAP)の試作を始めた。先発の三洋化成工業に遅れること7年、生理用品向けにとどまる小規模な事業への参入であった。転機となったのは、ある企業から寄せられた「紙おむつにSAPを使えないか」という打診であり、その相手は世界最大の日用品メーカー、P&Gであった。発注量は当時のプラント能力の10倍にあたる1万トンに達し、粉体であるSAPの品質を均質に保てるのかをめぐって役員会は紛糾した[9]

日本触媒はP&Gから「失敗した際の保証」を取り付けたうえで1万トンプラントを建設し、1985年1月には年産能力1万トンの設備を完成させてこの分野に本格参入した。同時期の日経新聞は、先発の三洋化成工業も同じ4月をめどに生産能力を年5000トンへ倍増する計画を伝えており、両社が需要拡大を見込んで設備投資を重ねていた。1985年4月にはSAPを量産へ移し、生理用品向けの小規模事業から紙おむつ向けの主力事業へと事業の軸を移した[10][11]

結果

参入から1年でのシェア逆転

後発参入でありながら、日本触媒は参入から1年ほどで生産量が三洋化成を上回り、国内首位に立ったとみられる。原料であるアクリル酸を自社で内製できたことが、外部調達に頼る先発の三洋化成に対するコスト競争力と供給安定性の双方の強みになった。1995年、日本触媒の城野久義取締役は、欧米市場でP&Gがシェアを握った構図について「勝ち馬に乗れば、必然的に売り上げは増える」と述べている[12]

城野氏は同じ取材で、SAPが純粋な化学品ではなく製法によって品質差が出やすいため、「品質が劣れば"馬"は簡単に"乗り手"を代えてしまう」というもろさも指摘していた。1年での逆転は、原料一貫という構造だけでなく、P&Gの厳しい品質要求に応え続けた供給側の対応力にも支えられていたことがうかがえる[13]

P&Gの拡大に伴う海外展開の始動

P&Gの紙おむつ事業がグローバルに拡大するのに伴い、日本触媒のSAP輸出比率は売上の8割に達した。1988年、同社は米国法人NA Industries Inc.を設立し、SAPの海外生産に乗り出した。最大顧客の世界展開に合わせて自社の生産拠点を海外へ広げる構造が、この時期に形づくられていった[14]

石油化学品・化成品・合成樹脂・精密化学品・触媒という事業構成のなか、1987年3月期の単体売上高は1050億円、当期純利益は56.2億円に達した。セグメント別では石油化学品326億円、合成樹脂234億円、化成品232億円、精密化学品153億円、触媒103億円と続き、アクリル酸を含む石油化学品と、SAPを含む精密化学品・合成樹脂の両分野が、創業以来の触媒本業をすでに上回る規模へ育っていた[15][16]

出典・参考
  • 週刊東洋経済 2011年3月15日号「カンパニー&ビジネス 成長市場の知られざる世界企業 紙おむつ"影の主役" 日本触媒SAPとDNA」
  • 日経産業新聞(1995年10月31日)「紙おむつ向け急伸」
  • 日経新聞(1985年1月12日)「高吸水性樹脂、設備増強に拍車」
  • 週刊東洋経済(1972年6月10日号)「日本触媒化学・独自技術バックに積極路線を歩む」
  • 証券アナリストジャーナル(1968年7月号)「八谷泰造」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 日本触媒 有価証券報告書【沿革】
  • 日本触媒化学工業 会社年鑑(1987年3月期・単体)