1942年5月、長野県諏訪に有限会社大和工業が時計部品の加工を目的として設立[1]された。1959年5月には服部時計店系列の第二精工舎諏訪工場から営業を譲り受けて有限会社諏訪精工舎へ商号を変え[2]、同年9月に株式会社へ組織を変更した[3]。1961年12月には傘下に信州精器株式会社を設立し[4]、時計部品の仕上げ加工を担わせた。実質的な創立者である山崎久夫元代表取締役は全国の大学を歩いて学卒者を集め[5]、大学の正門前に腰をおろして目当ての学生が現れるのを待った[6]と伝えられる。第二次大戦後に疎開先から引き揚げる第二精工舎の技術者へ、諏訪に残るよう説いたのも山崎氏[7]であった。
時計を作るために必要な部品は、当時ほとんど手に入ら[8]なかった。ぜんまい式の時代には時計用の工作機械さえなく[9]、クオーツを開発したときも、低消費電力を特徴とするC-MOSや水晶発振子、1秒ずつ時を刻むステッピングモーターは世の中に存在しなかった[10]。手に入る部品と材料で間に合わせる道を採らず、すべて自分達で苦しんで作ろうと決めたところから、部品と材料へさかのぼる内製化が始まった[11]。1980年の時点で時計部品の内製化率は、種類の単位でみるとほぼ100%[12]に達した。技術者の採用はエレクトロニクスと機械をそれぞれ35%ずつ、残りを物理・化学・金属に分け[13]、専門の偏りを避けていた。
グループ全体の技術者は約1,000人で、うち大卒者は600人であった[14]が、入社6年目あたりからグループリーダーとして開発テーマを与えられ、以後は自力で勉強して問題を解くことを求められた[15]。エレクトロニクス出身のリーダーの下に機械出身者を置くというように専門を交差させ、学際・複合領域に強い技術者を育てる形[16]が定着した。
1964年の東京オリンピックで、セイコーはオフィシャルサプライヤーとしてクオーツ時計を開発し、同時にその時計で計時されたタイムを印字するミニプリンター[17]を開発した。東京五輪に使われた世界初の計時機械のプリンターで、開発の主役を務めたのは中村恒也氏と相澤進氏[18]であった[19]。時計という極限の空間に多くの機能を組み込む精密加工技術が、時計と関係のない事務機の側で生きた最初の場面である。1968年9月、信州精器はこの印字技術をもとにミニプリンター事業[20]を始めた。翌1969年11月に発売した『EP-101』は世界初の商品で、当時のコンピュータや電卓の出力装置はブラウン管しかなく高価であったため、需要は一気[21]に広がった。
社名の EPSON は、この EP に息子を意味する SON を続けた語[22]である。相澤進専務は後年、EP-101 を時計のパーツ屋が情報機器メーカーへ走り出した記念碑的商品[23]と呼んだ。液晶表示体の開発と商品化はミニプリンターが市場を席巻する絶頂期に始動し、電卓・腕時計・各種ゲーム機へ用途を広げて世界首位のシェ[24]アを得た。1973年11月には半導体事業[25]、1976年7月には水晶デバイス事業を始めた[26]。1968年8月にはシンガポールに製造会社Tenryu(Singapore)Pte. Ltd.を[27]、1974年2月には香港にSuwa Overseas Ltd.を設けた[28]。
1975年6月、『EPSON』が非時計分野のカンパニーブランドとして制定[29]された。同年4月にはアメリカに販売会社 Epson America を設け、同じ年に眼鏡レンズ事業[30]も始めた。部品を作る限りは完成品の陰に隠れ、作り手の名前が客の目に触れるこ[31]とはない。ミニプリンターを商品化したときから、自社ブランドの製品を最終利用者へ届けることが会社の願いであったと、合併直後の記録に残[32]された。SEIKO を冠さずに別の名前を立てることは、時計を扱う服部時計店とは別に、販売網を自前で組むことを意味した。
ブランドを立てるだけでなく、売り方の狙いも他社と分けた。開発の方針は模倣をしないことに置かれ、大衆化と若者という二つの的[33]に絞られた。1978年12月にはコンピュータ用プリンター事業を始めており[34]、その前段では会計事務所向けのオフィスコンピュータを独自ブランドの第一号として送り出し、発売から1年でシェア40%を取った[35]。相澤進氏は、プリンタや液晶表示体では世界のエプソンであってもコンピュータ本体では無名であり、他社と同じことをやっていては勝負にならないと述べ[36]、汎用機が常識だった市場に、あえて用途を限った専用機を並べた[37]。
1980年に発売したパソコン用ターミナルプリンター『MP-80』が、EPSON の名[38]を決めた。開発者たちは、オーディオのシステムコンポの発想をもとに、コンピュータの周辺機器としてのプリンターを本体から切り離して単独の商品にした[39]と語った。この機種は日本で60%、世界市場でも40%のシェアを取り、国内外のパソコンメーカーからOEMの申し出[40]が相次いだ。1980年の時点で信州精器は SEIKO を使わずに EPSON を確立し、そのプリンターで世界の約7割のシェア[41]を固めた。売上高480億円・従業員2,000人・プリンター生産量450万個で、親会社である諏訪精工舎の売上高1,000億円のおよそ半分に届い[42]ていた。
1979年の諏訪精工舎グループ8社の申告所得は合計279億円[43]に達した。分社経営を採らずに1社で事業を展開していれば、申告所得の順位で56位に並んだ計[44]算になる。セイコーグループ全体の申告所得は545億8,100万円で、服部時計店グループが104億9,200万円、精工舎グループが39億1,100万円、第二精工舎グループが122億4,900万円であり[45]、諏訪精工舎グループが最も大きかった。グループの売上構成比はウオッチが63%、ウオッチ以外が37%で[46]、諏訪精工舎の中村恒也代表取締役は、拡ウオッチ分野の比率が50%に達するのは時間の問題だと読んでいる[47]。
1985年11月、諏訪精工舎はエプソン株式会社を吸収合併し、セイコーエプソン株式会社へ商号[48]を変えた。売上高約3,000億円・従業員約7,000人の会社[49]である。エプソンの売上高は1975年の282億円から1982年に1,000億円、1984年度には1,500億円を超えており[50]、独自ブランドと別の販売会社で突出した子会社にブレーキをかける意味があったという見方も当時からあった[51]。液晶カラーテレビでは諏訪グループとセイコー電子工業が『テレビアン』『マイチャンネル』として同じ商品を別の名で売り合っており[52]、新しい社名に落ち着くまでには曲折があったとも伝えられる。
エプソンがパソコンの開発に取り組み始めたのは1980年[53]である。1985年には海外向けにIBM互換機を発売し、ライバルより安い価格を武器に一時は米国市場で第5位のシェ[54]アを得た。1984年度の売上高1,570億円のうち65%が輸出で、部品を除いた完成品だけに絞れば輸出比率は80%に達し、その7割近くが米国向け[55]であった。全米を12地域に分け、各地域に現地業者との共同出資会社であるディストリビューターを1社ずつ置き、その下に約2,000社のディーラーを配する販売網[56]が、この伸びを支えた。
1987年3月、エプソンは日本電気の『PC-9801』シリーズと互換性を持つ『PC-286モデル1、2、3』[引用元][57]を発表した。日本電気は東京地方裁判所へ製造販売差し止めの仮処分を申請し、エプソンは4月にこの3機種の製造と販売の中止を発表して『PC-286モデル0』を出荷した[58]。両社は同年11月に和解した[59]。モデル0の価格は35万7,000円で、ほぼ同じ機能の日本電気製品が39万8,000円から43万3,000円であったから、5万円[60]以上安い。同年12月にはラップトップ型の『PC-286L』を日本電気に先駆けて[61]発売した。1989年6月に出した『PC-286 NOTE EXECUTIVE』はA4判で厚さ35ミリ、重量2.2キログラム、価格は45万8,000円[62]である。当時の携帯用パソコンは重さ9キロ前後が中心[63]であった。
互換機は本家に対して価格か機能のどちらかで先行しなければ立ち[64]行かない。エプソンの互換機は発売1年目に6万台、次の年に12万台と伸びたが、その後は3万台、9万台と振るわ[65]なかった。同じ期間に日本電気は40%前後の伸びを続け、1990年5月には累計販売台数300万台[66]を突破した。1987年ごろ、パソコンに載せるMPUがインテル286からより処理能力の高い386へ移ろうという時期に、286搭載機が好調だったことがかえって移行を遅らせ、在庫の山を築いた[67]。当時パソコン事業を立ち上げた木村登志男氏は、経営判断のミスが積み重なり勝ち馬に乗れなかった[68]と認めた。
1988年末、中村恒也社長は1993年までにフロンの使用を止める[69]と決めた。1987年に採択されたモントリオール議定書が定める削減日程よりも早い目標[70]である。半導体や液晶の歩留まりは洗浄の確かさに支えられ、人体に無害で洗浄力の高いフロンは精密部品の現場に広く行き渡っ[71]ていた。1988年度の使用実績は1,400トンで[72]、内訳は眼鏡用レンズなどの光学部門が約4割、液晶パネルなどの表示体部門が2割、時計部品やディスクドライブ部品などの精密部品部門が2割を占める[73]。用途では水切り乾燥が62%、洗浄が30%[74]であった。
フロンは万能な溶剤で、コストも製品原価に大きく反映するほどではなかったため、問題が持ち上がるまで全社でどれだけの量を使っているかさえ把握されてい[75]なかった。1988年8月に社内調査委員会『フロンレス推進委員会』が動き[76]、同年12月には生産技術本部内の専従組織『フロンレス推進センター』が長野県茅野事業所に置かれた。専従者はわずか6人である[77]。洗浄工程の要否をTQCの手法で点検して6%、水切り乾燥をスピンドライヤーへ切り替えて26%、蒸散防止と回収の徹底で18%を削り[78]、1989年末には月次の使用量が年換算で700トンとピークの半分になった[79]。1990年度中にはさらに前年度から半減させ、年間300トン台に持っていく計画[80]であった。
現場の管理による削減はここで限界に達し、代替技術の確立と、200社ほどある外注企業への導入という難所が残った[81]。フロンレス洗浄装置は外注先の付加価値や生産性に直接は寄与せず、純水洗浄に必要な排水処理装置まで含めれば負担は重い[82]。推進センターは外部の機械メーカーと組んでできるだけ安価な洗浄機械の共同開発に取り組み[83]、自社の脱フロン技術を公開する道を選んだ。セイコーエプソンは1993年に全世界でのフロン全廃[84]を達成した。
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|---|---|---|---|---|
| 1942〜1978年時計部品の下請け工場が自社の名前を持つまで(1942〜1978) | 大和工業設立 | ★★ | ||
| 第二精工舎諏訪工場より営業譲受、諏訪精工舎に商号変更 | ★★ | |||
| 諏訪精工舎に組織変更 | ★ | |||
| 信州精器(後のエプソン)設立 | ★ | |||
| 東京オリンピックで『クリスタル・クロノメーター』を提供 | ★ | |||
| 世界初の水晶式ポータブルプリンター | ★ | |||
| 製造会社Tenryuを設立 | ★ | |||
| 東京オリンピックの計時用プリンターの事業化と、『EPSON』ブランドの制定 1964年10月の東京オリンピックで、セイコーは計時されたタイムを印字するミニプリンターを世界初の水晶式ポータブルプリンター『クリスタル・クロノメーター』として供給した。諏訪の時計部品メーカーはこの印字技術を時計と関係のない事務機の側へ持ち出し、1968年9月にミニプリンター事業を始め、1975年6月には『EPSON』を非時計分野のブランドとして制定した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 半導体事業開始 | ★ | |||
| 販売会社Epson America設立、眼鏡レンズ事業開始 | ★ | |||
| 『EPSON』ブランドを非時計分野のカンパニーブランドとして制定 | ★ | |||
| 水晶デバイス事業開始 | ★ | |||
| コンピュータ用プリンター事業開始 | ★★ | |||
| 1979〜1989年プリンターで世界を取り、パソコンで他社の土俵に乗る(1979〜1989) | エプソン販売設立 | ★ | ||
| 製造会社Epson Portland設立 | ★ | |||
| エプソンを吸収合併しセイコーエプソンに商号変更 | ★★ | |||
| 規制の削減日程に先立つフロン全廃の決定と、外注企業を含む洗浄工程の切り替え 1988年末、セイコーエプソンの中村恒也社長は1993年までにフロンの使用を止めると決めた。1987年に採択されたモントリオール議定書が定める削減日程よりも早い目標であった。同年12月に専従組織『フロンレス推進センター』を長野県茅野事業所に置き、1年後の1989年末には使用量をピークから半減させた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 液晶プロジェクター事業開始 | ★ | |||
| 1990〜2002年初の減収減益からインクジェットによる立て直しへ(1990〜2002) | 地域統括会社Epson Europe設立 | ★ | ||
| 安川英昭 | エプソンダイレクト設立 | ★ | ||
| 安川英昭 | P.T. Indonesia Epson Industry設立 | ★ | ||
| 安川英昭 | Suzhou Epson Quartz Devices設立 | ★ | ||
| 安川英昭 | 中国地域統括会社Epson China設立 | ★ | ||
| 2003〜2024年上場とデバイス事業の清算、プリンティング一本への集約(2003〜2024) | 草間三郎 | 電子デバイス事業の縮小と、中小型液晶ディスプレイ事業資産の譲渡 2003年1月、セイコーエプソンは中期経営計画『SE07』で電子デバイス事業の使命を置き替え、映像分野の完成品へ資源を集める方針を社内に示した。世界で1位か2位を取れない事業から手を引くという1990年代からの基準を、部品事業そのものに当てはめた判断であった。液晶ディスプレイの分社を経て、2010年4月に中小型液晶ディスプレイ事業資産の一部を譲渡するまでに8年を要した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 草間三郎 | 東京証券取引所第一部への株式上場 2003年6月24日、セイコーエプソンは東京証券取引所第一部に株式を上場した。サントリー、竹中工務店と並んで三大未上場企業とも呼ばれた会社が資本市場に出た判断で、公募価格2,600円を大幅に上回る3,690円の初値をつけた。上場の話は1987年に最初に持ち上がってから16年を経ていた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 草間三郎 | 液晶ディスプレイ事業を三洋エプソンイメージングデバイスとして分社 | ★ | ||
| 碓井稔 | 社長交代(花岡清二→碓井稔) | ★ | ||
| 碓井稔 | 営業赤字▲16億円・純損失1,113億円 | ★★ | ||
| 碓井稔 | 当期純損失▲197億円 | ★ | ||
| 碓井稔 | 中小型液晶ディスプレイ事業資産の一部を譲渡 | ★★ | ||
| 碓井稔 | 眼鏡レンズ事業譲渡 | ★ | ||
| 碓井稔 | エプソンイメージングデバイスを吸収合併 | ★ | ||
| 小川恭範 | 社長交代(碓井稔→小川恭範) | ★ | ||
| 小川恭範 | 小川社長が『人員を増やさず』固定費削減方針を表明 | ★ | ||
| 小川恭範 | 初の大型買収——米Fiery社の子会社化とソフトウェアへの投資 2024年9月、セイコーエプソンは米国の印刷ソフトウェア企業Fiery(ファイアリー)社を約845億円で完全子会社化すると発表した。2003年の上場以来で最大の買収で、売上高の約7割をプリンティング事業が占めるハード中心の会社が、弱点だったソフトウェアを外部から取り込む判断であった。12月に手続きを完了した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 小川恭範 | 通期売上1兆3,629億円・営業利益751億円 | ★ | ||
| 吉田潤吉 | 社長交代(小川恭範→吉田潤吉) | ★ |
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事実根拠:出所(セイコーエプソン)