大手が避けた市場を狙う「3番手戦略」でのSRAM参入
巨額投資が要る汎用メモリーに、中堅のロームはなぜ後発で挑めたのか
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- 概要
- 1989年、半導体業界11位の中堅だったロームが、大手が高集積度品へ投資を移して手を抜いた旧世代のSRAMに絞って汎用メモリーへ参入した経営判断。日立・東芝・日本電気が巨額投資でしのぎを削る先端品を避け、16K・64Kといった旧世代品の「限界供給部分」を丹念に拾う後発の「3番手戦略」をとった。
- 背景
- ロームは抵抗器メーカーとして出発し、大手がICへ移って半導体素子から力を抜いた頃にダイオード・トランジスタへ進み、業界最大手級に育った。汎用メモリーはDRAM・SRAMの量産競争に大手が巨額投資を注ぐ主戦場であり、集積度はほぼ4年ごとに高まって大手の投資はそちらへシフトしていた。
- 内容
- 佐藤研一郎社長は「2番手というより、さらに後から行く3番手戦略」を掲げ、大手が量産に力を入れる256K品ではなく、16K・64Kの旧世代SRAMに絞って参入した。回路図を米国のデザインハウスから購入して開発費を約8割抑え、他製品との混流ラインで償却負担を軽くした。
- 含意
- 先端の量産競争に挑めない中堅が、あえて大手の後を丹念に拾うことで高付加価値領域に地歩を築いた。米子会社エクセルの製品が日米摩擦下で「米国製品」と見なされる利点も生かした。この後発・採算重視の型は、半導体不況のさなかの1992年3月期に過去最高益を生む高収益体質の骨格となった。
大手を避けることの強さと危うさ
この判断の核心は、正面から戦えば勝てない相手を、あえて避けることで戦える場を作った点にある。巨額投資が要る先端メモリーの量産競争に中堅が挑めば消耗は避けられない。ロームは大手が高集積度へ移って手を抜いた旧世代品に狙いを定め、回路図の購入や混流ラインで後発の不利を打ち消した。競争の土俵を選び直すこの発想は、資源の限られた企業がどこで戦うかを問う好例とみることができる。大手が力を抜いた頃合いを見極める眼が、この戦略の生命線であった。
もっとも、大手を避け続ける戦略には危うさも伴う。旧世代品の需要はいつか細り、大手が本気で値を下げれば、限界供給部分の採算はたちまち崩れる。佐藤社長自身が量産への過度な傾斜を戒め、SRAMの生産量を全体の1割以下に抑えようとしたのも、その脆さを見越してのことであった。避けることで得た地歩を、次にどの市場へ移し替えるか——ロームの「3番手戦略」は、大手と同じ土俵に乗らないという規律と、その規律に安住しない機敏さの両方を問い続ける。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
「トラの尻尾は踏まない」後発の型
ロームは抵抗器メーカーとして出発し、大手が力を抜いた領域を丹念に拾いながら事業を広げてきた会社だった。佐藤研一郎社長は「トラ(大手)の尻尾は絶対に踏まない」と語り、大手が新分野へ移って手薄になった頃合いを見て市場へ入る手法をとった。抵抗器から半導体素子へ進んだのも、大手がICへ進出して半導体素子から力を抜いた頃であった。ICに参入した際も、大手が力を入れるテレビ用を避け、オーディオ用を狙った。こうしてダイオードやトランジスタの分野で業界最大手級と呼ばれるまでに育った[1]。
この後発参入の型は、佐藤社長の危機感に根ざしていた。1967年、売上高が50億円にも満たない地場の中堅部品メーカーだった同社で、佐藤社長は「抵抗だけでは食えなくなるときがくる。ICは難しいといっても大手電機メーカーだけの仕事ではないはず。彼らと違うところへ進めば何とかなる」としてICへの進出を決めた。行き詰まる前に手を打ち、それも大手とは一味も二味も違う道を探るという構えは、以後のロームの基本の型となった[2]。
巨額投資が要る汎用メモリーの主戦場
汎用メモリーは、大手が正面から競い合う領域であった。とりわけDRAMの競争に典型的に見られるように、日本電気・東芝・日立製作所といった大手が開発にも生産にも巨額の投資を注いでしのぎを削っていた。メモリーの集積度はほぼ4年ごとに16K・64K・256Kと高まり、大手の投資はそのつど高集積度の新世代へシフトしていった。工場の単位面積あたりの生産額を考えれば、大手は高集積度へ切り換えたいという本音を抱えていた[3]。
大手が高集積度へ移っても、旧世代品の需要は消えなかった。同じメモリーでも、DRAMがコンピュータの記憶装置として多数並べて使われるのに対し、SRAMはファクシミリやコンパクトディスクプレーヤー、ワープロ、ゲーム機器などに1個ずつ使われる用途が多かった。消費電力が少なく電池でも動くため、小型電機製品にも使える。集積度を高めなくとも、旧世代の需要は残る。その残された部分に、ロームは狙いを定めた[4]。
決断
旧世代SRAMに絞る「3番手戦略」
ロームがSRAM市場に持ち込んだのは、大手とはまったく違う発想であった。扱うのは先端品ではなく、16K・64Kといった旧世代・低集積度の品目に絞った。大手が量産に力を入れる256K品は、市場の主流ではあっても、ロームは生産量を全体の1割以下に抑えたい考えであった。佐藤社長はこれを「2番手というより、さらに後から行く3番手戦略」と呼んだ。この着眼は、1986年に買収したEEPROM専業の米エクセル社を通じてメモリー市場を調べるうちに、先端品を量産する大手と同じやり方をとらなくても商売になると気づいたことに始まった[5][6]。
旧世代品に絞ることには、明確な採算の計算があった。16K・64Kの国内需要は月に数百万から1000万個程度で、「そのうち10%もらっても月産10万個になる」と芦田弥五郎常務は算盤をはじいた。16Kが1個300円弱、64Kが400円弱で、年商80億円程度のビジネスになる。大手が力を抜いた限界供給部分をいただくという、身の丈に合った狙いであった。SRAMへの進出を表明した1988年8月は半導体不足の真っ只中で、話をしている最中に注文書を切る顧客もいるほどの反応であった[7]。
開発費8割減と混流ラインの工夫
後発で参入する以上、開発と生産のコストをどう抑えるかが勝負であった。ロームは回路図を米国のデザインハウスから購入した。佐藤社長は「今から自社開発したのでは間に合わない」とし、「白紙の状態から開発するのに比べて80%ぐらいは費用を抑えられている」と語った。さらに、16K・64Kの前工程を担う米子会社エクセルの製品が、日米半導体摩擦のもとで「米国製品」と見なされる点も追い風になった。半導体の輸入拡大を求められていた日本企業に売り込みやすかった[8][9]。
生産面では、後発ゆえの償却負担を混流ラインで吸収した。大手は償却の進んだ設備で生産するのに対し、ロームは新しい生産設備を導入していた。そこで、SRAMを製造プロセスの違うカスタムICなどと同じ一つのラインに流した。佐藤社長は「ラインを3つ作ったら償却は3倍。そんなことをしていたら大手とは勝負にならない」と述べ、「メモリーだけではとても償却できない」(藤原専務)ため他製品との混流に踏み切った。チップの小型化で1枚のウエハーから取れる数を増やす工夫も重ねた[10]。
結果
高付加価値と採算主義の骨格
大手の後を丹念に拾う戦略は、量を追わずに採算を重んじる考えと一体であった。カスタムICについても佐藤社長は「カスタムは設計エンジニアを100人増やしたからといって、100人分売り上げが増えるというものではない。商品寿命も短い」と限界を認めつつ、大手が力を入れる汎用品の競争を避けて高付加価値の領域で地歩を築いた。安定供給とデリバリーの良さを売り物にして、セットメーカーの取引先に食い込む手法をとった[11]。
この後発・採算重視の型は、まもなく数字で実を結んだ。バブル崩壊後の半導体不況のさなか、ロームは1992年3月期に売上高1860億円・経常利益140億円という過去最高益を達成した。大手が高集積度の量産競争で消耗するなかで、旧世代品と高付加価値のカスタムICを組み合わせ、不採算の受注を整理して採算を守る徹底ぶりが、無借金の高収益体質を支えた。大手の真似をしないという佐藤社長の一貫した構えが、独立系半導体メーカーとしての強みとなった[12]。
- 日経ビジネス 1989年2月27日号「ロームの汎用メモリー進出 大手の残した市場狙う『3番手作戦』」
- 日経ビジネス 1989年9月11日号「半導体に挑む修行僧 佐藤研一郎・ローム社長」
- ローム 02-history(半導体不況下での構造改革/日経ビジネス 1992年5月11日号)