ミノルタ の歴史

創業

1928年

創業者

田嶋一雄

創業地

兵庫県武庫郡鳴尾村(現・西宮市鳴尾町)

直近売上高(1985/3)

1,504億円

長期業績と転換点(1971/3〜1985/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1928年に、貿易商の長男は輸入品が占めていた写真機を自らつくる側へ回ったのか
A 値の通らない商いから抜け出すには、加工度が高く他社がまねしにくい製品をつくるほかない。1927年からの外遊でこの結論に達した田嶋一雄氏は、パリで日本軍向けの測距儀を見て光学機器に引きつけられた。当時の日本で写真機の国産大手は小西六の一社だけで、市場の大半は欧米からの輸入品が占めていた。田嶋氏は父の反対を押し切り、1928年11月、兵庫県武庫郡鳴尾村に個人経営「日独写真機商店」を開いた。土地300坪・従業員約30人の町工場である
Q なぜ1957年に始めた多角化へ「光を中心に」という条件を付けたのか
A カメラは景気の波をまともに受ける単品で、不況のたびに無配へ落ちる構造を抱えていた。田嶋一雄氏はその是正のために多角化を指令し、広げる範囲を製品分野ではなく技術の共通性で切って、電卓やタイプライターを候補から外し、複写機・マイクロ写真機器・拡大投影機に絞った。この枠があったため、1960年に出した複写機の第一号機もレンズと感光の技術の延長に置かれた。売上構成では1961年3月期に3.2%だった事務用複写機が、1985年3月期には46%を占めてカメラを抜いた
Q なぜ1985年に大成功したα-7000が、2003年の経営統合へつながったのか
A 世界初の実用オートフォーカス一眼レフは国内シェアを1桁から20〜25%へ押し上げた一方で、輸出比率約80%という構造の弱さを表に出した。発売した年の秋に始まった円高で自社の輸出品が国内へ逆流し、1986年度と1987年度は連続の大幅減益となる。成功体験はコンパクトカメラへの転換も遅らせた。さらに1992年、米ハネウェルとの特許訴訟に敗れて1億2,750万ドルを支払い、連結最終赤字は361億円に達する。有利子負債を抱えたまま2001年に株価が123円まで落ち、ミノルタは2003年8月にコニカとの統合を選んだ

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1928年〜 舶来品が占めた写真機市場への参入と、軍需が残した光学ガラスの一貫生産

  1. 1928年兵庫県武庫郡鳴尾村に個人経営「日独写真機商店」を開業
  2. 1929年第一号機「ニフカレッテ」が完成し、一台20円で発売
  3. 1931年自社製シャッターを内蔵した「ニフカドックス」を発売
  4. 1937年株式会社に改組し、社名を千代田光学精工に改称(資本金150万円)
  5. 1937年国産初の二眼レフカメラ「ミノルタフレックス」を発売
  6. 1942年海軍の命により、伊丹に光学ガラス溶融工場の建設へ着手
  7. 1945年空襲で武庫川・小松・尼崎の三工場を焼失し、従業員は400人前後に減少

ミノルタの業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

値の通らない雑貨貿易から、加工度の高い製品への転身

神戸の貿易商・田嶋商店で人絹や雑貨の輸出に携わっていた田嶋一雄氏は、扱う商品そのものに不満を抱えていた。1927年11月、田嶋氏は商工省が後援する「日本商品旅商団」の一員として神戸を発ち、約6か月かけて中近東と東欧を回った。翌年初めにカイロで再会した取引先からは、自ら開拓した綿布に酷似した模造品が別ルートで安値流入し、先発の利を得る間もないと告げられる。田嶋氏はこのとき「値段の通らないものをいつまでもやっていては面白くない」と考え、加工度が高く他社がまねしにくい製品でなければ商売は立ち行かないという結論に達した。 [1][2]

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [1]1927年11月、田嶋一雄が商工省後援の「日本商品旅商団」の一員として神戸を出港し、約6か月の中近東・東欧行に出た
    • [2]カイロで模造品の安値流入により取引が潰れ、「加工度の高い、他がまねしにくい独創的な製品」という信条を得た

転身の対象が写真機に定まったのは、同じ旅の途中でパリの光学兵器会社SOMの工場を訪ねたことによる。そこには日本軍向けにほぼ独占的に量産される測距儀が並び、価格はメーカーの言い値で通ると聞かされた。値が通らない繊維とのちがいは大きく、田嶋氏は「光学」の二文字を頭から離せなくなった。帰国後まもなく、神戸でドイツ製の写真機用品を輸入していたウィリー・ハイレマン氏が、パリの光学機器会社に勤めた技術者ビリー・ノイマン氏を伴って訪ねてきた。二人がそろって写真機の製造を勧めたとき、田嶋氏はパリで見た測距儀と目の前の写真機とが光学機器という一点で結びつくことに気づき、この話に乗る決断を下した。 [3][4]

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [3]パリの光学兵器会社SOM社の工場で日本軍向けの測距儀を見て「光学」に関心を持った
    • [4]在神戸のドイツ人ウィリー・ハイレマンと技術者ビリー・ノイマンが田嶋一雄に写真機製造を勧めた

1928年11月11日、田嶋氏は兵庫県武庫郡鳴尾村の武庫川河畔に個人経営「日独写真機商店」を開いた。土地300坪、木造一部二階建て延べ130坪、人員は本人を含めて約30人という規模である。父は「あまりにも業種がかけ離れ過ぎて危険だ」として田嶋商店の新規事業とすることを認めず、生命保険の満期金5,000円を渡したにとどまった。残りは生家の漆器商を取り仕切る番頭からの借金で賄い、必要額の最低1万5,000円をようやく満たした。当時の日本で写真機の国産大手は小西六の一社だけで、市場の大半はドイツをはじめとする欧米からの輸入品が占めていた。金融恐慌の直後、無名の町工場がこの市場に加わった。 [5][6][7]

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [5]1928年11月11日に個人経営「日独写真機商店」が兵庫県武庫郡鳴尾村で操業を開始した
    • [6]創業時の規模は土地300坪・建物延べ130坪・人員約30人、創業資金は最低1万5,000円で父からの5,000円と番頭からの借入で賄った
    • [7]1928年当時、国産の写真機大手は小西六の一社のみで市場の大半は欧米からの輸入品だった
  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [1]1927年11月、田嶋一雄が商工省後援の「日本商品旅商団」の一員として神戸を出港し、約6か月の中近東・東欧行に出た
    • [2]カイロで模造品の安値流入により取引が潰れ、「加工度の高い、他がまねしにくい独創的な製品」という信条を得た
    • [3]パリの光学兵器会社SOM社の工場で日本軍向けの測距儀を見て「光学」に関心を持った
    • [4]在神戸のドイツ人ウィリー・ハイレマンと技術者ビリー・ノイマンが田嶋一雄に写真機製造を勧めた
    • [5]1928年11月11日に個人経営「日独写真機商店」が兵庫県武庫郡鳴尾村で操業を開始した
    • [6]創業時の規模は土地300坪・建物延べ130坪・人員約30人、創業資金は最低1万5,000円で父からの5,000円と番頭からの借入で賄った
    • [7]1928年当時、国産の写真機大手は小西六の一社のみで市場の大半は欧米からの輸入品だった

輸入部品を一つずつ置き換えた十年と、ミノルタの名の確立

創業4か月後の1929年3月、第一号機「ニフカレッテ」が完成した。八枚撮りロールフィルムを使う蛇腹式のハンドカメラで、レンズもシャッターも輸入品に頼っている。価格は一台20円、3か月目からは月産100台を超えた。だが緊縮財政のもとで景気が下り坂に転じると売れ行きは鈍り、田嶋氏は東京へ100台を担いで金策に出たものの、値引きを拒んで一台も売らずに帰ったこともある。資金繰りは生家の番頭への借入で繰り返し凌ぎ、その総額は5万円を超えた。1930年10月には工場長らへの反感からストライキが起き、田嶋氏はハイレマン氏の強い主張を容れて従業員をいったん全員解雇している。 [8][9]

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [8]1929年3月に第一号機「ニフカレッテ」が完成し、一台20円で発売、3か月目から月産100台以上となった
    • [9]1930年10月に一カ月に及ぶストライキが発生し、従業員をいったん全員解雇した

1931年2月、自社製シャッターを内蔵した「ニフカドックス」を発売し、これがよく売れて借入金を全額返済した。同年7月1日には個人経営を「モルタ合資会社」に改め、大阪市東区北久太郎町に本社を置く。工場の従業員は70人を超えていたが、本社は田嶋氏と経理担当の弟・田嶋豊次郎氏ら4人の小所帯であった。ところが同年11月、頼りにしていたハイレマン氏が写真機部品の商売を始めると告げて退社し、年が明けるとノイマン氏も数人の工員を連れて後を追う。技術の要を失いながら田嶋氏は「これからは日本人だけでやろう」と決め、1932年4月に仕上・旋盤・シャッター・塗装の各部と総務課を置いて生産体制を組織化した。社内の士気はかえって高まり、シャッターを自前でつくりレンズもできる限り国産品を使う機運が生まれる。二人のドイツ人が去ったことで、輸入部品を国産部品へ置き換える動きはかえって速まった。 [10][11][12][13][14]

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [10]1931年7月1日に個人経営を改めモルタ合資会社を設立し、大阪市東区北久太郎町に本社を置いた。工場従業員は70人超、本社は4人
    • [11]1931年2月に自社製シャッターを内蔵した「ニフカドックス」を発売し、借入金を全額返済した
    • [12]1931年11月にハイレマンが退社し、翌年初にノイマンも工員を連れて離反した
    • [13]1932年4月付で仕上・旋盤・シャッター・塗装の各部と総務課を設け、生産体制を組織化した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「千代田光学精工」
    • [14]1932年(昭和7年)からシャッターの輸入をやめて自作を始め、1935年ごろからレンズも国内で研磨させた

1933年半ば、ボタンを押すとレンズとシャッターが飛び出す速写型に「ミノルタ」の名が冠された。田嶋光学機器を意味する英語の頭文字をつなぎ、生母の戒めにちなむ「稔る田」の意も重ねた命名である。翌1934年1月には、入手難の羊皮に代えてベークライトを使った剛体蛇腹の「ミノルタベスト」を19円50銭で発売し、「大阪城」の愛称を得て広く売れた。1936年7月には尼崎に約600坪の土地を求めて日本光学機械研究所を設け、職長の北風熊太郎氏らに二眼レフを研究させた。彼らは一室に寝泊まりして開発にあたり、国産では初めて成功して翌1937年暮れに「ミノルタフレックス」を発売する。同じ年には堺市にレンズ専門工場も建てた。同年9月、戦時経済への対応には合資会社では限度があると判断した田嶋氏は株式会社へ改組し、社名を千代田光学精工と改めた。資本金150万円、三工場を合わせた従業員は約1,000人に増えていた。 [15][16][17][18]

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [15]1933年半ばに速写型カメラへ「ミノルタ」の名を冠した。田嶋光学機器を意味する英語の頭文字と「稔る田」を掛けた造語である
    • [16]1934年1月にベークライト製剛体蛇腹の「ミノルタベスト」を19円50銭で発売し、「大阪城」の愛称で売れた
    • [17]1936年7月に尼崎へ日本光学機械研究所(のちの尼崎工場)を設け、翌1937年暮れに国産初の二眼レフ「ミノルタフレックス」を発売した
  • 証券 1953年「千代田光学精工株式会社」(新規上場会社紹介)
    • [18]1937年9月に株式会社へ改組して社名を千代田光学精工に改めた。資本金150万円、三工場合計の従業員は約1,000人
  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [8]1929年3月に第一号機「ニフカレッテ」が完成し、一台20円で発売、3か月目から月産100台以上となった
    • [9]1930年10月に一カ月に及ぶストライキが発生し、従業員をいったん全員解雇した
    • [10]1931年7月1日に個人経営を改めモルタ合資会社を設立し、大阪市東区北久太郎町に本社を置いた。工場従業員は70人超、本社は4人
    • [11]1931年2月に自社製シャッターを内蔵した「ニフカドックス」を発売し、借入金を全額返済した
    • [12]1931年11月にハイレマンが退社し、翌年初にノイマンも工員を連れて離反した
    • [13]1932年4月付で仕上・旋盤・シャッター・塗装の各部と総務課を設け、生産体制を組織化した
    • [15]1933年半ばに速写型カメラへ「ミノルタ」の名を冠した。田嶋光学機器を意味する英語の頭文字と「稔る田」を掛けた造語である
    • [16]1934年1月にベークライト製剛体蛇腹の「ミノルタベスト」を19円50銭で発売し、「大阪城」の愛称で売れた
    • [17]1936年7月に尼崎へ日本光学機械研究所(のちの尼崎工場)を設け、翌1937年暮れに国産初の二眼レフ「ミノルタフレックス」を発売した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「千代田光学精工」
    • [14]1932年(昭和7年)からシャッターの輸入をやめて自作を始め、1935年ごろからレンズも国内で研磨させた
  • 証券 1953年「千代田光学精工株式会社」(新規上場会社紹介)
    • [18]1937年9月に株式会社へ改組して社名を千代田光学精工に改めた。資本金150万円、三工場合計の従業員は約1,000人

赤字覚悟の海軍受注と、軍命で建った光学ガラス工場

1938年、写真機の資材入手が難しくなるなかで、田嶋氏は「光学技術を生かせる軍用機器を積極的に手がけることこそが、民需用写真機の製造をも続け得る唯一の道」との結論に達した。東京の海軍艦政本部へ二度三度と足を運んだ末、七倍五十ミリのプリズム双眼鏡の打診を得る。ところが明細を検討すると、工場の見積原価が一台200円であるのに対し納入指示価格は139円75銭で、目標の月1,000台では月約6万円の損失となる計算であった。工場側は辞退すべきだという意見が圧倒的だったが、田嶋氏は「双眼鏡で赤字を出しても会社全体では黒字でいける」と説き、1938年11月に堺工場で本格生産に入った。 [19][20]

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [19]海軍向け七倍五十ミリ双眼鏡は見積原価200円に対し納入指示価格139円75銭で、月1,000台では月約6万円の損失となる条件だった
    • [20]1938年11月に堺工場で海軍向け双眼鏡の本格生産を開始した

この受注に続いて、光学ガラスの溶融という新しい工程が加わった。1942年1月、海軍艦政本部長名で「光学ガラスの溶融工場を急ぎ建設せよ」との通達が届いた。当時、光学ガラスの民間製造は海軍系統の日本光学と陸軍系統の小原光学などすべて東京地区に集中し、関西には皆無だった。海軍は製造拠点の分散先として千代田光学を選んだ。田嶋氏は兵庫県伊丹市に適地を求めて同年夏から建設に着手したが、資材難と熟練工不足で稼働まで二年近くを要し、火入れは1944年6月まで待たねばならなかった。この年、学徒動員で800人ほどが工場に配属され、年末の総人員は2,600人に達している。 [21][22][23]

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [21]1942年1月に海軍艦政本部から光学ガラス溶融工場の建設命令を受け、同年夏に伊丹で着工した
    • [22]当時の光学ガラスの民間製造は日本光学・小原光学などすべて東京地区に集中し、関西には皆無だった
    • [23]1944年6月に伊丹の光学ガラス溶融工場が完成して火入れし、同年の学徒動員は800人、年末の総人員は2,600人となった

戦争末期の主製品は望遠鏡・双眼鏡・照準器・方位鏡・航空用写真機といった光学兵器で、生産能力の95%が軍需に充てられた。1945年には空襲で武庫川・小松・尼崎の三工場を失う。終戦から二か月後、去就を各自の自由意思に委ねた結果、従業員は400人前後まで減った。それでも会社が持ちこたえたのは、海軍艦政本部が終戦までの納入代金の一部として500万円を支払ったからで、赤字覚悟で双眼鏡を作った経緯が結果として運転資金になった。日本産業史は、戦時中の光学兵器開発への巨額投資が技術者を育て「光学機械の品質、性能を高める基礎となった」と記す一方、その投資が初めから民生に向けられていればより早く大きな成果が出たはずだという反論の方が真相に近いとも述べる。軍需の効果を功績として語ることはできない。ミノルタに残ったのは、他社が買うほかなかった光学ガラスを自ら溶かせる伊丹の工場であった。 [24][25][26]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「千代田光学精工」
    • [24]戦争末期には光学兵器が主製品となり、生産能力の95%を軍需に充てた
  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [25]1945年の空襲で武庫川・小松・尼崎の三工場を焼失し、終戦2か月後の従業員は400人前後となった。海軍艦政本部から未払い代金500万円が支払われた
  • 日本産業史(日経文庫)第2巻(日本経済新聞社, 1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
    • [26]戦時中の陸海軍による光学兵器開発への投資が、戦後のカメラ・双眼鏡産業の技術基盤となった。ただし同書は民生に向けていればより早く成果が出たという反論の方が真相に近いとする
  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [19]海軍向け七倍五十ミリ双眼鏡は見積原価200円に対し納入指示価格139円75銭で、月1,000台では月約6万円の損失となる条件だった
    • [20]1938年11月に堺工場で海軍向け双眼鏡の本格生産を開始した
    • [21]1942年1月に海軍艦政本部から光学ガラス溶融工場の建設命令を受け、同年夏に伊丹で着工した
    • [22]当時の光学ガラスの民間製造は日本光学・小原光学などすべて東京地区に集中し、関西には皆無だった
    • [23]1944年6月に伊丹の光学ガラス溶融工場が完成して火入れし、同年の学徒動員は800人、年末の総人員は2,600人となった
    • [25]1945年の空襲で武庫川・小松・尼崎の三工場を焼失し、終戦2か月後の従業員は400人前後となった。海軍艦政本部から未払い代金500万円が支払われた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「千代田光学精工」
    • [24]戦争末期には光学兵器が主製品となり、生産能力の95%を軍需に充てた
  • 日本産業史(日経文庫)第2巻(日本経済新聞社, 1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
    • [26]戦時中の陸海軍による光学兵器開発への投資が、戦後のカメラ・双眼鏡産業の技術基盤となった。ただし同書は民生に向けていればより早く成果が出たという反論の方が真相に近いとする

1946年〜 焼け跡からの生産再開と輸出への傾斜——千代田光学精工の十七年

  1. 1946年戦災を免れた工場の役割分担を定め、新体制のもとで生産を再開
  2. 1946年戦後第一号機「ミノルタセミ」を発売(国産初のコーティングレンズを採用)
  3. 1946年愛知県豊川市に新分工場を建設し、一工場一製品の生産体制を整える
  4. 1947年南アフリカへ「セミ」170台を輸出(戦後の国産カメラで最初の輸出)
  5. 1955年アトランタの全米写真業協会ショーへ出品し、これを機に米FR社と販売代理店契約を結ぶ(日本のカメラ業界で最初の海外販売提携)
  6. 1957年三十二年不況を受け、「光を中心に」という条件を付けて多角化の検討を指令
  7. 1960年複写機の第一号機(ジアゾ式)を発売し、事務機分野へ参入

ミノルタの業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

一工場一製品と副業製品で支えた生産再開

1946年初頭、田嶋氏は役員会で「復興が進むにつれ、平和産業としてのカメラが日の目を見る日は必ず来る」として、生産再開を最優先に置く方針を示した。まず戦災を免れた工場の役割分担を決め、愛知県の海軍豊川工廠と交渉して用地と建物の一部を払い下げてもらう。1946年4月から新体制で生産に入り、8月には国産で初めて増透処理を施したレンズを使う「ミノルタセミ」を発売した。戦後第一号機である。本社工場・堺・豊川で一工場一製品を守り、光学ガラスは伊丹工場から供給する体制を整えた。カメラだけでは経費を賄えず、眼鏡レンズ・オペラグラス・カットグラス・真空管・顕微鏡といった副業製品も手がけている。 [27][28]

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [27]1946年4月から新体制で生産を再開し、8月に国産初のコーティングレンズを使う「ミノルタセミ」を発売した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「千代田光学精工」
    • [28]本社工場・堺・豊川で一工場一製品主義をとり、光学ガラスを伊丹工場から供給して一貫メーカーの業態を整えた

輸出は、売り込むより先に注文の方から始まった。1947年春、南アフリカのヨハネスブルグから突然の発注があり、「セミ」を170台送った。これが戦後の国産カメラで最初の輸出にあたる。帰還する進駐軍の兵士がカメラを持ち帰り、人づてに評判が広まったものと田嶋氏はみている。1949年初めには同じヨハネスブルグの販売会社へ、信用状に基づく戦後初の直接輸出として100台を出した。もっとも財務の実態は苦しく、1949年7月には債権切捨てに伴う9割減資で資本金は22万5,000円まで落ちた。朝鮮戦争後の需要増と度重なる増資で立て直し、1953年5月には資本金1億4,000万円、同年9月14日に株式を新規上場している。 [29][30]

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [29]1947年春に南アフリカへ「セミ」170台を輸出し、これが戦後の国産カメラ初輸出となった。1949年初に信用状に基づく直接輸出100台を実施
  • 証券 1953年「千代田光学精工株式会社」(新規上場会社紹介)
    • [30]1949年7月に債権切捨てに伴う9割減資で資本金22万5,000円となり、その後の増資を経て1953年5月に1億4,000万円、同年9月14日に新規上場した

上場時点の千代田光学精工は、大阪に本社工場、堺・豊川・伊丹に各工場、西宮にレンズ設計研究所を持ち、「レンズから写真機まで一貫体制をもつているのが特色」と紹介された。製品構成はミノルタフレックスが47.9%、ミノルタ35が23.3%、ミノルタセミが19.8%で、二眼レフの比重が高い。従業員は2年前まで500名に満たなかったが1953年3月末に887名、上場のころには約1,000名に達した。輸出と内需の比は3対7で、輸出の相手は米軍中央購買局が大半を占める。同年、増産と新製品のために堺工場内へ恒温恒湿の近代的レンズ研磨工場を新設し、レンズの自給に踏み切った。 [31][32]

  • 証券 1953年「千代田光学精工株式会社」(新規上場会社紹介)
    • [31]1953年時点の製品構成はミノルタフレックス47.9%・ミノルタ35が23.3%・ミノルタセミ19.8%、従業員は1953年3月末887名から約1,000名へ増加、輸出と内需は3対7
    • [32]大阪の本社工場に加え堺・豊川・伊丹の各工場と西宮のレンズ設計研究所を持ち、レンズから写真機までの一貫体制を特色としていた
  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [27]1946年4月から新体制で生産を再開し、8月に国産初のコーティングレンズを使う「ミノルタセミ」を発売した
    • [29]1947年春に南アフリカへ「セミ」170台を輸出し、これが戦後の国産カメラ初輸出となった。1949年初に信用状に基づく直接輸出100台を実施
  • 会社銀行八十年史(1955年)「千代田光学精工」
    • [28]本社工場・堺・豊川で一工場一製品主義をとり、光学ガラスを伊丹工場から供給して一貫メーカーの業態を整えた
  • 証券 1953年「千代田光学精工株式会社」(新規上場会社紹介)
    • [30]1949年7月に債権切捨てに伴う9割減資で資本金22万5,000円となり、その後の増資を経て1953年5月に1億4,000万円、同年9月14日に新規上場した
    • [31]1953年時点の製品構成はミノルタフレックス47.9%・ミノルタ35が23.3%・ミノルタセミ19.8%、従業員は1953年3月末887名から約1,000名へ増加、輸出と内需は3対7
    • [32]大阪の本社工場に加え堺・豊川・伊丹の各工場と西宮のレンズ設計研究所を持ち、レンズから写真機までの一貫体制を特色としていた

米国市場の開拓と、日本のカメラ業界で最初の海外販売提携

1954年2月、田嶋氏は入社3年目の輸出課員に最新製品30台を持たせてニューヨークへ送り出した。しかし当時の日本製品には「安かろう、悪かろう」の印象が強く、販売に協力する相手はなかなか見つからない。同年8月末に自ら渡米してボルジー社と交渉したものの条件が折り合わず不調に終わり、十数社に断られた。同じ年の秋、FR社のフィンク社長が、シャッターとフラッシュを同調させるMX接点付きのシャッターを絶対条件として全米販売を提案してきた。日本ではまだ作られていない機構だったが、田嶋氏はその場で引き受けると答え、帰国して「今はまさにわれわれの運命の分岐点だ」と技術陣に総力の結集を命じた。 [33][34]

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [33]1954年2月に入社3年目の輸出課員を最新製品30台とともにニューヨークへ派遣し、同年8月末の訪米ではボルジー社との交渉が不調に終わった
    • [34]FR社のフィンク社長がMX接点付きシャッターを条件に全米販売を提案し、田嶋一雄はその場で引き受けた

技術陣は翌1955年初めに条件を満たす「ミノルタオートコード」など2機種を仕上げ、同年3月にアトランタで開かれた全米写真業協会ショーへ出品した。評判は高く、正式な販売代理店契約を結んで夏から本格販売に入る。対海外での販売提携は、日本のカメラ業界でこれが最初であった。両社は「FR-ミノルタ」のダブルブランドを付け、品質保証を共同で負う形をとっている。2機種はライバルのドイツ製品の2分の1以下という価格の割安さもあって好調に売れた。1959年4月には全米向け販売会社ミノルタ・コーポレーションをニューヨークに設立し、時流に乗り遅れたFR社との契約を円満に解約したうえで自前の販売網へ移した。西独ハンブルクにも拠点を置いている。 [35][36]

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [35]1955年3月にアトランタの全米写真業協会ショーへ「ミノルタオートコード」など2機種を出品し、FR社と販売代理店契約を結んだ。対海外の販売提携は日本のカメラ業界で最初
    • [36]1959年4月に全米向け販売会社ミノルタ・コーポレーションをニューヨークに設立し、FR社との契約を解約した
  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [33]1954年2月に入社3年目の輸出課員を最新製品30台とともにニューヨークへ派遣し、同年8月末の訪米ではボルジー社との交渉が不調に終わった
    • [34]FR社のフィンク社長がMX接点付きシャッターを条件に全米販売を提案し、田嶋一雄はその場で引き受けた
    • [35]1955年3月にアトランタの全米写真業協会ショーへ「ミノルタオートコード」など2機種を出品し、FR社と販売代理店契約を結んだ。対海外の販売提携は日本のカメラ業界で最初
    • [36]1959年4月に全米向け販売会社ミノルタ・コーポレーションをニューヨークに設立し、FR社との契約を解約した

「光を中心に」という条件を付けた多角化

1957年の不況に直面した田嶋氏は「景気の波を乗り切るにはカメラだけでは駄目だ」と考え、事業多角化の検討を社内に指令した。ただし、そこに一つの条件を付けている。「多角化とは言っても、"光"を中心に、という原点を忘れるな」というものである。この枠に沿って、社内は電卓・タイプライター・金銭登録機など光学や映像に直接関係しない製品をあらかじめ外し、複写機・マイクロ写真機器・拡大投影機の数品目に的を絞った。多角化の範囲を製品分野ではなく技術の共通性で切ったこの判断が、のちに複写機を主力へ育てる下地になる。1958年3月期には不況のあおりで業績が悪化し、初めての無配に陥っている。 [37][38]

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [37]1957年の不況を受けて多角化の検討を指令し、「光を中心に」という条件で複写機・マイクロ写真機器・拡大投影機に対象を絞った
    • [38]1958年3月期に業績が悪化し初の無配となった

複写機の研究開発は1959年に始まり、翌1960年にジアゾ式(青焼き)の第一号機を出した。以後、湿式電子複写機も数機種を発売している。1961年3月期の売上構成を見ると、写真機が81.0%を占める一方で事務用複写機は3.2%、幻燈機映写機5.3%、交換レンズ3.5%、光学硝子0.2%であった。参入したとはいえ、事務機はまだ端に置かれた製品である。カメラ以外では、田嶋氏が少年期から星を好んだことに始まるプラネタリウムも1956年から自社開発に着手し、1958年に阪神パークで初めて公開実演した。田嶋氏は世界で5社しか作っていない製品だとして、社内の中止論を退けた。 [39][40]

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [39]複写機の研究開発は1959年に始まり、1960年にジアゾ式の第一号機を発売した
  • 株式会社年鑑 昭和37年版
    • [40]1961年3月期の売上構成は写真機81.0%・附属品その他6.8%・幻燈機映写機5.3%・交換レンズ3.5%・事務用複写機3.2%・光学硝子0.2%

1962年2月、グレン中佐の乗る宇宙船フレンドシップ7号に「ミノルタハイマチック」が搭載され、撮影された地球の写真が世界中の新聞とテレビで紹介された。グレン中佐が世界各国の20数機種を自ら点検して4機種に絞り、最後にハイマチックを選んだと後日明らかにされている。ハイマチックは、絞りとシャッターを一組の羽根でまとめた世界初のプログラムシャッターを備える「ユニオマット」を自動露出化した機種であった。この機会を逃せばブランド名と社名を一致させる折はないと考えた田嶋氏は、同年7月、千代田光学精工から「ミノルタカメラ」への改称に踏み切る。創業から34年を経て、製品の名が会社の名になった。 [41]

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [41]1962年2月に「ミノルタハイマチック」が宇宙船フレンドシップ7号に搭載され、同年7月に社名を千代田光学精工からミノルタカメラへ改称した
  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [37]1957年の不況を受けて多角化の検討を指令し、「光を中心に」という条件で複写機・マイクロ写真機器・拡大投影機に対象を絞った
    • [38]1958年3月期に業績が悪化し初の無配となった
    • [39]複写機の研究開発は1959年に始まり、1960年にジアゾ式の第一号機を発売した
    • [41]1962年2月に「ミノルタハイマチック」が宇宙船フレンドシップ7号に搭載され、同年7月に社名を千代田光学精工からミノルタカメラへ改称した
  • 株式会社年鑑 昭和37年版
    • [40]1961年3月期の売上構成は写真機81.0%・附属品その他6.8%・幻燈機映写機5.3%・交換レンズ3.5%・事務用複写機3.2%・光学硝子0.2%

1963年〜 一眼レフの出遅れと複写機の低迷——二本柱がそろうまでの二十年

  1. 1965年四十年不況で一眼レフへの転換が遅れ、二年連続の無配となる
  2. 1966年一眼レフが好調に売れて四十年不況を脱し、輸出比率は前年を境に50%を超える
  3. 1970年全米で小売店向けの直販体制に移行
  4. 1972年西独ライツ社と技術相互協力契約を締結(翌年「ライツ・ミノルタCL」を発売)
  5. 1975年複写機の欧州営業をOEMから自社ブランドへ切り替え、ハノーバーに拠点を新設
  6. 1979年独自の現像システムを開発し、普通紙複写機の分野へ本格進出
  7. 1982年田嶋一雄が会長に退き、長男・田嶋英雄が社長に就任

ミノルタの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

四十年不況が示した、得意分野に居続けることの危うさ

1965年のいわゆる四十年不況で、ミノルタカメラは業界のなかで最も大きな痛手を受けた。原因は市況ではなく製品構成にある。得意としてきた二眼レフの中級機種に力を入れていたため、高級一眼レフへの転換が立ち遅れた。田嶋氏は二年連続の無配に至った経緯をそう振り返っている。「経費は節約しても、研究開発費は削るな」「高級一眼レフの開発を急げ」という号令を掛ける一方、社長室にこもって愛用者カードを一枚ずつ点検し、需要の実態を自ら確かめた。日本写真機工業会の会長でもあった田嶋氏は同年春、工業会の発足以来初めてとなる大手12社の不況カルテルをまとめる役も担っている。 [42][43]

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [42]1965年の四十年不況で二眼レフ中級機に偏っていたため高級一眼レフへの転換が遅れ、業界で最大の打撃を受けて二年連続の無配となった
    • [43]田嶋一雄は日本写真機工業会会長として、1965年春に発足以来初となる大手12社の不況カルテルをまとめた

立て直しは早かった。1966年に出した一眼レフが一眼レフの普及と重なってよく売れ、不況脱出の支えとなった。同じ年、日本のカメラ生産は台数・金額ともに西独を追い抜いた。輸出比率は1965年を境に50%を超え、1970年春には現地代理店が安値合戦に巻き込まれたのを教訓として全米で小売店向けの直販体制へ移った。1983年時点の売上高の80%強は輸出で、輸出比率の高さでは日本の産業界でも屈指の位置にあった。1968年12月には、NASAの要請で改造した宇宙用露出計「ミノルタスペースメーター」がアポロ8号とともに月を周回している。 [44][45]

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [44]1966年の一眼レフが大きく売れて不況を脱し、輸出比率は1965年を境に50%を超えた。1983年時点の輸出比率は売上高の80%強
    • [45]1968年12月に宇宙用露出計「ミノルタスペースメーター」がアポロ8号に搭載された

1970年10月、西独のライツ社からカメラの一部を下請け生産してほしいという打診が届いた。社内には反対が少なくない。ライカは最高級機の代名詞で、日本勢にとってライツ社の技術水準に追いつくことは長年の目標であり、量産技術ではすでに西独勢を上回っていたのに、なぜ下請けなのかという理屈である。田嶋氏は「何事もやってみなければわからない」として前向きな検討を指示し、1971年春に「ゴー」を出した。1972年6月に技術相互協力契約を締結し、翌年には共同開発による高級35ミリカメラ「ライツ・ミノルタCL」を発売している。反対論を退けた田嶋氏の理由は、国際関係では競争より協調が大切だという一点であった。 [46]

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [46]1970年10月にライツ社から下請け生産の打診があり、1971年春に受諾を決め、1972年6月に技術相互協力契約を締結した
  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [42]1965年の四十年不況で二眼レフ中級機に偏っていたため高級一眼レフへの転換が遅れ、業界で最大の打撃を受けて二年連続の無配となった
    • [43]田嶋一雄は日本写真機工業会会長として、1965年春に発足以来初となる大手12社の不況カルテルをまとめた
    • [44]1966年の一眼レフが大きく売れて不況を脱し、輸出比率は1965年を境に50%を超えた。1983年時点の輸出比率は売上高の80%強
    • [45]1968年12月に宇宙用露出計「ミノルタスペースメーター」がアポロ8号に搭載された
    • [46]1970年10月にライツ社から下請け生産の打診があり、1971年春に受諾を決め、1972年6月に技術相互協力契約を締結した

複写機が二十年伸びなかった理由と、欧州で開いた販路

1960年に参入した複写機は、先発グループの一角にありながら長く売上が伸びなかった。全体に占める比率は1960年代を通じて10%以下にとどまり、1970年代後半にようやく20%台へ乗る。田嶋氏はその理由を二つ挙げている。ひとつは、複写機など非カメラ部門の人材をほとんどすべてカメラ部門から転用したことで、数百グラムのカメラを扱ってきた技術者が数十キロの重量物と向き合い、感光体・現像剤・感光紙という未知の分野を一から学ばねばならなかった。もうひとつは、田嶋氏自身が「独創性のあるものを!」と求め続けたために開発によけい時間がかかったことである。今にして思えば酷な話だったかもしれない、と田嶋氏は書き添えている。 [47][48]

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [47]複写機の売上比率は1960年代を通じて10%以下、1970年代後半に20%台へ乗せた
    • [48]複写機が伸びなかった理由として、カメラ部門からの人材転用と「独創性」への要求による開発期間の長期化が挙げられている

販路は、欧州に駐在した担当者が一つずつ開いた。1975年11月に欧州地域の情報機器事業責任者として再びドイツへ赴いた太田義勝氏は、当時まだ海外メーカーへのOEM供給が中心だった複写機を自社ブランドで売るため、ハンブルクの販売現地法人から情報機器部門を独立させ、ハノーバーに新しい事務所を借りるところから始めた。「OEMでは本当の商売とはいえない、と当時の上司に言うたら、それならお前が行ってやってみろ、と言われた」と太田氏は振り返る。直販網の構築、カメラ拠点への併設、現地企業の買収、代理店探しと手を変え、1979年のハノーバー・メッセで発表した機種が好評を得たときには、飛行機を13機続けてチャーターして日本から複写機を運んだ。 [49]

  • 週刊東洋経済 1999年10月2日号「[キーパーソン]複写機部門を「育てた」功労者 ミノルタ社長 太田義勝」
    • [49]太田義勝は1975年11月から1984年9月まで欧州地域情報機器事業責任者としてドイツに駐在し、OEM中心だった複写機を自社ブランドで販売する体制を築いた

1979年、世界でも例のない現像システムの開発に成功し、この技術で普通紙複写機の分野へ本格参入した。売上構成はここから動く。1975年3月期はカメラ・付属品が78%、事務機・特機が22%だったが、1985年3月期には複写機688億円(46%)・カメラ404億円(27%)と順位が入れ替わり、その他事務機とマイクロ機器を合わせた情報機器系は5割を超えた。売上高そのものも1971年3月期の236億円から1985年3月期の1,504億円へ、14年で6.4倍になっている。1982年8月、田嶋一雄氏は長男の田嶋英雄氏に社長を譲り、自らは会長に退いた。 [50][51][52]

  • 会社年鑑(1986年版)
    • [50]1975年3月期(半期)はカメラ・付属品78%・事務機特機22%、1985年3月期(通期)は複写機688億円(46%)・カメラ404億円(27%)
    • [51]売上高は1971年3月期236億円から1985年3月期1,504億円へ増加した
  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [52]1982年8月23日に田嶋一雄が会長に退き、長男の田嶋英雄が社長に就任した
  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [47]複写機の売上比率は1960年代を通じて10%以下、1970年代後半に20%台へ乗せた
    • [48]複写機が伸びなかった理由として、カメラ部門からの人材転用と「独創性」への要求による開発期間の長期化が挙げられている
    • [52]1982年8月23日に田嶋一雄が会長に退き、長男の田嶋英雄が社長に就任した
  • 週刊東洋経済 1999年10月2日号「[キーパーソン]複写機部門を「育てた」功労者 ミノルタ社長 太田義勝」
    • [49]太田義勝は1975年11月から1984年9月まで欧州地域情報機器事業責任者としてドイツに駐在し、OEM中心だった複写機を自社ブランドで販売する体制を築いた
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [50]1975年3月期(半期)はカメラ・付属品78%・事務機特機22%、1985年3月期(通期)は複写機688億円(46%)・カメラ404億円(27%)
    • [51]売上高は1971年3月期236億円から1985年3月期1,504億円へ増加した

業界に二社しかなかった一貫生産と、それを支えた資本

この時期のミノルタが持っていた強みは、外部からも見えていた。1971年の『証券』は旭光学を紹介する記事のなかで、光学レンズの加工について「自社で硝子の溶解から一貫生産を行なつている日本光学工業㈱、ミノルタカメラ㈱を除くほとんどのカメラメーカーが」小原光学硝子製造所を使っていると記している。ガラスの溶解から手がける会社は業界に二社しかなく、その一社がミノルタであった。戦時中に海軍の命令で建てた伊丹の工場が、三十年を経て競合との差になっていたことになる。ただしこの設備が生きるのは、レンズを組み込む製品が売れ続けるあいだに限られる。製品が売れなくなれば、同じ設備が固定費として残る。 [53]

  • 証券 1971年「旭光学株式会社」
    • [53]1971年時点で硝子の溶解から一貫生産を行うカメラメーカーは日本光学工業とミノルタカメラの二社のみで、他社は小原光学硝子製造所のレンズ加工を使っていた

一貫生産と輸出を支えた資本の側も、この二十年で性格を変えた。1961年3月期の千代田光学精工では田嶋一雄氏が持株比率8.4%の筆頭株主で、以下に大同生命7.1%、神戸銀行5.0%が続いていた。ところが1980年3月期のミノルタカメラでは、上位10位が太陽神戸銀行8.20%、大同生命保険7.19%、日本生命保険5.37%、三和銀行4.97%、埼玉銀行4.86%と並び、創業者個人の名は消えている。金融機関と保険会社が株主の上位を占める構成は、当時の日本企業では珍しくない。ただしミノルタの場合、この構成は、設備を先に置いて需要を追う経営を続けるための資金供給源でもあった。 [54][55]

  • 株式会社年鑑 昭和37年版
    • [54]1961年3月期の千代田光学精工の筆頭株主は田嶋一雄8.4%、次いで大同生命7.1%・神戸銀行5.0%
  • 企業系列総覧 1981年版
    • [55]1980年3月期のミノルタカメラの上位株主は太陽神戸銀行8.20%・大同生命保険7.19%・日本生命保険5.37%・三和銀行4.97%・埼玉銀行4.86%
  • 証券 1971年「旭光学株式会社」
    • [53]1971年時点で硝子の溶解から一貫生産を行うカメラメーカーは日本光学工業とミノルタカメラの二社のみで、他社は小原光学硝子製造所のレンズ加工を使っていた
  • 株式会社年鑑 昭和37年版
    • [54]1961年3月期の千代田光学精工の筆頭株主は田嶋一雄8.4%、次いで大同生命7.1%・神戸銀行5.0%
  • 企業系列総覧 1981年版
    • [55]1980年3月期のミノルタカメラの上位株主は太陽神戸銀行8.20%・大同生命保険7.19%・日本生命保険5.37%・三和銀行4.97%・埼玉銀行4.86%

1985年〜 α-7000がもたらした栄光と、特許訴訟から経営統合までの十八年

  1. 1985年世界初の実用オートフォーカス一眼レフ「α-7000」を発売
  2. 1986年α-7000の販売で経常利益122億円・純利益110億円と当時の過去最高を記録
  3. 1992年ハネウェル特許訴訟が和解金1億2,750万ドルで決着し、特別損失176億円を計上
  4. 1993年創業家の田嶋英雄が会長へ退き、金谷宰が9人の上席役員を越えて社長に就任
  5. 1994年複写機「CSプロ」シリーズを発売し、高速機を品揃えに加える
  6. 1994年プリンター事業と複写機事業を統合し、社名をミノルタカメラからミノルタに改称
  7. 2003年コニカと株式交換により経営統合し、コニカミノルタホールディングスが発足

ミノルタの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

オートフォーカス一眼レフが掘り当てた中高年の市場

1985年2月下旬、ミノルタカメラはオートフォーカス一眼レフ「α-7000」の一般ユーザー向け発表会を東京と大阪で開いた。両会場とも超満員となったものの、社内の受け止めは複雑であった。詰めかけたカメラファンのうち、白髪頭や中年・高齢の来場者がかなりの割合を占めていたからで、幹部からは「エレクトロニクスを駆使したカメラだから若い人がもっと集まってくるかと思ったのに…」という声が漏れた。当初の狙いは、学歴も収入もある20代後半から30代前半のサラリーマン層にあった。実際に店頭へ押し寄せたのは、狙いとは違う層である。 [56][57]

  • 日経ビジネス 1985年7月8日号「ヒット商品があぶり出す“隠れ大衆”市場/ミノルタカメラ「α-7000」中高年を走らせた高性能」
    • [56]1985年2月下旬にα-7000の一般ユーザー向け発表会を東京・大阪で開き、来場者に中高年が多かった
    • [57]当初のターゲットは20代後半から30代前半で学歴・収入のある中の上のサラリーマン層だった

最初の2か月間、購入客の中心は50代と60代の男性であった。彼らは5年から10年前の一眼レフ全盛期の使い手で、加齢による視力の低下からピント合わせに不満を抱えていた。所得が高く、十数万円の出費を苦にしない。ミノルタが「忘れられていたマーケット」と呼んだこの層が動いたことで、発売直後から品切れ店が続出した。前年12月から生産を始め、一眼レフとしては通常の4倍にあたる1万台を店頭に送り込んでいたが足りず、4月からは月産3万台の生産ラインを休日と夜間の返上で4万台体制に増強した。それでも6月下旬の時点で、店頭での予約から2〜3週間待ちが続いている。 [58][59]

  • 日経ビジネス 1985年7月8日号「ヒット商品があぶり出す“隠れ大衆”市場/ミノルタカメラ「α-7000」中高年を走らせた高性能」
    • [58]発売前に1万台(一眼レフとして通常の4倍)を店頭へ送り、4月から月産3万台のラインを4万台体制に増強、6月下旬でも予約から2〜3週間待ちだった
    • [59]最初の2か月間の購入客の中心は50代・60代の男性で、視力低下でピント合わせに不満を持つ一眼レフ全盛期のユーザーだった

国内一眼レフ市場で1桁しかなかったミノルタのシェアは、発売以来20〜25%へ上がる。同社は輸出分を含めて1年間に約50万台、標準レンズとストロボを付けた平均小売価格15万円で750億円の売上を見込んだ。1986年3月期の経常利益は前年度比7割近い増加で当時最高の122億円、純利益も110億円に達している。1989年には積極的な広告宣伝も加わってキヤノンからシェア首位を奪い返し、国内シェアは約3割となった。田嶋英雄社長は1990年の取材に「技術革新で需要を作り出せれば伸びる余地は大きい」と述べ、一眼レフの自動焦点化比率が国内で90%を超えたと語っている。創業者の田嶋一雄氏は、この成功を見届けた1985年11月に世を去った。 [60][61][62]

  • 日経ビジネス 1985年7月8日号「ヒット商品があぶり出す“隠れ大衆”市場/ミノルタカメラ「α-7000」中高年を走らせた高性能」
    • [60]国内一眼レフのシェアは1桁から20〜25%へ上昇し、1年間で約50万台・約750億円の販売を見込んだ
  • 日経ビジネス 1994年3月28日号「ミノルタ、総崩れからの追撃」
    • [61]1986年3月期の経常利益は前年度比7割近い増加で当時過去最高の122億円、純利益110億円
  • 日経ビジネス 1990年7月30日号「[ミノルタカメラ]「カメラ健在、まだまだ伸びます」開発力で高機能化の先頭走る」
    • [62]1989年にキヤノンからシェア首位を奪回し国内シェアは約3割、田嶋英雄社長は一眼レフのAF化比率が国内で90%を超えたと述べた
  • 日経ビジネス 1985年7月8日号「ヒット商品があぶり出す“隠れ大衆”市場/ミノルタカメラ「α-7000」中高年を走らせた高性能」
    • [56]1985年2月下旬にα-7000の一般ユーザー向け発表会を東京・大阪で開き、来場者に中高年が多かった
    • [57]当初のターゲットは20代後半から30代前半で学歴・収入のある中の上のサラリーマン層だった
    • [58]発売前に1万台(一眼レフとして通常の4倍)を店頭へ送り、4月から月産3万台のラインを4万台体制に増強、6月下旬でも予約から2〜3週間待ちだった
    • [59]最初の2か月間の購入客の中心は50代・60代の男性で、視力低下でピント合わせに不満を持つ一眼レフ全盛期のユーザーだった
    • [60]国内一眼レフのシェアは1桁から20〜25%へ上昇し、1年間で約50万台・約750億円の販売を見込んだ
  • 日経ビジネス 1994年3月28日号「ミノルタ、総崩れからの追撃」
    • [61]1986年3月期の経常利益は前年度比7割近い増加で当時過去最高の122億円、純利益110億円
  • 日経ビジネス 1990年7月30日号「[ミノルタカメラ]「カメラ健在、まだまだ伸びます」開発力で高機能化の先頭走る」
    • [62]1989年にキヤノンからシェア首位を奪回し国内シェアは約3割、田嶋英雄社長は一眼レフのAF化比率が国内で90%を超えたと述べた

特許訴訟の敗訴と、成功体験が遅らせた転換

α-7000の成功には、二つの代償が付いていた。ひとつは為替である。発売した年の秋に始まった急激な円高で内外価格差が広がり、海外へ出した製品が安値で国内へ逆流した。他社の追随機との競合もあって国内価格が値崩れし、ミノルタは1986年度と1987年度に連続して大幅減益となる。輸出比率は約80%、カメラ売上の半分が米国向けという構成が、そのまま為替の影響を増幅した。もうひとつは特許であった。1987年、米ハネウェルがオートフォーカス技術の特許侵害でミノルタを提訴する。同社は一眼レフを作るメーカーのほとんどを訴えると表明していたが、手始めに狙われたのは当時米国でシェア首位のミノルタであった。 [63][64]

  • 日経ビジネス 1988年11月7日号「崩壊する「日本の価格」/カメラ→逆流が迫った究極の選択」
    • [63]1985年秋からの円高で内外価格差が広がり逆流品が国内に流入、1986・1987年度と連続で大幅減益となった。輸出比率は約80%でカメラ売上の半分が米国向け
  • 日経ビジネス 1992年3月2日号「誤算の研究 ミノルタカメラ 開発分散、実らぬ新分野/一眼レフ固執に敗訴打撃」
    • [64]1987年に米ハネウェルがオートフォーカス技術の特許侵害でミノルタを提訴した。当時ミノルタは米国でシェア首位だった

1992年2月7日、ニュージャージー州の連邦地裁で陪審は9,635万ドルの支払いを命じる評決を下した。3月3日には判事の助言で和解が成立し、和解金は1億2,750万ドル(約165億円)となる。ミノルタ側の弁護士費用だけで43億円かかっていた。田嶋英雄社長は和解の理由を「ビジネスライクに得か損か、を考えたからです」と説明し、控訴して勝つ見込みが最高35%であること、判決で米国内の販売差し止めが出れば複写機を含む商売全体の信用問題になることを挙げている。同社長は「『ハネウエル(原文ママ)の特許は侵害していない』という主張は今でも変わっていません」とも述べた。この和解金で176億円の特別損失を計上し、本業の赤字と合わせて1991年度の連結最終赤字は361億円に達した。 [65][66]

  • 日経ビジネス 1992年4月6日号「敗軍の将、兵を語る 田嶋英雄氏[ミノルタカメラ社長]今も特許侵害ないと確信」
    • [65]1992年2月7日の陪審評決は9,635万ドル、3月3日の和解金は1億2,750万ドル(約165億円)で、ミノルタ側の弁護士費用は43億円だった
  • 日経ビジネス 1994年3月28日号「ミノルタ、総崩れからの追撃」
    • [66]和解金により1991年度に176億円の特別損失を計上し、連結最終赤字は361億円となった

訴訟がなければ避けられた赤字か、といえばそうではない。1991年3月期の製品構成はカメラ884億円(39.8%)に対し複写機775億円(34.9%)で、収益はどちらも細っていた。国内のカメラ生産額では1988年に一眼レフがコンパクトに抜かれていたにもかかわらず、ミノルタはカメラ事業への投資の約60%を一眼レフに振り向けている。日経ビジネスの1992年の記事は、その理由を「この成功体験が強烈すぎて、コンパクトカメラへの転換が遅れた」と説明している。複写機の国内台数シェアは約5%にとどまり、レーザービームプリンターの1991年3月期の売上は209億円、翌期の見込みも前年比3%増の215億円と頭打ちであった。特許訴訟は、すでに細っていた収益にさらに損失を重ねた。 [67][68]

  • 日経ビジネス 1992年3月2日号「誤算の研究 ミノルタカメラ 開発分散、実らぬ新分野/一眼レフ固執に敗訴打撃」
    • [67]1991年3月期の製品構成はカメラ884億円(39.8%)・複写機775億円(34.9%)・レーザービームプリンター209億円(9.4%)。複写機の国内台数シェアは約5%
    • [68]一眼レフは1988年に国内生産額でコンパクトカメラに抜かれたが、ミノルタはカメラ事業への投資の約60%を一眼レフに投入していた
  • 日経ビジネス 1988年11月7日号「崩壊する「日本の価格」/カメラ→逆流が迫った究極の選択」
    • [63]1985年秋からの円高で内外価格差が広がり逆流品が国内に流入、1986・1987年度と連続で大幅減益となった。輸出比率は約80%でカメラ売上の半分が米国向け
  • 日経ビジネス 1992年3月2日号「誤算の研究 ミノルタカメラ 開発分散、実らぬ新分野/一眼レフ固執に敗訴打撃」
    • [64]1987年に米ハネウェルがオートフォーカス技術の特許侵害でミノルタを提訴した。当時ミノルタは米国でシェア首位だった
    • [67]1991年3月期の製品構成はカメラ884億円(39.8%)・複写機775億円(34.9%)・レーザービームプリンター209億円(9.4%)。複写機の国内台数シェアは約5%
    • [68]一眼レフは1988年に国内生産額でコンパクトカメラに抜かれたが、ミノルタはカメラ事業への投資の約60%を一眼レフに投入していた
  • 日経ビジネス 1992年4月6日号「敗軍の将、兵を語る 田嶋英雄氏[ミノルタカメラ社長]今も特許侵害ないと確信」
    • [65]1992年2月7日の陪審評決は9,635万ドル、3月3日の和解金は1億2,750万ドル(約165億円)で、ミノルタ側の弁護士費用は43億円だった
  • 日経ビジネス 1994年3月28日号「ミノルタ、総崩れからの追撃」
    • [66]和解金により1991年度に176億円の特別損失を計上し、連結最終赤字は361億円となった

統合で幕——何が残り、何が消えたか

1993年4月、創業家の田嶋英雄社長が会長へ退き、米国販売子会社の社長だった金谷宰氏が9人の上席役員を越えて社長に就いた。金谷社長はカメラ事業から最初の1年で500人を複写機事業部や販売子会社へ移す。その中にはα-7000を開発したエース級の技術者も含まれていた。1994年7月にはプリンター事業と複写機事業を統合し、社名から「カメラ」を外してミノルタに改める。1993年に6,200人いた社員は、希望退職の募集や新卒採用の中止を経て5年で25%減り4,600人となった。1998年3月期には売上高3,011億円・経常利益129億円と、いずれも当時の過去最高を記録している。 [69][70]

  • 日経ビジネス 1999年1月4日号「1999日本企業出直し元年/ミノルタ ミノルタカメラでの成功を捨て切る」
    • [69]1993年4月に田嶋英雄が会長へ退き、米国販売子会社社長の金谷宰が9人の上席役員を越えて社長に就任した
    • [70]社員は1993年の6,200人から5年で25%減の4,600人となり、1998年3月期に売上高3,011億円・経常利益129億円と当時の過去最高を記録した

それでも財務の傷は残った。2001年早春に600円を超えていた株価は12月17日に123円まで落ち、連結売上高5,000億円規模の会社の時価総額は400億円に届かなくなる。同年9月中間期は棚卸資産の評価損などで連結経常損益が121億円の赤字、保有株式の評価損や米販売会社の営業権償却を加えて最終赤字は227億円となり、剰余金を使い果たして繰越損失215億円を抱えた。格付投資情報センターはこの年2度目の格下げに踏み切っている。9月末の有利子負債は2,500億円弱で、うち1,840億円弱が短期借入金であった。輸出比率80%の会社が円安下で業績を落とす一方、キヤノンとリコーは最高益の更新を見込んでいた。のちに太田義勝社長は、この時期を「開発先行型でずるずると借金を増やしてしまった反省はあります」と振り返っている。 [71]

  • 日経ビジネス 2001年12月24日号「株価急落のミノルタ 悪循環に陥る債務過多企業」
    • [71]2001年12月17日の株価は123円(早春は600円超)、時価総額は400億円未満。2001年9月中間期は連結経常赤字121億円・最終赤字227億円で繰越損失215億円、有利子負債は9月末で2,500億円弱(うち短期1,840億円弱)

2002年4月、太田義勝社長は社内分社によるカンパニー制を導入し、部門別の採算管理を徹底した。早期退職制度の利用者は500人を超えている。前期の連結最終赤字は343億円、有利子負債は2,400億円であった。祖業のカメラは全体で赤字の見通しだったが、売却の可能性を太田社長は「コア技術とつながっており容易には手放せない」として否定している。翌2003年8月、ミノルタはコニカとの株式交換により経営統合し、コニカミノルタホールディングスが発足した。消えたのは社名と上場銘柄、そして75年にわたり会社の名を担ってきたカメラの位置づけである。残ったのは複写機とカラーレーザープリンターで、高速デジタル機を得意とするコニカに対し、ミノルタはカラー機に強みを持っていた。舶来品への従属を断つために始めた光学の一貫生産は、カメラという出口を失ってなお事務機の中に残った。 [72][73]

  • 週刊東洋経済 2002年6月15日号「ザ・トーク 太田義勝/鷲尾悦也」
    • [72]2002年4月にカンパニー制を導入し早期退職の利用者は500人超。前期の連結最終赤字は343億円、有利子負債は2,400億円だった
    • [73]2003年8月にコニカとの株式交換で経営統合し、コニカミノルタホールディングスが発足した
  • 日経ビジネス 1999年1月4日号「1999日本企業出直し元年/ミノルタ ミノルタカメラでの成功を捨て切る」
    • [69]1993年4月に田嶋英雄が会長へ退き、米国販売子会社社長の金谷宰が9人の上席役員を越えて社長に就任した
    • [70]社員は1993年の6,200人から5年で25%減の4,600人となり、1998年3月期に売上高3,011億円・経常利益129億円と当時の過去最高を記録した
  • 日経ビジネス 2001年12月24日号「株価急落のミノルタ 悪循環に陥る債務過多企業」
    • [71]2001年12月17日の株価は123円(早春は600円超)、時価総額は400億円未満。2001年9月中間期は連結経常赤字121億円・最終赤字227億円で繰越損失215億円、有利子負債は9月末で2,500億円弱(うち短期1,840億円弱)
  • 週刊東洋経済 2002年6月15日号「ザ・トーク 太田義勝/鷲尾悦也」
    • [72]2002年4月にカンパニー制を導入し早期退職の利用者は500人超。前期の連結最終赤字は343億円、有利子負債は2,400億円だった
    • [73]2003年8月にコニカとの株式交換で経営統合し、コニカミノルタホールディングスが発足した

ミノルタの沿革1928〜2003年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
兵庫県武庫郡鳴尾村に個人経営「日独写真機商店」を開業★★★
第一号機「ニフカレッテ」が完成し、一台20円で発売★★
一カ月に及ぶストライキが起こり、従業員をいったん全員解雇
自社製シャッターを内蔵した「ニフカドックス」を発売★★
個人経営を改めてモルタ合資会社を設立し、大阪市東区に本社を置く★★
部品輸入を担ったハイレマンが退社し、年明けには技術者ノイマンも工員を連れて離反★★
仕上・旋盤・シャッター・塗装の各部と総務課を設け、日本人だけの生産体制に移る★★
速写型カメラに「ミノルタ」の名を冠す★★
ベークライト製蛇腹の「ミノルタベスト」を19円50銭で発売★★
尼崎に日本光学機械研究所(のちの尼崎工場)を設け、二眼レフの開発に着手★★
堺市に第二分工場を建設し、写真用レンズの自社製造を始める★★
株式会社に改組し、社名を千代田光学精工に改称(資本金150万円)★★★
国産初の二眼レフカメラ「ミノルタフレックス」を発売★★★
海軍向け七倍五十ミリ双眼鏡の生産を堺工場で開始★★
海軍の命により、伊丹に光学ガラス溶融工場の建設へ着手★★★
伊丹の光学ガラス溶融工場が完成し火入れ、年末の総人員は2,600人に★★
空襲で武庫川・小松・尼崎の三工場を焼失し、従業員は400人前後に減少★★★
戦災を免れた工場の役割分担を定め、新体制のもとで生産を再開★★
戦後第一号機「ミノルタセミ」を発売(国産初のコーティングレンズを採用)★★
愛知県豊川市に新分工場を建設し、一工場一製品の生産体制を整える★★
南アフリカへ「セミ」170台を輸出(戦後の国産カメラで最初の輸出)★★
債権切捨てに伴い9割減資し、資本金は22万5,000円となる★★
堺工場内に恒温恒湿のレンズ研磨工場を新設★★
株式を新規上場(資本金1億4,000万円・従業員約1,000人)
アトランタの全米写真業協会ショーへ出品し、これを機に米FR社と販売代理店契約を結ぶ(日本のカメラ業界で最初の海外販売提携)★★★
三十二年不況を受け、「光を中心に」という条件を付けて多角化の検討を指令★★★
自社開発したプラネタリウムを阪神パークで初公開
三十二年不況で業績が悪化し、初の無配となる★★
全米向け販売会社ミノルタ・コーポレーションをニューヨークに設立★★
複写機の第一号機(ジアゾ式)を発売し、事務機分野へ参入★★★
「ミノルタハイマチック」が米宇宙船フレンドシップ7号に搭載される★★
社名を千代田光学精工からミノルタカメラに改称★★
四十年不況で一眼レフへの転換が遅れ、二年連続の無配となる★★★
一眼レフが好調に売れて四十年不況を脱し、輸出比率は前年を境に50%を超える★★
宇宙用露出計「ミノルタスペースメーター」がアポロ8号に搭載される
全米で小売店向けの直販体制に移行★★
西独ライツ社と技術相互協力契約を締結(翌年「ライツ・ミノルタCL」を発売)★★
複写機の欧州営業をOEMから自社ブランドへ切り替え、ハノーバーに拠点を新設★★
独自の現像システムを開発し、普通紙複写機の分野へ本格進出★★★
田嶋一雄が会長に退き、長男・田嶋英雄が社長に就任★★
世界初の実用オートフォーカス一眼レフ「α-7000」を発売★★★
創業者・田嶋一雄が死去
α-7000の販売で経常利益122億円・純利益110億円と当時の過去最高を記録★★
米ハネウェルからオートフォーカス技術の特許侵害で提訴される★★
円高で輸出品が国内へ逆流し、α-7700iで国内価格を約1割下げ米国価格を引き上げる★★
ハネウェル特許訴訟が和解金1億2,750万ドルで決着し、特別損失176億円を計上★★★
創業家の田嶋英雄が会長へ退き、金谷宰が9人の上席役員を越えて社長に就任★★★
複写機「CSプロ」シリーズを発売し、高速機を品揃えに加える★★★
プリンター事業と複写機事業を統合し、社名をミノルタカメラからミノルタに改称★★★
売上高3,011億円・経常利益129億円といずれも当時の過去最高を計上★★
欧州で複写機の自社ブランド販売網を築いた太田義勝が、上位3名を越えて社長に就任★★
株価が123円まで下落し格付を引き下げられる。繰越損失215億円・有利子負債2,500億円弱★★
社内分社によるカンパニー制を導入し、早期退職制度の利用者が500人を超える★★
コニカと株式交換により経営統合し、コニカミノルタホールディングスが発足★★★
出典・参考
  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
  • 会社銀行八十年史(1955年)「千代田光学精工」
  • 証券 1953年「千代田光学精工株式会社」(新規上場会社紹介)
  • 日本産業史(日経文庫)第2巻(日本経済新聞社, 1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
  • 株式会社年鑑 昭和37年版
  • 週刊東洋経済 1999年10月2日号「[キーパーソン]複写機部門を「育てた」功労者 ミノルタ社長 太田義勝」
  • 会社年鑑(1986年版)
  • 証券 1971年「旭光学株式会社」
  • 企業系列総覧 1981年版
  • 日経ビジネス 1985年7月8日号「ヒット商品があぶり出す“隠れ大衆”市場/ミノルタカメラ「α-7000」中高年を走らせた高性能」
  • 日経ビジネス 1994年3月28日号「ミノルタ、総崩れからの追撃」
  • 日経ビジネス 1990年7月30日号「[ミノルタカメラ]「カメラ健在、まだまだ伸びます」開発力で高機能化の先頭走る」
  • 日経ビジネス 1988年11月7日号「崩壊する「日本の価格」/カメラ→逆流が迫った究極の選択」
  • 日経ビジネス 1992年3月2日号「誤算の研究 ミノルタカメラ 開発分散、実らぬ新分野/一眼レフ固執に敗訴打撃」
  • 日経ビジネス 1992年4月6日号「敗軍の将、兵を語る 田嶋英雄氏[ミノルタカメラ社長]今も特許侵害ないと確信」
  • 日経ビジネス 1999年1月4日号「1999日本企業出直し元年/ミノルタ ミノルタカメラでの成功を捨て切る」
  • 日経ビジネス 2001年12月24日号「株価急落のミノルタ 悪循環に陥る債務過多企業」
  • 週刊東洋経済 2002年6月15日号「ザ・トーク 太田義勝/鷲尾悦也」

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