日本興亜損害保険 の歴史

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創業 1892年
母体 日本火災海上保険+興亜火災海上保険
創業地 大阪
創業
源流は二つある。1892年4月、大阪で資本金50万円の日本火災保険が創立され、1896年3月には浅野総一郎氏・広海仁三郎氏・右近権左衛門氏ら海運業者が資本金300万円の日本海上火災保険を設立した。2社は1944年10月に解散合併し、日本火災海上保険が生まれている。もう一方は戦時統合そのもので、1944年3月、辰馬海上火災・大北火災海上運送・神国海上火災・尼崎海上火災の4社が解散合併して興亜海上火災運送保険となり、1954年4月に興亜火災海上保険へ商号を変更した。日本火災海上は1949年5月に東京証券取引所へ上場し、興亜火災海上は1953年10月に続いている。
決断
首位を狙った3社統合が崩れたあと、残る2社だけで合併した。1998年7月の料率自由化を受け、1999年10月に三井海上火災・日本火災海上・興亜火災海上の3社が経営統合を発表した。実現すれば正味収入保険料で東京海上を上回る規模になるはずだったが、2000年2月に構想は崩れた。2社での合併へ切り替えたのは翌2001年4月で、日本火災海上と興亜火災海上が合併して日本興亜損害保険が発足し、2002年には太陽火災海上保険を加えている。規模という目的が消えたあとも合併を実行したのは、日通系の輸送保険を持つ日本火災と、地銀窓販を持つ興亜火災で地盤が重ならなかったからである。
現況
日本興亜損害保険は、2014年9月に損害保険ジャパンへ吸収されて商号を終えた。2003年11月には、代理店1社の違法な生命保険募集を理由に12日間の業務停止命令を受けている。この種の事案では当時最長の処分だった。連結売上高は2003年3月期の1兆728億円から2010年3月期の9,031億円へ7年で16%減り、2008年6月には筆頭株主の米サウスイースタン・アセット・マネジメントが社長の再任に反対し、経営統合に反対する役員OBの動きと重なって株主総会が紛糾した。2010年4月の損害保険ジャパンとの共同株式移転で上場は終わったが、9,705人の従業員と、日通系の輸送保険・地銀窓販という二つの販売網はそのまま統合先へ引き継がれている。
競合
同じ2001年に生まれた中堅損保が、9年後にそれぞれ別のメガ損保へ入った。日本興亜損害保険は日本火災海上と興亜火災海上という独立系2社の合併で生まれ、ニッセイ同和損害保険は同和火災海上保険が日本生命の損保子会社を吸収して生まれた。前者は2010年4月に損害保険ジャパンと共同持株会社をつくり、後者は同じ月にMS&ADの完全子会社となった。系列を持たない独立系という条件は、1999年の3社統合では相手を選べる自由になり、破談したあとは単独で残る支えにならなかった。破談から8年をかけて選び直した相手が業界2位の損保だったことが、この会社の規模の不足を最後まで示している。
日本興亜損害保険:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1981年3月期2010年3月期

設立ストーリー 二つの源流 ── 大阪の火災保険と、政府が束ねた海上運送保険 (1892年〜)

二つの源流 ── 大阪の火災保険と、政府が束ねた海上運送保険

商人が興した火災保険と、海運業者が興した海上保険

日本興亜損害保険という社名ができたのは2001年だが、この会社の資本は明治期の2社にさかのぼる[1]。一方は火災保険から始まった。1892年4月、大阪の財界有力者が発起人となり、資本金50万円で日本火災保険が創立[2]された。1906年に大阪の日本酒造火災を合併し、そのとき本社を東京へ移した。営業の主力は火災保険に置かれ、そのぶん火災の大量発生には弱い体質を抱えた。もう一方は海運から始まった。1896年3月、浅野総一郎氏・広海仁三郎氏・右近権左衛門氏ら有力な海運業者が計画し、資本金300万円で日本海上火災保険が発足した[3]。海運の側から見れば、自分たちの船と荷を自分たちで請け合う仕組みを持つことに意味があった。

  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
    • [1]有価証券報告書の沿革は、日本火災海上保険の前身を「旧日本火災海上保険株式会社(明治25年設立)」および「日本海上火災保険株式会社(明治29年設立)」と記載している
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本火災海上」
    • [2]旧日本火災は明治25年(1892年)4月、大阪財界有力者を発起人として資本金50万円で創立され、明治39年(1906年)に大阪の日本酒造火災を合併、本社を東京に移した。営業の主力は火災保険であった
    • [3]旧日本海上は1896年3月、浅野総一郎、広海仁三郎、右近権左衞門氏ら有力海運業者が計画し、資本金300万円をもって発足した

日本の損害保険は輸入された知識から始まっている。近代的な保険の考え方が入ってきたのは維新以後で、渋沢栄一氏が損害保険を、福沢諭吉氏が生命保険を、手分けするように広めた[4]。1879年7月、鉄道の払い下げ計画が立ち消えて宙に浮いた華族の出資金を元手に、渋沢氏の勧めで資本金60万円の東京海上保険が創立認可を受けた。火災保険は1887年設立の東京火災保険に安田善次郎氏が経営参画したところから広がった。海上を三菱が、火災を安田が興した[5]。日清戦争をはさむ1893年から1903年までの10年間は企業熱の時代で、明治火災・日本火災・帝国海上をはじめ30社が設立された[6]。乱設の弊害があまりに大きかったため、政府は1900年に保険業法を施行する。競争の激化は業法の制定で自然に淘汰され、日露戦争直後には10社に整理された。日本火災はその10社に残った。

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「保険-輸入知識から出発」
    • [4]明治日本の資本主義なり近代産業の指導者としては渋沢栄一と福沢諭吉の二人があらゆる面でぬきんでた役割を果たしたが、保険業の導入も主としてこの二人の力で成し遂げられた。それも福沢諭吉が生命保険、渋沢栄一が損害保険というように手分けして行なわれた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
    • [5]1878年、鉄道事業を志した大名華族組合が渋沢栄一の勧誘によって保険事業を行うこととなり、三菱の岩崎弥太郎が参加して資本金60万円をもって東京海上を設立した。火災保険は1887年7月民営の有限会社東京火災保険会社が設立され、大火の頻発のため経営困難に陥ったので安田善次郎氏が経営に参画した。つまり海上は三菱、火災は安田財閥が創始者といえる
    • [6]1893年から36年に至る十年間は企業熱の勃興時代で、損害保険会社も明治火災、日本火災、帝国海上をはじめ30社に及んだ。1900年の保険業法制定で乱設による競争の激化は自然に陶汰され、日露戦争直後には十社に整理された

海上保険から出た日本海上火災保険は、欧州大戦の海運好況の波に乗って業績を伸ばした。関東大震災の後は火災保険にも手を広げている。特徴的なのは営業地域で、満州と中国への進出が大きく、この方面の営業量は国内の首位を占めた。解散当時の資本金は1,300万円になっていた[7]。火災を主力に西から出た会社と、海上を主力に海運業者が興した会社。両者が引き受けた危険は重ならない。日本火災の側は関東大震災で火災保険の危うさを[8]知り、日本海上の側は大陸の営業で資本金を4倍に増やした。引受対象の違いが、そのまま2社の体質の差になっている。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本火災海上」
    • [7]欧州大戦を経て海運界好況の波に乗つて業績は大きく伸びた。関東大震災後、火災保険にも手を広げ、満州、中国への進出も大きく、この方面の営業量は国内の首位を占め、資本金も解散当時は1,300万円になつていた
    • [8]営業の主力は火災保険であつたため関東大震災では大損害を受けたが、これを克服した
  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
    • [1]有価証券報告書の沿革は、日本火災海上保険の前身を「旧日本火災海上保険株式会社(明治25年設立)」および「日本海上火災保険株式会社(明治29年設立)」と記載している
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本火災海上」
    • [2]旧日本火災は明治25年(1892年)4月、大阪財界有力者を発起人として資本金50万円で創立され、明治39年(1906年)に大阪の日本酒造火災を合併、本社を東京に移した。営業の主力は火災保険であった
    • [3]旧日本海上は1896年3月、浅野総一郎、広海仁三郎、右近権左衞門氏ら有力海運業者が計画し、資本金300万円をもって発足した
    • [7]欧州大戦を経て海運界好況の波に乗つて業績は大きく伸びた。関東大震災後、火災保険にも手を広げ、満州、中国への進出も大きく、この方面の営業量は国内の首位を占め、資本金も解散当時は1,300万円になつていた
    • [8]営業の主力は火災保険であつたため関東大震災では大損害を受けたが、これを克服した
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「保険-輸入知識から出発」
    • [4]明治日本の資本主義なり近代産業の指導者としては渋沢栄一と福沢諭吉の二人があらゆる面でぬきんでた役割を果たしたが、保険業の導入も主としてこの二人の力で成し遂げられた。それも福沢諭吉が生命保険、渋沢栄一が損害保険というように手分けして行なわれた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
    • [5]1878年、鉄道事業を志した大名華族組合が渋沢栄一の勧誘によって保険事業を行うこととなり、三菱の岩崎弥太郎が参加して資本金60万円をもって東京海上を設立した。火災保険は1887年7月民営の有限会社東京火災保険会社が設立され、大火の頻発のため経営困難に陥ったので安田善次郎氏が経営に参画した。つまり海上は三菱、火災は安田財閥が創始者といえる
    • [6]1893年から36年に至る十年間は企業熱の勃興時代で、損害保険会社も明治火災、日本火災、帝国海上をはじめ30社に及んだ。1900年の保険業法制定で乱設による競争の激化は自然に陶汰され、日露戦争直後には十社に整理された

震災と戦時統合が、50社あった損保を16社にした

1923年の関東大震災は、火災保険を主力とする会社を正面から直撃した。日本火災も大損害を受けている。震災の後は不況が深まって各社が弱体化し、業界では四つの手が同時に打たれた。減資による整理、大会社への合併、大会社を中心とするブロック化[9]、料率協定の強化である。この整理は大正末期から1931年まで続いた。効果は資本の側にはっきり出ている。大正末期に51社あった保険会社の数は昭和6年になっても変わらなかったが、払込資本金は1億44万円から6,990万円へ、5年ほどで3割以上減った[10]。会社の数を減らさずに資本を減らすという処理が、当時の業界の選んだ道だった。震災による損失を保険会社が背負い切れる規模ではなかったという事実が、その後の統合の下地をつくっている。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
    • [9]1923年の関東震災で損保業界は大打撃を受けた。その後の不況深化にともなつて会社は弱体化した。かくて、(一)減資による整理、(二)大会社への合併、(三)大会社を中心とするブロック化、(四)料率協定の強化等が行われた。こういつた整理強化は、大正末期から1931年までつづいた
    • [10]大正末期保険会社数は51社で、その払込資本金は1億44万円であつた。それが1931年には、会社数は変らなかつたが、払込資本金は6,990万円に減少している

太平洋戦争に入ると、業界の再編成は政府主導で一気に進められた。1941年には三井系の大正海上と新日本火災が合併して大正海上となり[11]、1944年には合同が加速する。同じ年に、東京海上・明治火災・三菱海上の3社合併で東京海上火災が、東京火災・帝国海上・第一機罐の3社合併で安田火災海上が、朝日海上・共同火災・神戸海上・横浜火災の4社合併で同和火災海上が、それぞれ生まれた。50社以上あった損害保険会社は、終戦時にはわずか16[12]社になっている。海外との再保険取引ができなくなったため、損保各社の出資で東亜火災海上再保険も設立された。日本火災海上と興亜海上火災運送保険は、この1944年の統合でともに生まれた会社にあたる。ともに戦時統合の産物として出発した会社である。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
    • [11]1941年三井系の大正海上と新日本火災が合併して大正海上となり、日本簡易火災と、常磐簡易火災が合併して日本簡易火災(現富士火災)が生れた。海外との再保険取引ができなくなつたので、損保各社出資で、19年、東亜火災海上再保険会社を設立した
    • [12]19年には、合同は急速に進んだ。すなわち、同年中、東京海上、明治火災、三菱海上三社合併で東京海上火災、東京火災、帝国海上、第一機罐三社合併で安田火災海上、日本火災、帝国火災、日本海上の三社で日本火災海上、朝日海上、共同火災、神戸海上、横浜火災の四社合併で同和火災海上、大阪海上、住友海上の合併で大阪住友海上火災等が新しく生れ、50社以上の会社数は、終戦時にはわずか16社になつた

1944年10月、旧日本火災海上保険と日本海上火災保険が解散合併し[13]、資本金3,900万円で日本火災海上保険が発足した。本店は東京に置かれた。旧日本火災はこれに先立つ同じ1944年、同系の帝国火災海上保険を合併しており、資本金は2,600万円になっていた。帝国火災は1912年設立の会社である。新会社は2社の営業種目である火災・海上・運送・傷害・盗難・航空・自動車・信用の各保険とその再保険をそのまま継承した[14]。名前に『火災』と『海上』の両方が入っているのは、合併の中身をそのまま示している。太平洋戦争中は政府の戦争保険の代行機関も務めた。民間の保険会社が国の戦争リスクを扱う機関として使われた時期から、この会社は出発した。

  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
    • [13]昭和19年10月、旧日本火災海上保険株式会社(明治25年設立、昭和19年に帝国火災海上保険株式会社(明治45年設立)と合併)と日本海上火災保険株式会社(明治29年設立)の2社が解散合併し、日本火災海上保険株式会社(資本金39百万円)を設立、本店を東京に置いた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本火災海上」
    • [14]当社は以上二社の営業種目である火災、海上、運送、傷害、盗難、航空、自動車、信用の各保険およびその再保険を継承して発足した。また太平洋戦争中は、政府の戦争保険の代行機関をも努めた。19年同系の帝国火災を合併、資本金は2,600万円となつた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
    • [9]1923年の関東震災で損保業界は大打撃を受けた。その後の不況深化にともなつて会社は弱体化した。かくて、(一)減資による整理、(二)大会社への合併、(三)大会社を中心とするブロック化、(四)料率協定の強化等が行われた。こういつた整理強化は、大正末期から1931年までつづいた
    • [10]大正末期保険会社数は51社で、その払込資本金は1億44万円であつた。それが1931年には、会社数は変らなかつたが、払込資本金は6,990万円に減少している
    • [11]1941年三井系の大正海上と新日本火災が合併して大正海上となり、日本簡易火災と、常磐簡易火災が合併して日本簡易火災(現富士火災)が生れた。海外との再保険取引ができなくなつたので、損保各社出資で、19年、東亜火災海上再保険会社を設立した
    • [12]19年には、合同は急速に進んだ。すなわち、同年中、東京海上、明治火災、三菱海上三社合併で東京海上火災、東京火災、帝国海上、第一機罐三社合併で安田火災海上、日本火災、帝国火災、日本海上の三社で日本火災海上、朝日海上、共同火災、神戸海上、横浜火災の四社合併で同和火災海上、大阪海上、住友海上の合併で大阪住友海上火災等が新しく生れ、50社以上の会社数は、終戦時にはわずか16社になつた
  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
    • [13]昭和19年10月、旧日本火災海上保険株式会社(明治25年設立、昭和19年に帝国火災海上保険株式会社(明治45年設立)と合併)と日本海上火災保険株式会社(明治29年設立)の2社が解散合併し、日本火災海上保険株式会社(資本金39百万円)を設立、本店を東京に置いた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本火災海上」
    • [14]当社は以上二社の営業種目である火災、海上、運送、傷害、盗難、航空、自動車、信用の各保険およびその再保険を継承して発足した。また太平洋戦争中は、政府の戦争保険の代行機関をも努めた。19年同系の帝国火災を合併、資本金は2,600万円となつた

政府が関西の4社を束ねてつくった興亜海上火災運送保険

もう一つの合併は、その7か月前に大阪で起きている。1944年3月、政府の推進により4社が解散合併し、資本金[15]1,500万円の興亜海上火災運送保険が発足した。合併したのは辰馬海上火災(1919年設立・資本金200万円)、大北火災海上運送(1920年設立・400万円)、神国海上火災(1921年設立・300万円)、尼崎海上火災(1918年に中外海上保険として設立、1931年に商号変更・200万円)の4社である。いずれも大正期に関西で設立された会社で、単独では小さかった。会長には山縣勝見氏、社長には中野金次郎氏が就いている[16]。本社は当初、大阪に置かれた。社名に『海上』と『運送』が並ぶとおり、この会社が引き受けた危険の中心は船と荷物にあった。

  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
    • [15]昭和19年3月、辰馬海上火災保険株式会社(大正8年設立)・大北火災海上運送保険株式会社(大正9年設立)・神国海上火災保険株式会社(大正10年設立)・尼崎海上火災保険株式会社(大正7年中外海上保険株式会社として設立、昭和6年商号変更)の4社が解散合併し、興亜海上火災運送保険株式会社(資本金15百万円)を設立、本店を大阪に置いた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「興亜火災海上」
    • [16]1944年3月政府の推進により、既設の大北火災海上運送(1920年設立資本金400万円)、辰馬海上火災(1919年設立、資本金200万円)、尼崎海上火災(1918年設立、資本金200万円)、神国海上火災(1921年設立、資本金300万円)の四保険会社が合併し、資本金1,500万円の興亜海上火災運送保険として設立され、会長に山縣勝見氏が、社長に中野金次郎氏がそれぞれ就任して発足した

同じ1944年に生まれた2社だが、出自は対照的である。日本火災海上が明治期からの老舗2社を統合したものだったのに対し、興亜は大正期に関西で設立された中小4社を政府が束ねたものだった。合併時の資本金は日本火災海上が3,900万円、興亜が1,500万円。設立当初の年間収入保険料は4,800万円にすぎない。支店の数も合併当時は12にとどまった[17]。10年後の1954年度には収入保険料が34億3,000万円まで増え、支店は12都市に置かれ、出張所76と駐在所24を持つまでになるが、それでも同じ年度に69億3,000万円を集めた日本火災海上の半分の規模である[18]。57年後に両社が一つになるとき、この規模の差と地盤の違いはまだ残っていた。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「興亜火災海上」
    • [17]収入保険料は合併当初の19年においては4,800万円であつたが、逐年累増して29年度には34億3,000万円、純正味収入保険料は22億2,000万円に達した。支店数は合併当時十二であつたが、現在では大阪に支社を置き、十二都市に支店を、その他全国主要都市に七十六の出張所と二十四の駐在所を有している
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本火災海上」
    • [18]日本火災海上の29年度保険料収入は69億3,000万円、純正味収入保険料41億6,600万円
  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
    • [15]昭和19年3月、辰馬海上火災保険株式会社(大正8年設立)・大北火災海上運送保険株式会社(大正9年設立)・神国海上火災保険株式会社(大正10年設立)・尼崎海上火災保険株式会社(大正7年中外海上保険株式会社として設立、昭和6年商号変更)の4社が解散合併し、興亜海上火災運送保険株式会社(資本金15百万円)を設立、本店を大阪に置いた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「興亜火災海上」
    • [16]1944年3月政府の推進により、既設の大北火災海上運送(1920年設立資本金400万円)、辰馬海上火災(1919年設立、資本金200万円)、尼崎海上火災(1918年設立、資本金200万円)、神国海上火災(1921年設立、資本金300万円)の四保険会社が合併し、資本金1,500万円の興亜海上火災運送保険として設立され、会長に山縣勝見氏が、社長に中野金次郎氏がそれぞれ就任して発足した
    • [17]収入保険料は合併当初の19年においては4,800万円であつたが、逐年累増して29年度には34億3,000万円、純正味収入保険料は22億2,000万円に達した。支店数は合併当時十二であつたが、現在では大阪に支社を置き、十二都市に支店を、その他全国主要都市に七十六の出張所と二十四の駐在所を有している
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本火災海上」
    • [18]日本火災海上の29年度保険料収入は69億3,000万円、純正味収入保険料41億6,600万円

並び立った50年 ── 独立系の中堅損保という位置

戦後の再建を経て、得意分野の違いがそのまま残った

終戦後の損害保険は、被保険物件の激減と危険度の悪化で各社とも赤字経営に苦しんだ。戦時補償の打切りと在外資産の切捨てで資産面の減価も著しい。終戦時に7億円あった損保会社の資産は[19]1948年1月に5億3,600万円まで減り、そのうち新勘定資産は3億2,000万円にすぎなかった。軌道に乗り始めるのは1949年から1950年ごろで、戦争中とだえた海外との再保険取引もこの時期に再開された。会社の新設も行われ、第一・太陽・東洋・朝日の4社が設立[20]された。ただし既設会社はいずれも古い歴史を持ち基礎が固かったため、新設各社は経営に苦しみ、それぞれ有力な後ろ盾を持つに至った。1951年2月に設立された太陽火災も、大正海上を後ろ盾とした。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
    • [19]終戦時、損保会社の資産は7億円であつたが二十三年一月5億3,600万円となり、このうち3億2,000万円が新勘定資産にすぎなくなつた。しかし、二十四、五年ごろからようやく軌道に乗り、戦争中とだえた海外との再保険取引も再開された
    • [20]また会社の新設も行われ、第一、太陽、東洋、朝日の四社が設立された。既設会社は、戦争の打撃を被つたとはいえ、いずれも古い歴史を持ち、基礎がしつかりしている。そのため新設各社は、経営困難を窮めた。そこで第一火災は住友、太陽火災は大正、朝日火災は大和銀行、野村証券、東洋火災は安田と、それぞれ有力なバックを持つに至つた

日本火災海上の戦後は、大火との闘いから始まっている。1947年の飯田市大火をはじめ各地の大火が続き[21]、海外の取引先も失って大きな困難に遭った。1950年の保険業法改正で欧米の損保事業取引の代理・媒介業務の認可を受け、1952年以降は保証・風水害・ガラスの各保険を手がけた。1950年からは社長と常務が海外の取引先を歴訪し、再保険取引を戦前の水準へ戻した。朝鮮動乱が終わった後は収入保険料の増勢が鈍ったものの、主力の火災保険は再三の料率引下げにもかかわらず毎年増収増益を続けている。新種保険は自動車保険を主体とした十数種にのぼり、機械保険の企画も進めた。1954年度の保険料収入は69億3,000万円、純正味収入保険料は41億6,600万円。同年4月に資本金は9億円になった[22]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本火災海上」
    • [21]戦後経済界の混乱、22年の飯田市はじめ各地の大火、海外取引先の喪失等により、大きな困難に遭つたが、その後経済界の安定に伴ない収益は増加し27年以降は保証、風水害、ガラスの各保険を手がけ、一方25年保険業法の改正に伴ない欧米の損保事業取引の代理および媒介業務の認可を受けた
    • [22]朝鮮動乱終熄後は収入保険料の増勢は鈍つたが、主力の火災保険は再三の料率引下げにもかかわらず毎年順調な増収益をあげ、29年度保険料収入は69億3,000万円、純正味収入保険料41億6,600万円に達した。この間資本金も数次の増額を経て二十九年四月には9億円となつた

興亜火災海上の戦後は、日本通運との提携で決まった。旧大北火災と密接な関係にある日本通運と全面的な事業提携を行い、全国に散在する日通の支店約350と営業所約4,000をそれぞれ代理店として、その保険契約を一手に取り扱った[23]。運送保険は戦後の輸送状況の悪化で急激な需要を生み、取扱高は1948年以来つねに業界の首位を占めている。海上保険は旧辰馬海上と特殊な関係にある新日本汽船を基盤とした。保証保険を日本で最初に扱ったのも同社である。本社は1948年9月に大阪から東京の神田駿河台へ移り、1952年10月には地下1階地上8階のビルを日本橋室町に建てて移転した[24]。火災保険は当初立ち遅れており、1954年4月に興亜火災海上保険へ商号を改めるとともに、この部門の充実に努めた。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「興亜火災海上」
    • [23]当社営業の特色は、旧大北火災と密接な関係にある日本通運と全面的な事業提携を行い、その全国に散在する各支店(約三百五十)、各営業所(約四千)をそれぞれ当社代理店として、その保険契約を一手に取り扱つていることである。特に運送保険は戦後の輸送状況の悪化により急激な需要をみるに至り、当社の運送保険取扱高は、23年以来、常に業界の首位を占めている
    • [24]設立当初は本社を大阪に置いたが、二十三年九月東京都神田駿河台に移し、さらに二十七年十月現在の日本橋室町に地下一階地上八階のビルを建築し、ここに移転した。ただ火災保険は当初立ち遅れの感があつたが、二十九年四月現社名に改めるとともにこの部門の充実に努めている。特に保証保険の取扱はわが国では当社が最初である
  • 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
    • [19]終戦時、損保会社の資産は7億円であつたが二十三年一月5億3,600万円となり、このうち3億2,000万円が新勘定資産にすぎなくなつた。しかし、二十四、五年ごろからようやく軌道に乗り、戦争中とだえた海外との再保険取引も再開された
    • [20]また会社の新設も行われ、第一、太陽、東洋、朝日の四社が設立された。既設会社は、戦争の打撃を被つたとはいえ、いずれも古い歴史を持ち、基礎がしつかりしている。そのため新設各社は、経営困難を窮めた。そこで第一火災は住友、太陽火災は大正、朝日火災は大和銀行、野村証券、東洋火災は安田と、それぞれ有力なバックを持つに至つた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本火災海上」
    • [21]戦後経済界の混乱、22年の飯田市はじめ各地の大火、海外取引先の喪失等により、大きな困難に遭つたが、その後経済界の安定に伴ない収益は増加し27年以降は保証、風水害、ガラスの各保険を手がけ、一方25年保険業法の改正に伴ない欧米の損保事業取引の代理および媒介業務の認可を受けた
    • [22]朝鮮動乱終熄後は収入保険料の増勢は鈍つたが、主力の火災保険は再三の料率引下げにもかかわらず毎年順調な増収益をあげ、29年度保険料収入は69億3,000万円、純正味収入保険料41億6,600万円に達した。この間資本金も数次の増額を経て二十九年四月には9億円となつた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「興亜火災海上」
    • [23]当社営業の特色は、旧大北火災と密接な関係にある日本通運と全面的な事業提携を行い、その全国に散在する各支店(約三百五十)、各営業所(約四千)をそれぞれ当社代理店として、その保険契約を一手に取り扱つていることである。特に運送保険は戦後の輸送状況の悪化により急激な需要をみるに至り、当社の運送保険取扱高は、23年以来、常に業界の首位を占めている
    • [24]設立当初は本社を大阪に置いたが、二十三年九月東京都神田駿河台に移し、さらに二十七年十月現在の日本橋室町に地下一階地上八階のビルを建築し、ここに移転した。ただ火災保険は当初立ち遅れの感があつたが、二十九年四月現社名に改めるとともにこの部門の充実に努めている。特に保証保険の取扱はわが国では当社が最初である

別々に果たした上場と、控えめだった海外への出方

2社は別々の会社として株式市場に出ている。日本火災海上は1949年5月に東京証券取引所、1952年9月に大阪証券取引所、1955年2月に名古屋証券取引所へ上場[25]した。興亜はまだ興亜海上火災運送保険だった1953年10月に東京証券取引所、商号変更後の1961年10月に大阪証券取引所へ上場した。日本火災海上が3市場に出るまでに6年、興亜が2市場に出るまでに8年かかった。この間の1951年3月には、日本火災海上が本店建物を所有していた日本ビルディングを合併した。同じ1944年に生まれ、同じ業界で戦後を再建し、それでも一方は火災と海上、もう一方は運送と保証という別の商品で伸びた2社が、それぞれの看板で市場に出た時期にあたる。

  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
    • [25]昭和24年5月 日本火災海上保険株式会社、東京証券取引所に上場/昭和27年9月 大阪証券取引所に上場/昭和30年2月 名古屋証券取引所に上場/昭和28年10月 興亜海上火災運送保険株式会社、東京証券取引所に上場/昭和36年10月 興亜火災海上保険株式会社、大阪証券取引所に上場/昭和26年3月 日本火災海上保険株式会社、日本ビルディング株式会社を合併

海外への出方は控えめだった。日本火災海上が1974年7月にロンドンへThe Nippon Fire and Marine Insurance Company (U.K.) Limitedを置き[26]、興亜火災海上が1977年10月に同じロンドンへKoa Insurance Company (U.K.) Limitedを、1991年2月に香港へKoa Insurance Company (Asia) Limitedを置いた。20年近い期間で拠点は3つ、しかも2社が別々にロンドンへ出る重複を含む。日本火災海上のロンドン子会社は1989年1月にNippon Insurance Company of Europe Limitedへ商号を変えている。興亜側の2社が社名を書き換えたのは合併の前後で、香港が2001年4月、ロンドンが2002年1月にNIPPONKOAの名を冠した。海外事業が収益の柱に育つことはなく、統合までこの規模のまま推移している。

  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
    • [26]昭和49年7月 日本火災海上保険株式会社、英国ロンドンにThe Nippon Fire and Marine Insurance Company(U.K.) Limited を設立(1989年1月、Nippon Insurance Company of Europe Limitedに商号変更)/昭和52年10月 興亜火災海上保険株式会社、英国ロンドンにKoa Insurance Company (U.K.) Limitedを設立(平成14年1月、NIPPONKOA Insurance Company (Europe) Limitedに商号変更)/平成3年2月 香港にKoa Insurance Company (Asia) Limitedを設立(平成13年4月、NIPPONKOA Insurance Company (Asia) Limitedに商号変更)
  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
    • [25]昭和24年5月 日本火災海上保険株式会社、東京証券取引所に上場/昭和27年9月 大阪証券取引所に上場/昭和30年2月 名古屋証券取引所に上場/昭和28年10月 興亜海上火災運送保険株式会社、東京証券取引所に上場/昭和36年10月 興亜火災海上保険株式会社、大阪証券取引所に上場/昭和26年3月 日本火災海上保険株式会社、日本ビルディング株式会社を合併
    • [26]昭和49年7月 日本火災海上保険株式会社、英国ロンドンにThe Nippon Fire and Marine Insurance Company(U.K.) Limited を設立(1989年1月、Nippon Insurance Company of Europe Limitedに商号変更)/昭和52年10月 興亜火災海上保険株式会社、英国ロンドンにKoa Insurance Company (U.K.) Limitedを設立(平成14年1月、NIPPONKOA Insurance Company (Europe) Limitedに商号変更)/平成3年2月 香港にKoa Insurance Company (Asia) Limitedを設立(平成13年4月、NIPPONKOA Insurance Company (Asia) Limitedに商号変更)

自由化の前夜に、この業界の何が痩せ始めていたか

1980年代後半から1990年代にかけての損害保険は、商品の多様化が続いた期間である。積立保険の開発が相次ぎ、高齢化に見合う医療・介護・年金の分野で商品が作られ、各種の賠償責任保険も売り出された。しかし総資産の伸びは平成に入って鈍っている。理由は一つではない。主力商品である自動車保険の損害率が高まり、バブル期に集めた積立保険が満期[27]を迎えた。安定的であるはずの損保会社も経営の転機を迎えたと当時の産業史は書いている。商品の数を増やしても、主力である自動車保険の採算悪化は埋まらなかった。

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [27]60年代から平成の損害保険は、保険商品の多様化が続いた。積立保険の開発ラッシュが続いたほか、高齢化社会に見合って医療、介護、年金分野で商品が開発された。また各種の賠償責任保険が売り出された。しかし、総資産の伸びは60年代に比べて、平成時代に入って鈍ってきた。主力商品である自動車保険の損害率が高まったほか、バブル期に集めた積立保険が満期を迎えるなど安定的であるはずの損保会社も経営の転機を迎えている

外からの圧力も加わった。日米包括経済協議のなかで保険は優先3分野の一つになり、米側は保険審議会が打ち出した傷害・疾病・介護のいわゆる第三分野への本体参入に待ったをかけるよう求めた[28]。米系保険会社の得意分野に日本の生保と損保が乗り出せば市場を奪われかねない、という警戒からである。これに対しては自由化・規制緩和の流れに逆行するという反発も国内で起こった。保険業が国際競争にさらされ始めたのも、この時期である。この順序の逆転は、10年あまり後に業界全体の不払い問題として表に出る。

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [28]国際摩擦も大きな問題になった。日米経済関係をきしませた日米包括経済協議のなかで保険分野は優先三分野の一つになった。米側は、保険審議会が打ち出した傷害、疾病、介護といったいわゆる第三分野への本体による参入に、待ったをかけてほしいと求めた。米系保険会社の得意分野に、日本の生保、損保が乗り出すと市場を奪われかねないと警戒したためだ。しかし、これには自由化、規制緩和の流れに逆行するものとして反発も起こった

この時期の両社の経営者は、経済誌にたびたび登場している。日経ビジネスは日本火災海上保険の新社長として、1990年1月に佐野喜秋氏を、1993年7月に広瀬清氏を紹介している。広瀬氏の見出しは『人の思惑気にせず“自己責任”説く』[引用元]だった。1993年2月には同社相談役の品川正治氏による論説『経済の総動員体制を改めよ』[引用元]を有訓無訓欄に載せている。興亜火災海上からは1998年9月に岡本睦治氏が新社長として、『細やかな心配りで、開かれた経営目指す』[引用元]の見出しで登場した[29]。岡本氏は3年後、合併新会社の会長に就く。中堅の損保が経済誌に取り上げられる頻度は大手より低く、記事の多くは社長交代時の紹介にとどまった。合併に至るまでの両社は、報道の量からいえば業界の主役ではなかった。

  • 日経ビジネス 1990年1月29日号 新社長 ほか同誌3本(1993年2月22日号・1993年7月5日号・1998年9月7日号)
    • [29]日経ビジネス 1990年1月29日号 No.547 p154「佐野喜秋氏[日本火災海上保険]登場」/1993年7月5日号 No.697 p88「広瀬清氏[日本火災海上保険]登場 人の思惑気にせず“自己責任”説く」/1993年2月22日号 No.678 p5「品川正治[日本火災海上保険相談役]経済の総動員体制を改めよ」/1998年9月7日号 No.956 p84「岡本睦治氏[興亜火災海上保険]登場 細やかな心配りで、開かれた経営目指す」
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [27]60年代から平成の損害保険は、保険商品の多様化が続いた。積立保険の開発ラッシュが続いたほか、高齢化社会に見合って医療、介護、年金分野で商品が開発された。また各種の賠償責任保険が売り出された。しかし、総資産の伸びは60年代に比べて、平成時代に入って鈍ってきた。主力商品である自動車保険の損害率が高まったほか、バブル期に集めた積立保険が満期を迎えるなど安定的であるはずの損保会社も経営の転機を迎えている
    • [28]国際摩擦も大きな問題になった。日米経済関係をきしませた日米包括経済協議のなかで保険分野は優先三分野の一つになった。米側は、保険審議会が打ち出した傷害、疾病、介護といったいわゆる第三分野への本体による参入に、待ったをかけてほしいと求めた。米系保険会社の得意分野に、日本の生保、損保が乗り出すと市場を奪われかねないと警戒したためだ。しかし、これには自由化、規制緩和の流れに逆行するものとして反発も起こった
  • 日経ビジネス 1990年1月29日号 新社長 ほか同誌3本(1993年2月22日号・1993年7月5日号・1998年9月7日号)
    • [29]日経ビジネス 1990年1月29日号 No.547 p154「佐野喜秋氏[日本火災海上保険]登場」/1993年7月5日号 No.697 p88「広瀬清氏[日本火災海上保険]登場 人の思惑気にせず“自己責任”説く」/1993年2月22日号 No.678 p5「品川正治[日本火災海上保険相談役]経済の総動員体制を改めよ」/1998年9月7日号 No.956 p84「岡本睦治氏[興亜火災海上保険]登場 細やかな心配りで、開かれた経営目指す」

三社統合の破談から、日本興亜損害保険の成立へ

業務停止命令、物言う株主、そして統合で幕

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日本興亜損害保険の沿革1892〜2010年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1892〜1944年二つの源流 ── 大阪の火災保険と、政府が束ねた海上運送保険日本火災保険(のちの旧日本火災海上保険)が大阪で創立
浅野総一郎・広海仁三郎・右近権左衛門ら海運業者が日本海上火災保険を設立
関東大震災。火災保険を主力としていた旧日本火災が大損害を受ける★★
辰馬海上火災・大北火災海上運送・神国海上火災・尼崎海上火災の4社が解散合併★★
興亜海上火災運送保険が発足
日本火災海上保険と日本海上火災保険が解散合併★★
日本火災海上保険が発足
1945〜1995年並び立った50年 ── 独立系の中堅損保という位置日本火災海上保険が東京証券取引所に上場
太陽火災海上保険が設立(2002年に日本興亜損害保険が合併)
日本火災海上保険が大阪証券取引所に上場
興亜海上火災運送保険が東京証券取引所に上場
興亜海上火災運送保険が興亜火災海上保険に商号変更
火災保険部門の拡充に着手
興亜火災海上保険が大阪証券取引所に上場
日本火災海上保険が英国ロンドンに子会社を設立
興亜火災海上保険が英国ロンドンにKoa Insurance Company (U.K.) Limitedを設立
興亜火災海上保険が香港にKoa Insurance Company (Asia) Limitedを設立
1996〜2002年三社統合の破談から、日本興亜損害保険の成立へ日本火災海上保険が日本火災パートナー生命保険を設立
興亜火災海上保険が興亜火災まごころ生命保険を設立
損害保険の料率が自由化
三井海上火災・日本火災海上・興亜火災海上の3社が経営統合を発表★★
3社統合構想が崩壊★★
三社統合構想の破談と、日本火災海上保険・興亜火災海上保険2社での合併

1999年10月に三井海上火災・日本火災海上・興亜火災海上の3社が発表した経営統合が、2000年2月の三井海上の離脱で崩れ、残る2社が2001年4月1日に合併して日本興亜損害保険を発足させた判断。首位の東京海上火災を上回る規模という当初の目的が消えた後も、2社は合併そのものを取り下げなかった。

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★★★
2003〜2010年業務停止命令、物言う株主、そして統合で幕代理店の違法な生保募集による12日間の業務停止命令と、代理店名の非公表

2003年11月6日、金融庁は日本興亜損害保険と子会社の日本興亜生命保険、ピーシーエー生命の3社に行政処分を科した。中古車販売代理店による生命保険商品の虚偽説明や無登録募集が理由で、日本興亜の2社にはこの種の事案では過去最長となる12日間の生保募集業務停止命令が下った。

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★★★
筆頭株主による社長再任反対と、経営統合をめぐるOB株主の反対

2008年6月、日本興亜損害保険の筆頭株主である米投資ファンド、サウスイースタン・アセット・マネジメント(持ち株比率約17%)が、兵頭誠社長の再任に反対票を投じると表明した。大手金融機関の筆頭株主が社長再任に反対した例は、それまでになかった。2009年3月に損害保険ジャパンとの経営統合が決まると反対はさらに広がり、6月の株主総会は前社長・松澤建氏との応酬で大荒れとなった。

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★★★
業界3位の損害保険ジャパンとの経営統合を決定★★
損保ジャパンと日本興亜損保の経営統合とNKSJホールディングス設立

2009年3月、業界3位の損保ジャパンと同5位の日本興亜損害保険が、2010年4月に共同持株会社を設立する経営統合を発表し、2010年4月に共同株式移転でNKSJホールディングスを設立した経営判断。共同CEO制を敷く『対等の統合』であり、同日発足のMS&AD、既存の東京海上ホールディングスと合わせ、国内損保は3メガ体制へ移行した。

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★★★
出典・参考
  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本火災海上」
  • 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
  • 会社銀行八十年史(1955年)「興亜火災海上」
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「保険-輸入知識から出発」
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
  • 日経ビジネス 1990年1月29日号 新社長 ほか同誌3本(1993年2月22日号・1993年7月5日号・1998年9月7日号)

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