ペンタックス再建組織委員会の設置と、人員削減によらない全社コストダウン、カメラ生産の海外移管
人を切らずに原価を落とせるか——2期連続赤字の旭光学工業が選んだ再建の設計
- 概要
- 1992年11月、旭光学工業が松本徹社長を委員長とし常務以上の役員を委員とする再建組織委員会を発足させ、全社的なコストダウンで利益体質を作り直す計画に着手した経営判断。希望退職などの人員削減を計画に含めず、原価低減と生産拠点の海外移管で収益を回復させる設計を採った。
- 背景
- 1993年3月期の連結決算は93億5300万円の最終赤字となり、2期連続の赤字に陥った。米ハネウエル社との特許訴訟和解金約28億円や為替差損約18億円のほか、カメラの生産調整による稼働率低下が響き、営業損益も6億5000万円の赤字であった。
- 内容
- 再建委の下に9つのワーキンググループと7つの実行委員会を置き、月次の数値目標で経費削減を管理した。カメラでは益子・小川の2工場の生産を子会社の東北精機へ集約し、海外生産比率を50%から3年間で70%へ引き上げる。人員は中途採用の抑制と定年退職による自然減にとどめた。
- 含意
- 8ミリビデオカメラからの撤退に伴う110人は配置転換で吸収し、うち40人を黒字の定着した内視鏡部門へ移した。固定費を一気に落とす手を封じたぶん、収益の回復はカメラの販売台数に依存した。証券アナリストは会社側の見通しに懐疑的であった。
削る対象から人を外した設計
希望退職を計画から外し、そのぶんを原価と生産地の付け替えで賄う——旭光学工業の再建は、この順序で組み立てられていた。8ミリビデオから撤退しても110人は配置転換で吸収し、うち40人は黒字の定着していた内視鏡部門へ移した。減らす人数は中途採用の抑制と定年退職による自然減にとどめ、3年で300人という緩やかな線を引いている。固定費を一息に落とす手を自ら封じた以上、収益の回復はカメラの販売台数と海外移管の速さに委ねられた。
実際、会社側が1994年3月期の単独経常損益を16億円の黒字と見込んだのに対し、大和総研と日興リサーチセンターはそろって20億円の赤字を予想した。出荷台数を前期比19%増と置いた前提そのものが疑われていた。カメラ比率を50%以下にするという多角化の目標は永年届かず、参入から5年を経た人工歯根も、利益の出ている会社が1社もないと言われる市場のままであった。人を残す選択は、残った人が働く事業を用意できて初めて完結する。旭光学工業にとって、その事業は内視鏡のほかにまだ育っていなかった。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
「特許関係以外」に置かれた真の問題
1993年3月期、旭光学工業は連結で93億5300万円の最終赤字を計上し、2期連続の赤字となった。この赤字には、米ハネウエル社向け自動焦点カメラの特許訴訟和解金約28億円と、円高による外貨建て債券などの為替差損約18億円が含まれていた。ただ松本徹社長は同年の新春挨拶で、特許関係以外で大きく赤字を出しているところに真の問題があると社内へ訴えた。事業活動のもうけを示す営業損益は6億5000万円の赤字、金融赤字も30億円を超えていた[1]。
業績が急降下した最大の理由は、カメラの生産調整による稼働率の低下にあった。1991年4月に発売したコンパクトカメラ「ズーム60X」は米国販売子会社の強気の読みが外れて在庫を抱え、4年ぶりに投入したオートフォーカス一眼レフ「Zシリーズ」も伸び悩んだ。宇野敬之・常務カメラ事業部長は、ズームコンパクトの利用者が次に本格派カメラへ買い替えるという予測が外れた点を痛手として挙げている。カメラ部門の営業利益は1991年3月期の92億4200万円から1993年3月期には8億5100万円まで落ち込んだ[2]。
20年届かなかったカメラ比率50%
旭光学工業は、多角化によってカメラの売上比率を50%以下へ下げることを永年の目標に掲げていた。それでも1993年時点の比率は60%と業界で最も高い水準にとどまっていた。多角化部門のうち内視鏡などの医用機器事業は黒字が定着した一方、レーザープリンターやCAD/CAMなどの情報・システム機器関連は依然ふらついていた。松本社長は、多角化部門の黒字化が遅れているうちにカメラ部門が赤字へ陥ったことを、不振の根本的な原因とみていた[3]。
多角化した先が事業として立つまでの時間は長かった。同社は1984年に人工歯根市場へ参入し、骨の成分に近いアパタイトを素材に選んで、1987年11月にはチタンの周りへアパタイトを層状に重ねた複合型の製造承認を受けている。だが1989年の時点で人工歯根の市場規模は20数億円程度にとどまり、利益の出ている会社は1社もないとまで業界内で語られていた。日高恒夫・ニューセラミックス部部長も「地道にやっていくしかない」と述べている[4]。
決断
あえて「再建」と名づけた委員会
1992年11月、松本徹社長を委員長とし、常務以上の役員を委員とする再建組織委員会が動き出した。目的は全社的なコストダウンで利益体質を作り上げることにあった。あえて「再建」という名を使ったのは、大幅赤字が利益改善という段階ではなく、より本質的な変革を早急にやらなければならないという緊急の危険信号である点を全社へ周知徹底したい、という松本社長の考えからであった。強い言葉を選んだこの社長は、1978年に父の急死を受けて就任したとき、「社長はまとまりの核になればいい」と語っていた人物でもある[5][6]。
再建委の下には、9つのワーキンググループと7つの実行委員会が置かれた。ワーキンググループは資材購入・運送・一般経費などテーマ別に事業部を横断する組織で、各部から選ばれた部長・課長クラスが月1回集まって経費削減計画を立案する。実動部隊は各事業部の中に作った実行委員会が担い、事業部長が委員長を務めて月1回の経過を再建委へ報告した。過去の計画が事業部単位で厳密な数値目標を欠いていたのに対し、今回は月次ベースの目標を設定して実行に移す形を採った[7]。
人を切らずに原価を落とす
コストダウン効果は初年度だけで40億円以上と森勝雄・取締役経理部長兼社長室長は試算し、その半分以上をカメラ部門で生み出す計画を立てた。国内では茨城県益子町と埼玉県小川町の2工場が担ってきた一眼レフや高級コンパクトカメラを、子会社の東北精機(宮城県)へ集約する。1990年9月に設立したフィリピンの生産子会社は海外向け中高級コンパクトの拠点とし、年産40万台から1994年3月期中に80万台へ倍増させる。香港と台湾の子会社強化と併せ、カメラの海外生産比率は台数ベースで50%から3年間で70%へ引き上げる[8][9]。
赤字部門の見直しも並行した。1992年秋には8ミリビデオカメラからの撤退を決めている。1986年に日立製作所からOEM供給を受けて参入した事業で、鈴木実・専務生産統括本部長は、家電メーカーの赤字覚悟の価格競争に対抗できず黒字転換のめどが立たない点を撤退の理由に挙げた。これに伴い1993年3月以降、110人を配置転換し、うち40人が内視鏡部門へ移っている。それでも希望退職などの人員削減は計画せず、中途採用の抑制と定年退職による自然減で年間100人、3年間で300人を減らし、2300人とする方針を採った[10]。
結果
会社の計算と、アナリストの計算
会社側は再建計画の効果を数字で示した。森取締役は、為替が1ドル110円としても1994年3月期の部門別営業利益はカメラで45億円、医用機器で40億円、その他の機器で5億円を稼ぎ出すと述べている。管理部門の費用を差し引いた連結の営業損益は、前期の6億5000万円の赤字から45億円以上の黒字になる計算であった。最終年度の1996年3月期までに累積損失を一掃し、復配を目指す。メーンバンクの第一勧業銀行の近藤幸英・営業第4部長も、コストダウンの余地は大きいとして全面的に支援すると表明した[11]。
証券アナリストの見方は違った。会社側が単独決算ベースで16億円の経常黒字を見込んだのに対し、大和総研と日興リサーチセンターは20億円の赤字、山一証券経済研究所は収支トントンと予想している。日興リサーチ事業調査部の神谷明美氏は、カメラの見込み出荷台数を前期比19%増の260万台と置いた前提に無理があると指摘した。1993年3月期末の自己資本比率は単独では40%を上回るものの、連結では20%を切っており、体力の余裕は低下していた[12]。
「エスピオ115」と、残った課題
再建計画の初年度には、久々に売れる商品も出た。1993年2月に発売したコンパクトカメラ「エスピオ115」は、コンパクトとして初めて3倍ズームを実現し、6月末までの累計出荷台数が国内約12万台、欧米向けを含めた世界全体で30万台に達した。月産5万台は、大ヒットといわれたキヤノン「オートボーイA」の月産6万台に迫る水準である。森取締役は、コストダウンは予定通りでエスピオ115のヒットは予想以上と述べ、すべて順調であると言い切った。同社には1986年以降の円高不況をコンパクトカメラ「ズーム70」のヒットで切り抜けた経験があった[13]。
一方、事業を絞り込むかどうかでは評価が分かれた。アナリストが利益体質を築くには事業を絞った方がよいと指摘したのに対し、鈴木専務は、将来の有望市場への足がかりとしてどの事業からも撤退は考えていないと語っている。コピー機やファクス、プリンターの競争は激烈で、かつて利益を稼いだ電子回路設計用のCAD/CAMシステム部門も採算が悪化していた。全社的なコストダウンを掲げた計画とはいえ成否を握るのはカメラ部門の回復であり、多角化という本来の課題は残された[14]。
- 日経ビジネス 1993年8月9・16日号「旭光学工業「再建」組織でコスト削減 成否握るカメラの回復」
- 日経ビジネス 1989年11月6日号「人工歯根 “おいしい”市場への期待込め総力戦へ」
- 日経ビジネス 1978年6月19日号「新社長登場 松本徹氏(旭光学工業)」
- 旭光学工業 有価証券報告書【沿革】