三井住友トラストグループ麻布グループ再建案の策定と、1994年度の不良債権2,000億円の償却
小糸製作所株の売却を待つあいだに融資は膨らんだ——三井信託銀行は不動産融資の後始末をいつ決めたか
- 概要
- 1992年2月、三井信託銀行が主導して麻布グループの再建案を取引金融機関に提示し、オーナーの渡辺喜太郎社長を会長に退かせて同行出身者を社長に据えた経営判断。処理は続き、1994年度には麻布建物や第一コーポレーションなどへの不動産関連融資で2,000億円の不良債権償却を実施した。
- 背景
- 三井信託は1960年頃からデベロッパー向けの販売提携業務を始め、1972年3月期には総貸出残高に占める不動産業の割合が電力・鉄鋼・化学を抜いて首位に立っていた。バブル期の不動産関連融資への傾斜は大手信託3行にほぼ共通しており、同行だけが突出していたわけではない。
- 内容
- 再建案の骨子は、1993年末までに2,800億円の保有不動産を売却して借入金を7,600億円から5,100億円へ圧縮すること、元本返済猶予と金利の棚上げ、そして経営陣の交代であった。三井信託の麻布関連債権は関連会社分を含め約3,000億円で、大口融資規制の枠に迫っていた。
- 含意
- 踏み切りが遅れた原因は、渡辺会長が抱える小糸製作所株の1,200億円の売却契約が流れることを恐れた点にあった。麻布建物向け融資は1990年秋の約600億円から1992年1月に2,150億円へ膨れ、同行幹部は「1年半、カネを垂れ流してしまった」と漏らしている。
相場観が処理判断を縛るとき
「1年半、カネを垂れ流してしまった」——三井信託の幹部が漏らした言葉が、この判断の性質をよく言い当てている。1990年秋に約600億円だった麻布建物向けの融資は、1年3か月で2,150億円へ膨れた。遅れの理由は麻布の資産価値が読めなかったからではなく、1,200億円の株式売買契約が流れることを恐れて、社長交代も金利の棚上げも打ち出せなかった点にある。個別の株をめぐる相場観が、メーンバンクとしての処理判断を縛ったとみられる。
ただ、遅れだけを責めるのも公平ではない。1991年9月期の上場有価証券含み益1兆3,316億円は信託で最大であり、ファンド・トラストは1989年末から株を売って組み入れ比率をほぼゼロにしていた。業界内には「土地からの逃げ足は早かった」という評価さえあった。それでも2,000億円の償却は2002年3月期の3,301億円の経常損失へ続き、専業信託が単独では立ちにくくなる遠因になったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
融資先の首位に立った不動産業
三井信託銀行は1960年頃から、デベロッパーに資金とノウハウを提供して販売に協力する販売提携業務を始め、不動産の仲介や鑑定にも実績を残していた。不動産取引が活発になるにつれて貸出も増え、1972年3月期には総貸出残高に占める不動産業の割合が、電力・鉄鋼・化学などの各業種を抜いて首位に立った。基幹産業へ長期資金を流す戦後の役回りから、資金配分が移っていた[1]。
この傾斜は大手信託に共通していた。不動産・建設や金融・保険、リースを合わせた不動産関連融資が総貸出残高に占める割合は、三井信託・三菱信託・住友信託のいずれも1987年3月期の5割前後から1990年3月期には5割台半ばへ上がり、その後低下している。当時の誌面も「土地関連融資の比率も大手信託は似たり寄ったり」と伝えており、三井信託だけが極端に踏み込んでいたわけではなかった[2][3]。
メーンバンクとしての距離の取り方
麻布グループとの取引は、行内で「中島マター」と呼ばれていた。1989年に急逝した中島健社長が1982年に副社長・営業推進本部長へ就いて以来の付き合いであり、後を継いだ経営陣には自分がまいた種ではないという気持ちがあったとみられる。ある都市銀行の頭取は「拡大路線のとがめを中島さんのせいだけにするのはおかしい。中島さんが亡くなってからもう3年。現経営陣はこの間、何をしていたのか」と述べている[4][5]。
支援自体は早く始まっていた。三井信託は1990年中に麻布支援を固め、金融支援に着手している。ただ、カネだけ出して資産のリストラに口を出さなかったことが、後の苦しさを招いた。渡辺喜太郎氏がグループを投げ出すまで、銀行から社長を派遣して前面に立つことは避け、同行トップと渡辺氏とのやりとりも欠いていた。三菱信託銀行がMARUKOの社長と方針が合わないとみて支援を打ち切り、1991年8月の会社更生法申請へ至ったのとは対照的な運びであった[6][7]。
決断
1992年2月の再建案
1992年2月中旬、三井信託銀行が主導して策定した再建案が取引金融機関に提示された。この少し前、渡辺喜太郎氏が同行のトップを訪ね、自力再建が行き詰まったことを告げていた。骨子は、1993年末までに2,800億円の保有不動産を売却して借入金を7,600億円から5,100億円へ圧縮すること、それまでの元本返済猶予と金利の棚上げ、そして渡辺社長が会長へ退き三井信託出身の柴田敏海氏が社長に就くことであった[8][9]。
三井信託の負担は重かった。麻布グループの借入金7,600億円のうち2,550億円が同行の融資残高で、関連会社である室町ビル管理への融資を加えた約3,000億円が麻布関連債権にあたる。銀行には広義の自己資本の30%を上限とする大口融資規制があり、同行の枠は約3,000億円であった。加えて1993年末までに必要な約300億円の追加融資と、関連会社への土地引き取りによる処分協力も約している[10][11]。
決断を鈍らせた小糸製作所株
踏み切りが遅れた最大の原因は小糸製作所株の問題であった。渡辺会長が数年前に買い集めた小糸株は高値で売り抜けられず、米国の投資家ピケンズ氏に譲られた。ピケンズ氏は1989年4月に小糸製作所へ役員派遣を要求するなど揺さぶりをかけ、株は結局渡辺氏の元に戻る。1991年7月、渡辺氏は小糸株を米国の投資会社へ1,200億円で売却する契約が成立したと発表した[12]。
小糸株の処分を全面支援の前提にしていた三井信託は、この発表で安心した。だが期限を過ぎても代金は振り込まれず、1992年1月に契約は白紙へ戻る。同行は「社長を交代したり、金利の棚上げを発表したら、せっかくの株式売買契約が流れる」として静観を崩さなかった。その間に麻布建物向けの融資は1990年秋の約600億円から1991年11月に約1,700億円、1992年1月に2,150億円へ膨れ、幹部は「1年半、カネを垂れ流してしまった」と漏らしている[13][14]。
結果
2,000億円の償却と、10年続いた後始末
1994年度、三井信託銀行は2,000億円の不良債権償却を実施した。麻布建物や第一コーポレーションなどへの不動産関連融資で生じた大口不良債権の処理である。1992年3月期の業務純益は300億円程度と見込まれており、本業のもうけの何年分にも相当する償却であった。麻布の資産売却は1992年4月中旬時点で2,800億円のうち100億円余りにとどまり、再建計画は初年度から遅れていた[15][16]。
相対的に優位な点もあった。1991年9月期の上場有価証券含み益1兆3,316億円は、三菱信託の1兆1,581億円、住友信託の1兆1,417億円を上回って信託で最大であった。機関投資家から資金を預かったファンド・トラストにも負の遺産がなく、1989年末から株を売って1990年3月には株式組み入れ比率をほぼゼロにしていた。業界内には「土地からの逃げ足は早かった」という評価さえあったという[17][18]。
それでも処理は2000年代まで続いた。持株会社の三井トラスト・ホールディングスは2002年3月期に、連結経常収益5,321億円に対して経常損失3,301億円、当期純損失2,779億円を計上している。1994年度の2,000億円は後始末の入口にあたり、専業信託の体力が10年にわたって削られていく道筋がそこから伸びた[19]。
同じ業界で分かれた道
住友信託銀行も1993年4月の金融制度改革法の施行と、バブル崩壊による不良資産の増加に直面したが、処理の切り上げは早かった。1998年3月に社長を退いた新良篤氏の時代を、後任の高橋温氏は「不良債権の処理を行い、わが社を健康体に戻すという両面があった。健康は回復した」と振り返っている。1997年5月の誌面で新良氏が語っていたのは、商品ラインナップと事務コスト、著作権信託の取り扱いであった[20][21]。
体力の差は13年後に形になる。2010年8月の経営統合では、住友信託銀行の普通株式1株に対して中央三井トラスト・ホールディングスの普通株式1.49株が割り当てられ、会計上は逆取得に該当してパーチェス法が適用される見込みとされた。持株会社の看板は中央三井側に残ったが、不動産融資の後始末に長くかかった側と早く畳んだ側の差が、交換比率と会計処理に刻まれた[22]。
- 日経ビジネス 1992年5月11日号「誤算の研究 三井信託銀行 後手後手の『麻布』支援 小糸株問題に翻弄される」
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- 週刊東洋経済 1997年5月24日号「[ザ・トーク]第一勧業銀行・奥田正司会長/住友信託銀行・新良篤社長」
- 週刊東洋経済 1998年3月28日号「[ひと]高橋 温 住友信託銀行社長 片意地を張らず、自然体でビッグバンに臨む」
- 中央三井トラスト・ホールディングス/住友信託銀行 2010年8月24日「中央三井トラスト・グループと住友信託銀行グループの経営統合に関する最終合意等について ~専門性と総合力を併せ持つ『The Trust Bank』の創設に向けて~」
- 三井住友トラストグループ 有価証券報告書(2002年3月期・連結)
- 三井住友トラストグループ 有価証券報告書【沿革】