セイコーエプソン東京証券取引所第一部への株式上場

銀行借り入れと内部資金で足りるのか——服部一族が6割を握る非上場企業が自前の資本調達に移るまで

時期 2003年5月
意思決定者(推定) 安川英昭(会長)・草間三郎 社長
論点 自前の資本調達とセイコーグループ内の関係
概要
2003年6月24日、セイコーエプソンは東京証券取引所第一部に株式を上場した。サントリー、竹中工務店と並んで三大未上場企業とも呼ばれた会社が資本市場に出た判断で、公募価格2,600円を大幅に上回る3,690円の初値をつけた。上場の話は1987年に最初に持ち上がってから16年を経ていた。
背景
1999年3月期の単独売上高は8,247億円、連結では約1兆500億円で、単独経常利益は523億円。売上規模なら石川島播磨重工業、利益額では京セラと並ぶ会社が非公開のままであった。海外での生産・販売が連結売上高の7割を超え、インクジェットプリンターをてこに年1,000億円以上の設備投資を続けていた。
内容
上場は2001年のITバブル崩壊で電子デバイス、とくに半導体事業が打撃を受けて一度断念され、リストラで仕切り直した末の再挑戦であった。2003年5月20日の発表時には市況を疑う声もあったが、幹事証券が三週間で回った国内外150の機関投資家はほぼ全員が参加した。
含意
市場は久々の大型銘柄を歓迎したが、時価総額の対売上倍率はキヤノンとリコーに及ばず、営業利益率の差も明快であった。上場の年度である2004年3月期は回復したものの、3年後の2006年3月期には4度の下方修正と当期純損失179億円が並んだ。資金の道と同時に、四半期ごとの評価が持ち込まれた。
筆者の見解

資本の再編を先に、時計を後に

服部一族が約6割の株を握り、年1,000億円を超える設備投資を銀行借り入れで支える。この組み合わせが、1996年から社内体制を整えてまで上場を求めた理由であったとみられる。「早く上場させてくれというエプソンからの催促は、日増しに強くなるばかりだった」という服部純一セイコーインスツルメンツ社長の言葉が示すのは、上場が資金調達の話であると同時に、グループの中で自分の投資を自分で決める権限の話でもあったことである。

ただ、資本の再編を先に進めたぶん、時計事業の置き場は宙に浮いたまま残った。売上比3%の事業は中期経営計画「SE07」に言及がなく、上場時の投資家説明でその位置が最も問われる点であった。市場に出て3年目の2006年3月期には4度の下方修正と179億円の純損失が並び、事業の畳み替えを株価と四半期の評価に見られながら進める立場へ変わった。上場は資金の道を開くと同時に、使える時間の長さを縮めたといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

三大未上場企業の一つとして

インクジェットプリンターで世界トップシェアを握りながら、セイコーエプソンは非公開のまま来た。1999年3月期の単独売上高は8,247億円、連結では約1兆500億円、単独の経常利益は523億円で、売上規模なら石川島播磨重工業、利益額では京セラと肩を並べていた。株式の約6割は、セイコーグループの創業家である服部一族が握っていた[1][2]

非公開のままでいることの費用は、投資の速さに表れていた。海外での生産・販売はすでに連結売上高の7割を上回り、好調なインクジェットプリンター事業をてこに年間1,000億円以上の設備投資が続いていた。銀行借り入れに頼るだけでは機動的な事業展開に支障を来しかねない状況で、服部純一セイコーインスツルメンツ社長は「早く上場させてくれというエプソンからの催促は、日増しに強くなるばかりだった」と明かしている[3]

立ち消えを繰り返した上場話

上場の話が最初に持ち上がったのは1987年、エプソンが日本で主流だったNECの98シリーズの互換パソコンに参入した年であった。しかし同じ年、グループ総帥の服部謙太郎氏とエプソン社長の服部一郎氏が相次いで他界し、話は立ち消えた。以来、創業一族の調整役はいなくなり、各社の社長もこの問題に口を閉ざした。自前の資本調達を望むエプソンに対し、服部家はセイコー以外のグループ企業の上場に消極的であった[4]

1999年に上場が現実味を帯びた理由として、日経ビジネスは三つを挙げた。メーンバンクの富士銀行と第一勧業銀行が金融統合で一つになること、故服部謙太郎氏の長男である純一氏が同年6月にセイコーインスツルメンツ社長へ就いたこと、そして情勢が整ったことである。前の二つはグループ内の力学をめぐる同誌の読み解きで、確かめられる事実は、1996年から安川英昭社長の指示でいつでも上場できる社内体制作りが進んでいたことであった[5]

決断

一度の断念と、仕切り直しての発表

公開を視野に入れたのは、安川英昭氏が社長へ就いた1991年であった。インクジェットと携帯機器向けデバイスへの集中が実を結び、1990年代に売上は倍増した。ところがITバブルの崩壊が電子デバイス、とりわけ半導体事業を直撃し、2002年3月期の連結は当期純損失184億円に沈んで上場は一度断念された。2003年の上場は、リストラで仕切り直した末の再挑戦であった[6][7]

2003年5月20日、上場が発表された。市況の悪い時期を疑う声も出たが、幹事証券を務めた日興シティグループ証券の林太郎氏は「三週間かけて国内外一五〇の機関投資家を回ったが、ほぼ全員が参加した」と振り返っている。6月24日、東証一部に上場。公募価格2,600円を大幅に上回る3,690円の初値がつき、草間三郎社長は「高く評価していただいた」と述べた[8]

時計事業という難所

グループ内で先に解くべき問題は時計事業であった。服部純一セイコーインスツルメンツ社長は「特にカギになるのは、ウオッチ(時計)事業をどうするかという点だ。これさえ解決すれば、単独で上場してもらって構わない」と述べ、この難所を抜くのを待っていては資本の再編が進まないとして、時計事業の再編と資本の再編を同時に進める考えを示した[9]

エプソンの側では、時計事業だけが環境やブランドといった全社戦略から切り離され、セイコーウオッチの指揮系統下に置かれていた。売上高に占める割合は3%にすぎず、2003年1月の中期経営計画「SE07」には時計事業への直接の言及がなかった。2001年に服部禮次郎会長がグループ各社から引退して以降、社内でも「聖域」だった時計事業の置き場を疑う声が出ていた[10]

結果

久々の大型銘柄と、突きつけられた比較

市場は久々の大型銘柄を歓迎した。ある市場関係者は「NTTドコモ以来の玉」と呼び、一般投資家の新規資金も流れ込んだ。ただ技術立国の復活を重ねた願望の相場は長く続かず、上場の翌日には利益確定の売りで下げに転じた。時価総額の対売上倍率で見れば、精密の二強であるキヤノンとリコーには及ばなかった[11]

収益力の差はさらに明快であった。プリンターで競合するキヤノンが2003年度第1四半期に営業利益率16%を上げたのに対し、エプソンの営業利益率は2002年度で3.7%、2003年度は4.3%への改善を見込む水準であった。草間社長も「現状は最盛期の六割の回復にすぎない」と認め、2007年度に営業利益率7〜10%、2000年度の営業利益1,041億円の水準への復帰を目標に掲げた[12]

上場が持ち込んだ時間の速さ

上場の年度である2004年3月期の連結は、売上高1兆4,132億円・経常利益737億円・当期純利益380億円と回復した。ところが2006年3月期には1年で4度の業績予想の下方修正を重ね、半導体事業を中心に約450億円のリストラ損失を計上して当期純損失179億円に転落した。市場に出てから3年で、上場時に受けた評価は反転した[13][14]

2007年には、一刻も早い業績回復を求める株式市場が改革の速さに不満を持っているようだと外から書かれた。役員報酬の一部は株価連動型へ改められ、残った役員も新たな中期計画を立てて再出発した。非公開のあいだは社内の時計で進められた事業の畳み替えが、上場後は四半期ごとの評価と並んで進む仕事へ変わった[15]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1999年9月20日号「セイコーエプソン、ついに上場へ! 2001年、東京・ニューヨーク同時も」
  • 日経ビジネス 2003年1月20日号「ケーススタディー セイコーエプソン デバイス戦略を大転換」
  • 週刊東洋経済 2003年7月5日号「久々の大型銘柄登場 セイコーエプソン沸騰 市況回復の立役者となるか」
  • 週刊東洋経済 2007年3月3日号「なぜ優等生企業は失速したか 薄れた差別化の優位 セイコーエプソンの憂鬱」
  • セイコーエプソン 有価証券報告書(2002年3月期・2004年3月期・2006年3月期・連結)

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