セイコーエプソン東京オリンピックの計時用プリンターの事業化と、『EPSON』ブランドの制定
時計部品の下請けが自分の名前で売るのか——五輪の印字装置から始まったプリンター事業
- 概要
- 1964年10月の東京オリンピックで、セイコーは計時されたタイムを印字するミニプリンターを世界初の水晶式ポータブルプリンター「クリスタル・クロノメーター」として供給した。諏訪の時計部品メーカーはこの印字技術を時計と関係のない事務機の側へ持ち出し、1968年9月にミニプリンター事業を始め、1975年6月には『EPSON』を非時計分野のブランドとして制定した。
- 背景
- 母体の信州精器は1961年12月、諏訪精工舎傘下の時計のパーツ工場として設立された会社であった。時計という極限の空間に多くの機能を組み込む精密加工技術が手元にあり、五輪の計時装置に付ける印字装置はその技術が生きる最初の場であった。中村恒也氏と相澤進氏が開発の主役を務めた。
- 内容
- 1969年11月に発売したミニプリンター「EP-101」は世界初の商品でシェアを独占し、電卓ブームに乗って世界首位を保った。部品供給のままでは完成品の陰に隠れるという判断から、SEIKOを使わずEPSONという別ブランドを立て、1978年12月にはコンピュータ用プリンター事業へ広げた。社名は「EP(Electric Printer)の息子(SON)」に由来する。
- 含意
- 1980年には信州精器がEPSONブランドのプリンターで世界の約7割のシェアを固め、売上高480億円に達した。時計を主業とする親会社の諏訪精工舎はグループの非時計比率が5割に届くのは時間の問題と読み、1985年11月には両社が合併してセイコーエプソンへ商号を変えた。下請け工場の副業が、社名そのものを書き替えた。
副業を本業にできた条件
五輪の計時装置に付ける印字装置は、注文としては小さな仕事であった。それを時計と縁のない事務機の側へ持ち出し、EP-101という完成品にまで仕上げたところに、この判断の芯がある。中村恒也氏と相澤進氏が同じ技術で二つの市場を見ていたこと、そして時計の全盛期から機械・電気・化学の技術者を集めていたことが、転用を思いつきで終わらせずに事業へ組み立てられた条件であったとみられる。
ただ、ブランドを立てる決断は摩擦とひきかえであった。SEIKOを使わずEPSONの販売網を自前で組んだ結果、液晶カラーテレビでは諏訪グループとセイコー電子工業が同じ商品を別の名で売り合い、小型フロッピーディスクでも競合が生じた。1985年の合併にはその突出へブレーキをかける意味があったという見方も当時からあり、社名の綱引きにも曲折があったと伝えられている。自前のブランドを持つことは、親のグループとの距離を測り直す作業でもあったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
時計部品の会社と、五輪の印字装置
1942年5月に長野県諏訪で時計部品の加工を目的に設立された有限会社大和工業は、1959年に第二精工舎諏訪工場から営業を譲り受けて諏訪精工舎となった。1961年12月にはその傘下に信州精器が設立された。時計のパーツ工場として出発した会社で、手元にあったのは、時計という極限の空間に数多くの機能を組み込む精密加工技術であった[1][2]。
1964年の東京オリンピックで、セイコーはオフィシャルサプライヤーとして電池・水晶振動子・半導体で動くクオーツ時計を舞台に載せ、同時に計時されたタイムを素早く印字するミニプリンターを開発した。1964年10月に供給された世界初の水晶式ポータブルプリンター「クリスタル・クロノメーター」がそれで、開発の主役は中村恒也氏と相澤進氏であった[3][4]。
部品を作る限り、名前は表に出ない
諏訪の会社が時計の外へ出る理由は、技術の面と商売の面の両方にあった。技術の側では、部品と材料の自製をたどるうちに幅広い分野の技術者が集まり、時計以外にも生きる蓄積ができていた。諏訪精工舎の中村恒也代表取締役は「メカトロニクスの可能性は大きい。日本楽器製造やキヤノンの例をみるように自社の技術が生きるなら、新しい分野へチャレンジするのが企業経営」と語っていた[5]。
商売の側の理由はもっと切実であった。ミニプリンターと液晶で一流の部品メーカーへ脱皮しても、部品を作る限りは完成品の陰に隠れ、EPSONという名前が客の目に触れることはない。ミニプリンターの商品化を手がけた時から、自社ブランド製品をエンドユーザーへ届けることが会社の悲願であったと、合併直後に書かれた同時代の記録は伝えている[6]。
決断
計時装置の印字技術を事務機へ持ち出す
1968年9月、信州精器はミニプリンター事業を始めた。翌1969年11月に発売した「EP-101」は世界初の商品で、当時のコンピュータや電卓の出力装置はブラウン管しかなく、しかも高価であったため需要は一気に広がった。相澤進専務は後年、これを「時計のパーツ屋が情報機器メーカーへと走り出した記念碑的商品」と呼んでいる。社名EPSONは、このEPの息子という意味であった[7][8]。
開発の作法として、一つの商品が伸びている間に次の分野を探るやり方が採られた。液晶表示体の開発と商品化はミニプリンターが市場を席巻する絶頂期に始動し、電卓や腕時計、各種ゲーム機へ用途を広げて世界首位のシェアを得た。中村恒也氏と相澤氏は「技術の成熟は、即市場の成熟を意味する」と述べ、クオーツ化が時計市場そのものを成熟させた経験をそこに重ねていた[9]。
SEIKOを使わず、別のブランドを立てる
1975年6月、『EPSON』が非時計分野のカンパニーブランドとして制定された。同年4月にはアメリカへ販売会社Epson Americaを設けている。1978年12月にはコンピュータ用プリンター事業を始め、その前段では会計事務所向けのオフィスコンピュータを独自ブランド第一号として送り出し、発売から1年でシェア40%を取った。時計を扱う服部セイコーとは別の販売網を自前で組む道であった[10][11]。
ブランドを立てるだけでなく、売り方の狙いも他社と分けた。開発の方針は「模倣はしない」であり、大衆化と若者という二つの的に集約された。相澤氏は「プリンタや液晶表示体では世界のエプソンも、コンピュータ本体に関してはまったくの無名。他社と同じことをやっていては勝負にならない」と述べ、汎用機が常識だった市場に、あえて用途を限った専用機を並べた[12]。
結果
MP-80と、世界の7割
1980年に発売したパソコン用ターミナルプリンター「MP-80」が、EPSONの名を決定づけた。開発者たちは「オーデイオのシステムコンポの発想をヒントに、コンピュータの周辺機器としてのプリンタを本体から離して単独の商品とした」と語り、この機種は日本で60%、世界市場でも40%のシェアを取った。国内外のパソコンメーカーからOEMの申し出が殺到した[13]。
1980年の時点で、信州精器は世界のSEIKOブランドを使わずにEPSONを確立し、そのプリンターで世界の約7割のシェアを固めていた。売上高480億円、従業員2,000人、プリンター生産量450万個という規模で、親会社の諏訪精工舎の売上高1,000億円のおよそ半分に届いていた。グループの売上高構成比はウオッチ63%に対し、ウオッチ以外が37%を占めていた[14]。
副業が社名を書き替えるまで
伸び方の速さは、グループの主従をしだいに入れ替えていった。諏訪精工舎の中村恒也代表取締役は1980年に、コンピューター端末などメカトロニクスの伸びが時計を圧倒しているとして「拡ウオッチ分野のグループ全体の売り上げに占める比率が50%に達するのは時間の問題」と読んでいた。エプソンの売上高は1975年の282億円から1982年に1,000億円、1984年度には1,500億円を超えた[15][16]。
1985年11月、諏訪精工舎がエプソンを吸収合併し、セイコーエプソンへ商号を変えた。売上高約3,000億円・従業員約7,000人の会社である。合併には、独自ブランドと別の販売会社で突出したエプソンにブレーキをかける意味があったという見方も当時からあった。液晶カラーテレビでは諏訪グループとセイコー電子工業が同じ商品を別の名で売り合っており、新社名に落ち着くまでには曲折があったとも伝えられている[17][18]。
- Decide(決断)3巻11号(あきばよしのぶ, サバイバル出版, 1986年2月)特集「変身セイコー」
- 日経ビジネス 1980年6月2日号「諏訪精工舎グループスタディ「技術本位」で刻むメカトロニクス経営」
- 週刊東洋経済 2005年4月23日号「トップの履歴書 「プリンタ開発の父」が独自技術に磨きをかける 花岡清二 セイコーエプソン社長」
- セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】