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ブラザー工業の歴史

大手ミシンメーカーだったが、プリンター(複合機)に業態転換。米国輸出に伝統あり
ブラザー工業の長期業績
1958〜2022

■ 売上高: 億円※

■単体 | ■連結

■ 売上高_計上利益金率: %※

※連単は売上に同じ
Ref: 経済情報 14(4), etc..Get From API
※年毎に科目・連単・会計基準・期間が違う場合あり。参考値
1908 04月
*1
安井ミシン商会を個人創業
創業

安井兼吉氏が熱田兵器廠のエンジニアを辞めて、名古屋市内でミシンの修理および部品製造店を開業。使い物にならなくなった中古ミシンを買い取って修理・販売していた。当時は、国内の精密加工技術が未熟だったため、外国製ミシン(シンガー社)が市場を席巻しており、安井ミシン商会はミシンの修理に徹していた。

1926
*2
安井ミシン兄弟商会に改称

創業者の安井兼吉氏が逝去したことを受け、息子の安井正義氏(当時22歳)が家業を引き継いだ。正義氏の弟5人と妹4人の合計10人が、ミシン修理業に従事したことから、屋号を「安井ミシン兄弟商会」へと変更。名古屋市内の商店街である熱田伝馬町に店を構えた

1928 01月
*3
麦わら帽子製造用環縫ミシンを開発。商標「BROTHER」を制定

経済不況によりミシン修理の需要が減少した。そこで、ミシン製造に参入することを決定。部品加工の旋盤(自由エキセン旋盤)の内製化に成功し、これを受けて「麦わら帽子製造用環縫ミシン」を開発。販売のために商標「BROTHER」を制定した。これらの経緯から、ブラザーは工作機械の内製化に特色があるミシンメーカーとなり、生産技術に強みが蓄積された。

安井正義(ブラザー工業・社長)
出所 : 1964/03/16野田経済
1932 11月
*4
シンガーの独占を問題視。家庭用ミシンを国産化

戦前の日本では米国のシンガー社が日本市場のシェア90%を握っていた。安井正義氏は外貨が流出することを危惧してミシンの国産化を決意。ミシンの国産化を実現し、国産の家庭用ミシン「家庭用本縫ミシン15種70型」を開発した。以後、ブラザーは国内のミシンの主力メーカーとして業容を拡大する

1934 01月
*5
日本ミシン製造株式会社を設立
会社設立

その後、1930年代を通じて日本は戦時体制に突入し、日本のミシン市場の100%を独占していたシンガー社が撤退。そこで、ブラザーはシンガー社撤退のチャンスをものにすべく株式会社に組織変更して、業容の拡大に備えた

1939 01月
*6
名古屋市内に星崎工場を新設
1941 07月
*7
ブラザーミシン販売株式会社を設立
会社設立

ミシンの国内販売を拡大するために「ブラザーミシン販売株式会社」を設立し、製造と販売で別法人とした。シンガー出身の営業マンによって経営されたため、資本関係も希薄で、ブラザー販売は子会社ではなかった。この販売政策は1990年代まで続いたが、ブラザー工業(製造)が販売をコントロールできないという負の側面を残してしまった。

Performance
1908〜1953
安井家の兄弟がミシン修理店を創業。戦時中に外資企業シンガーの撤退を受けてミシンを国産化

■ この間の売上は不明です※

■単体 | ■連結

■ この間の利益率は不明です※

※連単は売上に同じ
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※年毎に科目・連単・会計基準・期間が違う場合あり。参考値
1954 04月
*8
編機と家電の製造販売に新規参入
新規事業

ミシンが夏に売れる季節商品だったため、工場稼働率を安定化するために新規事業の本格展開を開始。ミシンの製造で培った金属のプレス加工技術を活かして、編み機と家電の製造を開始した。家電領域では、1954年に洗濯機に参入、1957年には冷蔵庫に参入し、1970年代のブラザーの売上高のうち、10%〜20%を家電が占めた。

安井正義(ブラザー工業・社長)
出所 : 1964/03/16野田経済
1954 05月
*9
米国販売の現地法人を設立
会社設立

ミシンの海外輸出を本格化するため、北米に現地法人を設立

1959 03月
*10
ミシン輸出が累計100万台
1961 05月
*11
欧文タイプライターの生産を開始

輸出子会社の現地社長に要請される形で、欧文タイプライターの生産を開始。ブラザーは安さを武器としており、当時、事務合理化を目指していた米国企業のニーズを捉えた。ブラザー工業にとっては事務機器領域への参入となった

安井正義(ブラザー工業・社長)
出所 : 1964/03/16野田経済
1962 11月
*12
工作機械の生産を開始

ミシン製造のために内製化していた工作機械(タッピングマシン)の外販を開始

1962
*13
ブラザー工業株式会社に商号変更
商号変更

経営の多角化を受けて「日本ミシン製造株式会社」から「ブラザー工業株式会社」に商号変更

1963 01月
*14
東京証券取引所第2部に株式上場
株式上場
1968
*15
英ジョーンズ・ソーイングマシン社の株式42.5%を取得

経営不振に陥っていたイギリスの大手ミシンメーカー・ジョーンズ社(英国内のシェア2位)の株式42.5%を取得。さらに1972年までに株式の追加取得を実施して52%を確保する方針を公表。ブラザー工業にとっては、欧米における販売シェアの確保がねらい。初の本格的な海外買収であり「ブラザーの英国上陸」として注目を集めた

安井正義(ブラザー工業・社長)
出所 : 『買占め』(1968)
1971 02月
*16
高速ドットプリンンターを共同開発

米セントロニクス社向けのOEMとして、ドットプリンターの生産を開始。事務機領域で「タイプライター」にかわる製品として、プリンターに注力する原点となった

Performance
1954〜1972
ミシン製造からの多角化を開始。タイプライター、工作機械、編み機などに、精密加工を軸に参入

■ 売上高: 億円※

■単体 | ■連結

■ 売上高_計上利益金率: %※

※連単は売上に同じ
Ref: 経済情報 14(4), etc..Get From API
※年毎に科目・連単・会計基準・期間が違う場合あり。参考値
1978 11月
*17
台湾にミシン製造の現地法人を新設

1971年のニクソンショックを契機として、日本国内で円高ドル安が進行。ブラザーでもミシン輸出の採算が悪化したため、台湾に生産工場を新設して為替リスクの低減を目論んだ

1983
*18
売上構成で事務機器がミシンを凌駕

FY1983において売上構成比の内訳で、事務機器(39.3%)に対してミシン(27.9%)となり、事務機器が祖業のミシンを凌駕した。ブラザーの事務機器の主力はオフィス向けタイプライターであり、業態転換が鮮明となった

1985 02月
*19
英国にタイプライター製造の現地法人を新設

タイプライターの欧米への輸出に対して、日本のタイプライター業者と輸出国の間で貿易摩擦が発生。政治問題に対処するため、ブラザーはイギリスにタイプライターの製造拠点を新設

1989 03月
*20
マレーシアにタイプライター部品製造の現地法人を新設
1989
*21
21世紀委員会を発足(長期計画)

円高ドル安の進行によってタイプライター輸出の採算が悪化。そこで安井義博(当時社長)は「21世紀委員会」というチームを発足して、長期計画を議論。若手社員から発案された新規事業に投資する方針を決めた。そして、3つの新規事業として「タケル(ソフトウェアの通信販売)」「カラーコピー機」「ファックス」に参入した。

安井義博(ブラザー工業・社長)
出所 : 2003/04/07日経ビジネス
1991 05月
*22
カラーコピー機の開発失敗
事業失敗

カラーコピー機は開発に100億円を投資するが失敗。製造の新規事業で残されたのは、FAX事業だけとなった。

1991 12月
*23
中国に家庭用ミシン製造の現地法人を新設
Performance
1973〜1991
円高ドル安により輸出が低迷。現地生産に切り替えるも収益低下に歯止めがかからず

■ 売上高: 億円※

■単体 | ■連結

■ 売上高_当期純利益率: %※

※連単は売上に同じ
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※年毎に科目・連単・会計基準・期間が違う場合あり。参考値
1992 05月
*24
子会社エクシングを設立。通信カラオケ事業に新規参入
会社設立
新規事業

新規事業として失敗した「タケル(ゲームの通信販売)」の技術を転用して、普及途上にあった通信カラオケ事業に参入。カラオケ業界ではディスク型(LD)から通信型(ISDN)への技術的な過渡期にあり、ブラザーは通信型に絞ることで頭角を表した。だが、FY1996にエクシング事業は32億円の最終赤字に転落しており、前途多難な状況に陥った

1992
*25
米国でFAX-600を発売

カラーコピー機の開発失敗で事務機器部門の撤退が社内検討されたが、画像システム事業部(菅原徹明氏)では最後のチャンスとして格安FAXを開発。市場調査をしなかったカラーコピーでの反省を受けて、FAXでは米国の市場調査を実施。そこで、安さにニーズがある点が判明(当時のFAXの主流価格帯は799ドル)し、ブラザーの開発チームに「販売まで1年。発売価格399ドルで」でFAXを作るように要請した。開発チームは、販売価格から逆算する形で、部品の調達先を選定しつつ、複数の工程進捗を同時並行で管理した。また、製造拠点は国内ではなく中国の現地法人(深圳・南嶺工場)を選定した。この結果、ブラザー工業は「FAX-600」を399ドルで米国にて発売。競合よりも安い価格設定によって、米国のFAX市場を席巻した

安井義博(ブラザー工業・社長)
出所 : 2002/08/19日経ビジネス
1995 03月
*26
小型レーザー複合機を発売

米国市場で小型レーザー複合機を発売。米国で普及していた事務機器の量販店に向けて大量供給することで、業績を軌道に乗せた

1997 11月
*27
カラーインクジェット複合機を発売

インクジェット複合機、MFC-7000FCを発売。米国市場において競合製品よりも安い「1000ドル以下」で発売することで、市場を開拓

1999 04月
*28
ブラザー販売株式会社を完全子会社化
完全子会社

国内のミシン販売を請け負っていたブラザー販売は、ミシン事業の低迷によって経営危機に陥っていた。そこで、ブラザー工業は「ブラザー」のブランドが傷つくことを危惧し、ブラザー販売の救済を決定。ブラザー販売の買収を決定し、半世紀に及ぶ製版販分離に終止符を打った。買収の代償として、ブラザー販売が背負っていた有利子負債635億円を引き継いだ

2001 09月
*29
中国に工業用ミシン製造の現地法人を設立
会社設立
2003 03月
*30
19期ぶり最高益を達成
業績好調

インクジェットプリンター・複合機の好調により、FY2003にブラザーは19期ぶりの最高益を達成。競争が激しい国内のオフィス市場ではなく、未開拓だった米国のSOHO(個人)向けの市場に絞ったことが功を奏した。

2006 04月
*31
中国におけるプリンターの生産委託を自社運営に切り替え
Performance
1992〜2006
インクジェットプリンター(複合機)が主力事業に成長。安さに徹し、米国でSOHO向けのニーズを捉えた

■ 売上高: 億円※

■単体 | ■連結

■ 売上高_当期純利益率: %※

※連単は売上に同じ
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※年毎に科目・連単・会計基準・期間が違う場合あり。参考値
2007 06月
*32
小池利和氏が代表取締役社長に就任

1990年代を通じて米国で事務機器(FAX・複合機・インクジェットプリンター)の事業責任者であった小池氏がブラザーの代表取締役社長に就任

2008 06月
*33
HOYAのモバイルプリンター事業を買収
2011 10月
*34
フィリピンにインクジェット製品の現地法人を設立
会社設立
2015 06月
*35
英Domino社を買収
1932
億円
Domino Printing Science plcの取得予定額

ブラザー工業は英国の業務用印刷機メーカーであるDomino Pronting Science社を1932億円で買収する方針を発表した。Domino社は食品包装向けのプリントで欧州を中心に展開する企業で、FY2014の売上高は648億円(営業利益率約20%)。ブラザーは2002年に策定した売上高1兆円の経営計画「グローバルビジョン21」を実現するため、家庭向けプリンターの市場低迷にかわる新領域として、産業用プリンティング分野のDomino社の買収を決断した。買収費用は借入によって調達して8年での返済計画を公表した。ブラザーの歴史における巨額買収であり、その成否に注目が集まった。

2018 06月
*36
佐々木一郎氏が代表取締役社長に就任
2021 03月
*37
英Domino社で減損計上
業績低迷
272
億円
ドミノ事業の減損

ドミノ事業の収益進捗の遅れのため「のれん」総額746億円に対して272億円の減損を決定

2021 12月
*38
ニッセイを買収
165
億円
ニッセイの取得予定額
Performance
2007〜2023
インクジェットプリンターの市場が飽和。企業買収などを通じて増収を試みるが、売上横ばいへ

■ 売上高: 億円※

■単体 | ■連結

■ 売上高_当期純利益率: %※

※連単は売上に同じ
Ref: 有価証券報告書, etc..Get From API
※年毎に科目・連単・会計基準・期間が違う場合あり。参考値
38 References.