ミノルタハネウェル特許訴訟での陪審評決と、控訴を見送っての1億2,750万ドルでの和解

評決額の1.3倍を払ってなぜ争いを終えたのか——米国の陪審裁判に敗れたミノルタカメラの損得計算

時期 1992年3月
意思決定者(推定) 田嶋英雄 社長
論点 米国特許訴訟への対応と、敗訴後の立て直し
概要
1992年3月3日、ミノルタカメラは米ハネウェルとの自動焦点(AF)技術をめぐる特許訴訟で、控訴せず1億2,750万ドル(約165億円)を支払う和解に応じた。前月の陪審評決が命じた9,635万ドルの1.3倍にあたる金額で、取り決めどおり3月23日に全額を支払った。
背景
ハネウェルはAF方式の一眼レフを生産するメーカーのほとんどを訴えると表明し、その手始めとして1987年、当時米国でシェア首位だったミノルタカメラをニュージャージー連邦地裁に提訴した。ミノルタ側は発売前から相手の特許を把握していたが、内容が概念的すぎて抵触しないと考えていた。
内容
1992年2月7日(現地時間)の陪審評決は、AF技術で8,500万ドル、オートフラッシュ技術で1,135万ドルの支払いを命じた。田嶋英雄社長は控訴の勝算を最高35%とみて、判決までの2〜3年と保証金の供託、販売差し止めが複写機事業にまで及ぶ危険を避けるために和解を選び、侵害とされた特許の全世界ライセンスを取り付けた。
含意
訴訟費用だけで43億円がかかり、1991年度は特別損失176億円、連結最終赤字361億円を計上した。1993年に全社員が一時帰休し、同年4月には創業家の田嶋英雄社長が会長へ退いた。1987年の提訴直後にハネウェルが示した和解額は2,000万〜3,000万ドルであった。
筆者の見解

負けを認めるのが遅れたことのコスト

1987年にハネウェルが示した和解額は2,000万〜3,000万ドルで、5年後に払った1億2,750万ドルの4分の1にも満たない。それでも、争う判断を後知恵で責めるのは難しい。相談した米国の特許専門弁護士は侵害していないと答え、最悪でも賠償は500万ドル前後という見立てを添えていた。誤算があったのは特許の中身の読みではなく、その中身を争う場所の読みであった。裁判官ではなく陪審が判断する土俵で、概念的すぎるという反論は通らなかった。

ただ、負けを認めるまでの5年間に訴訟費用は43億円に達し、争うための組織のほうが先に崩れていた。法律事務所を何度も替え、40人近い弁護士を抱えながら5、6人の相手に及ばなかったという指摘は、個々の能力ではなく指揮系統の問題を指している。いったん負けを認めたあとの動きは速く、控訴を捨てて全世界ライセンスまで取り付けた1992年3月の判断は、勝算35%という数字を正面から受け止めている。高くついたのは和解金よりも、そこに至るまでの時間であった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

首位のメーカーが最初に狙われた

ハネウェルはAF方式の一眼レフカメラを生産するメーカーのほとんどを訴えると発表し、その手始めとして1987年、当時米国でシェア首位だったミノルタカメラをニュージャージー連邦地裁に提訴した。争点となったのは1985年発売のAF一眼レフ「α-7000」に使われたAF技術と、コンパクトカメラのオートフラッシュ技術である。ハネウェル自身はカメラを生産しておらず、問われたのは製品の優劣ではなく特許の範囲であった[1][2]

ミノルタカメラの側は、発売前からハネウェルが特許を持つことを把握していた。ただ、その内容が誰でも知っているような常識的なもので概念的すぎるため抵触しないと考え、AF技術については西独ライツ社がハネウェルより先に特許を登録していたことも根拠にしていた。提訴の直後に米国の特許専門弁護士へ相談したときも、侵害はしていない、最悪でも賠償は500万ドル前後だろうという答えが返っている。争う判断は、この見立てに基づいていた[3][4]

相手が選んだ審理の形と、細っていた業績

米国では1980年代後半に知的財産権の保護強化が進んでいた。1985年に大統領産業競争力協議会がまとめた報告書、いわゆるヤング・リポートが国際競争力の強化策として知的所有権の保護を訴えたことが、その契機の一つとされる。ミノルタカメラは審理の入口で、特許紛争に陪審裁判はそぐわないとして裁判官だけの審理を求めたが、ハネウェルが陪審裁判を主張したため通らなかった。審理の形は相手の選択で決まった[5][6]

訴訟が5年に及ぶ間に、ミノルタカメラの業績は細っていた。一眼レフカメラにこだわりすぎてコンパクトカメラの需要増に乗れず、カメラと複写機に続く三本目の柱も育っていない。1992年3月期は26年ぶりの赤字決算が避けられない見通しとなり、技術陣が主導してきた製品開発の進め方そのものが問われていた。評決は、経営が最も体力を落とした時期に届いた[7]

決断

1992年2月の陪審評決

1992年2月8日の深夜12時すぎ、神戸市にある田嶋英雄社長の自宅に、米国ミノルタ・コーポレーションの社員から電話が入った。評決はクロで、約120億円の支払い命令が出たという報告であった。現地時間2月7日にニューアーク連邦地裁の陪審が下した評決は、αシリーズがハネウェルのAF技術特許を侵害したとして8,500万ドル、コンパクトカメラのオートフラッシュ技術の侵害で1,135万ドル、合計9,635万ドルの支払いを命じるものであった[8][9]

評決の中身は全面敗訴ではなかった。ハネウェルが主張した四つの特許侵害のうち認められたのはAFとオートフラッシュの二つで、侵害は故意である、技術提携契約に違反した、という二つの主張は却下された。故意と認定されていれば賠償額は3倍に跳ね上がっていた。ハネウェルが法廷で求めていたのは約1億8,000万ドルで、その算定根拠はミノルタがAFカメラとコンパクトカメラ、そのアクセサリーで得た利益であった[10][11]

控訴を捨て、評決額の1.3倍を払う

3月2日の午前、ニュージャージー州のホテルで両社は会談した。ミノルタ側は田嶋英雄社長と和住誠一専務、米国現地法人会長の楠本定平氏に弁護士がオブザーバーとして加わり、ハネウェル側は副社長と法務担当者の2人であった。翌3日の午前に判事の助言で和解が成立し、和解金は1億2,750万ドル、日本円で約165億円となった。田嶋社長は和解後も特許を侵害していないという主張は変わらないとしたうえで、和解の理由を得か損かの計算だと説明している[12][13]

控訴を見送る判断は、いくつかの数字から組み立てられた。弁護士の話を総合した控訴の勝算は最高で35%にとどまり、最も可能性が高い結末は差し戻しであった。判決までにはさらに2〜3年かかるうえ、その間は一審で命じられた賠償額を保証金として裁判所に預けなければならない。この時点ですでに弁護士費用など43億円を投じており、さらに争えば資金と時間の拘束が積み上がる[14][15]

決め手になったのは、判決で米国内の販売差し止めが申し渡される危険であった。差し止めの取り消しを求める裁判を起こすにも数日はかかり、その間は商品が止まる。ミノルタ製品が止まったという話が全米に広がれば信用問題となり、複写機など他の商売にも及ぶ。争いの対象は米国内での販売に限られていたが、和解では侵害とされた特許の全世界ライセンスを取得する条件を付け加えた。和解金が評決額の1.3倍に膨らんだのは、この上積みを含んでいたためである[16][17]

結果

特別損失176億円と、経営陣の交代

和解金の支払いは、1991年度の決算に176億円の特別損失として現れた。連結の最終赤字は361億円に膨らみ、1990年度の22億円の赤字から一段と深くなった。α-7000の成功で積み上げた利益は、和解金として社外へ出た。1993年には全社員が一時帰休するところまで追い込まれ、カメラ事業に張り付いていた人員のうち500人が最初の1年で複写機事業部や販売子会社へ移された[18][19]

1993年4月、創業者の長男である田嶋英雄社長が業績悪化の責任を取って会長に退き、米国販売子会社の社長を務めていた金谷宰氏が9人の上席役員を越えて社長に就いた。金谷宰社長は会社の中核をカメラから複写機へ移し、1994年7月にはプリンター事業と複写機事業を統合したうえで、社名から「カメラ」を外してミノルタとした。訴訟の後始末は、経営陣の顔ぶれと社名の書き換えにまで及んだ[20][21]

勝った側から見えていたもの

勝訴した側の弁護士は、この結果を技術や国民性ではなく訴訟の運び方の差として説明している。ハネウェル側の弁護を担ったマイケル・シレッシ弁護士は、ミノルタが提訴から和解に至る過程で何度も法律事務所を変更したといわれ、裁判を争う組織全体をうまくまとめあげることができなかったと述べた。ミノルタ側には最も多い時で40人近い弁護士が関わり、ハネウェル側はシレッシ弁護士を含めて5人から6人であった[22][23]

陪審への伝え方にも差があった。ハネウェル側は模型やアニメーションを作って実演し、光学やレンズの基礎知識からAF技術まで、あらゆる手法を繰り返し使って陪審員の理解を積み上げた。シレッシ弁護士は証人の人選についても、ミノルタ側にやや問題があったかもしれないと語っている。田嶋英雄社長の側も、直接の質問もメモも許されない陪審員にどこまで理解されたか分からないとし、裁判を長引かせたという印象が心証を悪くしたとみていた[24][25]

田嶋英雄社長が挙げた反省点

田嶋英雄社長は、この一件から引き出す備えを二つ挙げている。一つは、米国で新製品を発売するなら最低1カ所、できれば複数の特許専門の弁護士に相談しておくこと。AF一眼レフの発売前に相談していれば、その意見は裁判の証拠として使えたという意味であった。もう一つは社内の機能で、知的財産部はあるがまだ十分に機能しておらず、強化しなければならないと述べている[26]

金額の面では、和解の機会は5年前にもあった。1987年の提訴直後にハネウェルが提示した和解額は2,000万〜3,000万ドルで、その時に応じていれば1992年の和解金の4分の1以下で済んでいる。ただ、当時はものすごく高い金額を言ってきたという印象であり、侵害していないという米国弁護士の見立てもあった。5年の争いの末に支払ったのは、和解金1億2,750万ドルに訴訟費用43億円を加えた金額であった[27]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1992年3月2日号「誤算の研究 ミノルタカメラ 開発分散、実らぬ新分野/一眼レフ固執に敗訴打撃」
  • 日経ビジネス 1992年4月6日号「敗軍の将、兵を語る 田嶋英雄氏[ミノルタカメラ社長]今も特許侵害ないと確信/制度の国際的統一が必要」
  • 日経ビジネス 1992年6月1日号「スペシャル・リポート 訴訟社会への備え③ 自動焦点特許紛争に勝った米弁護士に聞く/ミノルタは証人人選いま一つ」
  • 日経ビジネス 1994年3月28日号「リエンジニアリング ミノルタ、総崩れからの追撃/カメラ・複写機ともにライバルが先行」
  • 日経ビジネス 1999年1月4日号「特集 1999日本企業出直し元年/ミノルタ ミノルタカメラでの成功を捨て切る」

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