安井兼吉氏が熱田兵器廠のエンジニアを辞めて、名古屋市内でミシンの修理および部品製造店を開業。使い物にならなくなった中古ミシンを買い取って修理・販売していた。当時は、国内の精密加工技術が未熟だったため、外国製ミシン(シンガー社)が市場を席巻しており、安井ミシン商会はミシンの修理に徹していた。

安井兼吉氏が熱田兵器廠のエンジニアを辞めて、名古屋市内でミシンの修理および部品製造店を開業。使い物にならなくなった中古ミシンを買い取って修理・販売していた。当時は、国内の精密加工技術が未熟だったため、外国製ミシン(シンガー社)が市場を席巻しており、安井ミシン商会はミシンの修理に徹していた。
創業者の安井兼吉氏が逝去したことを受け、息子の安井正義氏(当時22歳)が家業を引き継いだ。正義氏の弟5人と妹4人の合計10人が、ミシン修理業に従事したことから、屋号を「安井ミシン兄弟商会」へと変更。名古屋市内の商店街である熱田伝馬町に店を構えた
経済不況によりミシン修理の需要が減少した。そこで、ミシン製造に参入することを決定。部品加工の旋盤(自由エキセン旋盤)の内製化に成功し、これを受けて「麦わら帽子製造用環縫ミシン」を開発。販売のために商標「BROTHER」を制定した。これらの経緯から、ブラザーは工作機械の内製化に特色があるミシンメーカーとなり、生産技術に強みが蓄積された。
戦前の日本では米国のシンガー社が日本市場のシェア90%を握っていた。安井正義氏は外貨が流出することを危惧してミシンの国産化を決意。ミシンの国産化を実現し、国産の家庭用ミシン「家庭用本縫ミシン15種70型」を開発した。以後、ブラザーは国内のミシンの主力メーカーとして業容を拡大する
その後、1930年代を通じて日本は戦時体制に突入し、日本のミシン市場の100%を独占していたシンガー社が撤退。そこで、ブラザーはシンガー社撤退のチャンスをものにすべく株式会社に組織変更して、業容の拡大に備えた
ミシンの国内販売を拡大するために「ブラザーミシン販売株式会社」を設立し、製造と販売で別法人とした。シンガー出身の営業マンによって経営されたため、資本関係も希薄で、ブラザー販売は子会社ではなかった。この販売政策は1990年代まで続いたが、ブラザー工業(製造)が販売をコントロールできないという負の側面を残してしまった。
ミシンが夏に売れる季節商品だったため、工場稼働率を安定化するために新規事業の本格展開を開始。ミシンの製造で培った金属のプレス加工技術を活かして、編み機と家電の製造を開始した。家電領域では、1954年に洗濯機に参入、1957年には冷蔵庫に参入し、1970年代のブラザーの売上高のうち、10%〜20%を家電が占めた。
ミシンの海外輸出を本格化するため、北米に現地法人を設立
輸出子会社の現地社長に要請される形で、欧文タイプライターの生産を開始。ブラザーは安さを武器としており、当時、事務合理化を目指していた米国企業のニーズを捉えた。ブラザー工業にとっては事務機器領域への参入となった
ミシン製造のために内製化していた工作機械(タッピングマシン)の外販を開始
経営の多角化を受けて「日本ミシン製造株式会社」から「ブラザー工業株式会社」に商号変更
経営不振に陥っていたイギリスの大手ミシンメーカー・ジョーンズ社(英国内のシェア2位)の株式42.5%を取得。さらに1972年までに株式の追加取得を実施して52%を確保する方針を公表。ブラザー工業にとっては、欧米における販売シェアの確保がねらい。初の本格的な海外買収であり「ブラザーの英国上陸」として注目を集めた
米セントロニクス社向けのOEMとして、ドットプリンターの生産を開始。事務機領域で「タイプライター」にかわる製品として、プリンターに注力する原点となった
1971年のニクソンショックを契機として、日本国内で円高ドル安が進行。ブラザーでもミシン輸出の採算が悪化したため、台湾に生産工場を新設して為替リスクの低減を目論んだ
FY1983において売上構成比の内訳で、事務機器(39.3%)に対してミシン(27.9%)となり、事務機器が祖業のミシンを凌駕した。ブラザーの事務機器の主力はオフィス向けタイプライターであり、業態転換が鮮明となった
タイプライターの欧米への輸出に対して、日本のタイプライター業者と輸出国の間で貿易摩擦が発生。政治問題に対処するため、ブラザーはイギリスにタイプライターの製造拠点を新設
円高ドル安の進行によってタイプライター輸出の採算が悪化。そこで安井義博(当時社長)は「21世紀委員会」というチームを発足して、長期計画を議論。若手社員から発案された新規事業に投資する方針を決めた。そして、3つの新規事業として「タケル(ソフトウェアの通信販売)」「カラーコピー機」「ファックス」に参入した。
カラーコピー機は開発に100億円を投資するが失敗。製造の新規事業で残されたのは、FAX事業だけとなった。
新規事業として失敗した「タケル(ゲームの通信販売)」の技術を転用して、普及途上にあった通信カラオケ事業に参入。カラオケ業界ではディスク型(LD)から通信型(ISDN)への技術的な過渡期にあり、ブラザーは通信型に絞ることで頭角を表した。だが、FY1996にエクシング事業は32億円の最終赤字に転落しており、前途多難な状況に陥った
カラーコピー機の開発失敗で事務機器部門の撤退が社内検討されたが、画像システム事業部(菅原徹明氏)では最後のチャンスとして格安FAXを開発。市場調査をしなかったカラーコピーでの反省を受けて、FAXでは米国の市場調査を実施。そこで、安さにニーズがある点が判明(当時のFAXの主流価格帯は799ドル)し、ブラザーの開発チームに「販売まで1年。発売価格399ドルで」でFAXを作るように要請した。開発チームは、販売価格から逆算する形で、部品の調達先を選定しつつ、複数の工程進捗を同時並行で管理した。また、製造拠点は国内ではなく中国の現地法人(深圳・南嶺工場)を選定した。この結果、ブラザー工業は「FAX-600」を399ドルで米国にて発売。競合よりも安い価格設定によって、米国のFAX市場を席巻した
米国市場で小型レーザー複合機を発売。米国で普及していた事務機器の量販店に向けて大量供給することで、業績を軌道に乗せた
インクジェット複合機、MFC-7000FCを発売。米国市場において競合製品よりも安い「1000ドル以下」で発売することで、市場を開拓
国内のミシン販売を請け負っていたブラザー販売は、ミシン事業の低迷によって経営危機に陥っていた。そこで、ブラザー工業は「ブラザー」のブランドが傷つくことを危惧し、ブラザー販売の救済を決定。ブラザー販売の買収を決定し、半世紀に及ぶ製版販分離に終止符を打った。買収の代償として、ブラザー販売が背負っていた有利子負債635億円を引き継いだ
インクジェットプリンター・複合機の好調により、FY2003にブラザーは19期ぶりの最高益を達成。競争が激しい国内のオフィス市場ではなく、未開拓だった米国のSOHO(個人)向けの市場に絞ったことが功を奏した。
1990年代を通じて米国で事務機器(FAX・複合機・インクジェットプリンター)の事業責任者であった小池氏がブラザーの代表取締役社長に就任
ブラザー工業は英国の業務用印刷機メーカーであるDomino Pronting Science社を1932億円で買収する方針を発表した。Domino社は食品包装向けのプリントで欧州を中心に展開する企業で、FY2014の売上高は648億円(営業利益率約20%)。ブラザーは2002年に策定した売上高1兆円の経営計画「グローバルビジョン21」を実現するため、家庭向けプリンターの市場低迷にかわる新領域として、産業用プリンティング分野のDomino社の買収を決断した。買収費用は借入によって調達して8年での返済計画を公表した。ブラザーの歴史における巨額買収であり、その成否に注目が集まった。
ドミノ事業の収益進捗の遅れのため「のれん」総額746億円に対して272億円の減損を決定