神戸の貿易商・田嶋商店で人絹や雑貨の輸出に携わっていた田嶋一雄氏は、扱う商品そのものに不満を抱えていた。1927年11月、田嶋氏は商工省が後援する『日本商品旅商団』の一員として神戸を発ち、約6か月かけて中近東と東欧を回った[1]。翌年初めにカイロで再会した取引先からは、自ら開拓した綿布に酷似した模造品が別ルートで安値流入し、先発の利を得る間もないと告げられる。田嶋氏はこのとき『値段の通らないものをいつまでもやっていては面白くない』[引用元]と考え、加工度が高く他社がまねしにくい製品[2]でなければ商売は立ち行かないという結論に達した。
転身の対象が写真機に定まったのは、同じ旅の途中でパリの光学兵器会社SOMの工場を訪ねたことによる。そこには日本軍向けにほぼ独占的に量産される測距儀が並び[3]、価格はメーカーの言い値で通ると聞かされた。値が通らない繊維とのちがいは大きく、田嶋氏は『光学』の二文字を頭から離せなくなった。帰国後まもなく、神戸でドイツ製の写真機用品を輸入していたウィリー・ハイレマン氏が、パリの光学機器会社に勤めた技術者ビリー・ノイマン氏を伴って訪ねてきた[4]。二人がそろって写真機の製造を勧めたとき、田嶋氏はパリで見た測距儀と目の前の写真機とが光学機器という一点で結びつくことに気づき、この話に乗る決断を下した。
1928年11月11日、田嶋氏は兵庫県武庫郡鳴尾村[5]の武庫川河畔に個人経営『日独写真機商店』を開いた。土地300坪、木造一部二階建て延べ130坪[6]、人員は本人を含めて約30人という規模である。父は『あまりにも業種がかけ離れ過ぎて危険だ』[引用元]として田嶋商店の新規事業とすることを認めず、生命保険の満期金5,000円を渡したにとどまった。残りは生家の漆器商を取り仕切る番頭からの借金で賄い、必要額の最低1万5,000円をようやく満たした。当時の日本で写真機の国産大手は小西六の一社だけで、市場の大半[7]はドイツをはじめとする欧米からの輸入品が占めていた。金融恐慌の直後、無名の町工場がこの市場に加わった。
創業4か月後の1929年3月、第一号機『ニフカレッテ』が完成した。八枚撮りロールフィルムを使う蛇腹式のハンドカメラで、レンズもシャッターも輸入品に頼っている。価格は一台20円、3か月目からは月産100台を超えた[8]。だが緊縮財政のもとで景気が下り坂に転じると売れ行きは鈍り、田嶋氏は東京へ100台を担いで金策に出たものの、値引きを拒んで一台も売らずに帰ったこともある。資金繰りは生家の番頭への借入で繰り返し凌ぎ、その総額は5万円を超えた。1930年10月には工場長らへの反感からストライキが起き[9]、田嶋氏はハイレマン氏の強い主張を容れて従業員をいったん全員解雇している。
1931年2月、自社製シャッターを内蔵した『ニフカドックス』を発売[10]し、これがよく売れて借入金を全額返済した。同年7月1日には個人経営を『モルタ合資会社』に改め[11]、大阪市東区北久太郎町に本社を置く。工場の従業員は70人を超えていたが、本社は田嶋氏と経理担当の弟・田嶋豊次郎氏ら4人の小所帯であった。ところが同年11月、頼りにしていたハイレマン氏が写真機部品の商売を始めると告げて退社し、年が明けるとノイマン氏も数人の工員[12]を連れて後を追う。技術の要を失いながら田嶋氏は『これからは日本人だけでやろう』[引用元]と決め、1932年4月に仕上・旋盤・シャッター・塗装の各部と総務課[13]を置いて生産体制を組織化した。社内の士気はかえって高まり、シャッターを自前でつくりレンズ[14]もできる限り国産品を使う機運が生まれる。二人のドイツ人が去ったことで、輸入部品を国産部品へ置き換える動きはかえって速まった。
1933年半ば、ボタンを押すとレンズとシャッターが飛び出す速写型に『ミノルタ』の名が冠された[15]。田嶋光学機器を意味する英語の頭文字をつなぎ、生母の戒めにちなむ『稔る田』の意も重ねた命名である。翌1934年1月には、入手難の羊皮に代えてベークライトを使った剛体蛇腹の『ミノルタベスト』を19円50銭で発売し、『大阪城』の愛称[16]を得て広く売れた。1936年7月には尼崎に約600坪の[17]土地を求めて日本光学機械研究所を設け、職長の北風熊太郎氏らに二眼レフを研究させた。彼らは一室に寝泊まりして開発にあたり、国産では初めて成功して翌1937年暮れに『ミノルタフレックス』を発売する。同じ年には堺市にレンズ専門工場も建てた。同年9月、戦時経済への対応には合資会社では限度があると判断した田嶋氏は株式会社へ改組し、社名を千代田光学精工と改めた[18]。資本金150万円、三工場を合わせた従業員は約1,000人に増えていた。
1938年、写真機の資材入手が難しくなるなかで、田嶋氏は『光学技術を生かせる軍用機器を積極的に手がけることこそが、民需用写真機の製造をも続け得る唯一の道』[引用元]との結論に達した。東京の海軍艦政本部へ二度三度と足を運んだ末、七倍五十ミリのプリズム双眼鏡の打診を得る。ところが明細を検討すると、工場の見積原価が一台200円であるのに対し納入指示価格は139円75銭で、目標の月1,000台では月約6万円の損失[19]となる計算であった。工場側は辞退すべきだという意見が圧倒的だったが、田嶋氏は『双眼鏡で赤字を出しても会社全体では黒字でいける』[引用元]と説き、1938年11月に堺工場で本格生産に入った。[20]
この受注に続いて、光学ガラスの溶融という新しい工程が加わった。1942年1月、海軍艦政本部長名で『光学ガラスの溶融工場を急ぎ建設せよ』[引用元]との通達が届いた。当時、光学ガラスの民間製造は海軍系統の日本光学と陸軍系統の小原光学などすべて東京地区に集中し、関西には皆無だった[21]。海軍は製造拠点の分散先として千代田光学を選んだ。田嶋氏は兵庫県伊丹市に適地を求めて同年夏から建設に着手したが、資材難と熟練工不足で稼働まで二年近くを要し、火入れは1944年6月まで待たねばならなかった。この年、学徒動員で800人ほどが工場に配属され、年末の総人員は2,600[22]人に達している。
戦争末期の主製品は望遠鏡・双眼鏡・照準器・方位鏡・航空用写真機といった光学兵器で、生産能力の95%が軍需に充てられた[23]。1945年には空襲で武庫川・小松・尼崎の三工場を失う。終戦から二か月後、去就を各自の自由意思に委ねた結果、従業員は400人前後まで減った[24]。それでも会社が持ちこたえたのは、海軍艦政本部が終戦までの納入代金の一部として500万円を支払ったからで、赤字覚悟で双眼鏡を作った経緯が結果として運転資金になった。日本産業史は、戦時中の光学兵器開発への巨額投資が技術者を育て『光学機械の品質、性能を高める基礎となった』[引用元]と記す一方、その投資が初めから民生に向けられていればより早く大きな成果が出たはずだという反論の方が真相に近いとも述べる[25]。軍需の効果を功績として語ることはできない。ミノルタに残ったのは、他社が買うほかなかった光学ガラスを自ら溶かせる伊丹の工場であった。
1946年初頭、田嶋氏は役員会で『復興が進むにつれ、平和産業としてのカメラが日の目を見る日は必ず来る』[引用元]として、生産再開を最優先に置く方針を示した。まず戦災を免れた工場の役割分担を決め、愛知県の海軍豊川工廠と交渉して用地と建物の一部を払い下げてもらう。1946年4月から新体制で生産に入り、8[26]月には国産で初めて増透処理を施したレンズを使う『ミノルタセミ』を発売した。戦後第一号機である。本社工場・堺・豊川で一工場一製品を守り、光学ガラスは伊丹工場から供給[27]する体制を整えた。カメラだけでは経費を賄えず、眼鏡レンズ・オペラグラス・カットグラス・真空管・顕微鏡といった副業製品も手がけている。
輸出は、売り込むより先に注文の方から始まった。1947年春、南アフリカのヨハネスブルグ[28]から突然の発注があり、『セミ』を170台送った。これが戦後の国産カメラで最初の輸出にあたる。帰還する進駐軍の兵士がカメラを持ち帰り、人づてに評判が広まったものと田嶋氏はみている。1949年初めには同じヨハネスブルグの販売会社へ、信用状に基づく戦後初の直接輸出として100台を出した。もっとも財務の実態は苦しく、1949年7月には債権切捨てに伴う9割減資で資本金は22[29]万5,000円まで落ちた。朝鮮戦争後の需要増と度重なる増資で立て直し、1953年5月には資本金1億4,000万円、同年9月14日に株式を新規上場している。
上場時点の千代田光学精工は、大阪に本社工場、堺・豊川・伊丹に各工場、西宮にレンズ[30]設計研究所を持ち、『レンズから写真機まで一貫体制をもつているのが特色』[引用元]と紹介された。製品構成はミノルタフレックスが47.9%、ミノルタ35が23.3%、ミノルタセミ[31]が19.8%で、二眼レフの比重が高い。従業員は2年前まで500名に満たなかったが1953年3月末に887名、上場のころには約1,000名に達した。輸出と内需の比は3対7で、輸出の相手は米軍中央購買局が大半を占める。同年、増産と新製品のために堺工場内へ恒温恒湿の近代的レンズ研磨工場を新設し、レンズの自給に踏み切った。
1954年2月、田嶋氏は入社3年目の輸出課員に最新製品30[32]台を持たせてニューヨークへ送り出した。しかし当時の日本製品には『安かろう、悪かろう』[引用元]の印象が強く、販売に協力する相手はなかなか見つからない。同年8月末に自ら渡米してボルジー社と交渉したものの条件が折り合わず不調に終わり、十数社に断られた。同じ年の秋、FR社のフィンク社長が、シャッターとフラッシュを同調させるMX接点付きのシャッターを絶対条件として全米販売を提案[33]してきた。日本ではまだ作られていない機構だったが、田嶋氏はその場で引き受けると答え、帰国して『今はまさにわれわれの運命の分岐点だ』[引用元]と技術陣に総力の結集を命じた。
技術陣は翌1955年初めに条件を満たす『ミノルタオートコード』など2機種を仕上げ、同年3月にアトランタで開かれた全米写真業協会ショーへ出品した。評判は高く、正式な販売代理店契約を結んで夏から本格販売に入る。対海外での販売提携は、日本のカメラ業界でこれが最初[34]であった。両社は『FR-ミノルタ』のダブルブランドを付け、品質保証を共同で負う形をとっている。2機種はライバルのドイツ製品の2分の1以下という価格の割安さもあって好調に売れた。1959年4月には全米向け販売会社ミノルタ・コーポレーションをニューヨークに設立し[35]、時流に乗り遅れたFR社との契約を円満に解約したうえで自前の販売網へ移した。西独ハンブルクにも拠点を置いている。
1957年の不況に直面した田嶋氏は『景気の波を乗り切るにはカメラだけでは駄目だ』[引用元]と考え、事業多角化の検討を社内に指令した。ただし、そこに一つの条件を付けている。『多角化とは言っても、"光"を中心に、という原点を忘れるな』[引用元]というものである。この枠に沿って、社内は電卓・タイプライター・金銭登録機など光学や映像に直接関係しない製品をあらかじめ外し、複写機・マイクロ写真機器・拡大投影機の数品目に的を絞った。多角化の範囲を製品分野ではなく技術の共通性で切ったこの判断が、のちに複写機を主力へ育てる下地になる。1958年3月期には不況のあおりで業績が悪化し[36]、初めての無配に陥っている。
複写機の研究開発は1959年に始まり、翌1960[37]年にジアゾ式(青焼き)の第一号機を出した。以後、湿式電子複写機も数機種を発売している。1961年3月期の売上構成を見ると、写真機が81.0%を占める一方で事務用複写機は3.2%、幻燈機映写機5.3%、交換レンズ3.5%、光学硝子0.2[38]%であった。参入したとはいえ、事務機はまだ端に置かれた製品である。カメラ以外では、田嶋氏が少年期から星を好んだことに始まるプラネタリウムも1956年から自社開発に着手し、1958年に阪神パークで初めて公開実演した。田嶋氏は世界で5社しか作っていない製品だとして、社内の中止論を退けた。
1962年2月、グレン中佐の乗る宇宙船フレンドシップ7号に『ミノルタハイマチック』が搭載され、撮影された地球の写真が世界中の新聞とテレビで紹介された。グレン中佐が世界各国の20数機種を自ら点検して4機種に絞り、最後にハイマチックを選んだと後日明らかにされている。ハイマチックは、絞りとシャッターを一組の羽根でまとめた世界初のプログラムシャッターを備える『ユニオマット』を自動露出化した機種であった。この機会を逃せばブランド名と社名を一致させる折はないと考えた田嶋氏は、同年7月、千代田光学精工から『ミノルタカメラ』への改称[39]に踏み切る。創業から34年を経て、製品の名が会社の名になった。
1965年のいわゆる40年不況で、ミノルタカメラは業界のなかで最も大きな痛手を受けた。原因は市況ではなく製品構成にある。得意としてきた二眼レフの中級機種に力を入れていたため、高級一眼[40]レフへの転換が立ち遅れた。田嶋氏は二年連続の無配に至った経緯をそう振り返っている。『経費は節約しても、研究開発費は削るな』[引用元]『高級一眼レフの開発を急げ』[引用元]という号令を掛ける一方、社長室にこもって愛用者カードを一枚ずつ点検し、需要の実態を自ら確かめた。日本写真機工業会の会長でもあった田嶋氏は同年春、工業会の発足以来初めてとなる大手12社の不況カルテル[41]をまとめる役も担っている。
立て直しは早かった。1966年に出した一眼レフが一眼レフの普及と重なってよく売れ、不況脱出の支えとなった。同じ年、日本のカメラ生産は台数・金額ともに西独を追い抜いた。輸出比率は1965年を境に50%を超え[42]、1970年春には現地代理店が安値合戦に巻き込まれたのを教訓として全米で小売店向けの直販体制へ移った。1983年時点の売上高の80%強は輸出で、輸出比率の高さでは日本の産業界でも屈指の位置にあった。1968年12月には、NASAの要請で改造した宇宙用露出計『ミノルタスペースメーター』がアポロ8[43]号とともに月を周回している。
1970年10月、西独のライツ社からカメラの一部を下請け生産してほしいという打診が届いた。社内には反対が少なくない。ライカは最高級機の代名詞で、日本勢にとってライツ社の技術水準に追いつくことは長年の目標であり、量産技術ではすでに西独勢を上回っていたのに、なぜ下請けなのかという理屈である。田嶋氏は『何事もやってみなければわからない』[引用元]として前向きな検討を指示し、1971年春に『ゴー』を出した。1972年6月に技術相互協力契約を締結し[44]、翌年には共同開発による高級35ミリカメラ『ライツ・ミノルタCL』を発売している。反対論を退けた田嶋氏の理由は、国際関係では競争より協調が大切だという一点であった。
1960年に参入した複写機は、先発グループの一角にありながら長く売上が伸びなかった。全体に占める比率は1960年代を通じて10%以下にとどまり、1970年代後半にようやく20[45]%台へ乗る。田嶋氏はその理由を二つ挙げている。ひとつは、複写機など非カメラ部門の[46]人材をほとんどすべてカメラ部門から転用したことで、数百グラムのカメラを扱ってきた技術者が数十キロの重量物と向き合い、感光体・現像剤・感光紙という未知の分野を一から学ばねばならなかった。もうひとつは、田嶋氏自身が『独創性のあるものを!』[引用元]と求め続けたために開発によけい時間がかかったことである。今にして思えば酷な話だったかもしれない、と田嶋氏は書き添えている。
OEM供給から自社ブランドへの転換について、太田義勝氏は『OEMでは本当の商売とはいえない、と当時の上司に言うたら、それならお前が行ってやってみろ、と言われた』[引用元]と振り返る。
1979年、世界でも例のない現像システムの開発に成功し、この技術で普通紙複写機の分野へ本格参入した。売上構成はここから動く。1975年3月期はカメラ・付属品が78%、事務機・特機が22%だったが、1985年3月期には複写機688億円(46%)・カメラ404[47]億円(27%)と順位が入れ替わり、その他事務機とマイクロ機器を合わせた情報機器系は5割を超えた。売上高そのものも1971年3月期の236億円から1985[48]年3月期の1,504億円へ、14年で6.4倍になっている。1982年8月、田嶋一雄氏は長男の田嶋英雄氏に社長を譲り[49]、自らは会長に退いた。
この時期のミノルタが持っていた強みは、外部からも見えていた。1971年の『証券』は旭光学を紹介する記事のなかで、光学レンズの加工について『自社で硝子の溶解から一貫生産を行なつている日本光学工業㈱、ミノルタカメラ㈱を除くほとんどのカメラメーカーが』[引用元]小原光学硝子製造所を使っていると記している。ガラスの溶解から手がける会社は業界に二社しかなく、その一社がミノルタであった。戦時中に海軍の命令で建てた伊丹の工場が、30年を経て競合との差になっていたことになる。ただしこの設備が生きるのは、レンズを組み込む製品が売れ続けるあいだに限られる。製品が売れなくなれば、同じ設備が固定費として残る。
一貫生産と輸出を支えた資本の側も、この20年で性格を変えた。1961年3月期の千代田光学精工では田嶋一雄氏[50]が持株比率8.4%の筆頭株主で、以下に大同生命7.1%、神戸銀行5.0%が続いていた。ところが1980年3月期のミノルタカメラでは、上位10位が太陽神戸銀行8.20%、大同生命保険7.19%、日本生命保険5.37%、三和銀行4.97%、埼玉銀行4.86%と並び[51]、創業者個人の名は消えている。金融機関と保険会社が株主の上位を占める構成は、当時の日本企業では珍しくない。ただしミノルタの場合、この構成は、設備を先に置いて需要を追う経営を続けるための資金供給源でもあった。
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|---|---|---|---|---|
| 1928〜1945年舶来品が占めた写真機市場への参入と、軍需が残した光学ガラスの一貫生産 | 田嶋一雄による日独写真機商店の創業と、カメラの国産化 1928年11月、貿易商・田嶋商店に勤めていた田嶋一雄氏が、父の反対を押し切って独立し、兵庫県武庫郡鳴尾村の武庫川河畔に個人経営『日独写真機商店』を興した経営判断。二人のドイツ人技術者の協力を得て小型カメラの製造に着手し、のちのミノルタカメラ、現コニカミノルタの一方の源流となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 第一号機「ニフカレッテ」を一台20円で発売 | ★ | |||
| 一カ月に及ぶストライキが起こり、従業員をいったん全員解雇 | ★ | |||
| 個人経営を改めモルタを設立 | ★ | |||
| 速写型カメラに「ミノルタ」の名を冠す | ★ | |||
| 田嶋一雄 | 千代田光学精工に商号変更 | ★ | ||
| 田嶋一雄 | 国産初の二眼レフカメラ「ミノルタフレックス」を発売 | ★ | ||
| 田嶋一雄 | 海軍向け七倍五十ミリ双眼鏡の生産を堺工場で開始 | ★ | ||
| 田嶋一雄 | 空襲で武庫川・小松・尼崎の三工場を焼失 | ★ | ||
| 1946〜1962年焼け跡からの生産再開と輸出への傾斜——千代田光学精工の17年 | 田嶋一雄 | 9割減資 | ★★ | |
| 田嶋一雄 | 株式を新規上場(資本金1億4,000万円・従業員約1,000人) | ★ | ||
| 田嶋一雄 | FR社と販売代理店契約を締結 | ★ | ||
| 田嶋一雄 | 三十二年不況を受け、「光を中心に」という条件を付けて多角化の検討を指令 | ★ | ||
| 田嶋一雄 | 三十二年不況で初の無配に転落 | ★★ | ||
| 田嶋一雄 | 全米向け販売会社ミノルタ・コーポレーションをニューヨークに設立 | ★ | ||
| 田嶋一雄 | 事務機分野に参入 | ★★ | ||
| 田嶋一雄 | 「ミノルタハイマチック」が米宇宙船フレンドシップ7号に搭載 | ★ | ||
| 田嶋一雄 | ミノルタカメラに商号変更 | ★ | ||
| 1963〜1984年一眼レフの出遅れと複写機の低迷——二本柱がそろうまでの20年 | 田嶋一雄 | 一眼レフへの転換の遅れで二年連続の無配 | ★★ | |
| 田嶋一雄 | 一眼レフの好調で四十年不況を脱却 | ★ | ||
| 田嶋一雄 | 全米で小売店向けの直販体制に移行 | ★ | ||
| 田嶋一雄 | 西独ライツ社と技術相互協力契約を締結(翌年「ライツ・ミノルタCL」を発売) | ★ | ||
| 田嶋一雄 | 複写機の欧州営業をOEMから自社ブランドへ切り替え、ハノーバーに拠点を新設 | ★ | ||
| 田嶋一雄 | 独自の現像システムを開発 | ★ | ||
| 田嶋一雄 | 普通紙複写機の分野に本格参入 | ★★ | ||
| 田嶋英雄 | 田嶋英雄氏が社長に就任 | ★ | ||
| 1985〜2003年α-7000がもたらした栄光と、特許訴訟から経営統合までの18年 | 田嶋英雄 | オートフォーカス一眼レフ「α-7000」の発売と、通常の4倍にあたる初回投入 1985年2月下旬、ミノルタカメラが世界で初めて実用化したオートフォーカス(自動焦点)一眼レフ『α-7000』を発売した経営判断。発売の2カ月以上前にあたる1984年12月から生産を始めて在庫を積み、一眼レフとして通常の4倍にあたる1万台を初回に店頭へ送り込んだ。 詳細を読む | ★★★ | |
| 田嶋英雄 | 創業者・田嶋一雄が死去 | ★ | ||
| 田嶋英雄 | α-7000の販売で経常利益122億円・純利益110億円と当時の過去最高を記録 | ★ | ||
| 田嶋英雄 | ハネウェルからオートフォーカス特許の侵害で提訴 | ★★ | ||
| 田嶋英雄 | ハネウェル特許訴訟での陪審評決と、控訴を見送っての1億2,750万ドルでの和解 1992年3月3日、ミノルタカメラは米ハネウェルとの自動焦点(AF)技術をめぐる特許訴訟で、控訴せず1億2,750万ドル(約165億円)を支払う和解に応じた。前月の陪審評決が命じた9,635万ドルの1.3倍にあたる金額で、取り決めどおり3月23日に全額を支払った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 金谷宰 | 金谷宰氏が社長に就任 | ★ | ||
| 金谷宰 | ミノルタに商号変更 | ★ | ||
| 金谷宰 | 売上高3,011億円・経常利益129億円といずれも当時の過去最高を計上 | ★ | ||
| 太田義勝 | 複写機の自社ブランド販売網を築いた太田義勝が、上位3名を越えて社長に就任 | ★ | ||
| 太田義勝 | 繰越損失215億円・有利子負債2,500億円弱を計上 | ★★ | ||
| 太田義勝 | ミノルタとの株式交換による経営統合と、持株会社コニカミノルタホールディングスの設立 2003年1月7日、精密業界大手のコニカとミノルタが持株会社方式による経営統合を発表し、同年8月に株式交換で統合してコニカミノルタホールディングスが発足した。上場精密会社で4位の1兆円企業となり、精密業界で両社が自ら仕掛けた初の統合であった。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(ミノルタ)