萩原晴二氏から冨永靖雄氏へ、危機感で継いだコスト削減と構造改革の10年

バブル崩壊と世界寡占化の圧力のなか、二代の社長がどう「負け組」の評判に抗ったか

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時期 1993年3月
意思決定者 萩原晴二・冨永靖雄 横浜ゴム 社長(1993年3月就任)・横浜ゴム 社長(1999年4月就任)
論点 コスト削減路線の継続と構造改革による収益基盤の立て直し
概要
1993年3月、本山一雄前社長(当時会長)から社長を託された萩原晴二氏が、円高による輸出環境の悪化を背景にコスト削減へ経営の的を絞った。その危機感は1999年4月に社長を継いだ冨永靖雄氏に引き継がれ、期限を730日と区切った構造改革へと発展し、2002年には自社を「負け組」の評判から立て直しつつあると語るまでに至った10年である。
背景
バブル崩壊後の円高でタイヤ業界の輸出環境が悪化し、萩原氏は就任早々に一部製造ラインの停止さえ覚悟する危機感を語った。本山一雄会長も1994年、追い風のなかで次の逆風を読むよう説き、危機感は社長交代をまたいで持続していた。
内容
1999年に社長へ就いた冨永氏は「抱負ではなく危機感だけだ」と語り、事業・財務・資金・人事・組織・業務・経営の7分野にまたがる構造改革を、期限を区切って進めた。仏ミシュランによる買収の憶測に対しては独コンチネンタルとの提携強化で応じ、資本の独立を保つ方針を明確にした。
含意
世界市場でブリヂストン・ミシュラン・グッドイヤーの3強寡占が強まり、国内3位の住友ゴム工業までがグッドイヤー陣営に加わるなかで、横浜ゴムは単独での生き残りを選んだ。2002年、冨永氏は業界で唯一の増益見通しとシェア回復を背に、自ら「負け組のレッテルを払いのける」と語っている。
筆者の見解

二代の危機感が残したもの

この10年を貫くのは、社長が交代してもなお引き継がれた危機感の連続性である。萩原氏がコスト削減に的を絞った1993年の判断は、単発の緊縮策というより、本山会長が翌年に語った「追い風のなかで次の逆風を読む」という構えの実践であった。冨永氏が1999年に730日という期限で改革を始めたのも、同じ危機感を、より具体的な7プロジェクトへ落とし込んだ延長線上にあったとみることができる。世界の3強寡占とグッドイヤー陣営に加わった住友ゴムという外部環境の変化が、その危機感に絶えず現実味を与えていた。

もっとも、この抗戦が続いた背景には、横浜ゴムが単独でタイヤ事業を続けるという選択そのものへの緊張感もうかがえる。ミシュランによる買収憶測を一蹴しコンチネンタルとの提携にとどめた判断は、規模で劣る企業が独立を保つための現実解であった。2002年に冨永氏が語った「負け組のレッテルを払いのける」という言葉は、勝利の宣言というより、なお続く競争のただ中にいるという自己認識に近い。二代の社長が築いた収益基盤が、その後どこまで規模の差を埋められたかは、その後の経営判断に委ねられている。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

1993年、萩原晴二氏が就任早々に語った危機感

1992年末、本山一雄前社長(当時会長)から後任を託された萩原晴二氏は、1993年3月に社長へ就任した。就任直後から、円高による輸出環境の悪化などタイヤ業界を取り巻く情勢に危機感を募らせ、1カ月前に打ち出した経営方針がすぐに通用しなくなるほど情勢の悪化が早いと述べ、その年はコスト削減に経営の的を絞る方針を鮮明にした[1]

萩原氏は、社内が不況への取り組みで後手に回っていることも認めていた。この年は一部の製造ラインを止める最悪のシナリオまで覚悟し、小手先の対応ではなく組織や販売を根本から見直す構えを固めていた。胃を半分切るような改革にたとえたその物言いには、コスト削減の先に組織そのものの作り替えを見据える意図がにじんでいた[2]

1994年、本山会長が語った継続する逆風への備え

1993年10月に策定した長期計画「21世紀ビジョン」に沿い、横浜ゴムはホワイトカラーの業務見直しに着手した。会長に退いた本山一雄氏は、かつて1965年の不況で工場従業員の整理を経験した苦い記憶に触れ、人手を減らすからには仕事量そのものを見直さなければならないと述べ、必要な仕事と不要な仕事を選別する方針を語った[3]

本山会長は、日本の人口減少が製造業の担い手を細らせていく先行きを見据え、追い風の時にこそ次の逆風に備えるべきだと説いた。あえて自らに厳しい負荷をかけて体質を強化しておくべきだという言葉は、社長交代をまたいでもなお危機感が薄れていなかったことを示している[4]

決断

1999年、冨永靖雄氏が「危機感だけ」で社長に就く

世界市場ではブリヂストン・仏ミシュラン・米グッドイヤーの3強による寡占が進み、1999年1月には国内3位の住友ゴム工業までがグッドイヤーのグループ入りを発表していた。横浜ゴムは世界競争のなかでの生き残り策をまだ描けておらず、1999年3月期は減収減益に沈んでいた。この情勢のもとで4月に社長を継いだ冨永靖雄氏は、抱負を問われて「そんな生易しいものではなく、いまあるのは危機感だけだ」と表情を硬くした[5]

冨永氏は、売り上げの低下やシェアの喪失を顧客からの評価の裏返しと受け止め、社員が「これで十分」と自己満足しているだけではないかと社内に厳しい目を向けた。改革に残された時間を730日、時間に換算すれば1万7500時間しかないと区切り、不採算事業の整理・遊休資産の売却・人件費の抑制に着手した[6]

構造改革7プロジェクトと、独立路線という選択

冨永氏は社長就任直後から全国を回り、事業・財務・資金・人事・組織・業務・経営の7つのプロジェクトごとに、夕方から酒を酌み交わしながら現場と議論を重ねた。販社や海外を含めて課長クラスの半数以上と対話の機会を持ったといい、従業員が知識や経験だけでなく情熱を十分に持ち合わせていることを再確認し、それを引き出すことを自らの責任と位置づけた[7]

横浜ゴムをめぐっては仏ミシュランによる買収の憶測が繰り返し流れていたが、2002年4月、冨永氏は独コンチネンタルとの生産・販売面での提携強化を発表し、これによって憶測を一蹴した。外資との資本提携は繰り返し否定し、資本の独立を保つ方針を鮮明にする選択であった[8][9]

結果

2002年、増益とシェア回復への転換

就任から3年近くを経て、新ブランドの育成、販社の赤字解消、物流の効率化などで前進が見え始めた。市販用タイヤの国内シェアは2001年を通じて毎月更新を続け、当時約20%まで戻していた。冨永氏は歴代最高の約27%に近づけたいという手応えを語り、デフレ下で短期間に築いた収益基盤を背景に、業界大手で唯一の増益見通しにこぎ着けていた[10]

国際化の遅れから「負け組」のレッテルを貼られてきた横浜ゴムを立て直した冨永氏は、やる気のある人材が50人現場にいれば、連結1万3000人の従業員を率いて会社を経営していけると語った。従業員の目つきや心構えを変えることこそが改革の核心だったという総括に、コスト削減から始まった10年間の危機対応の到達点が表れている[11]

2004年、会長として振り返った730日改革

会長に退いた冨永氏は2004年、1999年に着手した730日間の改革を振り返り、社員に「10年ぐらい先に、浜ゴムがどんな会社になっていれば生き残れるか」と問いかけたと語った。数字を軸にした改革案なら過去の延長ですぐ作れたはずだが、あえて新たな視点から社員自身に意見を出させることを重んじたという。詳細な計画を固めた後も議論を促し、総資本回転率のような指標を現場の販売会社の担当者までが自ら考えるようになったことに、確かな手応えを語っている[12]

冨永氏は、入社5年目に直面した1965年の不況で、赤字が続いたウレタンフォーム事業から撤退した経験を経営哲学の原点として語った。撤退はメーカーの都合で販売会社に迷惑をかけるものであり、その痛みが「赤字は絶対にダメだ」という思いを深くし、赤字になりにくい事業構造を初めから作ることの大切さへとつながったという[13]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1993年5月10日号「萩原晴二氏[横浜ゴム]登場 熟慮断行、コスト削減に的絞る」
  • 日経ビジネス 1994年1月17日号「有訓無訓 追い風吹いても次の逆風を読む」(本山一雄・横浜ゴム会長)
  • 日経ビジネス 1999年6月21日号「冨永靖雄氏[横浜ゴム]登場 危機感に満ちた就任、3強に抗せるか」
  • 週刊東洋経済(DCL) 2002年1月19日号「[特集]不屈の経営者21人の神髄 負け組のレッテルを払いのける横浜ゴム 冨永靖雄社長」
  • 日経ビジネス 2004年10月25日号「有訓無訓 直言、大いに結構 自分の意見をまず持とう」(冨永靖雄・横浜ゴム会長)
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
  • 横浜ゴム 会社年鑑(連結業績)