半導体不況下の受注整理と生産改革
1991年実施好況下でも利益が伴わない「繁盛貧乏」に、佐藤研一郎氏はどう応えたか
- 概要
- 1992年、半導体不況のさなかにローム(佐藤研一郎社長)が、不採算の部品や小口注文を取引中止も覚悟して整理し、生産性の向上と設備投資の抑制を同時に進めた経営判断。完成品メーカー優位の商慣行に部品メーカーの側から値上げと品種削減を求め、1992年3月期に過去最高益を達成した。
- 背景
- 1990年秋、好況で注文が集まりながら利益が伴わない状態が続き、90年度中間期の営業利益率は約2%に沈んだ。設備投資の償却が進んでも利益が薄いことに佐藤社長は危機感を強め、調査グループを組織して原因の究明に入った。
- 内容
- 佐藤社長は原因究明と並行して常務3人を含む取締役5人を1991年6月の株主総会で更迭し、260人の全営業部員に「不要な注文をぶった切ってこい」と指示した。反対を押し切って赤字受注や小口注文の削減と部品単価の「値戻し」を進め、開発・製造では生産性を50%高めた。
- 含意
- 完成品メーカーの言いなりだった営業体質を見直し、部品メーカーとして適正な利潤を主張したこの改革により、ロームは1992年3月期に前期比12%増の売上高1860億円、72%増の経常利益140億円という過去最高益を見込んだ。半導体各社が不振に沈むなかでの達成だった。
量を追うか、利を採るか
この判断の核心は、財務の危機ではなく、好況のなかで表に出た低収益に、佐藤社長が取引の中止も覚悟して切り込んだ点にある。注文が集まるほど利益が薄くなる「繁盛貧乏」は、完成品メーカーの求めに際限なく応じてきた部品メーカーの構造そのものが生んでいた。役員の更迭で社内に本気を示し、全営業部員に不採算受注の返上を命じ、同時に設備に頼らない生産性向上を課す——攻めと守りを一度に動かしたこの改革は、売上の拡大を追う経営から、一件ごとの採算を問う経営への切り替えだった。
もっとも、この成功は、大手が汎用メモリーの量産競争で消耗する半導体不況という外部の風向きと重なっていた。大手が退いた隙間を突き、納期と小回りで伸びてきたロームゆえに、値上げと品種削減を顧客に受け入れさせる交渉力を持てた面もある。適正な利潤を再投資に回さなければ技術は進まない、という佐藤社長の主張は、その後の高収益体質から、SiCへの集中投資に揺れる近年まで、収益をどう積むかという課題に姿を変えて残る。好況のさなかに採算へ立ち返ったこの決断は、量を追うか利を採るかという部品メーカーの根本を、早い時期に経営の中心へ据えた。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
大手を避けて伸びた中堅半導体メーカー
ロームは京都に本社を置く電子部品メーカーで、1992年当時、大規模集積回路やトランジスタなど半導体と関連部品が売上高の8割以上を占めていた。とりわけビデオやオーディオ向けのカスタムICに強く、日本電気や富士通が競い合う汎用のダイナミックRAMやマイクロプロセッサーはほとんど手掛けない。「大手と真っ向から勝負しても勝ち目はない」(藤原幸和専務)とみて、大手が見過ごすか二の足を踏む分野を狙う。半導体レーザーやサーマルヘッドなど5分野でトップシェアを握り、1991年の半導体売上高では世界20位、日本勢では11位につけた[1]。
この構えは古い。抵抗器メーカーとして出発したロームで、佐藤社長が半導体へ乗り出した理由も、大手を正面から追わないことにあった。社名の「R(抵抗)」と単位「OHM(オーム)」が母体を示すこの会社が1989年に汎用メモリーへ進んだときも、最先端のDRAM競争には加わらず、大手が退いた旧世代のSRAMを扱う「3番手戦略」を選んだ。開発コストの重い先端品ではなく、大手が力を抜いた市場で納期と小回りを武器にする——不況を迎える直前まで、ロームはこのやり方で伸びてきた[2]。
好況下の「繁盛貧乏」
その伸びが好況のさなかに止まった。世の中がまだ好況を謳歌していた1990年秋、ロームも注文に応じきれないほど仕事を抱えながら、それが利益に結びつかない「繁盛貧乏」に陥る。1990年度の中間期は、半期の売上高815億円に対し営業利益が17億円弱と、売上高のわずか2%にとどまった。設備投資の償却が軽くなったのに利益が伴わないのはなぜか——佐藤社長はすぐに調査グループを組織し、原因の究明を始めた[3]。
決断
役員更迭と原因の究明
原因を探る一方で、佐藤社長は経営陣を大幅に入れ替えた。ショック療法の意味を込め、「いばっているだけで、役に立たない役員からクビにした」として、常務3人を含む取締役5人を1991年6月の株主総会で更迭する。組織の頂点から手をつけ、改革が本気であることを社内に印象づけた。全社にはあらゆる無駄を省くよう通達を出し、歩留まりの向上と材料費・人件費の見直しに重点を置いた。ただし改革に要する経費まで削れば元も子もないとして、経費の一律削減は強く求めなかった[4]。
調査グループの報告で、低収益の原因がはっきりした。「セットメーカーの言うがままに、赤字だらけの部品や小口の注文を受けてきた」(正田取締役)ことが利益を圧迫していた。1本1円以下のダイオードを1本だけ届けるために、75本の束から引き抜いて包装し、伝票を起こして配送し、500〜1000円のコストをかける。抵抗器のリード線を顧客の求めに応じて1本ずつ曲げ、長さを変える。部品メーカーだけがしわ寄せを負うこうした商慣行が、利益を薄くしていた[5]。
「不要な注文をぶった切ってこい」
原因が定まると、佐藤社長はセットメーカーと交渉して不採算部品と小口注文を削る方針を固め、260人の全営業部員に「不要な注文をぶった切ってこい」とげきを飛ばした。社内からは「もうけがない上に、売り上げまで減ったらどうするんだ」と反対の声が上がる。まじめな営業部員ほど戸惑い、本当に断っていいのかと社長に詰め寄った。佐藤社長は「購買担当者にきちんと説明した上で、注文を断ってこい。たとえ全部の注文を断られてもいい」「うまくいかなかったら責任を取る」と反対を押し切った。強く出ればセットメーカーも折れる、と見通していた[6][7]。
結果
生産性50%向上と過去最高益
改革は営業だけにとどまらない。開発・製造部門では、正田取締役がクリーンルームに職場のリーダーを集め、「1円も使わずに3カ月で生産性を2倍に上げろ」と迫った。半導体は設備投資さえすれば生産性が上がるという常識を疑うところから始めたという。技術・製造・設備の3部門に分かれていた技術者を横割りの新チームに束ね、処理温度や膜厚を細かく振って最適条件を探る地道な作業を重ね、目標の生産性50%向上を達成した。部品点数は1990年秋の15万点から10万点を下回るまで削り、設備投資も1991年3月期に当初計画の200億円を124億円へ4割減らした[8][9]。
こうした削減と生産性向上の効果で、1992年3月期の営業利益は約100億円と、売上高の5%を超えるまで回復した。部品単価の引き上げについて藤原専務は「一方的に従っていた値下げを少し元に戻しただけの値戻し」と控えめに語ったが、収益改善の弾みになったことは間違いない。半導体各社が不況で軒並み不振に沈むなか、ロームは1992年3月期に売上高1860億円、経常利益140億円という過去最高益を見込んだ。米調査会社の集計では、同社は1991年の半導体売上高で世界20位、日本勢では11位につけ、10位の沖電気工業との差を縮めた[10][11]。
- 日経ビジネス 1992年5月11日号「ローム 取引中止覚悟で受注整理 半導体不況の中、最高益」
- 日経ビジネス 1989年2月27日号「ロームの汎用メモリー進出 大手の残した市場狙う『3番手作戦』」