1959年4月に京都市中央区西ノ京原町に京都セラミック(現・京セラ)を設立。創業者はセラミックの技術者であった稲盛和夫氏(当時27歳)であり、それまで勤務していた松風工業が倒産したため、サラリーマンから起業家に転身した。
稲盛氏は松風工業において、特殊磁器(アルミナ磁器・フォルステライト磁器)の開発に携わっており、当時としては最先端の技術を扱っていた。これらは絶縁の性質に優れており、1960年代以降、主に電子部品に活用される素材であったが、当時は電子部品が普及しておらず市場は限定的であった。
会社設立にあたって、稲盛氏は出資者を募った。この中で、松風工業の勤務時代にともに仕事をしていた青山政次氏の紹介で、宮木電機の専務であった西枝氏(青山氏の大学時代の友人)に接触。そして、宮木電機の創業家である宮木氏は、稲盛氏の「情熱」を評価してシード出資を決定した。
1959年における京セラの会社設立時の資本金は300万円であり、1962年7月までに増資を3回実施。1963年時点で資本金を1700万円となった。
出資により設立された経緯から、資本政策の面では、稲盛氏は筆頭株主ではなかった。ただし、1971年の株式上場までの間に稲盛氏は株式を買い戻し、上場直後の1972年5月時点で稲盛氏は京セラの筆頭株主(保有比率31.6%)となった。
1963年の時点で筆頭株主は宮木男也氏(宮木電機社長・4,300株)であり、続いて西枝一江氏(宮木電機取締役・4,000株)、青山政次氏(3,700株)、稲盛和夫氏(3,500株)という保有順であった。
したがって、京セラは稲盛氏が創業した会社であったが、資本政策の面では宮木電機の影響を受けており、京都の財界人が支援する特殊な企業であった。
稲森和夫氏がセラミック技術者であり、松風工業時代にアルミナ磁器の開発に携わったことから、京セラは創業期からセラミックを活用した製品を展開した。そして、創業期の主力製品に育ったのが、ブラウン管テレビ向けの部品「U字ケルシマ」であった。U字ケルシマはセラミック(高周波絶縁のフォルステライト磁器)の絶縁部品であり従来は高額な輸入品が主流であったが、京セラは自社開発によって国産化に成功。
そして、U字ケルシマの大口納入先は松下電器(パナソニック)であり、月産20万本の量産体制を構築。1950年代を通じてブラウン管テレビの普及に合わせて、京セラも業容を拡大した。
1963年までに、パナソニック・三菱電機・ソニー・東芝・日立・NECなどの大手電機メーカーとの取引を開始し、電子部品メーカーとして発展。創業翌年から黒字を確保し、1963年には売上高8400万円に対して営業利益1190万円を計上。従業員数は129名に達し、京セラは高収益な中小企業となった。
稲盛氏が経営トップを歴任した1959年から1986年にかけて、京セラは「中小企業から大企業」へと業容を拡大したが。戦略を策定せずに経営を遂行した。数年にわたる経営計画は外部環境によって左右されると考え、経営計画は「年次計画」のみとして経営に従事した。
かねてより稲盛氏は「来年のことはおおよそ予想がつく。しかし、2年先、3年先、5年先というのは」という持論を展開しており、1986年に稲盛氏が社長から会長を退いた後、京セラは経営計画に基づく経営に移行した。
私は京セラを設立して36年になりますが、本日の演題とは反対に、これまで戦略というものを余り仕組んできたことがありませんでした。特に私が社長を務めている間は、中長期の経営計画はなく、年次計画岳がありました。それは中長期経営計画を作っても、自分たちの意思とは無関係の景気変動など様々なファクターによる狂いが出てきますので、スケジュール通り展開しようとすると無理が生じてくるからです。
会社設立時からごく最近まで「今日1日最善を尽くして生きれば、明日は見えてくる。今月1ヶ月精一杯生きれば、来月は予想がつく。本年一杯一生懸命生きれば、来年のことはおおよそ予想がつく。しかし、2年先、3年先、5年先というのは、誠に神ならぬ身にわかるわけがない」ということで今日の京セラグループを作り上げたわけです。
1963年に京セラは滋賀工場を新設。敷地面識8000坪の大規模工場であり、中小企業であった京セラにとっては量産体制の確立を賭けた大型投資であった。同時に、1963年3月時点で従業員数200名の体制となり、会社設立からわずか3年で規模を大きく拡大した。
設備投資の狙いは、海外(欧米)からの受注であった。京セラは、日本企業からは中小企業として相手にされなかったことを受けて、海外で受注することを優先。量産の根拠となる工場を先に新設し、1964年より受注攻勢をかけた。
1966年に京セラは、米国の大手コンピュータメーカーであるIBMから「IC用アルミナ・サブストレート基板」の受注に成功した。IBMはは汎用コンピュータ「System360」の量産を目指しており、新しい電子部品としてIC(集積回路)を採用。このICの基板を日本の中小企業であった京セラに発注する形となった。
京セラとしては、IBM向けの基板納入が、半導体向けセラミック製パッケージへの本格進出となった。1960年代はICは普及途上にあったが、1970年代以降の半導体の需要増大に合わせて、京セラはパッケージ基板の供給によって業容を拡大するチャンスをつかんだ。
ベンチャーで始めたファインセラミック事業が、国内ではなかなか信用が得られませんでした。そこで、日本の電子機器メーカーが米国企業と技術提携、技術導入していた関係もあり、いち早く日本の方々が学んでいたアメリカの技術の大本のところでセラミックを採用して貰えば、日本でも販売しやすいのではないか、という単純な考え方で、創業3年目から、つまり従業員数が100名以下で、年鑑売上も5000万から1億円の間の頃から、米国における市場開拓を始めたわけです。
1960年代後半に京セラは、米フェアチャイルド社よりセラミック製の積層パッケージの開発要請を受けて、研究開発を開始。従来のパッケージは単層であったため、開発は難航したが、1968年に京セラはセラミック積層パッケージの開発に至った。
京セラはセラミック積層パッケージへの大型投資を決定。1969年に鹿児島県・川内工場を新設し、積層パッケージの量産体制を確立した。1973年3月期時点の川内工場に対する投下資本(土地・建物・機械)は5.6億円であり、当時の京セラの売上高(70億円前後)対比で相応の金額を投資した。
なお、1968年時点で積層パッケージに対する需要は未知数であり、京セラは市場規模が不明な新製品について、将来の需要増加を見込んで巨額投資を実施する決断を下した。この決定について、稲盛氏は「ギャンブルに近いこと」という心境であったという。
1970年代を通じて京セラはセラミックパッケージの好調により業容を拡大。高度な焼成技術が要求されるため参入障壁の高いビジネスであり、1983年には世界シェア約70%を確保した。
売上高の面では、65億円(FY1971)から503億円(FY1978)へと急成長し、利益の面では当期純利益ベースで11億円(FY1971)、68億円(FY1978)を確保した。このため、高収益と高成長を両立し、京セラは急成長ベンチャー企業として脚光を浴びた。
※川内工場新設時の社内会議にて
どこまで売れるか定かでないものに何億円もかけて積極的に展開し、多くの従業員を採用したのは、わが社の創立以来初めての豪快なものだった。私は川内工場に行って、今月は2000万、今月は3000万を損したといい、旧事業部の連中には、こういう時こそ頑張らんといかんとハッパをかけた。それがジャストタイミングで今度の不況にぴったりあって、ギャンブルに近いことが成功した。
私はついているから必ず行けます。信じてついてきてください。絵に描いた餅をどうしても突き上げる執念が必要です。
セラミックパッケージによる業容拡大を受けて、京セラは1971年10月に大阪証券取引所に株式上場。設立12年目で株式上場を果たし、急成長企業として注目を集めるに至った。
1994年時点で京セラは「セラミック及び関連製品」「光学精密機器(カメラなど)」「電子機器(通信・事務機)」の3つの事業から構成され、このうち、セラミック関連製品が400〜600億円の事業利益を確保する一方、光学精密機器は赤字、電子機器は100億円未満の利益と低収益の状況に陥った。このため、祖業であるセラミック関連製品の黒字が、多角化した事業の不振を支える構造となった。
高成長、高収益企業と言われた京セラも、そういうイメージが薄くなってきた。それは何も京セラのエネルギーがなくなってきたのではなくて、日本経済そのものが成熟してきたからだ。あらゆる産業分野に同じことが起こっている。過去の高度成長、高収益との決別は、京セラについても言える。それでも比較論から言ったら、やっぱり成功し、高収益を維持している。私の後輩の人たちは素晴らしい経営をしている。
1990年代を通じて半導体パッケージの素材が、セラミックから樹脂製へと転換。競合のイビデンはいち早く樹脂製パッケージを開発して1996年にインテルと取引を開始したのに対して、セラミック製が中心であった京セラは樹脂への転換で苦戦。CPU向けのパッケージについて、イビデンなどの樹脂製メーカーにシェアを奪還される形となった。
京セラは、経営危機に陥った三洋電機から「携帯電話事業(携帯電話端末・PHS端末・PHS基地局・WiMAX基地局)」の取得を決定。三洋電機の携帯電話事業の売上高は2773億円(FY2006)であったが、営業赤字であり低迷していた。京セラによる取得額は約500億円であり、三洋電機の住江工場の一部も同時に取得した。
三洋電機の携帯電話事業部門の社員も京セラに転籍する形をとり、京セラが事業再建を行う体制をとった。京セラとしては「アメーバ経営システム」を導入し、コスト競争力を高めることで黒字化を目指す計画であった。
ところが、2010年代を通じてスマートフォンが普及したことによって、従来方式の携帯電話の端末需要が減少。コスト競争力を高める目論見は外れ、ガラケーの市場が消滅する事態に直面した。この結果、京セラの通信機器事業は、三洋電機の買収以降、業績低迷に陥った。