ブリヂストンに譲った首位からの巻き返し——新城工場と島崎敬夫社長の経営刷新

日米合弁ゆえの意思決定の遅さで王座を明け渡したゴムの老舗は、どう自立をめざしたか

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時期 1963年10月
意思決定者 島崎敬夫 社長
論点 首位陥落からの再建と自立
概要
1955年前後にブリヂストンへ生産・販売の首位を明け渡した横浜ゴム(当時・横濱護謨製造)が、1963年10月の社名改称を節目に、新城工場の増産投資と島崎敬夫社長による経営刷新で巻き返しをはかった一連の経営判断。人員整理・省力投資・自主技術の確立を柱に、業界2位からの再建をめざした。
背景
大正から昭和初期にかけてゴム業界の主導権を握り市場の約4割を占めた横浜ゴムは、1955年を境にブリヂストンへ生産・販売の首位を奪われた。米国B.F.グッドリッチが35%超を出資する株式公開会社ゆえ、新製品の意思決定に時間がかかり、石橋正二郎社長が全株を握るブリヂストンの機動力に後れをとった。
内容
1963年に社名を横浜ゴムへ改め、1964年に新城工場を建設してタイヤ専門の増産に投じた。1965年ごろ社長に就いた島崎敬夫氏は、就任年に約2,000人の人員整理に踏み切り、採算重視・省力投資・自主技術の確立を進めた。1966年度からは生産性向上・マーケティング強化・技術開発を柱とする「自立五カ年計画」を掲げた。
含意
米国からの技術導入に安住せず自社技術を育てる方針は、資本自由化を前にした自立の宣言でもあった。1968年時点で従業員一人あたりの生産販売量は3年で約2倍に高まり、タイヤ売上比率77%・業界2位を保った。首位奪回には至らないまま、規模を追わず生産性で対抗する路線が形づくられていった。
筆者の見解

首位を追う立場が残したもの

この判断の核心は、失った首位をどう取り戻すかではなく、二番手のまま何で戦うかを定めた点にあったとみることができる。日米合弁ゆえの意思決定の遅さは、資本構造に根ざす制約であり、簡単には解けなかった。島崎社長が選んだのは、規模でブリヂストンに追いつくことよりも、人員を絞り省力投資で生産性を上げ、導入技術から自社技術へ移る体質改善であった。首位争いの土俵から一歩引いて、勝てる領域を見定める判断であったともいえる。

「自立」という言葉には、資本自由化を前にした米国資本からの独り立ちと、量産競争に巻き込まれない経営の両方が重なっていた。生産性は3年で倍増したものの、首位奪回には至らず、横浜ゴムは業界2位の立場を長く歩むことになる。規模を追わず高付加価値で選ばれる道は、後年のADVANによる独自路線へとつながっていく。首位を追う立場に置かれたことが、かえって独自の製品戦略を育てる土壌になったのか——その評価は、この時期に敷かれた自立の路線がどこまで意図されたものだったかにかかっているとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

首位を明け渡した1955年前後

横浜ゴムは、大正初期から昭和初期にかけてゴム業界の主導権を握り、市場のおよそ4割を手中にしてきた老舗であった。1954年の時点でも自動車タイヤの全国生産量の4割強を占め、ブリヂストンと合わせて全国需要の8割を満たす二強の一角にあった。ところが1955年を境に、生産と販売の両面でブリヂストンに抜き去られ、長く保ってきた首位の座を失った。過当競争で市況が出血採算と呼ばれるまで悪化するなか、横浜ゴムの後退が際立った[1]

敗色は、業界の内輪でも語られた。ブリヂストンの幹部のあいだでは、1958年の秋ごろから「もはや横浜ゴムはライバルではない」という言葉が交わされたという。1954年には売上が毎期1割ほど伸び好成績を収めていた会社が、わずか数年で二番手に沈む変化であった。首位陥落は、単なる一時の業績悪化ではなく、両社の競争力の差が表面化した結果であった[2]

日米合弁がもたらした意思決定の遅さ

両社の明暗を分けたのは、資本の構造の違いであった。ブリヂストンの株式は石橋正二郎社長がほぼ全てを握るワンマン会社であったのに対し、横浜ゴムは株式を一般に公開し、しかも米国のグッドリッチが総株数の35.39%を保有していた。株主の意見を尊重せねばならず、新製品を出すにもテスト・プラントに念を入れて慎重を期すため、しばしば市場投入のタイミングが遅れた。日米合弁という成り立ちが、そのまま機動力の差になって現れていた[3]

生産設備の姿にも差が出ていた。ブリヂストンは工場数が少なく、1960年まで久留米工場のみで自動車タイヤを生産しながら、横浜ゴム・東洋ゴム・住友ゴムの全工場の合計を上回る生産高をあげていた。これに対し横浜ゴムは自動車タイヤを4工場に分けて生産しており、規模の集約でも見劣りした。少数の大型工場で量をこなす相手に対し、分散した設備を抱えたまま競う不利が、首位陥落の背景にあった[4]

決断

改称と新城工場、そして島崎社長の経営刷新

横浜ゴムは、後退を立て直すべく手を打ち始めた。1963年10月に社名を横濱護謨製造から横浜ゴムへ改め、翌1964年には新城工場を建設してタイヤ専門の増産投資に踏み切った。同時代の雑誌には「起死回生の長打を狙う」という見出しが並んだ。分散した設備の不利を抱えながらも、増産の一手を打って首位争いに再び挑む構えであった[5]

1965年ごろに社長へ就いた島崎敬夫氏は、それまでの経営を「40数年の歴史の上にあぐらをかいた経営」と省みて刷新に乗り出した。第一に採算を重視して販売力の強化とコストダウンを進め、第二に不採算部門を思い切って削り、就任した年に約2,000人の人員整理を断行した。第三に、労働集約型からの脱却をめざして省力投資を重ねた。米国から導入した技術に安住せず独創性のある自社技術を開発し、資本の自由化に備える——これが「自立」という言葉に込めた方針であった[6]

結果

生産性の倍増と、業界2位の堅持

一連の刷新は、生産性の数字に表れた。1965年6月期と1968年6月期を比べると、従業員数が20%減った一方で売上高は37%増え、従業員一人あたりの生産販売量はおよそ2倍に高まった。島崎社長は、グッドリッチが世界各国に持つ関連会社と比べても、横浜ゴムの生産性はトップクラスに入るまで改善したと語った。規模でブリヂストンに及ばないなかで、体質改善によって稼ぐ力を取り戻す道筋がついた[7]

製品でも巻き返しの芽が出た。自動車の高速化・安全化という時代の要求に応えて乗用車用のラジアルタイヤの生産販売を始めると、当初は月産3,000〜5,000本を見込んだ需要が予想を超え、工場の増設を繰り上げて月産5万本まで引き上げる計画へ広げた。1968年の売上構成はタイヤが74%を占め、ブリヂストンと合わせた市場シェアは73%に達して、業界2位の地歩を保った。首位奪回にはなお届かないものの、下位との差を保ちつつ生産性で対抗する体制が整いつつあった[8]

出典・参考
  • 経済知識 1959年12月号「ライバル物語・横浜ゴム・ブリヂストン」
  • 野田経済 1963年10月号「横浜ゴム・起死回生の長打を狙う」
  • ダイヤモンド 1965年1月25日号「経営分析・ブリヂストンタイヤ」
  • 証券アナリストジャーナル 1968年10月号「横浜ゴムの現状と将来」(島崎敬夫社長講演)
  • 横浜ゴム・50年の歩み(単体業績)