東京センチュリー設立34年目の東京証券取引所第二部上場

商社・銀行・生保4社の合意で動いてきたリース会社が、自己資本比率2.9%のまま公開市場へ出た

時期 2003年9月
意思決定者(推定) 福田光昭 社長
論点 資本政策と調達基盤
概要
2003年9月18日、センチュリー・リーシング・システム(現東京センチュリー)が東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。新株1,000万株を発行価格800円で公募し、払込金総額は75億2,000万円であった。設立から34年、それまで同社株は非上場・非登録であった。
背景
伊藤忠商事・第一銀行・日本生命保険・朝日生命保険の4社が1969年に共同出資して設立した会社で、資金調達は株主4社の信用に支えられていた。2003年3月期の連結自己資本比率は2.9%、総資産7,651億円に対し純資産は218億円にとどまっていた。
内容
公募により資本金は86億7,700万円から118億6,700万円へ、資本準備金は12億700万円から55億3,700万円へ増えた。発行済株式総数は4,212万株から5,212万株となった。既存株主の顔ぶれは変わらず、伊藤忠商事が筆頭株主の位置を保った。
含意
連結自己資本比率は2004年3月期に4.9%へ改善し、翌2004年9月には市場第一部銘柄へ指定替えとなった。2006年3月には格付投資情報センターの格付を新たに取得したうえで、同社として初めての無担保普通社債100億円を発行した。
筆者の見解

4社の名前で借りる会社から、自分の名前で借りる会社へ

1969年から2003年までの34年間、この会社の信用は株主4社の名前でできていた。伊藤忠商事の案件と第一銀行系の与信、日本生命保険と朝日生命保険の資金。総資産8,000億円を自己資本186億円で回せたのは、貸し手が同社の背後に4社を見ていたからにほかならない。上場によって同社が手に入れたのは、公募で得た75億2,000万円という現金だけではない。株価と格付によって毎日値付けされる、自分自身の信用であった。

もっとも、上場は株主の顔ぶれを動かさなかった。2006年3月末になっても伊藤忠商事は20.13%を持ち、上位10名で59.23%を占める。以後の歴代社長も日本生命保険、みずほ系、伊藤忠商事の出身者が続き、株主構成が経営体制を決める型は残った。変わったのは資金の取り方であって、会社の成り立ちではない。上場から3年後の2006年3月、同社は自社の格付を取り直したうえで、初めての無担保普通社債100億円を自分の名前で発行した。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

34年間、株主4社の合意で動いた会社

センチュリー・リーシング・システムは1969年7月、伊藤忠商事・第一銀行・日本生命保険・朝日生命保険の4社が資本金500百万円を出し合って東京に設立された。商社が物件を供給し、銀行が与信を見て、生保が資金を出すという分担が、そのまま株主構成に写されていた。以後34年にわたって同社株は非上場・非登録であり、株主総会は事実上4社とその周辺の持ち合い先で構成されていた。事業の意思決定も、この4社の合意が前提にあった[1][2]

事業そのものは規模を保っていた。2002年3月期の連結売上高は3,074億円、2003年3月期は3,268億円で、経常利益も69億円から89億円へ伸びていた。情報関連機器・通信機器・各種機械設備の賃貸と割賦販売を柱に、子会社23社を抱えるグループを形成していた。上場していないことが事業の制約になっていたわけではなく、四半世紀にわたり非公開のまま業界の中位を占めてきた会社であった[3]

総資産7,651億円を支える純資産218億円

問題は資本の薄さにあった。2002年3月期の連結総資産8,085億円に対して純資産は186億円、自己資本比率は2.3%でしかない。2003年3月期も総資産7,651億円に対し純資産218億円、自己資本比率2.9%であった。リースは調達した資金で物件を買い、それを貸して回収する商売で、資産が伸びるほど借入も増える。自己資本がこの水準では、資産を積み増す余地そのものが限られていた[4]

薄い自己資本を補っていたのが株主4社の存在であった。第一銀行の系譜を引く銀行が与信の後ろ盾となり、伊藤忠商事が案件を持ち込む。この構図は調達コストの面では有利に働いたが、資金の出し手から見れば同社の信用は株主の信用と分かちがたい。自前の格付けで社債市場から直接資金を取る道は、2003年の時点ではまだ開かれていなかった。株主に依存しない調達手段を持つことが、資本政策の課題として残っていた[5]

決断

2003年9月18日、公募1,000万株

2003年9月18日、同社は東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。上場に際してはブックビルディング方式による有償一般募集で新株1,000万株を発行し、発行価格800円、引受価額752円、発行価額638円で、払込金総額は75億2,000万円となった。それまでの増資は従業員持株会や役員21名を割当先とする第三者割当で、1回あたり1,020千株・206千株という小規模なものであった。1,000万株の公募は、同社にとって桁の違う調達であった[6]

この払込みで資本金は86億7,700万円から118億6,700万円へ、資本準備金は12億700万円から55億3,700万円へ増えた。発行済株式総数は4,212万株から5,212万株となり、既存株式の約24%にあたる新株が市場に放出された計算になる。上場初年度にあたる2004年3月期の株価は最高1,240円・最低640円で推移し、公募価格800円をはさんで上下した。上場の月に東京証券取引所を縦覧場所に加えたことが、有価証券報告書の表紙にも記載された[7]

資本は増やしても、株主の顔ぶれは動かさない

上場後も株主構成の骨格は保たれた。2006年3月末の大株主は伊藤忠商事20.13%、日本生命保険9.90%、朝日生命保険7.27%で、みずほコーポレート銀行が4.04%を持つ。設立時の4社がそのまま上位に並び、清和綜合建物・ユウシュウコープ・中央不動産といった関係先と従業員持株会を合わせれば上位10名で59.23%を占めた。浮動株は限られ、公開会社になっても支配の所在は移らなかった[8]

つまりこの上場は、経営権の市場への開放ではなく、資本の追加と信用の外部化を目的としたものであった。株主4社は持分の希薄化を受け入れる代わりに、追加出資の要請から解放される。会社は株主に頼らない資本を得る。1株当たり配当額は2003年3月期の10円から2004年3月期15円、2005年3月期17円50銭、2006年3月期20円へ引き上げられ、公開会社としての配当政策が形を取り始めた[9]

結果

自己資本比率4.9%と、1年後の第一部指定替え

公募増資の効果は決算数値にすぐ表れた。2004年3月期の連結純資産は218億円から366億円へ増え、自己資本比率は2.9%から4.9%へ上がった。総資産は7,423億円と前期から減っており、資本を厚くしながら資産を絞る運営がとられている。当期純利益は53億円で前期の37億円から拡大し、自己資本利益率は18.3%を保った。翌2004年9月、同社は東京証券取引所市場第一部銘柄に指定された。上場から1年での指定替えであった[10][11]

自己資本比率はその後も年を追って上がり、2006年3月期6.7%、2007年3月期6.9%、2008年3月期と2009年3月期は7.2%に達した。株価は2006年3月期に最高2,240円をつけ、公募価格の3倍に近い水準まで買われた。上場前の2003年3月期に18.6%あった自己資本利益率は2006年3月期15.6%、2008年3月期11.6%へ下がっており、資本を厚くしたことの裏返しとして資本効率は落ちている[12]

4社の信用から、自社の格付へ

上場が資本以外にもたらしたのは、信用の作り方の変化であった。同社は日本格付研究所の格付(長期A−、短期J-1)に加え、2006年3月期に格付投資情報センターから長期A−・短期a-1の格付を新たに取得した。そのうえで同年3月、設立以来初めての無担保普通社債100億円を発行している。コマーシャル・ペーパーの発行と短期借入で資金原価を抑えつつ、長期固定金利資金を一定額確保する運営も並行して進められた[13][14]

資本の厚みは、その後の判断の前提にもなった。2006年10月には伊藤忠(中国)集団との共同出資で上海に盛世利(中国)租賃有限公司を設立して中国向けリース事業へ入り、2008年9月には東京リースとの合併の基本合意に至る。合併時の議決権比率は存続会社側が49.0%と半分を割ったが、上場企業同士であればこそ第三者評価機関による合併比率の算定という手続で決着させられた。非公開のままでは取れなかった選択肢であった[15][16]

出典・参考
  • センチュリー・リーシング・システム 有価証券報告書(2006年3月期・第37期)
  • 東京センチュリーリース 有価証券報告書(2009年3月期・第40期)
  • 東京センチュリー 有価証券報告書【沿革】

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