日本セメントセメント生産の大型工場への集約と、小規模工場を関連製品で自立させる第1次体質強化策

閉じるか、別の製品で立たせるか——1970年3月に労働組合へ示した基本構想と、10年後の答え

時期 1970年3月
意思決定者(推定) 武安千春 社長
論点 小規模工場の処遇と非セメント部門の育成
概要
1970年3月、日本セメントは第1次体質強化策の基本構想を労働組合に示した。セメントの運転を原価の低い大型工場へ集約し、原価の高い小規模工場はセメント生産を止めて他部門に転換するか閉鎖するという内容で、実際には西多摩・大阪・門司・八代の4工場にセメント以外の関連製品での自立を求めた。
背景
1965年の不況で業績は急落し、同年5月の体質改善方策は集中生産への移行を筆頭の検討項目に置いた。1970年度のセメント7社平均売価は5,365円と20年で最低に沈み、1969年度の1人当たりクリンカ生産高は業界平均2,866トンに対し2,646トンにとどまっていた。
内容
大阪工場は1970年12月に生産転換計画を組合へ提案され、人工軽量骨材アサノライトの専焼工場へ切り替えられた。余剰人員51名は新設の日本イトン工業大阪工場へ出向し、1973年6月にセメント焼成を止めている。基本構想そのものは1971年4月に労使のほぼ全面的な合意に達した。
含意
非セメント部門の売上高は1963年度の6億円・総売上高比1.9%から、1972年度に120億円・17.8%へ伸びた。一方で門司と八代は自立のめどが立たず、1980年4月に約90年の歴史を閉じている。
筆者の見解

転換と閉鎖を並べて書いた構想

1970年3月の基本構想は、原価の高い非能率的な小型工場について、他部門に転換するか閉鎖するかを並べて書いていた。会社が選んだのは転換で、西多摩・大阪・門司・八代の4工場に自立を求めた。大阪工場はアサノライトの専焼工場となって1973年6月にセメント焼成を止め、香春製鋼所は1974年12月に機械事業部となる。非セメント部門の売上高は1963年度の6億円から1972年度の120億円へ、10年で19倍に伸びた。

ただし、自立を求めた4工場のうち2つは閉鎖に行き着いた。門司と八代は石油ショック後の原燃料高と需要の停滞に耐えられず、約90年の歴史を1980年4月に終えている。転換を選んで得たものは、閉鎖しないという結論ではなく、閉鎖までの10年と、その間に育った製品と人の移り先であったとみることができる。1984年4月期になおセメントが売上の80%を占めた事実は、多角化が本業を置き換えるところまでは進まなかったことを示している。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

40年不況が残した集中生産という検討項目

1965年の不況は日本セメントの業績を急激に落とした。1964年上期から毎期の利益が減り続け、1965年上期はかろうじて3億円の利益を出すにとどまり、下期には大幅な赤字が見込まれた。原因は過当競争に伴う設備投資の行き過ぎと設備過剰にあり、操業率の低下が原価高を招いて、借入金と支払利息の増加が利益を圧迫した。同年5月、会社は原価の大幅低減と販売力の強化を目標とする体質改善方策を打ち出す[1][2]

8項目の重要施策の筆頭には、すでに工場の名が並んでいた。立地条件のよい大工場への能力集中、香春と門司・埼玉と西多摩という近隣工場の一体的運営、そして大阪工場のあり方である。研究開発については、新規事業の開発をさしあたり短期に収益を上げ得る見込みのあるものに限ると定めた。1966年12月に社長へ就いた武安千春氏は、前任の井上英熙前社長が掲げた量から質への企業体質改善を引き継ぎ、実行目標の一つに新製品・副業品の開発促進を置いている[3][4][5]

20年で最低の売価と、業界平均を下回る労働生産性

不況を抜けても売価は戻らなかった。1965年から1968年まで続いた回転窯の新増設休戦が終わると供給力は再び過剰になり、1969年度から1971年度の操業率は75%前後にとどまる。1968年度から1970年度の3年間にセメント販売数量は33%増えたにもかかわらず、売価は下落した。1970年度のセメント7社平均売価は5,365円で、20年間の最低、1963年度価格の89%まで下がっている。数量を追う競争が利益に結びつかない状態であった[6]

労働生産性でも会社は業界の後ろにいた。1969年度の従業員1人当たりの年間クリンカ生産高は、セメント協会調べで全社平均2,866トンに対し2,646トンであった。1970年ころには産業界で成長産業と成熟産業と斜陽産業の明暗が分かれ始め、石炭は第一線から退き、天然繊維は合成繊維に大きく置き換わっている。かつて数量景気を謳われたセメントも伸びの鈍化が懸念され、深刻化する労働力不足が賃金を押し上げていた[7][8]

決断

転換するか、閉鎖するか——両方を並べた基本構想

1970年3月、会社は第1次体質強化策の基本構想を示した。第1項がセメント集中生産方式への移行で、生産能力が大きく原価の低廉な大型工場に運転を集約する。続けて、原価の高い非能率的な小型工場は順次セメント生産を中止し、他部門に転換するかまたは閉鎖すると書かれていた。転換と閉鎖は並記されており、どちらを採るかはこの文面では決まっていない。会社が実際に選んだのは前者であった[9]

構想は7項目に及んだ。設備の近代化による省力化、人手を要して能力の小さいボイラ付ショートキルンの運転縮小、間接部門の要員を定めないこと、主・技・工・特の枠を取り払って全従業員を転勤要員とすること、短期運転窯には配員せず全社をプールした移動運転チームを派遣すること、新規開発事業の要員は部門間の配転か他工場からの転勤で充てること。労働組合との協議は1年余りを要し、1971年4月に本人の意向尊重などの条件を含めてほぼ全面的な合意に達した[10][11]

西多摩・大阪・門司・八代の4工場へ

自立を求められたのは4つの工場であった。原価の高い小規模工場はセメント以外の関連製品で自立するという方針のもと、西多摩、大阪、門司、八代の各工場が新製品と副業品の開発を急ぐ。1971年5月には生産部に開発課が置かれた。先行例は大阪工場にあり、同工場は1966年8月から兵庫県洲本市の内田採掘場で採れる頁岩を使い、人工軽量骨材アサノライトをセメント生産の合間に月産2,000〜4,000立方メートルで作っていた[12][13]

大阪工場の生産転換計画は1970年12月に労働組合へ提案された。セメント生産がコスト面で限界に達しており、軽量骨材の専焼工場へ切り替えて余剰人員を新設の日本イトン工業大阪工場へ出向させる内容である。1971年9月から51名が出向し、1973年6月に焼成を止めた。同じ問題は業界に共通しており、小野田セメントの武田健夫副社長は「セメント業は付加価値の低い事業で」(日本証券アナリスト協会 1972/6/16)と述べ、人手を減らしながら多角化した仕事へ人を回していると説明している[14][15][16][17]

結果

アサノの名を冠した製品と、19倍になった非セメント部門

4工場から製品が出てきた。1970年11月には乾燥収縮を補償する膨張材アサノジプカルを東京と大阪の両支店で売り出し、需要が全国に広がった1972年から全支店の扱いにした。1971年4月には日東紡績と日東紡建材からロックウールの技術を導入し、西多摩工場の粘土採掘場跡地に建てた専用工場でアサノミネラルファイバーの販売を始める。1973年2月に一系列を増設し、業界のトップグループを形成する規模になった[18][19]

香春製鋼所は別の道を進んだ。1938年に香春工場の余剰電力を使う鋼塊製造として始まった部門は、1968年に月産300トンの目標を2年早く達成し、1973年には月産500トンへ届く。オートクレーブやアサノ式電気集じん装置を自社技術で開発し、1974年12月25日に機械事業部の設置を見た。原島保氏が社長に就いたのも同じ日である。1963年度に6億円・総売上高の1.9%だった非セメント部門の売上高は、1972年度に120億円・17.8%へ伸びた[20][21][22][23]

10年後、門司と八代は閉じた

石油ショックが自立の前提を崩した。原燃料の高騰が製造原価を押し上げ、輸送費の上昇でセメント部門の総コストも上がり、関連製品部門の採算は悪化する。1975年4月期の国内販売数量は389万トン(前期比84.0%)、経常利益は5億1,800万円(同13.6%)まで落ちた。1977年4月、会社はセメント原価をトン当たり400円下げるチャレンジ400と、関連製品部門の各事業所が採算的に自立するチャレンジ自立を掲げる。当時の関連製品部門は毎年損失を計上していた[24][25][26]

1年で自立のめどが立たなければ分離か閉鎖を検討する取り決めだったが、会社はもう1年を置き、1978年1月に工場別の基本策を示した。約1年の後、大阪工場と香春製鋼所は自立達成のめどをつけ、西多摩と糸崎も見通しが立つ。門司と八代は大幅な損失を続けた。1979年10月に両工場の閉鎖が提案され、130名近くが他工場や日本イトン工業九州工場へ移り、約40名が退職して1980年4月に決着する。門司は1893年、八代は1890年に建った工場であった[27][28][29][30]

出典・参考

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