ミノルタ の歴史

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創業 1928年
創業者 田嶋一雄
創業地 兵庫県武庫郡鳴尾村(現・西宮市鳴尾町)
創業
1928年11月、貿易商の長男であった田嶋一雄氏が父の反対を押し切り、兵庫県武庫郡鳴尾村の武庫川河畔に個人経営の日独写真機商店を創業した。土地300坪・従業員約30人の町工場で、二人のドイツ人技術者の協力を得て輸入品が占めていた小型カメラの製造に着手した。当時の国産大手は小西六の一社だけで、市場の大半は欧米からの輸入品が占めていた。出発は輸入部品の組み立てで、ドイツ人技術者が離れたのちに部品の国産化へ向かう。1937年に株式会社千代田光学精工へ改組し、1953年に東京証券取引所へ上場、1962年に社名をミノルタカメラへ改めた。
決断
広げる先を光学の内側だけに限ってきた。カメラは景気の波をまともに受ける単品で、不況のたびに無配へ転じた。1957年の不況を受けて田嶋一雄氏が多角化を指令したとき、範囲は製品分野ではなく技術の共通性で切られ、電卓とタイプライターは候補から外れ、複写機・マイクロ写真機器・拡大投影機に絞られた。1960年の複写機第一号機もレンズと感光の延長に置かれ、事務用複写機の売上構成比は1961年3月期の3.2%から1985年3月期の46%へ上がってカメラを抜いた。同じ1985年にはオートフォーカス一眼レフα-7000を通常の4倍の初回投入で発売した。光学の外へ出なかったことが、カメラと複写機がそろって細った1990年代に振り替える先を残さなかった。
現況
消えたのは社名であり、残ったのは複写機の事業である。2001年12月17日、早春に600円を超えていた株価は123円まで落ち、連結売上高5,000億円規模の会社の時価総額は400億円に達しなくなった。同年9月中間期の連結経常損益は121億円の赤字、最終赤字は227億円で、剰余金を使い果たして繰越損失215億円を抱え、9月末の有利子負債は2,500億円弱、うち1,840億円弱が短期借入金であった。2003年8月、ミノルタはコニカとの株式交換で持株会社方式で経営統合し、1953年から50年続いた上場を終えた。輸出比率80%の会社が円安下で業績を落とすあいだに積み上がった短期の借入が、単独で立て直す時間を奪った。
競合
首位を取った市場が、そのまま最大の損失の出どころになった。α-7000は国内一眼レフのシェアを1桁から20〜25%へ押し上げ、1989年にはキヤノンから首位を奪回して約3割を握る。ただし輸出比率は約80%、カメラ売上の半分が米国向けで、1985年秋からの円高では海外へ出した製品が安値で国内へ逆流し、1986年度と1987年度は連続の大幅減益となった。米国で首位だったことは訴訟の的にもなり、1987年に米ハネウェルがオートフォーカス特許の侵害で最初に提訴した相手もミノルタである。1992年3月には控訴を見送って1億2,750万ドルで和解し、和解金による176億円の特別損失で連結最終赤字は361億円に達した。複写機の国内台数シェアは約5%にとどまり、カメラで取り返した首位は、事務機で先行した相手との収益差を埋めなかった。
ミノルタ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1957年3月期1985年3月期

創業ストーリー 舶来品が占めた写真機市場への参入と、軍需が残した光学ガラスの一貫生産 (1928年〜)

舶来品が占めた写真機市場への参入と、軍需が残した光学ガラスの一貫生産

値の通らない雑貨貿易から、加工度の高い製品への転身

神戸の貿易商・田嶋商店で人絹や雑貨の輸出に携わっていた田嶋一雄氏は、扱う商品そのものに不満を抱えていた。1927年11月、田嶋氏は商工省が後援する『日本商品旅商団』の一員として神戸を発ち、約6か月かけて中近東と東欧を回った[1]。翌年初めにカイロで再会した取引先からは、自ら開拓した綿布に酷似した模造品が別ルートで安値流入し、先発の利を得る間もないと告げられる。田嶋氏はこのとき『値段の通らないものをいつまでもやっていては面白くない』[引用元]と考え、加工度が高く他社がまねしにくい製品[2]でなければ商売は立ち行かないという結論に達した。

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [1]1927年11月、田嶋一雄が商工省後援の「日本商品旅商団」の一員として神戸を出港し、約6か月の中近東・東欧行に出た
    • [2]カイロで模造品の安値流入により取引が潰れ、「加工度の高い、他がまねしにくい独創的な製品」という信条を得た

転身の対象が写真機に定まったのは、同じ旅の途中でパリの光学兵器会社SOMの工場を訪ねたことによる。そこには日本軍向けにほぼ独占的に量産される測距儀が並び[3]、価格はメーカーの言い値で通ると聞かされた。値が通らない繊維とのちがいは大きく、田嶋氏は『光学』の二文字を頭から離せなくなった。帰国後まもなく、神戸でドイツ製の写真機用品を輸入していたウィリー・ハイレマン氏が、パリの光学機器会社に勤めた技術者ビリー・ノイマン氏を伴って訪ねてきた[4]。二人がそろって写真機の製造を勧めたとき、田嶋氏はパリで見た測距儀と目の前の写真機とが光学機器という一点で結びつくことに気づき、この話に乗る決断を下した。

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [3]パリの光学兵器会社SOM社の工場で日本軍向けの測距儀を見て「光学」に関心を持った
    • [4]在神戸のドイツ人ウィリー・ハイレマンと技術者ビリー・ノイマンが田嶋一雄に写真機製造を勧めた

1928年11月11日、田嶋氏は兵庫県武庫郡鳴尾村[5]の武庫川河畔に個人経営『日独写真機商店』を開いた。土地300坪、木造一部二階建て延べ130坪[6]、人員は本人を含めて約30人という規模である。父は『あまりにも業種がかけ離れ過ぎて危険だ』[引用元]として田嶋商店の新規事業とすることを認めず、生命保険の満期金5,000円を渡したにとどまった。残りは生家の漆器商を取り仕切る番頭からの借金で賄い、必要額の最低1万5,000円をようやく満たした。当時の日本で写真機の国産大手は小西六の一社だけで、市場の大半[7]はドイツをはじめとする欧米からの輸入品が占めていた。金融恐慌の直後、無名の町工場がこの市場に加わった。

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [5]1928年11月11日に個人経営「日独写真機商店」が兵庫県武庫郡鳴尾村で操業を開始した
    • [6]創業時の規模は土地300坪・建物延べ130坪・人員約30人、創業資金は最低1万5,000円で父からの5,000円と番頭からの借入で賄った
    • [7]1928年当時、国産の写真機大手は小西六の一社のみで市場の大半は欧米からの輸入品だった
  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [1]1927年11月、田嶋一雄が商工省後援の「日本商品旅商団」の一員として神戸を出港し、約6か月の中近東・東欧行に出た
    • [2]カイロで模造品の安値流入により取引が潰れ、「加工度の高い、他がまねしにくい独創的な製品」という信条を得た
    • [3]パリの光学兵器会社SOM社の工場で日本軍向けの測距儀を見て「光学」に関心を持った
    • [4]在神戸のドイツ人ウィリー・ハイレマンと技術者ビリー・ノイマンが田嶋一雄に写真機製造を勧めた
    • [5]1928年11月11日に個人経営「日独写真機商店」が兵庫県武庫郡鳴尾村で操業を開始した
    • [6]創業時の規模は土地300坪・建物延べ130坪・人員約30人、創業資金は最低1万5,000円で父からの5,000円と番頭からの借入で賄った
    • [7]1928年当時、国産の写真機大手は小西六の一社のみで市場の大半は欧米からの輸入品だった

輸入部品を一つずつ置き換えた十年と、ミノルタの名の確立

創業4か月後の1929年3月、第一号機『ニフカレッテ』が完成した。八枚撮りロールフィルムを使う蛇腹式のハンドカメラで、レンズもシャッターも輸入品に頼っている。価格は一台20円、3か月目からは月産100台を超えた[8]。だが緊縮財政のもとで景気が下り坂に転じると売れ行きは鈍り、田嶋氏は東京へ100台を担いで金策に出たものの、値引きを拒んで一台も売らずに帰ったこともある。資金繰りは生家の番頭への借入で繰り返し凌ぎ、その総額は5万円を超えた。1930年10月には工場長らへの反感からストライキが起き[9]、田嶋氏はハイレマン氏の強い主張を容れて従業員をいったん全員解雇している。

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [8]1929年3月に第一号機「ニフカレッテ」が完成し、一台20円で発売、3か月目から月産100台以上となった
    • [9]1930年10月に一カ月に及ぶストライキが発生し、従業員をいったん全員解雇した

1931年2月、自社製シャッターを内蔵した『ニフカドックス』を発売[10]し、これがよく売れて借入金を全額返済した。同年7月1日には個人経営を『モルタ合資会社』に改め[11]、大阪市東区北久太郎町に本社を置く。工場の従業員は70人を超えていたが、本社は田嶋氏と経理担当の弟・田嶋豊次郎氏ら4人の小所帯であった。ところが同年11月、頼りにしていたハイレマン氏が写真機部品の商売を始めると告げて退社し、年が明けるとノイマン氏も数人の工員[12]を連れて後を追う。技術の要を失いながら田嶋氏は『これからは日本人だけでやろう』[引用元]と決め、1932年4月に仕上・旋盤・シャッター・塗装の各部と総務課[13]を置いて生産体制を組織化した。社内の士気はかえって高まり、シャッターを自前でつくりレンズ[14]もできる限り国産品を使う機運が生まれる。二人のドイツ人が去ったことで、輸入部品を国産部品へ置き換える動きはかえって速まった。

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [10]1931年2月に自社製シャッターを内蔵した「ニフカドックス」を発売し、借入金を全額返済した
    • [11]1931年7月1日に個人経営を改めモルタ合資会社を設立し、大阪市東区北久太郎町に本社を置いた。工場従業員は70人超、本社は4人
    • [12]1931年11月にハイレマンが退社し、翌年初にノイマンも工員を連れて離反した
    • [13]1932年4月付で仕上・旋盤・シャッター・塗装の各部と総務課を設け、生産体制を組織化した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「千代田光学精工」
    • [14]1932年(昭和7年)からシャッターの輸入をやめて自作を始め、1935年ごろからレンズも国内で研磨させた

1933年半ば、ボタンを押すとレンズとシャッターが飛び出す速写型に『ミノルタ』の名が冠された[15]。田嶋光学機器を意味する英語の頭文字をつなぎ、生母の戒めにちなむ『稔る田』の意も重ねた命名である。翌1934年1月には、入手難の羊皮に代えてベークライトを使った剛体蛇腹の『ミノルタベスト』を19円50銭で発売し、『大阪城』の愛称[16]を得て広く売れた。1936年7月には尼崎に約600坪の[17]土地を求めて日本光学機械研究所を設け、職長の北風熊太郎氏らに二眼レフを研究させた。彼らは一室に寝泊まりして開発にあたり、国産では初めて成功して翌1937年暮れに『ミノルタフレックス』を発売する。同じ年には堺市にレンズ専門工場も建てた。同年9月、戦時経済への対応には合資会社では限度があると判断した田嶋氏は株式会社へ改組し、社名を千代田光学精工と改めた[18]。資本金150万円、三工場を合わせた従業員は約1,000人に増えていた。

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [15]1933年半ばに速写型カメラへ「ミノルタ」の名を冠した。田嶋光学機器を意味する英語の頭文字と「稔る田」を掛けた造語である
    • [16]1934年1月にベークライト製剛体蛇腹の「ミノルタベスト」を19円50銭で発売し、「大阪城」の愛称で売れた
    • [17]1936年7月に尼崎へ日本光学機械研究所(のちの尼崎工場)を設け、翌1937年暮れに国産初の二眼レフ「ミノルタフレックス」を発売した
  • 証券 1953年(新規上場会社紹介)
    • [18]1937年9月に株式会社へ改組して社名を千代田光学精工に改めた。資本金150万円、三工場合計の従業員は約1,000人
  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [8]1929年3月に第一号機「ニフカレッテ」が完成し、一台20円で発売、3か月目から月産100台以上となった
    • [9]1930年10月に一カ月に及ぶストライキが発生し、従業員をいったん全員解雇した
    • [10]1931年2月に自社製シャッターを内蔵した「ニフカドックス」を発売し、借入金を全額返済した
    • [11]1931年7月1日に個人経営を改めモルタ合資会社を設立し、大阪市東区北久太郎町に本社を置いた。工場従業員は70人超、本社は4人
    • [12]1931年11月にハイレマンが退社し、翌年初にノイマンも工員を連れて離反した
    • [13]1932年4月付で仕上・旋盤・シャッター・塗装の各部と総務課を設け、生産体制を組織化した
    • [15]1933年半ばに速写型カメラへ「ミノルタ」の名を冠した。田嶋光学機器を意味する英語の頭文字と「稔る田」を掛けた造語である
    • [16]1934年1月にベークライト製剛体蛇腹の「ミノルタベスト」を19円50銭で発売し、「大阪城」の愛称で売れた
    • [17]1936年7月に尼崎へ日本光学機械研究所(のちの尼崎工場)を設け、翌1937年暮れに国産初の二眼レフ「ミノルタフレックス」を発売した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「千代田光学精工」
    • [14]1932年(昭和7年)からシャッターの輸入をやめて自作を始め、1935年ごろからレンズも国内で研磨させた
  • 証券 1953年(新規上場会社紹介)
    • [18]1937年9月に株式会社へ改組して社名を千代田光学精工に改めた。資本金150万円、三工場合計の従業員は約1,000人

赤字覚悟の海軍受注と、軍命で建った光学ガラス工場

1938年、写真機の資材入手が難しくなるなかで、田嶋氏は『光学技術を生かせる軍用機器を積極的に手がけることこそが、民需用写真機の製造をも続け得る唯一の道』[引用元]との結論に達した。東京の海軍艦政本部へ二度三度と足を運んだ末、七倍五十ミリのプリズム双眼鏡の打診を得る。ところが明細を検討すると、工場の見積原価が一台200円であるのに対し納入指示価格は139円75銭で、目標の月1,000台では月約6万円の損失[19]となる計算であった。工場側は辞退すべきだという意見が圧倒的だったが、田嶋氏は『双眼鏡で赤字を出しても会社全体では黒字でいける』[引用元]と説き、1938年11月に堺工場で本格生産に入った。[20]

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [19]海軍向け七倍五十ミリ双眼鏡は見積原価200円に対し納入指示価格139円75銭で、月1,000台では月約6万円の損失となる条件だった
    • [20]1938年11月に堺工場で海軍向け双眼鏡の本格生産を開始した

この受注に続いて、光学ガラスの溶融という新しい工程が加わった。1942年1月、海軍艦政本部長名で『光学ガラスの溶融工場を急ぎ建設せよ』[引用元]との通達が届いた。当時、光学ガラスの民間製造は海軍系統の日本光学と陸軍系統の小原光学などすべて東京地区に集中し、関西には皆無だった[21]。海軍は製造拠点の分散先として千代田光学を選んだ。田嶋氏は兵庫県伊丹市に適地を求めて同年夏から建設に着手したが、資材難と熟練工不足で稼働まで二年近くを要し、火入れは1944年6月まで待たねばならなかった。この年、学徒動員で800人ほどが工場に配属され、年末の総人員は2,600[22]人に達している。

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [21]当時の光学ガラスの民間製造は日本光学・小原光学などすべて東京地区に集中し、関西には皆無だった
    • [22]1944年6月に伊丹の光学ガラス溶融工場が完成して火入れし、同年の学徒動員は800人、年末の総人員は2,600人となった

戦争末期の主製品は望遠鏡・双眼鏡・照準器・方位鏡・航空用写真機といった光学兵器で、生産能力の95%が軍需に充てられた[23]。1945年には空襲で武庫川・小松・尼崎の三工場を失う。終戦から二か月後、去就を各自の自由意思に委ねた結果、従業員は400人前後まで減った[24]。それでも会社が持ちこたえたのは、海軍艦政本部が終戦までの納入代金の一部として500万円を支払ったからで、赤字覚悟で双眼鏡を作った経緯が結果として運転資金になった。日本産業史は、戦時中の光学兵器開発への巨額投資が技術者を育て『光学機械の品質、性能を高める基礎となった』[引用元]と記す一方、その投資が初めから民生に向けられていればより早く大きな成果が出たはずだという反論の方が真相に近いとも述べる[25]。軍需の効果を功績として語ることはできない。ミノルタに残ったのは、他社が買うほかなかった光学ガラスを自ら溶かせる伊丹の工場であった。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「千代田光学精工」
    • [23]戦争末期には光学兵器が主製品となり、生産能力の95%を軍需に充てた
  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [24]1945年の空襲で武庫川・小松・尼崎の三工場を焼失し、終戦2か月後の従業員は400人前後となった。海軍艦政本部から未払い代金500万円が支払われた
  • 日本産業史(日経文庫)第2巻(日本経済新聞社, 1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
    • [25]戦時中の陸海軍による光学兵器開発への投資が、戦後のカメラ・双眼鏡産業の技術基盤となった。ただし同書は民生に向けていればより早く成果が出たという反論の方が真相に近いとする
  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [19]海軍向け七倍五十ミリ双眼鏡は見積原価200円に対し納入指示価格139円75銭で、月1,000台では月約6万円の損失となる条件だった
    • [20]1938年11月に堺工場で海軍向け双眼鏡の本格生産を開始した
    • [21]当時の光学ガラスの民間製造は日本光学・小原光学などすべて東京地区に集中し、関西には皆無だった
    • [22]1944年6月に伊丹の光学ガラス溶融工場が完成して火入れし、同年の学徒動員は800人、年末の総人員は2,600人となった
    • [24]1945年の空襲で武庫川・小松・尼崎の三工場を焼失し、終戦2か月後の従業員は400人前後となった。海軍艦政本部から未払い代金500万円が支払われた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「千代田光学精工」
    • [23]戦争末期には光学兵器が主製品となり、生産能力の95%を軍需に充てた
  • 日本産業史(日経文庫)第2巻(日本経済新聞社, 1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
    • [25]戦時中の陸海軍による光学兵器開発への投資が、戦後のカメラ・双眼鏡産業の技術基盤となった。ただし同書は民生に向けていればより早く成果が出たという反論の方が真相に近いとする

焼け跡からの生産再開と輸出への傾斜——千代田光学精工の17年

一工場一製品と副業製品で支えた生産再開

1946年初頭、田嶋氏は役員会で『復興が進むにつれ、平和産業としてのカメラが日の目を見る日は必ず来る』[引用元]として、生産再開を最優先に置く方針を示した。まず戦災を免れた工場の役割分担を決め、愛知県の海軍豊川工廠と交渉して用地と建物の一部を払い下げてもらう。1946年4月から新体制で生産に入り、8[26]月には国産で初めて増透処理を施したレンズを使う『ミノルタセミ』を発売した。戦後第一号機である。本社工場・堺・豊川で一工場一製品を守り、光学ガラスは伊丹工場から供給[27]する体制を整えた。カメラだけでは経費を賄えず、眼鏡レンズ・オペラグラス・カットグラス・真空管・顕微鏡といった副業製品も手がけている。

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [26]1946年4月から新体制で生産を再開し、8月に国産初のコーティングレンズを使う「ミノルタセミ」を発売した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「千代田光学精工」
    • [27]本社工場・堺・豊川で一工場一製品主義をとり、光学ガラスを伊丹工場から供給して一貫メーカーの業態を整えた

輸出は、売り込むより先に注文の方から始まった。1947年春、南アフリカのヨハネスブルグ[28]から突然の発注があり、『セミ』を170台送った。これが戦後の国産カメラで最初の輸出にあたる。帰還する進駐軍の兵士がカメラを持ち帰り、人づてに評判が広まったものと田嶋氏はみている。1949年初めには同じヨハネスブルグの販売会社へ、信用状に基づく戦後初の直接輸出として100台を出した。もっとも財務の実態は苦しく、1949年7月には債権切捨てに伴う9割減資で資本金は22[29]万5,000円まで落ちた。朝鮮戦争後の需要増と度重なる増資で立て直し、1953年5月には資本金1億4,000万円、同年9月14日に株式を新規上場している。

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [28]1947年春に南アフリカへ「セミ」170台を輸出し、これが戦後の国産カメラ初輸出となった。1949年初に信用状に基づく直接輸出100台を実施
  • 証券 1953年(新規上場会社紹介)
    • [29]1949年7月に債権切捨てに伴う9割減資で資本金22万5,000円となり、その後の増資を経て1953年5月に1億4,000万円、同年9月14日に新規上場した

上場時点の千代田光学精工は、大阪に本社工場、堺・豊川・伊丹に各工場、西宮にレンズ[30]設計研究所を持ち、『レンズから写真機まで一貫体制をもつているのが特色』[引用元]と紹介された。製品構成はミノルタフレックスが47.9%、ミノルタ35が23.3%、ミノルタセミ[31]が19.8%で、二眼レフの比重が高い。従業員は2年前まで500名に満たなかったが1953年3月末に887名、上場のころには約1,000名に達した。輸出と内需の比は3対7で、輸出の相手は米軍中央購買局が大半を占める。同年、増産と新製品のために堺工場内へ恒温恒湿の近代的レンズ研磨工場を新設し、レンズの自給に踏み切った。

  • 証券 1953年(新規上場会社紹介)
    • [30]大阪の本社工場に加え堺・豊川・伊丹の各工場と西宮のレンズ設計研究所を持ち、レンズから写真機までの一貫体制を特色としていた
    • [31]1953年時点の製品構成はミノルタフレックス47.9%・ミノルタ35が23.3%・ミノルタセミ19.8%、従業員は1953年3月末887名から約1,000名へ増加、輸出と内需は3対7
  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [26]1946年4月から新体制で生産を再開し、8月に国産初のコーティングレンズを使う「ミノルタセミ」を発売した
    • [28]1947年春に南アフリカへ「セミ」170台を輸出し、これが戦後の国産カメラ初輸出となった。1949年初に信用状に基づく直接輸出100台を実施
  • 会社銀行八十年史(1955年)「千代田光学精工」
    • [27]本社工場・堺・豊川で一工場一製品主義をとり、光学ガラスを伊丹工場から供給して一貫メーカーの業態を整えた
  • 証券 1953年(新規上場会社紹介)
    • [29]1949年7月に債権切捨てに伴う9割減資で資本金22万5,000円となり、その後の増資を経て1953年5月に1億4,000万円、同年9月14日に新規上場した
    • [30]大阪の本社工場に加え堺・豊川・伊丹の各工場と西宮のレンズ設計研究所を持ち、レンズから写真機までの一貫体制を特色としていた
    • [31]1953年時点の製品構成はミノルタフレックス47.9%・ミノルタ35が23.3%・ミノルタセミ19.8%、従業員は1953年3月末887名から約1,000名へ増加、輸出と内需は3対7

米国市場の開拓と、日本のカメラ業界で最初の海外販売提携

1954年2月、田嶋氏は入社3年目の輸出課員に最新製品30[32]台を持たせてニューヨークへ送り出した。しかし当時の日本製品には『安かろう、悪かろう』[引用元]の印象が強く、販売に協力する相手はなかなか見つからない。同年8月末に自ら渡米してボルジー社と交渉したものの条件が折り合わず不調に終わり、十数社に断られた。同じ年の秋、FR社のフィンク社長が、シャッターとフラッシュを同調させるMX接点付きのシャッターを絶対条件として全米販売を提案[33]してきた。日本ではまだ作られていない機構だったが、田嶋氏はその場で引き受けると答え、帰国して『今はまさにわれわれの運命の分岐点だ』[引用元]と技術陣に総力の結集を命じた。

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [32]1954年2月に入社3年目の輸出課員を最新製品30台とともにニューヨークへ派遣し、同年8月末の訪米ではボルジー社との交渉が不調に終わった
    • [33]FR社のフィンク社長がMX接点付きシャッターを条件に全米販売を提案し、田嶋一雄はその場で引き受けた

技術陣は翌1955年初めに条件を満たす『ミノルタオートコード』など2機種を仕上げ、同年3月にアトランタで開かれた全米写真業協会ショーへ出品した。評判は高く、正式な販売代理店契約を結んで夏から本格販売に入る。対海外での販売提携は、日本のカメラ業界でこれが最初[34]であった。両社は『FR-ミノルタ』のダブルブランドを付け、品質保証を共同で負う形をとっている。2機種はライバルのドイツ製品の2分の1以下という価格の割安さもあって好調に売れた。1959年4月には全米向け販売会社ミノルタ・コーポレーションをニューヨークに設立し[35]、時流に乗り遅れたFR社との契約を円満に解約したうえで自前の販売網へ移した。西独ハンブルクにも拠点を置いている。

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [34]1955年3月にアトランタの全米写真業協会ショーへ「ミノルタオートコード」など2機種を出品し、FR社と販売代理店契約を結んだ。対海外の販売提携は日本のカメラ業界で最初
    • [35]1959年4月に全米向け販売会社ミノルタ・コーポレーションをニューヨークに設立し、FR社との契約を解約した
  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [32]1954年2月に入社3年目の輸出課員を最新製品30台とともにニューヨークへ派遣し、同年8月末の訪米ではボルジー社との交渉が不調に終わった
    • [33]FR社のフィンク社長がMX接点付きシャッターを条件に全米販売を提案し、田嶋一雄はその場で引き受けた
    • [34]1955年3月にアトランタの全米写真業協会ショーへ「ミノルタオートコード」など2機種を出品し、FR社と販売代理店契約を結んだ。対海外の販売提携は日本のカメラ業界で最初
    • [35]1959年4月に全米向け販売会社ミノルタ・コーポレーションをニューヨークに設立し、FR社との契約を解約した

「光を中心に」という条件を付けた多角化

1957年の不況に直面した田嶋氏は『景気の波を乗り切るにはカメラだけでは駄目だ』[引用元]と考え、事業多角化の検討を社内に指令した。ただし、そこに一つの条件を付けている。『多角化とは言っても、"光"を中心に、という原点を忘れるな』[引用元]というものである。この枠に沿って、社内は電卓・タイプライター・金銭登録機など光学や映像に直接関係しない製品をあらかじめ外し、複写機・マイクロ写真機器・拡大投影機の数品目に的を絞った。多角化の範囲を製品分野ではなく技術の共通性で切ったこの判断が、のちに複写機を主力へ育てる下地になる。1958年3月期には不況のあおりで業績が悪化し[36]、初めての無配に陥っている。

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [36]1958年3月期に業績が悪化し初の無配となった

複写機の研究開発は1959年に始まり、翌1960[37]年にジアゾ式(青焼き)の第一号機を出した。以後、湿式電子複写機も数機種を発売している。1961年3月期の売上構成を見ると、写真機が81.0%を占める一方で事務用複写機は3.2%、幻燈機映写機5.3%、交換レンズ3.5%、光学硝子0.2[38]%であった。参入したとはいえ、事務機はまだ端に置かれた製品である。カメラ以外では、田嶋氏が少年期から星を好んだことに始まるプラネタリウムも1956年から自社開発に着手し、1958年に阪神パークで初めて公開実演した。田嶋氏は世界で5社しか作っていない製品だとして、社内の中止論を退けた。

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [37]複写機の研究開発は1959年に始まり、1960年にジアゾ式の第一号機を発売した
  • 株式会社年鑑 昭和37年版
    • [38]1961年3月期の売上構成は写真機81.0%・附属品その他6.8%・幻燈機映写機5.3%・交換レンズ3.5%・事務用複写機3.2%・光学硝子0.2%

1962年2月、グレン中佐の乗る宇宙船フレンドシップ7号に『ミノルタハイマチック』が搭載され、撮影された地球の写真が世界中の新聞とテレビで紹介された。グレン中佐が世界各国の20数機種を自ら点検して4機種に絞り、最後にハイマチックを選んだと後日明らかにされている。ハイマチックは、絞りとシャッターを一組の羽根でまとめた世界初のプログラムシャッターを備える『ユニオマット』を自動露出化した機種であった。この機会を逃せばブランド名と社名を一致させる折はないと考えた田嶋氏は、同年7月、千代田光学精工から『ミノルタカメラ』への改称[39]に踏み切る。創業から34年を経て、製品の名が会社の名になった。

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [39]1962年2月に「ミノルタハイマチック」が宇宙船フレンドシップ7号に搭載され、同年7月に社名を千代田光学精工からミノルタカメラへ改称した
  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [36]1958年3月期に業績が悪化し初の無配となった
    • [37]複写機の研究開発は1959年に始まり、1960年にジアゾ式の第一号機を発売した
    • [39]1962年2月に「ミノルタハイマチック」が宇宙船フレンドシップ7号に搭載され、同年7月に社名を千代田光学精工からミノルタカメラへ改称した
  • 株式会社年鑑 昭和37年版
    • [38]1961年3月期の売上構成は写真機81.0%・附属品その他6.8%・幻燈機映写機5.3%・交換レンズ3.5%・事務用複写機3.2%・光学硝子0.2%

一眼レフの出遅れと複写機の低迷——二本柱がそろうまでの20年

40年不況が示した、得意分野に居続けることの危うさ

1965年のいわゆる40年不況で、ミノルタカメラは業界のなかで最も大きな痛手を受けた。原因は市況ではなく製品構成にある。得意としてきた二眼レフの中級機種に力を入れていたため、高級一眼[40]レフへの転換が立ち遅れた。田嶋氏は二年連続の無配に至った経緯をそう振り返っている。『経費は節約しても、研究開発費は削るな』[引用元]『高級一眼レフの開発を急げ』[引用元]という号令を掛ける一方、社長室にこもって愛用者カードを一枚ずつ点検し、需要の実態を自ら確かめた。日本写真機工業会の会長でもあった田嶋氏は同年春、工業会の発足以来初めてとなる大手12社の不況カルテル[41]をまとめる役も担っている。

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [40]1965年の40年不況で二眼レフ中級機に偏っていたため高級一眼レフへの転換が遅れ、業界で最大の打撃を受けて二年連続の無配となった
    • [41]田嶋一雄は日本写真機工業会会長として、1965年春に発足以来初となる大手12社の不況カルテルをまとめた

立て直しは早かった。1966年に出した一眼レフが一眼レフの普及と重なってよく売れ、不況脱出の支えとなった。同じ年、日本のカメラ生産は台数・金額ともに西独を追い抜いた。輸出比率は1965年を境に50%を超え[42]、1970年春には現地代理店が安値合戦に巻き込まれたのを教訓として全米で小売店向けの直販体制へ移った。1983年時点の売上高の80%強は輸出で、輸出比率の高さでは日本の産業界でも屈指の位置にあった。1968年12月には、NASAの要請で改造した宇宙用露出計『ミノルタスペースメーター』がアポロ8[43]号とともに月を周回している。

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [42]1966年の一眼レフが大きく売れて不況を脱し、輸出比率は1965年を境に50%を超えた。1983年時点の輸出比率は売上高の80%強
    • [43]1968年12月に宇宙用露出計「ミノルタスペースメーター」がアポロ8号に搭載された

1970年10月、西独のライツ社からカメラの一部を下請け生産してほしいという打診が届いた。社内には反対が少なくない。ライカは最高級機の代名詞で、日本勢にとってライツ社の技術水準に追いつくことは長年の目標であり、量産技術ではすでに西独勢を上回っていたのに、なぜ下請けなのかという理屈である。田嶋氏は『何事もやってみなければわからない』[引用元]として前向きな検討を指示し、1971年春に『ゴー』を出した。1972年6月に技術相互協力契約を締結し[44]、翌年には共同開発による高級35ミリカメラ『ライツ・ミノルタCL』を発売している。反対論を退けた田嶋氏の理由は、国際関係では競争より協調が大切だという一点であった。

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [44]1970年10月にライツ社から下請け生産の打診があり、1971年春に受諾を決め、1972年6月に技術相互協力契約を締結した
  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [40]1965年の40年不況で二眼レフ中級機に偏っていたため高級一眼レフへの転換が遅れ、業界で最大の打撃を受けて二年連続の無配となった
    • [41]田嶋一雄は日本写真機工業会会長として、1965年春に発足以来初となる大手12社の不況カルテルをまとめた
    • [42]1966年の一眼レフが大きく売れて不況を脱し、輸出比率は1965年を境に50%を超えた。1983年時点の輸出比率は売上高の80%強
    • [43]1968年12月に宇宙用露出計「ミノルタスペースメーター」がアポロ8号に搭載された
    • [44]1970年10月にライツ社から下請け生産の打診があり、1971年春に受諾を決め、1972年6月に技術相互協力契約を締結した

複写機が20年伸びなかった理由と、欧州で開いた販路

1960年に参入した複写機は、先発グループの一角にありながら長く売上が伸びなかった。全体に占める比率は1960年代を通じて10%以下にとどまり、1970年代後半にようやく20[45]%台へ乗る。田嶋氏はその理由を二つ挙げている。ひとつは、複写機など非カメラ部門の[46]人材をほとんどすべてカメラ部門から転用したことで、数百グラムのカメラを扱ってきた技術者が数十キロの重量物と向き合い、感光体・現像剤・感光紙という未知の分野を一から学ばねばならなかった。もうひとつは、田嶋氏自身が『独創性のあるものを!』[引用元]と求め続けたために開発によけい時間がかかったことである。今にして思えば酷な話だったかもしれない、と田嶋氏は書き添えている。

  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [45]複写機の売上比率は1960年代を通じて10%以下、1970年代後半に20%台へ乗せた
    • [46]複写機が伸びなかった理由として、カメラ部門からの人材転用と「独創性」への要求による開発期間の長期化が挙げられている

OEM供給から自社ブランドへの転換について、太田義勝氏は『OEMでは本当の商売とはいえない、と当時の上司に言うたら、それならお前が行ってやってみろ、と言われた』[引用元]と振り返る。

1979年、世界でも例のない現像システムの開発に成功し、この技術で普通紙複写機の分野へ本格参入した。売上構成はここから動く。1975年3月期はカメラ・付属品が78%、事務機・特機が22%だったが、1985年3月期には複写機688億円(46%)・カメラ404[47]億円(27%)と順位が入れ替わり、その他事務機とマイクロ機器を合わせた情報機器系は5割を超えた。売上高そのものも1971年3月期の236億円から1985[48]年3月期の1,504億円へ、14年で6.4倍になっている。1982年8月、田嶋一雄氏は長男の田嶋英雄氏に社長を譲り[49]、自らは会長に退いた。

  • 会社年鑑(1986年版)
    • [47]1975年3月期(半期)はカメラ・付属品78%・事務機特機22%、1985年3月期(通期)は複写機688億円(46%)・カメラ404億円(27%)
    • [48]売上高は1971年3月期236億円から1985年3月期1,504億円へ増加した
  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [49]1982年8月23日に田嶋一雄が会長に退き、長男の田嶋英雄が社長に就任した
  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
    • [45]複写機の売上比率は1960年代を通じて10%以下、1970年代後半に20%台へ乗せた
    • [46]複写機が伸びなかった理由として、カメラ部門からの人材転用と「独創性」への要求による開発期間の長期化が挙げられている
    • [49]1982年8月23日に田嶋一雄が会長に退き、長男の田嶋英雄が社長に就任した
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [47]1975年3月期(半期)はカメラ・付属品78%・事務機特機22%、1985年3月期(通期)は複写機688億円(46%)・カメラ404億円(27%)
    • [48]売上高は1971年3月期236億円から1985年3月期1,504億円へ増加した

業界に二社しかなかった一貫生産と、それを支えた資本

この時期のミノルタが持っていた強みは、外部からも見えていた。1971年の『証券』は旭光学を紹介する記事のなかで、光学レンズの加工について『自社で硝子の溶解から一貫生産を行なつている日本光学工業㈱、ミノルタカメラ㈱を除くほとんどのカメラメーカーが』[引用元]小原光学硝子製造所を使っていると記している。ガラスの溶解から手がける会社は業界に二社しかなく、その一社がミノルタであった。戦時中に海軍の命令で建てた伊丹の工場が、30年を経て競合との差になっていたことになる。ただしこの設備が生きるのは、レンズを組み込む製品が売れ続けるあいだに限られる。製品が売れなくなれば、同じ設備が固定費として残る。

一貫生産と輸出を支えた資本の側も、この20年で性格を変えた。1961年3月期の千代田光学精工では田嶋一雄氏[50]が持株比率8.4%の筆頭株主で、以下に大同生命7.1%、神戸銀行5.0%が続いていた。ところが1980年3月期のミノルタカメラでは、上位10位が太陽神戸銀行8.20%、大同生命保険7.19%、日本生命保険5.37%、三和銀行4.97%、埼玉銀行4.86%と並び[51]、創業者個人の名は消えている。金融機関と保険会社が株主の上位を占める構成は、当時の日本企業では珍しくない。ただしミノルタの場合、この構成は、設備を先に置いて需要を追う経営を続けるための資金供給源でもあった。

  • 株式会社年鑑 昭和37年版
    • [50]1961年3月期の千代田光学精工の筆頭株主は田嶋一雄8.4%、次いで大同生命7.1%・神戸銀行5.0%
  • 企業系列総覧 1981年版
    • [51]1980年3月期のミノルタカメラの上位株主は太陽神戸銀行8.20%・大同生命保険7.19%・日本生命保険5.37%・三和銀行4.97%・埼玉銀行4.86%
  • 株式会社年鑑 昭和37年版
    • [50]1961年3月期の千代田光学精工の筆頭株主は田嶋一雄8.4%、次いで大同生命7.1%・神戸銀行5.0%
  • 企業系列総覧 1981年版
    • [51]1980年3月期のミノルタカメラの上位株主は太陽神戸銀行8.20%・大同生命保険7.19%・日本生命保険5.37%・三和銀行4.97%・埼玉銀行4.86%

α-7000がもたらした栄光と、特許訴訟から経営統合までの18年

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ミノルタの沿革1928〜2003年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1928〜1945年舶来品が占めた写真機市場への参入と、軍需が残した光学ガラスの一貫生産田嶋一雄による日独写真機商店の創業と、カメラの国産化

1928年11月、貿易商・田嶋商店に勤めていた田嶋一雄氏が、父の反対を押し切って独立し、兵庫県武庫郡鳴尾村の武庫川河畔に個人経営『日独写真機商店』を興した経営判断。二人のドイツ人技術者の協力を得て小型カメラの製造に着手し、のちのミノルタカメラ、現コニカミノルタの一方の源流となった。

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★★★
第一号機「ニフカレッテ」を一台20円で発売
一カ月に及ぶストライキが起こり、従業員をいったん全員解雇
個人経営を改めモルタを設立
速写型カメラに「ミノルタ」の名を冠す
田嶋一雄千代田光学精工に商号変更
田嶋一雄国産初の二眼レフカメラ「ミノルタフレックス」を発売
田嶋一雄海軍向け七倍五十ミリ双眼鏡の生産を堺工場で開始
田嶋一雄空襲で武庫川・小松・尼崎の三工場を焼失
1946〜1962年焼け跡からの生産再開と輸出への傾斜——千代田光学精工の17年田嶋一雄9割減資★★
田嶋一雄株式を新規上場(資本金1億4,000万円・従業員約1,000人)
田嶋一雄FR社と販売代理店契約を締結
田嶋一雄三十二年不況を受け、「光を中心に」という条件を付けて多角化の検討を指令
田嶋一雄三十二年不況で初の無配に転落★★
田嶋一雄全米向け販売会社ミノルタ・コーポレーションをニューヨークに設立
田嶋一雄事務機分野に参入★★
田嶋一雄「ミノルタハイマチック」が米宇宙船フレンドシップ7号に搭載
田嶋一雄ミノルタカメラに商号変更
1963〜1984年一眼レフの出遅れと複写機の低迷——二本柱がそろうまでの20年田嶋一雄一眼レフへの転換の遅れで二年連続の無配★★
田嶋一雄一眼レフの好調で四十年不況を脱却
田嶋一雄全米で小売店向けの直販体制に移行
田嶋一雄西独ライツ社と技術相互協力契約を締結(翌年「ライツ・ミノルタCL」を発売)
田嶋一雄複写機の欧州営業をOEMから自社ブランドへ切り替え、ハノーバーに拠点を新設
田嶋一雄独自の現像システムを開発
田嶋一雄普通紙複写機の分野に本格参入★★
田嶋英雄田嶋英雄氏が社長に就任
1985〜2003年α-7000がもたらした栄光と、特許訴訟から経営統合までの18年田嶋英雄オートフォーカス一眼レフ「α-7000」の発売と、通常の4倍にあたる初回投入

1985年2月下旬、ミノルタカメラが世界で初めて実用化したオートフォーカス(自動焦点)一眼レフ『α-7000』を発売した経営判断。発売の2カ月以上前にあたる1984年12月から生産を始めて在庫を積み、一眼レフとして通常の4倍にあたる1万台を初回に店頭へ送り込んだ。

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★★★
田嶋英雄創業者・田嶋一雄が死去
田嶋英雄α-7000の販売で経常利益122億円・純利益110億円と当時の過去最高を記録
田嶋英雄ハネウェルからオートフォーカス特許の侵害で提訴★★
田嶋英雄ハネウェル特許訴訟での陪審評決と、控訴を見送っての1億2,750万ドルでの和解

1992年3月3日、ミノルタカメラは米ハネウェルとの自動焦点(AF)技術をめぐる特許訴訟で、控訴せず1億2,750万ドル(約165億円)を支払う和解に応じた。前月の陪審評決が命じた9,635万ドルの1.3倍にあたる金額で、取り決めどおり3月23日に全額を支払った。

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★★★
金谷宰金谷宰氏が社長に就任
金谷宰ミノルタに商号変更
金谷宰売上高3,011億円・経常利益129億円といずれも当時の過去最高を計上
太田義勝複写機の自社ブランド販売網を築いた太田義勝が、上位3名を越えて社長に就任
太田義勝繰越損失215億円・有利子負債2,500億円弱を計上★★
太田義勝ミノルタとの株式交換による経営統合と、持株会社コニカミノルタホールディングスの設立

2003年1月7日、精密業界大手のコニカとミノルタが持株会社方式による経営統合を発表し、同年8月に株式交換で統合してコニカミノルタホールディングスが発足した。上場精密会社で4位の1兆円企業となり、精密業界で両社が自ら仕掛けた初の統合であった。

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★★★
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(1955年)「千代田光学精工」
  • 企業系列総覧 1981年版
  • 会社年鑑(1986年版)
  • 日本産業史(日経文庫)第2巻(日本経済新聞社, 1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
  • 株式会社年鑑 昭和37年版
  • 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
  • 証券 1953年(新規上場会社紹介)

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