横浜ゴムの母体となったのは、電線被膜用ゴムの製造を手掛[1]けていた横浜電線製造(現古河電気工業)である。この横浜電線製造は1884年に横浜市の山田与七氏が興した個人企業に始まり[2]、電信用パラフィン線・綿巻線・電灯線を製造するわが国最初の被覆線工場であったが[3]、銅線の供給者である古河合名の資本系統下に入って古河系へと組み込まれた[4]。1917年、同社の中川末吉氏(後の古河電工社長)は将来有望な産業としてゴム工業を位置づけ、高級ゴム製品の国産化を企画したといわれる[5]。当時の日本は製鉄・電力・機械の近代化により、ベルト・ホース・自動車用タイヤといった工業用ゴム製品の需要が急拡大していたものの、その大半を海外からの輸入に依存していた状況にあった。国産化の担い手を新しく育てる産業政策的な意味合いと、古河系として電線事業から周辺のゴム製品へと多角化していく経営戦略の両方を兼ね備えた構想として発案されたものだった。
技術提携先を探るなか、日本に営業所を構えて東洋での生産事業所建設を企図していた米B.F.グッドリッチ社の思惑と利害が一致し、同年10月、両社の折半出資による資本金250万円の合弁会社[6]『横濱護謨製造株式会社』が神奈川県横浜市裏高島町に設立され[7][8]、初代の取締役会長には中島久萬吉氏が就いた[9]。出資比率はそれぞれ50パーセント、グッドリッチ側が技術を、古河側が経営を担うという分担で覚書を交わしたと記録されており、創業時から外資の技術力と国内資本の経営力を組み合わせる二人三脚の構造を背負って出発した会社である。事業目的にはタイヤ及び工業品の輸入販売も含まれ[10]、大正期の高級ゴム製品の輸入依存を脱する国産化の起点として、また古河系タイヤメーカーの母体としての位置づけを与えられた案件であった。
1921年に横浜市平沼に最初の工場を建設し[11]、ベルト・ホース・パッキング・コードタイヤなどの本格的な生産を開始した。ところが1923年9月の関東大震災で平沼工場は全壊し[12]、従業員24名の死亡という犠牲を出したうえで操業は中止され[13]、本社を東京市麹町区(現千代田区)へ移転して再起の時を待つ状態となった[14]。創業からわずか六年で生産基盤を失った同社は、しばらくの間グッドリッチから輸入した製品の販売に従事することで辛うじて食いつなぐ事実上の休業期間を経験しており、戦前期に積み上げた事業立ち上げの成果がこの震災で後退した格好となった。合弁相手のグッドリッチから見ても日本拠点の再建が経営課題となった局面である。
1929年には鶴見区平安町に二代目横浜工場を再建し[15]、ホース・ベルト・パッキングなどの工業用ゴム製品と自動車用タイヤの量産を軌道に乗せ、1931年までに日本フォードや日本GM向けの新車用タイヤ納入にも漕ぎ着けた。1934年には三倍規模への増設も実施し、震災で失った生産基盤をおおむね取り戻していた状況にあった。1938年には東洋紡績と提携して東洋タイヤ工業を設立し、海外進出の第一歩を踏み出している[16]。日華事変以降ゴム工業は軍需産業に組み込まれ、1942年に日本軍占領下のシンガポール既設工場の経営を軍から委託されたのを皮切りに[17]、東南アジア各地に建設した工場は16工場におよんだ[18]。
しかし戦時末期の1945年4月、米軍の空襲で横浜工場は90パーセントを焼失するに至り[19]、中国・韓国・ベトナム・フィリピンと大陸から東南アジアにかけて広げた海外工場五つも戦禍のなかで例外なく放棄され[20]、同社は震災に続く二度目のゼロからの再出発を強いられる格好となった。本社も同月に東京都港区へ再移転し[21]、戦後再建の構想を迫られる局面に追い込まれた。軍需期に空前の規模へ膨らんだ生産網は、本土と東南アジアの双方で終戦とともに一挙に崩れ去り、それでも1947年3月までには三重・三島など残った工場群の復興整備にこぎ着けて[22]、戦後再建の最初の足場をかろうじて固めることになる。
戦争が同社から奪ったものは国内の生産設備だけではなかった。空襲によって主力の横浜工場は九割を焼失し、あわせて満州および朝鮮に置いていた工場のすべてを失っている[23]。戦前の同社は関東大震災の痛手から横浜市鶴見区平安町のタイヤ・工業品工場と三重県宇治山田市のタイヤ工場によって失地を回復しつつあり[24]、後年の業界誌はそのまま伸びていれば世界有数の規模に届いていたはずだと惜しんでいる。加えて尾山和勇会長がゴム統制会長として満州・朝鮮を含む東洋のゴム産業の育成に力を注いでいただけに、敗戦による打撃は同業他社以上に重かったと評された[25]。
戦後の混乱期、同社は焼け残った三重・三島・上尾の各工場を頼りに事業の再起動を図ることとなった。三重工場は戦時中の1943年8月に度会郡(現伊勢市)に建設されたもので[26]、戦災を免れたことで戦後生産の最初の足場となった工場である。終戦直後の1946年3月には静岡県三島市に三島工場を新設し[27]、関東圏の生産機能の一部を補完する役割を担わせる形で、戦後復興期における生産網の再構築に着手している。戦前と同じ横浜・平沼への復帰を断念したことが、後の平塚集約戦略への事実上の布石となり、関東諸工場の分散体制を見直すきっかけとしても働いた経営判断であったと評価できる。戦前の二度の工場焼失の経験が戦後の拠点戦略を形づくる原動力となった局面でもある。
1949年12月、財閥解体で古河の支配が緩むのと並行して、戦中に途絶えていたB.F.グッドリッチとの技術提携を復活させた[28]。輸入依存を脱して国産化を担うために生まれた会社が、戦災と財閥解体を経てなお米国側の技術を必要とする立場から再出発するという格好であり、戦中断絶した米国大手との技術関係を再開したこの動きは戦後の品質キャッチアップの土台となった重要な局面である。半年後の1950年4月には東京・大阪両証券取引所の市場第一部へ株式を上場し[29]、戦後復興期における市場からの資金調達ルートを確保して、独立した上場企業として歩み出すうえでの財務基盤がしっかりと整えられた。戦災で一度は失った生産基盤を再び構築するための財務面の裏付けがこの上場によって得られた格好である。
戦後の同社は、関東圏に小規模工場が散らばる非効率な体制を抱えていた。経営陣は焼失した横浜工場の再建を断念し、1950年8月、GHQに対して神奈川県平塚にあった大蔵省保有・米第八軍管理の8万坪の敷地の使用許可を申請した[30]。許可を取り付けたのち、1952年8月に平塚工場として本格稼働を開始し、横浜・金町・藤沢の各工場と藤沢にあった技術研究所までをすべてここに集約することで[31]、戦前の分散体制と決別する戦後再建の司令塔としての総合工場を立ち上げる運びとなった。戦災で散逸した生産設備を一拠点に集約し、戦後の生産効率化と多品種展開を支える母体がここに据えられた形で、戦後復興期の生産戦略の要となる基幹拠点が形作られた節目である。
平塚への集約が一段落した直後の同社は、業界のなかで際立った位置にあった。1954年の時点で自動車タイヤの全国生産量の四割強を占める国内首位であり、ブリヂストンとの二社で全国需要の八割を満たしていた[32]。当時はデフレによる金詰まりでゴム各社の成績が総じて悪化していたが、急増した保有自動車の取替タイヤ需要が安定していたためタイヤ大手だけは不況に耐えられると同時代の経済誌はみていた[33]。売上高は毎期一割程度の伸びを続け、利益もこれに従って増えていたという[34]。もっとも平塚新工場の整備を終えたばかりで借入金が重く、財務の内容が良好とはいえない状態にあったことも同時に指摘されている[35]。
1957年には航空部品(燃料タンク・ホース)の生産を開始し[36]、ゴム加工技術を活かした周辺領域への転用にも着手し始めている。1960年3月には事業部制を導入し、タイヤ・工業品・合成品・雑貨・部品・海外の六事業部体制を整え[37]、総合ゴムメーカー化を志向した経営体制への明確な転換点を迎えた。1961年1月には本社ビル『浜ゴムビル』が竣工し、同年10月には名古屋証券取引所市場第一部へも株式を上場している[38]。そして1963年10月には商号を『横濱護謨製造』から『横浜ゴム株式会社』へと改称し[39]、戦後の総合ゴムメーカーとしての新しいブランドを社名にも反映させる格好で、戦前期の旧商号から脱皮する象徴的な位置づけが与えられた節目となった出来事である。
首位が揺らぎ始めたのは1950年代の後半である。大正初期から1935年頃までは日本ダンロップが、その後は横浜ゴムがゴム業界の主導権を握り市場の約四割を手中に収めてきたが、1955年を境に生産と販売の両面でブリヂストンが横浜ゴムを抜き去った[40]。1958年秋ごろにはブリヂストン幹部の間で横浜ゴムはもはや競争相手ではないという評が交わされ、タイヤ各社の過当競争で市況は出血採算と騒がれるまで悪化していた[41]。差の理由として業界誌が挙げたのは会社機構の違いである。ブリヂストンが石橋正二郎社長の持株による事実上のワンマン会社であったのに対し、横浜ゴムは株式を公開し三割五分余りを米グッドリッチに握られていたため、新規事業の着手にも慎重な試験と時間を要し、しばしばタイミングが遅れた[42]。
1960年の所得倍増計画とモータリゼーションが重なり、自動車用タイヤ需要は1960年代半ばから立ち上がった。横浜ゴムは1964年6月に愛知県新城市にタイヤ専門の新城工場を新設して増産体制を整え[43]、1967年には日本初の乗用車用スチールラジアルタイヤ[44]、続く1969年にはトラック・バス用ラジアルタイヤの開発にも成功している[45]。さらに1973年6月には茨城県東茨城郡に茨城工場、翌1974年10月には広島県尾道市に建設・鉱山機械向けタイヤ専門の尾道工場を建設し[46]、用途別の生産拠点を順次整えた。技術面では業界の先頭を走った時期であり、1969年11月には米国に販売会社ヨコハマタイヤコーポレーションを設立して[47]本格的な海外市場開拓の足場をも築きつつあった。
ただし量産投資のタイミングでは、後発のブリヂストンに先を越される格好となってしまった。ブリヂストンは既に1960年から東京工場を稼働させて量産体制を確立しており[48]、横浜ゴムの新城工場の稼働はそれより遅れて入ったため、乗用車用タイヤの大量供給を巡るシェア争いで同社は規模の優位を取り戻すことができなかった局面である。タイヤ国内首位の座は1960年代を境にブリヂストンが固める形となり、横浜ゴムは二位という位置取りで以後の半世紀を過ごす立場に置かれ[49]、量で勝負しない経営路線の必要性が逆説的に浮かび上がる局面となった。技術面での先頭ランナーという評価と量産での出遅れという実情が乖離した時期でもあった。
1973年の第一次石油危機と翌1974年のGNPマイナス成長を経て、日本経済は安定成長期へと入った[50]。汎用品の価格競争では首位のブリヂストンに勝てない構造が業績にはっきりと現れ始め、横浜ゴムは1978年12月期に二期連続の最終赤字へと転落している[51]。原料高と需要低迷の挟み撃ちを受けた局面であり、価格勝負を続けても利益が出ないという経営体質の限界が露呈したことで、後のブランド差別化と非タイヤ多角化への路線転換の伏線がこの時期にはっきりと敷かれた、同社の経営モデルの転換点とも呼べる節目である。ここから先、量を追うのではなく付加価値で選ばれる商品づくりを目指すという経営方針が、危機意識のもとで形づくられた。
同じ1978年、同社は乗用車用ラジアル『ADVAN』を発売した[52]。ハイパフォーマンスタイヤという新コンセプトを業界に先駆けて打ち出し、価格ではなく性能で選ばれるブランドを志向した商品で、以降の高性能タイヤ時代の幕開けを作り横浜ゴムのブランド差別化の核となった。並行してコンベヤベルト・高圧ホース・建築用シーリング材などの非タイヤ事業を伸ばし、1983年11月にはスポーツ用品会社スポーツコンプレックス(現プロギア)を設立してゴルフ用品事業にも参入し[53]、1988年にはインテストブランドも投入している[54]。低価格量産で先行するブリヂストンの土俵を避け、性能差別化と非タイヤ多角化で利益を確保する路線が、同社の事業モデルとして定まっていった格好である。
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|---|---|---|---|---|
| 1917〜1949年電線会社からの多角化で発足した米国合弁と戦災による生産基盤の喪失 | 横濱護謨製造を設立 | ★ | ||
| 平沼工場を新設 | ★ | |||
| 関東大震災で平沼工場の操業中止 | ★ | |||
| 横浜工場を再建 | ★ | |||
| 三重工場を新設 | ★ | |||
| 本社を移転 | ★ | |||
| 横浜工場が空襲で全焼 | ★ | |||
| 三島工場を新設 | ★ | |||
| B.F.グッドリッチとの業務提携を復活 | ★★ | |||
| 1950〜1989年独立後の国内集約と高付加価値差別化路線の模索によるADVANの確立期 | 東京証券取引所・大阪証券取引所一部に株式を上場 | ★ | ||
| 平塚製造所を建設し関東諸工場を統合 | ★ | |||
| 航空部品(燃料タンク・ホース)の生産を開始 | ★ | |||
| 事業部制を導入 | ★ | |||
| ブリヂストンに譲った首位からの巻き返し——新城工場と島崎敬夫社長の経営刷新 1955年前後にブリヂストンへ生産・販売の首位を明け渡した横浜ゴム(当時・横濱護謨製造)が、1963年10月の社名改称を節目に、新城工場の増産投資と島崎敬夫社長による経営刷新で巻き返しをはかった一連の経営判断。人員整理・省力投資・自主技術の確立を柱に、業界2位からの再建をめざした。 詳細を読む | ★★★ | |||
| タイヤ専門の新城工場を新設 | ★ | |||
| 日本初の乗用車用スチールラジアルタイヤを開発 | ★★ | |||
| ヨコハマタイヤコーポレーション設立 | ★ | |||
| 茨城工場を新設 | ★ | |||
| 横浜エイロクイップを設立 | ★ | |||
| 建設用大型タイヤ専門の尾道工場を新設 | ★ | |||
| 2期連続で最終赤字に転落 | ★★ | |||
| ADVAN発売とB.F.グッドリッチ資本離脱による独自路線の確立 1978年12月期に二期連続の最終赤字へ転落した横浜ゴムが、同じ1978年に乗用車用ラジアルタイヤ『ADVAN』を発売してハイパフォーマンスタイヤ路線へ舵を切り、1981年5月には創業以来64年続いたB.F.グッドリッチとの資本関係を解消して独立系メーカーとなった一連の経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| B.F.グッドリッチが横浜ゴム株式の大半を売却 | ★★ | |||
| スポーツコンプレックスを設立 | ★ | |||
| 総合タイヤテストコースを建設 | ★ | |||
| GTYタイヤカンパニーを3社合弁で設立 | ★ | |||
| モホーク・ラバー・カンパニーを買収 | ★ | |||
| 1990〜2015年グッドリッチ資本離脱後の現地生産拡大と国内三位へ後退した長い踊り場 | 平塚製造所内に研究開発センタービルを建設 | ★ | ||
| 萩原晴二氏から冨永靖雄氏へ、危機感で継いだコスト削減と構造改革の10年 1993年3月、本山一雄前社長(当時会長)から社長を託された萩原晴二氏が、円高による輸出環境の悪化を背景にコスト削減へ経営の的を絞った。その危機感は1999年4月に社長を継いだ冨永靖雄氏に引き継がれ、期限を730日と区切った構造改革へと発展し、2002年には自社を『負け組』の評判から立て直しつつあると語るまでに至った10年である。 詳細を読む | ★★★ | |||
| コスト削減に経営の的を絞る方針を提示 | ★ | |||
| ヨコハマタイヤフィリピンを設立 | ★ | |||
| ヨコハマラバー(タイランド)を設立 | ★ | |||
| 冨永靖雄 | 杭州横浜輪胎を設立 | ★ | ||
| 冨永靖雄 | コンチネンタル社と合弁会社を設立 | ★ | ||
| 南雲忠信 | 事業統括会社「横浜橡胶」を設立 | ★ | ||
| 南雲忠信 | リーマンショックで初の純損失に転落 | ★★ | ||
| 南雲忠信 | 国内市販用販社19社を統合しヨコハマタイヤジャパンを設立 | ★ | ||
| 野地彦旬 | ミシシッピにタイヤ製造販売会社を設立 | ★ | ||
| 野地彦旬 | パーカーMHP社(マリンホース)を買収 | ★ | ||
| 野地彦旬 | コンチネンタル社との合弁を解消 | ★ | ||
| 野地彦旬 | オフハイウェイタイヤ(OHT)事業への連続M&Aによる事業構成の転換 2016年3月に発表したATG(Alliance Tire Group)買収を皮切りに、横浜ゴムは2022年合意・2023年完了のトレルボルグ・ホイールシステムズ(TWS)買収、2024年契約・2025年完了のグッドイヤー社OTR事業買収と、オフハイウェイタイヤ(OHT)領域で連続M&Aを重ねた経営判断。中期経営計画『YX2023』『YX2026』はこの手法を『プログラマティックM&A』と呼び、成長戦略の柱に据えた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 山石昌孝 | 山石昌孝が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 山石昌孝 | ハマタイト事業を売却 | ★★ | ||
| 山石昌孝 | スウェーデンTrelleborg Wheel Systems(Y-TWS)を買収 | ★★ | ||
| 清宮眞二 | 売上収益10,947億円・事業利益1,344億円で過去最高更新 | ★ | ||
| 清宮眞二 | Goodyear社のOTR事業(G-OTR)を買収 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(横浜ゴム)