五輪の計時装置に付ける印字装置は、注文としては小さな仕事であった。それを時計と縁のない事務機へ持ち出し、EP-101という完成品にまで仕上げたところに、この判断の芯がある。中村恒也氏と相澤進氏が同じ技術で二つの市場を見ていたこと、そして時計の全盛期から機械・電気・化学の技術者を集めていたことが、転用を思いつきで終わらせずに事業へ組み立てられた条件であったとみられる。
ただ、ブランドを立てる決断は摩擦とひきかえであった。SEIKOを使わずEPSONの販売網を自前で組んだ結果、液晶カラーテレビでは諏訪グループとセイコー電子工業が同じ商品を別の名で売り合い、小型フロッピーディスクでも競合が生じた。自前のブランドを持つことは、親のグループとの距離を測り直す作業でもあったといえる。