日本セメント 浅野一族が役員退任 財閥解体に伴う創業家の経営からの退場と、社名を変更した新体制への移行
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何をなぜ決めたか
- 概要
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1945年12月から1946年4月にかけて浅野八郎専務・浅野良三取締役・浅野総一郎社長が相次いで役員を退き、1947年5月1日に商号を浅野セメントから日本セメントへ改めた経営判断。GHQの財閥解体と公職追放を受け、初代浅野総一郎氏以来63年続いた創業家との関係を絶ったうえでの改称であった。
- 背景
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敗戦により朝鮮・台湾・満州・北支・南支・スマトラの海外事業所と権益をすべて失った。制限会社の指定には浅野本社ほか浅野財閥関係7社が並び、指定時の浅野財閥系はセメント業で全国シェアの26.5%を占めて第1位にあった。浅野本社と浅野家は浅野セメント株式の23.2%を保有していた。
- 内容
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新社名は社内公募で決め、1947年3月27日付の許可を得て営業期初の5月1日から用いた。英文表示は総司令部の指示により当初 JAPAN CEMENT CO., LTD. とせざるをえず、NIHON へ戻したのは1952年3月である。初代浅野総一郎氏の扇に由来する社章は替えなかった。
- 含意
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1947年9月にGHQへ提出した再建整備の試案は、業界で28%の生産能力を占めることを理由に会社を6つに分ける内容であった。分割を免れたのは5人委員会の4原則で集中排除法の運用が緩んだためで、1949年6月17日に指定は取り消された。整備計画は同年10月11日に認可されている。
いつ何が起きたか 11件
筆者の見解
創業家の名と、会社の存続
浅野八郎専務と浅野良三取締役が席を降りたのは1945年12月で、財閥家族の指定が下る1947年3月より1年以上前であった。GHQの財閥解体の真意が厳しいと察しての先行であり、翌年4月には浅野総一郎社長も辞めて常務取締役の徳根吉郎氏に社長を渡している。63年続いた創業家との関係を自ら断ち、1947年5月には財閥にちなむ商号まで捨てた。守る対象を、家の名ではなく会社の側に置いたのだろう。
ただ、名を捨てたことで会社が守られたとは言い切れない。1947年9月の試案は会社を6つに分けるところまで踏み込んでおり、分割を免れたのは5人委員会の4原則で集中排除法の運用が緩んだためであって、商号とは関わりがない。1946年8月から1949年10月までの決算は9,834万円の損失であった。それでも扇の社章は残り、アサノスレートとアサノコンクリートが名を継いだ。捨てたのは商号であって、由来ではなかったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
業績の推移
同じ問いに直面した会社
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参考文献
- 日本セメント百年史(日本セメント, 1983年)第5章 戦後の混乱と復興
- 日本産業史 第2巻 通史(日経文庫, 日本経済新聞社, 1994年)「財閥解体のアラシ」
- 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史(東洋経済新報社, 1955年)「日本セメント」
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)3編 企業の歴史「日本セメント」