1928年〜 舶来品が占めた写真機市場への参入と、軍需が残した光学ガラスの一貫生産
- 1928年兵庫県武庫郡鳴尾村に個人経営「日独写真機商店」を開業
- 1929年第一号機「ニフカレッテ」が完成し、一台20円で発売
- 1931年自社製シャッターを内蔵した「ニフカドックス」を発売
- 1937年株式会社に改組し、社名を千代田光学精工に改称(資本金150万円)
- 1937年国産初の二眼レフカメラ「ミノルタフレックス」を発売
- 1942年海軍の命により、伊丹に光学ガラス溶融工場の建設へ着手
- 1945年空襲で武庫川・小松・尼崎の三工場を焼失し、従業員は400人前後に減少
ミノルタの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
値の通らない雑貨貿易から、加工度の高い製品への転身
神戸の貿易商・田嶋商店で人絹や雑貨の輸出に携わっていた田嶋一雄氏は、扱う商品そのものに不満を抱えていた。1927年11月、田嶋氏は商工省が後援する「日本商品旅商団」の一員として神戸を発ち、約6か月かけて中近東と東欧を回った。翌年初めにカイロで再会した取引先からは、自ら開拓した綿布に酷似した模造品が別ルートで安値流入し、先発の利を得る間もないと告げられる。田嶋氏はこのとき「値段の通らないものをいつまでもやっていては面白くない」と考え、加工度が高く他社がまねしにくい製品でなければ商売は立ち行かないという結論に達した。 [1][2]
- 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
- [1]1927年11月、田嶋一雄が商工省後援の「日本商品旅商団」の一員として神戸を出港し、約6か月の中近東・東欧行に出た
- [2]カイロで模造品の安値流入により取引が潰れ、「加工度の高い、他がまねしにくい独創的な製品」という信条を得た
転身の対象が写真機に定まったのは、同じ旅の途中でパリの光学兵器会社SOMの工場を訪ねたことによる。そこには日本軍向けにほぼ独占的に量産される測距儀が並び、価格はメーカーの言い値で通ると聞かされた。値が通らない繊維とのちがいは大きく、田嶋氏は「光学」の二文字を頭から離せなくなった。帰国後まもなく、神戸でドイツ製の写真機用品を輸入していたウィリー・ハイレマン氏が、パリの光学機器会社に勤めた技術者ビリー・ノイマン氏を伴って訪ねてきた。二人がそろって写真機の製造を勧めたとき、田嶋氏はパリで見た測距儀と目の前の写真機とが光学機器という一点で結びつくことに気づき、この話に乗る決断を下した。 [3][4]
- 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
- [3]パリの光学兵器会社SOM社の工場で日本軍向けの測距儀を見て「光学」に関心を持った
- [4]在神戸のドイツ人ウィリー・ハイレマンと技術者ビリー・ノイマンが田嶋一雄に写真機製造を勧めた
1928年11月11日、田嶋氏は兵庫県武庫郡鳴尾村の武庫川河畔に個人経営「日独写真機商店」を開いた。土地300坪、木造一部二階建て延べ130坪、人員は本人を含めて約30人という規模である。父は「あまりにも業種がかけ離れ過ぎて危険だ」として田嶋商店の新規事業とすることを認めず、生命保険の満期金5,000円を渡したにとどまった。残りは生家の漆器商を取り仕切る番頭からの借金で賄い、必要額の最低1万5,000円をようやく満たした。当時の日本で写真機の国産大手は小西六の一社だけで、市場の大半はドイツをはじめとする欧米からの輸入品が占めていた。金融恐慌の直後、無名の町工場がこの市場に加わった。 [5][6][7]
- 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
- [5]1928年11月11日に個人経営「日独写真機商店」が兵庫県武庫郡鳴尾村で操業を開始した
- [6]創業時の規模は土地300坪・建物延べ130坪・人員約30人、創業資金は最低1万5,000円で父からの5,000円と番頭からの借入で賄った
- [7]1928年当時、国産の写真機大手は小西六の一社のみで市場の大半は欧米からの輸入品だった
- 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
- [1]1927年11月、田嶋一雄が商工省後援の「日本商品旅商団」の一員として神戸を出港し、約6か月の中近東・東欧行に出た
- [2]カイロで模造品の安値流入により取引が潰れ、「加工度の高い、他がまねしにくい独創的な製品」という信条を得た
- [3]パリの光学兵器会社SOM社の工場で日本軍向けの測距儀を見て「光学」に関心を持った
- [4]在神戸のドイツ人ウィリー・ハイレマンと技術者ビリー・ノイマンが田嶋一雄に写真機製造を勧めた
- [5]1928年11月11日に個人経営「日独写真機商店」が兵庫県武庫郡鳴尾村で操業を開始した
- [6]創業時の規模は土地300坪・建物延べ130坪・人員約30人、創業資金は最低1万5,000円で父からの5,000円と番頭からの借入で賄った
- [7]1928年当時、国産の写真機大手は小西六の一社のみで市場の大半は欧米からの輸入品だった
輸入部品を一つずつ置き換えた十年と、ミノルタの名の確立
創業4か月後の1929年3月、第一号機「ニフカレッテ」が完成した。八枚撮りロールフィルムを使う蛇腹式のハンドカメラで、レンズもシャッターも輸入品に頼っている。価格は一台20円、3か月目からは月産100台を超えた。だが緊縮財政のもとで景気が下り坂に転じると売れ行きは鈍り、田嶋氏は東京へ100台を担いで金策に出たものの、値引きを拒んで一台も売らずに帰ったこともある。資金繰りは生家の番頭への借入で繰り返し凌ぎ、その総額は5万円を超えた。1930年10月には工場長らへの反感からストライキが起き、田嶋氏はハイレマン氏の強い主張を容れて従業員をいったん全員解雇している。 [8][9]
- 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
- [8]1929年3月に第一号機「ニフカレッテ」が完成し、一台20円で発売、3か月目から月産100台以上となった
- [9]1930年10月に一カ月に及ぶストライキが発生し、従業員をいったん全員解雇した
1931年2月、自社製シャッターを内蔵した「ニフカドックス」を発売し、これがよく売れて借入金を全額返済した。同年7月1日には個人経営を「モルタ合資会社」に改め、大阪市東区北久太郎町に本社を置く。工場の従業員は70人を超えていたが、本社は田嶋氏と経理担当の弟・田嶋豊次郎氏ら4人の小所帯であった。ところが同年11月、頼りにしていたハイレマン氏が写真機部品の商売を始めると告げて退社し、年が明けるとノイマン氏も数人の工員を連れて後を追う。技術の要を失いながら田嶋氏は「これからは日本人だけでやろう」と決め、1932年4月に仕上・旋盤・シャッター・塗装の各部と総務課を置いて生産体制を組織化した。社内の士気はかえって高まり、シャッターを自前でつくりレンズもできる限り国産品を使う機運が生まれる。二人のドイツ人が去ったことで、輸入部品を国産部品へ置き換える動きはかえって速まった。 [10][11][12][13][14]
- 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
- [10]1931年7月1日に個人経営を改めモルタ合資会社を設立し、大阪市東区北久太郎町に本社を置いた。工場従業員は70人超、本社は4人
- [11]1931年2月に自社製シャッターを内蔵した「ニフカドックス」を発売し、借入金を全額返済した
- [12]1931年11月にハイレマンが退社し、翌年初にノイマンも工員を連れて離反した
- [13]1932年4月付で仕上・旋盤・シャッター・塗装の各部と総務課を設け、生産体制を組織化した
- 会社銀行八十年史(1955年)「千代田光学精工」
- [14]1932年(昭和7年)からシャッターの輸入をやめて自作を始め、1935年ごろからレンズも国内で研磨させた
1933年半ば、ボタンを押すとレンズとシャッターが飛び出す速写型に「ミノルタ」の名が冠された。田嶋光学機器を意味する英語の頭文字をつなぎ、生母の戒めにちなむ「稔る田」の意も重ねた命名である。翌1934年1月には、入手難の羊皮に代えてベークライトを使った剛体蛇腹の「ミノルタベスト」を19円50銭で発売し、「大阪城」の愛称を得て広く売れた。1936年7月には尼崎に約600坪の土地を求めて日本光学機械研究所を設け、職長の北風熊太郎氏らに二眼レフを研究させた。彼らは一室に寝泊まりして開発にあたり、国産では初めて成功して翌1937年暮れに「ミノルタフレックス」を発売する。同じ年には堺市にレンズ専門工場も建てた。同年9月、戦時経済への対応には合資会社では限度があると判断した田嶋氏は株式会社へ改組し、社名を千代田光学精工と改めた。資本金150万円、三工場を合わせた従業員は約1,000人に増えていた。 [15][16][17][18]
- 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
- [15]1933年半ばに速写型カメラへ「ミノルタ」の名を冠した。田嶋光学機器を意味する英語の頭文字と「稔る田」を掛けた造語である
- [16]1934年1月にベークライト製剛体蛇腹の「ミノルタベスト」を19円50銭で発売し、「大阪城」の愛称で売れた
- [17]1936年7月に尼崎へ日本光学機械研究所(のちの尼崎工場)を設け、翌1937年暮れに国産初の二眼レフ「ミノルタフレックス」を発売した
- 証券 1953年「千代田光学精工株式会社」(新規上場会社紹介)
- [18]1937年9月に株式会社へ改組して社名を千代田光学精工に改めた。資本金150万円、三工場合計の従業員は約1,000人
- 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
- [8]1929年3月に第一号機「ニフカレッテ」が完成し、一台20円で発売、3か月目から月産100台以上となった
- [9]1930年10月に一カ月に及ぶストライキが発生し、従業員をいったん全員解雇した
- [10]1931年7月1日に個人経営を改めモルタ合資会社を設立し、大阪市東区北久太郎町に本社を置いた。工場従業員は70人超、本社は4人
- [11]1931年2月に自社製シャッターを内蔵した「ニフカドックス」を発売し、借入金を全額返済した
- [12]1931年11月にハイレマンが退社し、翌年初にノイマンも工員を連れて離反した
- [13]1932年4月付で仕上・旋盤・シャッター・塗装の各部と総務課を設け、生産体制を組織化した
- [15]1933年半ばに速写型カメラへ「ミノルタ」の名を冠した。田嶋光学機器を意味する英語の頭文字と「稔る田」を掛けた造語である
- [16]1934年1月にベークライト製剛体蛇腹の「ミノルタベスト」を19円50銭で発売し、「大阪城」の愛称で売れた
- [17]1936年7月に尼崎へ日本光学機械研究所(のちの尼崎工場)を設け、翌1937年暮れに国産初の二眼レフ「ミノルタフレックス」を発売した
- 会社銀行八十年史(1955年)「千代田光学精工」
- [14]1932年(昭和7年)からシャッターの輸入をやめて自作を始め、1935年ごろからレンズも国内で研磨させた
- 証券 1953年「千代田光学精工株式会社」(新規上場会社紹介)
- [18]1937年9月に株式会社へ改組して社名を千代田光学精工に改めた。資本金150万円、三工場合計の従業員は約1,000人
赤字覚悟の海軍受注と、軍命で建った光学ガラス工場
1938年、写真機の資材入手が難しくなるなかで、田嶋氏は「光学技術を生かせる軍用機器を積極的に手がけることこそが、民需用写真機の製造をも続け得る唯一の道」との結論に達した。東京の海軍艦政本部へ二度三度と足を運んだ末、七倍五十ミリのプリズム双眼鏡の打診を得る。ところが明細を検討すると、工場の見積原価が一台200円であるのに対し納入指示価格は139円75銭で、目標の月1,000台では月約6万円の損失となる計算であった。工場側は辞退すべきだという意見が圧倒的だったが、田嶋氏は「双眼鏡で赤字を出しても会社全体では黒字でいける」と説き、1938年11月に堺工場で本格生産に入った。 [19][20]
- 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
- [19]海軍向け七倍五十ミリ双眼鏡は見積原価200円に対し納入指示価格139円75銭で、月1,000台では月約6万円の損失となる条件だった
- [20]1938年11月に堺工場で海軍向け双眼鏡の本格生産を開始した
この受注に続いて、光学ガラスの溶融という新しい工程が加わった。1942年1月、海軍艦政本部長名で「光学ガラスの溶融工場を急ぎ建設せよ」との通達が届いた。当時、光学ガラスの民間製造は海軍系統の日本光学と陸軍系統の小原光学などすべて東京地区に集中し、関西には皆無だった。海軍は製造拠点の分散先として千代田光学を選んだ。田嶋氏は兵庫県伊丹市に適地を求めて同年夏から建設に着手したが、資材難と熟練工不足で稼働まで二年近くを要し、火入れは1944年6月まで待たねばならなかった。この年、学徒動員で800人ほどが工場に配属され、年末の総人員は2,600人に達している。 [21][22][23]
- 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
- [21]1942年1月に海軍艦政本部から光学ガラス溶融工場の建設命令を受け、同年夏に伊丹で着工した
- [22]当時の光学ガラスの民間製造は日本光学・小原光学などすべて東京地区に集中し、関西には皆無だった
- [23]1944年6月に伊丹の光学ガラス溶融工場が完成して火入れし、同年の学徒動員は800人、年末の総人員は2,600人となった
戦争末期の主製品は望遠鏡・双眼鏡・照準器・方位鏡・航空用写真機といった光学兵器で、生産能力の95%が軍需に充てられた。1945年には空襲で武庫川・小松・尼崎の三工場を失う。終戦から二か月後、去就を各自の自由意思に委ねた結果、従業員は400人前後まで減った。それでも会社が持ちこたえたのは、海軍艦政本部が終戦までの納入代金の一部として500万円を支払ったからで、赤字覚悟で双眼鏡を作った経緯が結果として運転資金になった。日本産業史は、戦時中の光学兵器開発への巨額投資が技術者を育て「光学機械の品質、性能を高める基礎となった」と記す一方、その投資が初めから民生に向けられていればより早く大きな成果が出たはずだという反論の方が真相に近いとも述べる。軍需の効果を功績として語ることはできない。ミノルタに残ったのは、他社が買うほかなかった光学ガラスを自ら溶かせる伊丹の工場であった。 [24][25][26]
- 会社銀行八十年史(1955年)「千代田光学精工」
- [24]戦争末期には光学兵器が主製品となり、生産能力の95%を軍需に充てた
- 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
- [25]1945年の空襲で武庫川・小松・尼崎の三工場を焼失し、終戦2か月後の従業員は400人前後となった。海軍艦政本部から未払い代金500万円が支払われた
- 日本産業史(日経文庫)第2巻(日本経済新聞社, 1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
- [26]戦時中の陸海軍による光学兵器開発への投資が、戦後のカメラ・双眼鏡産業の技術基盤となった。ただし同書は民生に向けていればより早く成果が出たという反論の方が真相に近いとする
- 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
- [19]海軍向け七倍五十ミリ双眼鏡は見積原価200円に対し納入指示価格139円75銭で、月1,000台では月約6万円の損失となる条件だった
- [20]1938年11月に堺工場で海軍向け双眼鏡の本格生産を開始した
- [21]1942年1月に海軍艦政本部から光学ガラス溶融工場の建設命令を受け、同年夏に伊丹で着工した
- [22]当時の光学ガラスの民間製造は日本光学・小原光学などすべて東京地区に集中し、関西には皆無だった
- [23]1944年6月に伊丹の光学ガラス溶融工場が完成して火入れし、同年の学徒動員は800人、年末の総人員は2,600人となった
- [25]1945年の空襲で武庫川・小松・尼崎の三工場を焼失し、終戦2か月後の従業員は400人前後となった。海軍艦政本部から未払い代金500万円が支払われた
- 会社銀行八十年史(1955年)「千代田光学精工」
- [24]戦争末期には光学兵器が主製品となり、生産能力の95%を軍需に充てた
- 日本産業史(日経文庫)第2巻(日本経済新聞社, 1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
- [26]戦時中の陸海軍による光学兵器開発への投資が、戦後のカメラ・双眼鏡産業の技術基盤となった。ただし同書は民生に向けていればより早く成果が出たという反論の方が真相に近いとする