横浜ゴム の歴史

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創業 1917年
母体 横濱電線製造
創業地 神奈川県横浜市
創業
1917年10月、横濱電線製造(現古河電気工業)と米B.F.グッドリッチが折半出資し、資本金250万円で横濱護謨製造が神奈川県横浜市に発足した。目的はタイヤと工業品の輸入販売で、技術はグッドリッチ、経営は古河系が担う分担である。1923年の関東大震災で横浜の工場は操業を止め、本社は東京へ移った。戦後は1950年4月に東京・大阪両証券取引所へ上場し、1952年に平塚工場を建設して関東の諸工場を集約する。商号を横浜ゴムへ改めた1963年10月には、新城工場の建設と経営刷新で体質改善へ切り替えている
決断
首位を失ってからの半世紀を、量ではなく買収で埋めてきた。1960年代にブリヂストンへ乗用車タイヤの首位を譲り、原料高と需要低迷が重なった1977年・1978年は最終赤字が続いた。この局面で高性能タイヤADVANを発売し、グッドリッチの資本離脱を受け入れた。円高で輸出環境が悪化した1990年代には二代の社長が期限を区切ったコスト削減で収益を立て直した。2016年7月にオランダのアライアンス・タイヤ・グループを約1,356億円で買収して農機・建機用タイヤへ参入し、2023年5月にトレルボルグ・ホイールシステムズを企業価値約2,652億円、2025年2月にグッドイヤーのOTR事業を約1,294億円で取得している。三度の買収で積み増した生産財が、2024年12月期の売上1兆円を作った。
現況
売上の9割はタイヤだが、利益を伸ばしているのは道路を走らないタイヤである。2025年12月期の売上収益1兆2,350億円のうちタイヤ事業が1兆1,213億円で91%を占め、ホース・コンベヤベルト・接着剤などのMB事業は1,056億円にとどまる。セグメント利益はタイヤの1,550億円に対しMBが111億円で、営業利益1,529億円・純利益1,054億円はいずれも過去最高を更新し、増収増益は5期続いた。中期経営計画は乗用車用の消費財と農機・建機用の生産財の構成比を3対2から1対1へ組み替える方針を掲げている。景気変動を受けにくい生産財を積み増したことが、この5年の連続増益を支えた。
競合
国内三位のまま、順位を数える市場のほうを入れ替えた。乗用車用タイヤではブリヂストン住友ゴム工業に次ぐ三番手が半世紀続き、価格競争と景気変動を受ける位置から抜けられなかった。同じ商品で量を競う代わりに、横浜ゴムは農機・建機・林業機械向けという別の区分へ三度の買収で移り、2024年12月期に売上1兆円を超えた。同じ中堅でもTOYO TIREは北米のSUV・ピックアップ向け大口径タイヤへ商品を絞っており、選んだ逃げ場は重ならない。乗用車用の順位を動かさずに買収で別の市場を得たことが、価格競争から離れた利益率を生んだ。
横浜ゴム:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1996年3月期2025年12月期

設立ストーリー 電線会社からの多角化で発足した米国合弁と戦災による生産基盤の喪失 (1917年〜)

電線会社の多角化として呼び込まれたB.F.グッドリッチ

横浜ゴムの母体となったのは、電線被膜用ゴムの製造を手掛[1]けていた横浜電線製造(現古河電気工業)である。この横浜電線製造は1884年に横浜市の山田与七氏が興した個人企業に始まり[2]、電信用パラフィン線・綿巻線・電灯線を製造するわが国最初の被覆線工場であったが[3]、銅線の供給者である古河合名の資本系統下に入って古河系へと組み込まれた[4]。1917年、同社の中川末吉氏(後の古河電工社長)は将来有望な産業としてゴム工業を位置づけ、高級ゴム製品の国産化を企画したといわれる[5]。当時の日本は製鉄・電力・機械の近代化により、ベルト・ホース・自動車用タイヤといった工業用ゴム製品の需要が急拡大していたものの、その大半を海外からの輸入に依存していた状況にあった。国産化の担い手を新しく育てる産業政策的な意味合いと、古河系として電線事業から周辺のゴム製品へと多角化していく経営戦略の両方を兼ね備えた構想として発案されたものだった。

  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [1]母体は電線被膜用ゴムを手掛けた横浜電線製造(現古河電気工業)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [2]横浜電線製造は明治17年に横浜市の山田与七の個人企業として誕生
    • [3]電信用パラフィン線・綿巻線・電灯線を製造するわが国最初の被覆線工場であった
    • [4]銅線の供給者である古河合名の資本系統下に入り古河系へ組み込まれた
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [5]中川末吉(後の古河電工社長)が横浜電線製造側で高級ゴム製品の国産化を企画

技術提携先を探るなか、日本に営業所を構えて東洋での生産事業所建設を企図していた米B.F.グッドリッチ社の思惑と利害が一致し、同年10月、両社の折半出資による資本金250万円の合弁会社[6]『横濱護謨製造株式会社』が神奈川県横浜市裏高島町に設立され[7][8]、初代の取締役会長には中島久萬吉氏が就いた[9]。出資比率はそれぞれ50パーセント、グッドリッチ側が技術を、古河側が経営を担うという分担で覚書を交わしたと記録されており、創業時から外資の技術力と国内資本の経営力を組み合わせる二人三脚の構造を背負って出発した会社である。事業目的にはタイヤ及び工業品の輸入販売も含まれ[10]、大正期の高級ゴム製品の輸入依存を脱する国産化の起点として、また古河系タイヤメーカーの母体としての位置づけを与えられた案件であった。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [6]設立時資本金250万円・出資比率50:50(日米折半)
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [7]米B.F.グッドリッチ社との折半出資で横濱護謨製造株式会社を設立
    • [8]1917年10月に横濱護謨製造を設立
    • [10]事業目的にタイヤ及び工業品の輸入販売を含む
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [9]初代取締役会長に中島久萬吉が就任
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [1]母体は電線被膜用ゴムを手掛けた横浜電線製造(現古河電気工業)
    • [7]米B.F.グッドリッチ社との折半出資で横濱護謨製造株式会社を設立
    • [8]1917年10月に横濱護謨製造を設立
    • [10]事業目的にタイヤ及び工業品の輸入販売を含む
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [2]横浜電線製造は明治17年に横浜市の山田与七の個人企業として誕生
    • [3]電信用パラフィン線・綿巻線・電灯線を製造するわが国最初の被覆線工場であった
    • [4]銅線の供給者である古河合名の資本系統下に入り古河系へ組み込まれた
    • [9]初代取締役会長に中島久萬吉が就任
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [5]中川末吉(後の古河電工社長)が横浜電線製造側で高級ゴム製品の国産化を企画
    • [6]設立時資本金250万円・出資比率50:50(日米折半)

関東大震災と戦災で二度にわたり生産基盤を喪失した戦前期

1921年に横浜市平沼に最初の工場を建設し[11]、ベルト・ホース・パッキング・コードタイヤなどの本格的な生産を開始した。ところが1923年9月の関東大震災で平沼工場は全壊し[12]、従業員24名の死亡という犠牲を出したうえで操業は中止され[13]、本社を東京市麹町区(現千代田区)へ移転して再起の時を待つ状態となった[14]。創業からわずか六年で生産基盤を失った同社は、しばらくの間グッドリッチから輸入した製品の販売に従事することで辛うじて食いつなぐ事実上の休業期間を経験しており、戦前期に積み上げた事業立ち上げの成果がこの震災で後退した格好となった。合弁相手のグッドリッチから見ても日本拠点の再建が経営課題となった局面である。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [11]1921年4月に横浜市平沼に最初の工場(平沼工場)を建設
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [12]1923年9月の関東大震災で平沼工場が操業中止・本社を東京市麹町区へ移転
    • [14]震災後に本社を東京市麹町区(現千代田区)へ移転
  • 横浜ゴム 有価証券報告書【沿革】
    • [13]関東大震災で従業員24名が死亡

1929年には鶴見区平安町に二代目横浜工場を再建し[15]、ホース・ベルト・パッキングなどの工業用ゴム製品と自動車用タイヤの量産を軌道に乗せ、1931年までに日本フォードや日本GM向けの新車用タイヤ納入にも漕ぎ着けた。1934年には三倍規模への増設も実施し、震災で失った生産基盤をおおむね取り戻していた状況にあった。1938年には東洋紡績と提携して東洋タイヤ工業を設立し、海外進出の第一歩を踏み出している[16]。日華事変以降ゴム工業は軍需産業に組み込まれ、1942年に日本軍占領下のシンガポール既設工場の経営を軍から委託されたのを皮切りに[17]、東南アジア各地に建設した工場は16工場におよんだ[18]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [15]1929年に横浜市鶴見区平安町に横浜工場を再建
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [16]1938年に東洋紡績と提携して東洋タイヤ工業を設立し海外進出の第一歩とした
    • [17]1942年に日本軍占領下のシンガポール既設工場の経営を軍から委託された
    • [18]東南アジアに建設した工場は16工場におよんだ

しかし戦時末期の1945年4月、米軍の空襲で横浜工場は90パーセントを焼失するに至り[19]、中国・韓国・ベトナム・フィリピンと大陸から東南アジアにかけて広げた海外工場五つも戦禍のなかで例外なく放棄され[20]、同社は震災に続く二度目のゼロからの再出発を強いられる格好となった。本社も同月に東京都港区へ再移転し[21]、戦後再建の構想を迫られる局面に追い込まれた。軍需期に空前の規模へ膨らんだ生産網は、本土と東南アジアの双方で終戦とともに一挙に崩れ去り、それでも1947年3月までには三重・三島など残った工場群の復興整備にこぎ着けて[22]、戦後再建の最初の足場をかろうじて固めることになる。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [19]1945年4月の米軍空襲で横浜工場の90%を焼失
    • [22]昭和22年(1947年)3月までに残った工場群の復興整備が成った
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [20]海外5工場(中国・韓国・ベトナム・フィリピン)を戦禍で放棄
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [21]1945年4月に本社を東京都港区へ移転
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [11]1921年4月に横浜市平沼に最初の工場(平沼工場)を建設
    • [15]1929年に横浜市鶴見区平安町に横浜工場を再建
    • [20]海外5工場(中国・韓国・ベトナム・フィリピン)を戦禍で放棄
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [12]1923年9月の関東大震災で平沼工場が操業中止・本社を東京市麹町区へ移転
    • [14]震災後に本社を東京市麹町区(現千代田区)へ移転
    • [21]1945年4月に本社を東京都港区へ移転
  • 横浜ゴム 有価証券報告書【沿革】
    • [13]関東大震災で従業員24名が死亡
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [16]1938年に東洋紡績と提携して東洋タイヤ工業を設立し海外進出の第一歩とした
    • [17]1942年に日本軍占領下のシンガポール既設工場の経営を軍から委託された
    • [18]東南アジアに建設した工場は16工場におよんだ
    • [19]1945年4月の米軍空襲で横浜工場の90%を焼失
    • [22]昭和22年(1947年)3月までに残った工場群の復興整備が成った

戦災工場の焼失から対米技術提携復活までの再起動

戦争が同社から奪ったものは国内の生産設備だけではなかった。空襲によって主力の横浜工場は九割を焼失し、あわせて満州および朝鮮に置いていた工場のすべてを失っている[23]。戦前の同社は関東大震災の痛手から横浜市鶴見区平安町のタイヤ・工業品工場と三重県宇治山田市のタイヤ工場によって失地を回復しつつあり[24]、後年の業界誌はそのまま伸びていれば世界有数の規模に届いていたはずだと惜しんでいる。加えて尾山和勇会長がゴム統制会長として満州・朝鮮を含む東洋のゴム産業の育成に力を注いでいただけに、敗戦による打撃は同業他社以上に重かったと評された[25]

  • 野田経済 1963年10月号
    • [23]戦災で主力の横浜工場の90%を焼失し満州・朝鮮の工場を全て喪失
    • [24]戦前に横浜市鶴見区平安町のタイヤ・工業品工場と三重県宇治山田市のタイヤ工場で震災からの失地を回復
    • [25]尾山和勇会長がゴム統制会長として満州・朝鮮など東洋のゴム産業育成に注力しており敗戦の痛手が他のゴム会社以上だった

戦後の混乱期、同社は焼け残った三重・三島・上尾の各工場を頼りに事業の再起動を図ることとなった。三重工場は戦時中の1943年8月に度会郡(現伊勢市)に建設されたもので[26]、戦災を免れたことで戦後生産の最初の足場となった工場である。終戦直後の1946年3月には静岡県三島市に三島工場を新設し[27]、関東圏の生産機能の一部を補完する役割を担わせる形で、戦後復興期における生産網の再構築に着手している。戦前と同じ横浜・平沼への復帰を断念したことが、後の平塚集約戦略への事実上の布石となり、関東諸工場の分散体制を見直すきっかけとしても働いた経営判断であったと評価できる。戦前の二度の工場焼失の経験が戦後の拠点戦略を形づくる原動力となった局面でもある。

  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [26]三重工場は1943年8月に度会郡(現伊勢市)に建設
    • [27]1946年3月に静岡県三島市に三島工場を新設

1949年12月、財閥解体で古河の支配が緩むのと並行して、戦中に途絶えていたB.F.グッドリッチとの技術提携を復活させた[28]。輸入依存を脱して国産化を担うために生まれた会社が、戦災と財閥解体を経てなお米国側の技術を必要とする立場から再出発するという格好であり、戦中断絶した米国大手との技術関係を再開したこの動きは戦後の品質キャッチアップの土台となった重要な局面である。半年後の1950年4月には東京・大阪両証券取引所の市場第一部へ株式を上場し[29]、戦後復興期における市場からの資金調達ルートを確保して、独立した上場企業として歩み出すうえでの財務基盤がしっかりと整えられた。戦災で一度は失った生産基盤を再び構築するための財務面の裏付けがこの上場によって得られた格好である。

  • 横浜ゴム 有価証券報告書【沿革】
    • [28]1949年12月にB.F.グッドリッチとの技術提携を復活
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [29]1950年4月に東京・大阪両証券取引所市場第一部へ上場
  • 野田経済 1963年10月号
    • [23]戦災で主力の横浜工場の90%を焼失し満州・朝鮮の工場を全て喪失
    • [24]戦前に横浜市鶴見区平安町のタイヤ・工業品工場と三重県宇治山田市のタイヤ工場で震災からの失地を回復
    • [25]尾山和勇会長がゴム統制会長として満州・朝鮮など東洋のゴム産業育成に注力しており敗戦の痛手が他のゴム会社以上だった
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [26]三重工場は1943年8月に度会郡(現伊勢市)に建設
    • [27]1946年3月に静岡県三島市に三島工場を新設
    • [29]1950年4月に東京・大阪両証券取引所市場第一部へ上場
  • 横浜ゴム 有価証券報告書【沿革】
    • [28]1949年12月にB.F.グッドリッチとの技術提携を復活

平塚8万坪の総合工場に集約した戦後再建の司令塔

戦後の同社は、関東圏に小規模工場が散らばる非効率な体制を抱えていた。経営陣は焼失した横浜工場の再建を断念し、1950年8月、GHQに対して神奈川県平塚にあった大蔵省保有・米第八軍管理の8万坪の敷地の使用許可を申請した[30]。許可を取り付けたのち、1952年8月に平塚工場として本格稼働を開始し、横浜・金町・藤沢の各工場と藤沢にあった技術研究所までをすべてここに集約することで[31]、戦前の分散体制と決別する戦後再建の司令塔としての総合工場を立ち上げる運びとなった。戦災で散逸した生産設備を一拠点に集約し、戦後の生産効率化と多品種展開を支える母体がここに据えられた形で、戦後復興期の生産戦略の要となる基幹拠点が形作られた節目である。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [30]平塚の敷地は8万坪
    • [31]1952年8月に平塚工場が本格稼働、横浜・金町・藤沢の各工場と技術研究所を集約

平塚への集約が一段落した直後の同社は、業界のなかで際立った位置にあった。1954年の時点で自動車タイヤの全国生産量の四割強を占める国内首位であり、ブリヂストンとの二社で全国需要の八割を満たしていた[32]。当時はデフレによる金詰まりでゴム各社の成績が総じて悪化していたが、急増した保有自動車の取替タイヤ需要が安定していたためタイヤ大手だけは不況に耐えられると同時代の経済誌はみていた[33]。売上高は毎期一割程度の伸びを続け、利益もこれに従って増えていたという[34]。もっとも平塚新工場の整備を終えたばかりで借入金が重く、財務の内容が良好とはいえない状態にあったことも同時に指摘されている[35]

  • ダイヤモンド 1954年8月11日号
    • [32]1954年時点で自動車タイヤの全国生産量の4割強を占め、ブリヂストンとの2社で全国需要の8割を満たす
    • [33]デフレ金詰まりでゴム会社の成績が悪化するなか、保有自動車の増加による取替タイヤ需要で自動車タイヤ大手は好成績を維持
    • [34]自動車の増加に伴い売上高が毎期1割程度の割合で増加し利益もそれに従って増加
    • [35]平塚新工場の整備を終えたばかりで借金が多く内容はあまり良くない

1957年には航空部品(燃料タンク・ホース)の生産を開始し[36]、ゴム加工技術を活かした周辺領域への転用にも着手し始めている。1960年3月には事業部制を導入し、タイヤ・工業品・合成品・雑貨・部品・海外の六事業部体制を整え[37]、総合ゴムメーカー化を志向した経営体制への明確な転換点を迎えた。1961年1月には本社ビル『浜ゴムビル』が竣工し、同年10月には名古屋証券取引所市場第一部へも株式を上場している[38]。そして1963年10月には商号を『横濱護謨製造』から『横浜ゴム株式会社』へと改称し[39]、戦後の総合ゴムメーカーとしての新しいブランドを社名にも反映させる格好で、戦前期の旧商号から脱皮する象徴的な位置づけが与えられた節目となった出来事である。

  • 横浜ゴム 有価証券報告書【沿革】
    • [36]1957年に航空部品(燃料タンク・ホース)の生産を開始
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)
    • [37]1960年3月に事業部制を導入(6事業部体制)
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [38]1961年1月に本社ビル「浜ゴムビル」竣工、同年10月に名証一部へ上場
    • [39]1963年10月に商号を横浜ゴム株式会社へ改称
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [30]平塚の敷地は8万坪
    • [31]1952年8月に平塚工場が本格稼働、横浜・金町・藤沢の各工場と技術研究所を集約
  • ダイヤモンド 1954年8月11日号
    • [32]1954年時点で自動車タイヤの全国生産量の4割強を占め、ブリヂストンとの2社で全国需要の8割を満たす
    • [33]デフレ金詰まりでゴム会社の成績が悪化するなか、保有自動車の増加による取替タイヤ需要で自動車タイヤ大手は好成績を維持
    • [34]自動車の増加に伴い売上高が毎期1割程度の割合で増加し利益もそれに従って増加
    • [35]平塚新工場の整備を終えたばかりで借金が多く内容はあまり良くない
  • 横浜ゴム 有価証券報告書【沿革】
    • [36]1957年に航空部品(燃料タンク・ホース)の生産を開始
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)
    • [37]1960年3月に事業部制を導入(6事業部体制)
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [38]1961年1月に本社ビル「浜ゴムビル」竣工、同年10月に名証一部へ上場
    • [39]1963年10月に商号を横浜ゴム株式会社へ改称

新城工場の遅れた量産投資でブリヂストンに譲った首位の座

首位が揺らぎ始めたのは1950年代の後半である。大正初期から1935年頃までは日本ダンロップが、その後は横浜ゴムがゴム業界の主導権を握り市場の約四割を手中に収めてきたが、1955年を境に生産と販売の両面でブリヂストンが横浜ゴムを抜き去った[40]。1958年秋ごろにはブリヂストン幹部の間で横浜ゴムはもはや競争相手ではないという評が交わされ、タイヤ各社の過当競争で市況は出血採算と騒がれるまで悪化していた[41]。差の理由として業界誌が挙げたのは会社機構の違いである。ブリヂストンが石橋正二郎社長の持株による事実上のワンマン会社であったのに対し、横浜ゴムは株式を公開し三割五分余りを米グッドリッチに握られていたため、新規事業の着手にも慎重な試験と時間を要し、しばしばタイミングが遅れた[42]

  • 経済知識 1959年12月号
    • [40]大正初期から1935年頃まで日本ダンロップ、その後は横浜ゴムが業界の主導権を握り市場の約40%を占めたが、1955年を契機に生産・販売ともブリヂストンが横浜を抜き去った
    • [41]1958年秋頃にブリヂストン幹部間で横浜ゴムはもはやライバルではないとの評が広まり、自動車タイヤ各社の過当競争で市況が出血採算と騒がれるまで悪化
    • [42]ブリヂストンは石橋正二郎社長が全株を握るワンマン会社、横浜ゴムは株式公開で総株数の35.39%を米グッドリッチが保有し新企業の着手にテストの時間と慎重を要しタイミングが遅れがち

1960年の所得倍増計画とモータリゼーションが重なり、自動車用タイヤ需要は1960年代半ばから立ち上がった。横浜ゴムは1964年6月に愛知県新城市にタイヤ専門の新城工場を新設して増産体制を整え[43]、1967年には日本初の乗用車用スチールラジアルタイヤ[44]、続く1969年にはトラック・バス用ラジアルタイヤの開発にも成功している[45]。さらに1973年6月には茨城県東茨城郡に茨城工場、翌1974年10月には広島県尾道市に建設・鉱山機械向けタイヤ専門の尾道工場を建設し[46]、用途別の生産拠点を順次整えた。技術面では業界の先頭を走った時期であり、1969年11月には米国に販売会社ヨコハマタイヤコーポレーションを設立して[47]本格的な海外市場開拓の足場をも築きつつあった。

  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [43]1964年6月に愛知県新城市にタイヤ専門の新城工場を新設
    • [46]1973年6月に茨城工場、1974年10月に尾道工場を建設
    • [47]1969年11月に米国にヨコハマタイヤコーポレーションを設立
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [44]1967年に日本初の乗用車用スチールラジアルタイヤを開発
    • [45]1969年にトラック・バス用ラジアルタイヤを開発

ただし量産投資のタイミングでは、後発のブリヂストンに先を越される格好となってしまった。ブリヂストンは既に1960年から東京工場を稼働させて量産体制を確立しており[48]、横浜ゴムの新城工場の稼働はそれより遅れて入ったため、乗用車用タイヤの大量供給を巡るシェア争いで同社は規模の優位を取り戻すことができなかった局面である。タイヤ国内首位の座は1960年代を境にブリヂストンが固める形となり、横浜ゴムは二位という位置取りで以後の半世紀を過ごす立場に置かれ[49]、量で勝負しない経営路線の必要性が逆説的に浮かび上がる局面となった。技術面での先頭ランナーという評価と量産での出遅れという実情が乖離した時期でもあった。

  • ダイヤモンド 1965年1月25日号
    • [48]ブリヂストンは1960年から東京工場を稼働させ量産体制を確立
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [49]1960年代を境にタイヤ国内首位はブリヂストンが固め横浜ゴムは2位に後退
  • 経済知識 1959年12月号
    • [40]大正初期から1935年頃まで日本ダンロップ、その後は横浜ゴムが業界の主導権を握り市場の約40%を占めたが、1955年を契機に生産・販売ともブリヂストンが横浜を抜き去った
    • [41]1958年秋頃にブリヂストン幹部間で横浜ゴムはもはやライバルではないとの評が広まり、自動車タイヤ各社の過当競争で市況が出血採算と騒がれるまで悪化
    • [42]ブリヂストンは石橋正二郎社長が全株を握るワンマン会社、横浜ゴムは株式公開で総株数の35.39%を米グッドリッチが保有し新企業の着手にテストの時間と慎重を要しタイミングが遅れがち
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [43]1964年6月に愛知県新城市にタイヤ専門の新城工場を新設
    • [46]1973年6月に茨城工場、1974年10月に尾道工場を建設
    • [47]1969年11月に米国にヨコハマタイヤコーポレーションを設立
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [44]1967年に日本初の乗用車用スチールラジアルタイヤを開発
    • [45]1969年にトラック・バス用ラジアルタイヤを開発
    • [49]1960年代を境にタイヤ国内首位はブリヂストンが固め横浜ゴムは2位に後退
  • ダイヤモンド 1965年1月25日号
    • [48]ブリヂストンは1960年から東京工場を稼働させ量産体制を確立

二期連続赤字を契機としたADVANと非タイヤ多角化の断行

1973年の第一次石油危機と翌1974年のGNPマイナス成長を経て、日本経済は安定成長期へと入った[50]。汎用品の価格競争では首位のブリヂストンに勝てない構造が業績にはっきりと現れ始め、横浜ゴムは1978年12月期に二期連続の最終赤字へと転落している[51]。原料高と需要低迷の挟み撃ちを受けた局面であり、価格勝負を続けても利益が出ないという経営体質の限界が露呈したことで、後のブランド差別化と非タイヤ多角化への路線転換の伏線がこの時期にはっきりと敷かれた、同社の経営モデルの転換点とも呼べる節目である。ここから先、量を追うのではなく付加価値で選ばれる商品づくりを目指すという経営方針が、危機意識のもとで形づくられた。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [50]1973年第一次石油危機・1974年GNPマイナス成長を経て安定成長期へ
  • 横浜ゴム 有価証券報告書【主要指標】
    • [51]1978年12月期に2期連続の最終赤字へ転落

同じ1978年、同社は乗用車用ラジアル『ADVAN』を発売した[52]。ハイパフォーマンスタイヤという新コンセプトを業界に先駆けて打ち出し、価格ではなく性能で選ばれるブランドを志向した商品で、以降の高性能タイヤ時代の幕開けを作り横浜ゴムのブランド差別化の核となった。並行してコンベヤベルト・高圧ホース・建築用シーリング材などの非タイヤ事業を伸ばし、1983年11月にはスポーツ用品会社スポーツコンプレックス(現プロギア)を設立してゴルフ用品事業にも参入し[53]、1988年にはインテストブランドも投入している[54]。低価格量産で先行するブリヂストンの土俵を避け、性能差別化と非タイヤ多角化で利益を確保する路線が、同社の事業モデルとして定まっていった格好である。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [52]1978年に乗用車用ラジアル「ADVAN」を発売
    • [54]1988年にインテストブランドを投入
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [53]1983年11月にスポーツコンプレックス(現プロギア)を設立しゴルフ用品事業へ参入
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [50]1973年第一次石油危機・1974年GNPマイナス成長を経て安定成長期へ
    • [52]1978年に乗用車用ラジアル「ADVAN」を発売
    • [54]1988年にインテストブランドを投入
  • 横浜ゴム 有価証券報告書【主要指標】
    • [51]1978年12月期に2期連続の最終赤字へ転落
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
    • [53]1983年11月にスポーツコンプレックス(現プロギア)を設立しゴルフ用品事業へ参入

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横浜ゴムの沿革1917〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1917〜1949年電線会社からの多角化で発足した米国合弁と戦災による生産基盤の喪失横濱護謨製造を設立
平沼工場を新設
関東大震災で平沼工場の操業中止
横浜工場を再建
三重工場を新設
本社を移転
横浜工場が空襲で全焼
三島工場を新設
B.F.グッドリッチとの業務提携を復活★★
1950〜1989年独立後の国内集約と高付加価値差別化路線の模索によるADVANの確立期東京証券取引所・大阪証券取引所一部に株式を上場
平塚製造所を建設し関東諸工場を統合
航空部品(燃料タンク・ホース)の生産を開始
事業部制を導入
ブリヂストンに譲った首位からの巻き返し——新城工場と島崎敬夫社長の経営刷新

1955年前後にブリヂストンへ生産・販売の首位を明け渡した横浜ゴム(当時・横濱護謨製造)が、1963年10月の社名改称を節目に、新城工場の増産投資と島崎敬夫社長による経営刷新で巻き返しをはかった一連の経営判断。人員整理・省力投資・自主技術の確立を柱に、業界2位からの再建をめざした。

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★★★
タイヤ専門の新城工場を新設
日本初の乗用車用スチールラジアルタイヤを開発★★
ヨコハマタイヤコーポレーション設立
茨城工場を新設
横浜エイロクイップを設立
建設用大型タイヤ専門の尾道工場を新設
2期連続で最終赤字に転落★★
ADVAN発売とB.F.グッドリッチ資本離脱による独自路線の確立

1978年12月期に二期連続の最終赤字へ転落した横浜ゴムが、同じ1978年に乗用車用ラジアルタイヤ『ADVAN』を発売してハイパフォーマンスタイヤ路線へ舵を切り、1981年5月には創業以来64年続いたB.F.グッドリッチとの資本関係を解消して独立系メーカーとなった一連の経営判断。

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★★★
B.F.グッドリッチが横浜ゴム株式の大半を売却★★
スポーツコンプレックスを設立
総合タイヤテストコースを建設
GTYタイヤカンパニーを3社合弁で設立
モホーク・ラバー・カンパニーを買収
1990〜2015年グッドリッチ資本離脱後の現地生産拡大と国内三位へ後退した長い踊り場平塚製造所内に研究開発センタービルを建設
萩原晴二氏から冨永靖雄氏へ、危機感で継いだコスト削減と構造改革の10年

1993年3月、本山一雄前社長(当時会長)から社長を託された萩原晴二氏が、円高による輸出環境の悪化を背景にコスト削減へ経営の的を絞った。その危機感は1999年4月に社長を継いだ冨永靖雄氏に引き継がれ、期限を730日と区切った構造改革へと発展し、2002年には自社を『負け組』の評判から立て直しつつあると語るまでに至った10年である。

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★★★
コスト削減に経営の的を絞る方針を提示
ヨコハマタイヤフィリピンを設立
ヨコハマラバー(タイランド)を設立
冨永靖雄杭州横浜輪胎を設立
冨永靖雄コンチネンタル社と合弁会社を設立
南雲忠信事業統括会社「横浜橡胶」を設立
南雲忠信リーマンショックで初の純損失に転落★★
南雲忠信国内市販用販社19社を統合しヨコハマタイヤジャパンを設立
野地彦旬ミシシッピにタイヤ製造販売会社を設立
野地彦旬パーカーMHP社(マリンホース)を買収
野地彦旬コンチネンタル社との合弁を解消
野地彦旬オフハイウェイタイヤ(OHT)事業への連続M&Aによる事業構成の転換

2016年3月に発表したATG(Alliance Tire Group)買収を皮切りに、横浜ゴムは2022年合意・2023年完了のトレルボルグ・ホイールシステムズ(TWS)買収、2024年契約・2025年完了のグッドイヤー社OTR事業買収と、オフハイウェイタイヤ(OHT)領域で連続M&Aを重ねた経営判断。中期経営計画『YX2023』『YX2026』はこの手法を『プログラマティックM&A』と呼び、成長戦略の柱に据えた。

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★★★
山石昌孝山石昌孝が代表取締役社長に就任
山石昌孝ハマタイト事業を売却★★
山石昌孝スウェーデンTrelleborg Wheel Systems(Y-TWS)を買収★★
清宮眞二売上収益10,947億円・事業利益1,344億円で過去最高更新
清宮眞二Goodyear社のOTR事業(G-OTR)を買収★★
出典・参考
  • 横浜ゴム 有価証券報告書 第166期(2024年12月期)【沿革】
  • 横浜ゴム 有価証券報告書【沿革】
  • 横浜ゴム 有価証券報告書【主要指標】
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • ダイヤモンド 1954年8月11日号
  • 経済知識 1959年12月号
  • 野田経済 1963年10月号
  • ダイヤモンド 1965年1月25日号

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