ADVAN発売とB.F.グッドリッチ資本離脱による独自路線の確立

量産競争でブリヂストンに勝てず二期連続赤字に沈んだ横浜ゴムは、どこに活路を見出したか

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時期 1978年12月
意思決定者 横浜ゴム取締役会 当時の代表取締役社長を中心とする経営陣
論点 高性能タイヤ路線への転換と資本的独立
概要
1978年12月期に二期連続の最終赤字へ転落した横浜ゴムが、同じ1978年に乗用車用ラジアルタイヤ「ADVAN」を発売してハイパフォーマンスタイヤ路線へ舵を切り、1981年5月には創業以来64年続いたB.F.グッドリッチとの資本関係を解消して独立系メーカーとなった一連の経営判断。
背景
タイヤ国内首位の座は1960年代を境にブリヂストンが固め、横浜ゴムは価格と量で優る首位に量産競争では勝てない構造に置かれていた。第二次オイルショック前後の需要低迷と原料高が重なり、1978年12月期に二期連続の最終赤字に転落した。
内容
1978年、業界に先駆けて「ハイパフォーマンスタイヤ」という新コンセプトを掲げたラジアルタイヤ「ADVAN」を発売。1980年には準高性能帯の「ASPEC」、普及帯の「G.T.スペシャル」も投入して性能階層別のブランド展開を敷いた。同じ1980年に全日本F2選手権へタイヤ供給を始め、引き受け手がいなかったため自らチーム「TEAM ADVAN」を編成してレースに参戦した。1981年5月にはB.F.グッドリッチが横浜ゴム株式の大半を売却し、合弁関係を解消した。
含意
量産・価格競争を避けて性能で選ばれるブランドを育てる路線への転換であり、外資との資本関係を解消して経営の自由度を取り戻す判断でもあった。1991年には日経ビジネスが「高級タイヤでの優位を生かす独自路線」として単独特集するまでに、路線としての評価を確立した。
筆者の見解

危機のなかで動いた転換の含み

この決断の核心は、二期連続の最終赤字という守勢のなかで、量から質へと経営モデルを組み替える選択をした点にある。首位ブリヂストンと同じ土俵で価格と量を競っても勝ち目が薄いという構造認識は1960年代から指摘されていたが、それを実際の商品と資本構成の転換にまで落とし込んだのは、業績が底を打った1978年から1981年にかけてであった。追い込まれてから動いたのではなく、追い込まれたことを転換の号砲にしたとみることができる。

もっとも、1991年の特集記事が伝えているのは、独自路線の完成形ではなく、なお緊張をはらんだ途上の姿である。ブリヂストンは1年遅れながらも対抗商品「ポテンザ」を投入し、宣伝力でADVANをトップブランドの座から押し戻しにかかっていた。ADVAN発売とグッドリッチからの資本的独立は、横浜ゴムに独自の生存領域を切り拓いた判断であったが、その優位を維持し続けられるかは、この後も横浜ゴム自身の手にゆだねられていたとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

量産競争で越えられなかったブリヂストンとの差

タイヤ国内首位の座は1960年代を境にブリヂストンが固め、横浜ゴムは業界2位という位置取りで以後の半世紀を過ごした。設備・販売力の規模で先行するブリヂストンに対し、価格と量で張り合う土俵では勝ち目が薄いという構造が、1960年代からすでに指摘されていた[1]

意思決定の遅さも重荷になっていた。株式を公開する横浜ゴムは株主の意見を尊重する必要があり、しかも発行済株式の3割超を米グッドリッチに握られていたため、新規事業を起こすにも慎重な手順を踏まざるを得なかった。全株式を握るワンマン経営のブリヂストンとの機動力の差が、業績格差の一因になっていたとみられる[2]

第二次オイルショック前後の需要低迷と二期連続赤字

1973年の第一次石油危機と翌1974年のGNPマイナス成長を経て、日本経済は安定成長期に入った。汎用品の価格競争で首位のブリヂストンに勝てない構造が業績にはっきり現れ始め、量を追う経営モデルの限界が露呈し始めていた[3]

この構造の限界は、数字にも表れた。横浜ゴムの単独当期純利益は1977年12月期に約26億円の赤字、1978年12月期も約19億円の赤字となり、二期連続の最終赤字に転落した。原料高と需要低迷の挟み撃ちを受け、戦後再建以降では例のない経営危機であった[4]

決断

性能で選ばれるブランドへ——ADVAN発売と3ブランド展開

1978年、横浜ゴムは乗用車用ラジアルタイヤ「ADVAN」を発売した。価格と量で対抗しても勝てない相手に、業界に先駆けて「ハイパフォーマンスタイヤ」という新しい商品コンセプトを打ち出し、性能そのものを選ばれる理由にする商品づくりへ方針を変えた判断であった[5]

ADVANは単独の商品では終わらなかった。1980年には準高性能帯の「ASPEC AX-320」、普及帯の「G.T.スペシャル GRAND PRIX」を相次いで投入し、性能階層に応じて複数のブランドを使い分ける体制を敷いた。1982年にも「ASPEC AX-323」「GRAND PRIX GX-501」を追加し、タイヤを単一の量産品ではなく用途別のブランド商品として育てる方向を固めていった[6]

モータースポーツによるブランド育成とグッドリッチ資本離脱

新しいブランドを世に根付かせる手段として、横浜ゴムはモータースポーツを選んだ。1980年、トップフォーミュラである全日本F2選手権にADVANレーシングタイヤの供給を始めたが、後発かつ実績のない横浜ゴムには顧客となるチームがいなかった。そこで自らマシンとドライバーを編成し、「TEAM ADVAN」として参戦する道を選んだ[7]

商品と活動の両輪でブランドを育てる一方、資本構成の見直しも同じ時期に動いた。1981年5月、創業以来のパートナーだったB.F.グッドリッチが横浜ゴム株式の大半を売却し、64年にわたって続いた合弁関係が事実上終わりを迎えた。ADVAN発売から2年半あまりで、性能差別化と資本的独立という二つの路線転換がそろって形になった[8]

結果

「高級タイヤでの優位」という評価の確立

1991年2月、日経ビジネスは横浜ゴムを「高級タイヤでの優位を生かす独自路線へ」と題して単独特集した。89年12月期のタイヤ事業売上高はブリヂストンの4割に満たなかったが、高価格帯であるラジアルタイヤの補修用市場では横浜ゴムが19.7%のシェアを握り、ガリバーと同じ土俵で戦わない路線が数字として実を結んでいた[9]

発売から13年を経たADVANは、モータースポーツで培ったブランド力を武器に補修用市場で高級タイヤの代名詞となり、1990年の話題車であった本田技研工業のNSX向けタイヤを独占供給する成果も上げた。量産競争を避けて性能で選ばれる商品を育てるという1978年の判断が、10年余りをかけて経営戦略として結実したことを示す評価であった[10]

出典・参考