山崎製パン米ナビスコ・日綿実業との合弁によるビスケット事業への進出
パン一本で伸ばすか、菓子の棚まで取るか——外部ブランドを借りた多角化の選び方
- 概要
- 1970年10月、山崎製パンは米国ナビスコ社および日綿実業(現双日)との合弁でヤマザキ・ナビスコを設立し、ビスケット・クラッカーの分野へ入った。資本金は8億円であった。
- 背景
- 1962年の東証二部上場から10年足らずで首都圏から東北へ工場網を広げ、1967年にはスーパーヤマザキを設けて小売にも足を伸ばしていた。販売店の棚をパンだけで埋めることの限界が見えていた。
- 内容
- 合弁会社は米ナビスコから技術と商標の使用許諾を受け、「オレオ」「リッツ」「プレミアム」「チップスアホイ」の各ブランドを国内で製造販売した。あわせて「チップスター」など自社ブランドも育てた。
- 含意
- 提携は2016年8月末で終わり、社名はヤマザキビスケットへ変わった。46年にわたり外部ブランドを借りて菓子の棚を確保した選択が、そこで一度精算された。
借りた棚は、いつまで自分のものか
この合弁の要点は、菓子という新しい分野へ入るときに、山崎製パンが技術も商標も自前で用意しなかったところにある。工場を建てて量を作る力はすでに持っていたから、足りないのは中身と名前であった。米ナビスコの技術と商標、商社の日綿実業の実務を借り、自社は製造と販路を出す——役割を分けたこの組み方は、参入の速さという点で理にかなっていたとみることができる。販売店の棚をパン以外の商品でも埋めるという目的からすれば、ブランドが自社のものかどうかは二の次であった。
もっとも、借りた名前で押さえた場所は、貸し手の考えが変わればそこまでとなる。2016年、モンデリーズが日本での販売を自ら担うと決めた時点で、46年分の売り場は交渉の対象へ戻った。残ったのは「チップスター」のような自社ブランドと、ビスケットを量産できる設備と人であり、ヤマザキビスケットはそこから棚を取り直した。外部ブランドを借りる多角化は、入口を短くする代わりに出口を相手に委ねる。その両面が、この46年には収まっているとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
量産と販路を固めた1960年代
山崎製パンは1948年3月に千葉県市川市でパンの委託加工を始め、同年6月に資本金100万円で会社を設立した。1960年に杉並工場、1963年に武蔵野工場、1966年3月に松戸工場と、大消費地を囲むように生産拠点を積み増し、1962年7月に東京証券取引所市場第二部、1966年11月には市場第一部へ株式を上場している。1969年1月には宮城県柴田郡で仙台工場が動き出し、生産網は首都圏から東北へ届いた。合弁を決めた1970年の同社は、量産の設備と資本市場での信用を一通り揃え終えたところにあった[1]。
販路の側でも早くから手を打っていた。1967年7月にスーパーヤマザキを設立して流通事業へ入り、パンを作って卸すだけでなく、売り場そのものに関わる構えを取っている。同社の商品は工場から販売店へ直接届ける方式で流れており、店頭にどれだけの品目を並べられるかが取引の厚みを左右した。パン一品目だけでは店の棚を埋めきれず、そこに置ける商品の幅を広げることが、主力である食パンの販売量そのものを押し上げる——のちに日経ビジネスが同社の多様化をこう総括している[2][3]。
別会社を立てて広げる、という同社の型
新しい領域へ入るとき、この会社は本体から切り離した別会社を先に立てる型を持っていた。1976年、創業者の飯島藤十郎社長と実弟の副社長が争った紛争のさなか、飯島社長の弁護士を務めた小林十四雄氏は、北海道・九州・新潟などへ進出したときも、まず別会社を作って市場を開拓してから本社へ吸収合併してきたと説明している。関西への進出で関西山崎パンを別に設けたのも同じ考え方によるものであった。合弁という形も、この型の延長線上に置いてみることができる[4]。
実際、1970年前後の同社は別法人を次々に立てて事業の幅を広げている。1967年のスーパーヤマザキに続き、1973年7月に末広製菓を設立し、同年10月には秋田いなふく米菓へ出資して和菓子・米菓を傘下に収めた。1976年1月には菓子を担っていた山崎製菓を吸収合併し、古河工場として本体へ取り込んでいる。作る商品の種類を増やし、売り場での品ぞろえを厚くする動きが、この時期にまとまって起きていた[5]。
決断
資本金8億円の三社合弁
1970年10月、山崎製パンは米国ナビスコ社および日綿実業との合弁でヤマザキ・ナビスコを設立した。資本金は8億円である。日綿実業はのちの双日にあたる総合商社で、現在もヤマザキビスケットの株式20%を保有し、残る80%を山崎製パンが持つ。自前の技術で菓子の分野を一から立ち上げるのではなく、外部の技術と商標を借り、商社を交えた三社の枠組みで始めた点に、この判断の性格が表れている[6][7][8]。
合弁会社は米ナビスコから技術と商標の使用許諾を受け、「オレオ」「リッツ」「プレミアム」「チップスアホイ」の各ブランドを国内で製造販売した。同時に、社名を冠さない自社商品も育てており、「チップスター」や「ピッコラ」は創業以来の長寿商品として残った。借りたブランドで棚の場所を押さえながら、その内側で自前の商品を並行して仕込む——ビスケットとスナックの分野で、山崎製パンはこの二段構えを取った[9][10]。
結果
46年続いた提携と、その終わり
合弁の重みは年を追って山崎製パン側へ移った。1988年7月、同社は株式を取得してヤマザキ・ナビスコを子会社としている。1994年の時点で、山崎製パンは和菓子の末広製菓と秋田いなふく米菓を傘下に置き、洋菓子ではヤマザキ・ナビスコを抱えていた。販売店の品ぞろえを支えることで食パンの拡販につなげる、という当初のねらいは、20年余りを経てもそのまま働いていた[11][12]。
終わりは相手側の都合から来た。2016年2月、山崎製パンはモンデリーズ・インターナショナルとの技術・商標ライセンス契約が終わると発表し、「オレオ」「リッツ」など4ブランドの製造は同年8月31日で止まった。9月1日、社名はヤマザキビスケットへ変わっている。モンデリーズが日本での販売を自社で担う方針へ切り替え、山崎側には製造だけを求めたことが直接の引き金であり、その背後には世界の食品業界の再編があった。46年借り続けたブランドは、貸し手の戦略が変わった時点で手元を離れた[13][14]。
- 山崎製パン 有価証券報告書【沿革】
- 日経ビジネス 1976年5月10日号「山崎製パン問題で“浮上した”監査役の役割を洗う」
- 日経ビジネス 1994年3月21日号「山崎製パン 一定地域を集中開拓 効率配送でシェア拡大」
- 流通ニュース(2016年2月12日)「山崎製パン/ヤマザキナビスコをヤマザキビスケットに商号変更」
- 日本経済新聞(2016年2月13日)「山パン「ナビスコ」46年で幕 「オレオ」「リッツ」契約解消」
- ダイヤモンド・オンライン(2016年3月1日)「「オレオ」「リッツ」から手を引く山崎パンのプライドと勝算」
- ヤマザキビスケット「沿革」「会社概要」