1911年〜 大衆の火災保険と、対等合併で生まれた会社
- 1911年日清火災海上保険を大阪に設立
- 1913年門野幾之進氏ら三田系の実業家が千代田火災保険を東京に設立
- 1918年東京動産火災保険を設立
- 1920年姉妹会社として東神火災保険を設立
- 1927年大倉組が日清火災海上を買収し、大倉火災海上保険に改称
- 1944年東京動産火災保険が東神火災保険を吸収合併
- 1945年大倉火災海上と千代田火災が対等合併し、大倉千代田火災海上を設立
あいおい損害保険の業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
火災保険を大衆に売るという業態から出発する
日本の損害保険は、輸入された知識から始まっている。福沢諭吉氏が生命保険を、渋沢栄一氏が損害保険をそれぞれ担うという分業で制度が持ち込まれ、福沢氏は『西洋旅案内』の付録「災害請合の事」で保険を生涯請合・火災請合・海上請合の三種に分けて説明した。渋沢氏の提唱で東京海上保険会社が創立認可を受けたのが1879年7月、火災保険では1887年7月に東京火災保険会社が設立されている。日清戦争前後には泡沫会社が乱立し、政府は1900年に保険業法を施行して業界の近代化を促した。損害保険が制度として固まってから20年足らずのところに、あいおい損害保険の前身は現れる。 [1][2][3][4][5]
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「保険-輸入知識から出発」
- [1]保険業の導入は福沢諭吉が生命保険、渋沢栄一が損害保険というように手分けして行なわれた
- [2]福沢諭吉は『西洋旅案内』付録「災害請合の事」で保険を生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上請合(海上保険)の三種に分類した
- [3]明治十二年(1879年)七月に東京海上保険会社の創立が認可された
- [5]泡沫会社の弊害が甚だしかったため政府は明治三十三年(1900年)に保険業法を施行した
- 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
- [4]明治二十年七月に民営の有限会社東京火災保険会社が設立された
1918年8月、資本金100万円をもって東京動産火災保険が設立された。あいおい損害保険の法人としての系譜は、この会社から続いている。掲げた業態は「一般大衆を目標とする簡易火災保険」で、富裕層と企業の資産を守る道具だった火災保険を、個人の家財に広げようという設計だった。ところが当時の免許制度は簡易火災保険と普通火災保険の兼営を認めなかったため、創立関係者は1920年1月に資本金500万円で東神火災保険を別に立て、姉妹会社として普通火災保険を扱わせている。一つの経営体が二つの法人に分かれたのは、経営判断というより規制の形をなぞった結果だった。 [6][7][8]
- 有価証券報告書(あいおい損害保険、2010年6月30日提出)「沿革」
- [6]大正7年8月に当社の前身である東京動産火災保険株式会社を設立
- 会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」
- [7]大正七年八月、一般大衆を目標とする簡易火災保険会社として、資本金百万円をもつて東京動産火災保険の商号のもとに設立された
- 有価証券報告書(あいおい損害保険、2010年6月30日提出)「沿革」/会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」
- [8]有価証券報告書の沿革は東神火災保険の設立を大正9年1月とするが、『会社銀行八十年史』は大正九年三月とする(一次資料同士の不一致。本文は自社の法的沿革である有報を採る)
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「保険-輸入知識から出発」
- [1]保険業の導入は福沢諭吉が生命保険、渋沢栄一が損害保険というように手分けして行なわれた
- [2]福沢諭吉は『西洋旅案内』付録「災害請合の事」で保険を生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上請合(海上保険)の三種に分類した
- [3]明治十二年(1879年)七月に東京海上保険会社の創立が認可された
- [5]泡沫会社の弊害が甚だしかったため政府は明治三十三年(1900年)に保険業法を施行した
- 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
- [4]明治二十年七月に民営の有限会社東京火災保険会社が設立された
- 有価証券報告書(あいおい損害保険、2010年6月30日提出)「沿革」
- [6]大正7年8月に当社の前身である東京動産火災保険株式会社を設立
- 会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」
- [7]大正七年八月、一般大衆を目標とする簡易火災保険会社として、資本金百万円をもつて東京動産火災保険の商号のもとに設立された
- 有価証券報告書(あいおい損害保険、2010年6月30日提出)「沿革」/会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」
- [8]有価証券報告書の沿革は東神火災保険の設立を大正9年1月とするが、『会社銀行八十年史』は大正九年三月とする(一次資料同士の不一致。本文は自社の法的沿革である有報を採る)
戦時統合を吸収する側で通過し、総合損保になる
大衆向けという看板は、災害のたびに支払いとなって返ってきた。1923年9月の関東大震災、1934年3月の函館大火、1940年1月の静岡大火と続く火災で東京動産火災保険は多額の保険金を払っている。それでも会社は残った。戦時下の企業整備が損保業界を襲うと、1944年2月に東京動産火災保険が東神火災保険を吸収し、普通火災と簡易火災を兼営する国内初の会社として再出発する。50社を超えていた損保は終戦時に16社まで減っており、この会社は減らされる側ではなく吸収する側で統合の波を通過した。同年8月には社会の需要が普通火災保険に傾いていることを理由に商号を大東京火災保険と改め、社名から動産の二文字を落としている。 [9][10][11][12]
- 会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」
- [9]大正十二年九月に関東大震災、昭和九年三月には函館大火、十五年一月には静岡大火等が相次いで発生し、このため多額の保険金を支払つた
- 有価証券報告書(あいおい損害保険、2010年6月30日提出)「沿革」/会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」
- [10]昭和19年2月に東京動産火災保険株式会社が東神火災保険株式会社を吸収合併し、わが国初めての普通火災と簡易火災保険の兼営会社として新発足した
- [12]一般社会は簡易火災よりも普通火災保険の営業を要望する情勢であつたので、昭和19年8月社名を大東京火災保険と改称した
- 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
- [11]昭和十九年の統合で五十社以上あつた会社数は終戦時にはわずか十六社になつた
戦後の大東京火災は種目を足すことで火災専業から抜け出した。1949年4月に運送保険、11月に海上保険を始め、同年6月に商号を大東京火災海上保険と改めている。ドッジラインによる金詰まりで保険料の分割払いを望む契約者が増えると、同年10月には簡易火災保険の営業を復活させた。1950年7月に輸出信用保険と自動車保険、1953年9月に傷害保険と取扱いを広げ、本店を東京、支店を大阪に置いて始めた営業網も、札幌・仙台・横浜・静岡・名古屋・金沢・京都・神戸・広島・高松・福岡・小倉を加えて13支店に広がった。資本金は1955年2月に3億9000万円、1954年度の収入保険料は22億1000万円に達している。のちに会社の性格を決める自動車保険が商品に入ったのは、この時期である。 [13][14][15][16]
- 有価証券報告書(あいおい損害保険、2010年6月30日提出)「沿革」/会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」
- [13]運送保険は昭和24年4月、海上保険は同年11月から営業を開始し、同年6月に大東京火災海上保険と改称した
- 会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」
- [14]ドッジラインの実施に伴なう金詰り状況から保険料の分割払を希望する者も増加してきたので、昭和24年10月に簡易火災保険の営業を復活した
- [15]昭和25年7月から輸出信用保険と自動車保険の、昭和28年9月からは傷害保険の取扱をそれぞれ開始した
- [16]資本金は昭和30年2月に3億9000万円となり、昭和29年度には収入保険料22億1000万円、純正味収入保険料17億1000万円、契約準備金13億6000万円となった。支店は札幌・仙台・横浜・静岡・名古屋・金沢・京都・神戸・広島・高松・福岡・小倉を加えて計13支店
- 会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」
- [9]大正十二年九月に関東大震災、昭和九年三月には函館大火、十五年一月には静岡大火等が相次いで発生し、このため多額の保険金を支払つた
- [14]ドッジラインの実施に伴なう金詰り状況から保険料の分割払を希望する者も増加してきたので、昭和24年10月に簡易火災保険の営業を復活した
- [15]昭和25年7月から輸出信用保険と自動車保険の、昭和28年9月からは傷害保険の取扱をそれぞれ開始した
- [16]資本金は昭和30年2月に3億9000万円となり、昭和29年度には収入保険料22億1000万円、純正味収入保険料17億1000万円、契約準備金13億6000万円となった。支店は札幌・仙台・横浜・静岡・名古屋・金沢・京都・神戸・広島・高松・福岡・小倉を加えて計13支店
- 有価証券報告書(あいおい損害保険、2010年6月30日提出)「沿革」/会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」
- [10]昭和19年2月に東京動産火災保険株式会社が東神火災保険株式会社を吸収合併し、わが国初めての普通火災と簡易火災保険の兼営会社として新発足した
- [12]一般社会は簡易火災よりも普通火災保険の営業を要望する情勢であつたので、昭和19年8月社名を大東京火災保険と改称した
- [13]運送保険は昭和24年4月、海上保険は同年11月から営業を開始し、同年6月に大東京火災海上保険と改称した
- 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
- [11]昭和十九年の統合で五十社以上あつた会社数は終戦時にはわずか十六社になつた
大倉系と三田系が対等の条件で一つになる
もう一方の千代田火災海上保険は、性格の違う2社の合併で生まれている。片方は1911年10月に八木千之助氏・岡崎藤吉氏・吉田長敬氏・岸本五兵衛氏ら関西財界の有力者が資本金100万円で大阪に設立した日清火災海上で、1916年に200万円へ増資し、翌年には火災・海上に運送保険を加えた。ところが欧州大戦後の恐慌と関東大震災の打撃で、1925年11月以降は営業停止に追い込まれる。この会社を1927年10月に買い取ったのが大倉組で、社名を大倉火災海上と改めて本社を大阪から東京に移した。1938年には東京海上とも連携し、1943年に日本共立火災、1944年に片倉系の富国火災を合併して資本金を900万円まで積み増している。 [17][18][19]
- 会社銀行八十年史(1955年)「千代田火災」
- [17]旧大倉火災は前身を日清火災海上と称し、明治四十四年十月、八木千之助、岡崎藤吉、吉田長敬、岸本五兵衞氏ら関西財界の有力者により資本金百万円をもつて大阪に設立された
- [18]大正五年に二百万円に増資、六年には火災、海上のほかに運送保険営業も開始した。欧州大戦後の恐慌、関東大震災の影響を受け、十四年十一月以降、一時営業停止のやむなきに至つた
- [19]昭和二年十月に大倉組がこれを買収し、社名を大倉火災海上と改めて本社を東京に移し、十三年には東京海上とも連携した。十八年日本共立火災を合併、十九年に片倉系の富国火災を合併し資本金九百万円とした
もう片方の旧千代田火災は、1913年7月に門野幾之進氏ら三田系の実業家を中心として資本金500万円で東京に設立された。門野氏は福沢諭吉氏が芝新銭座の慶応義塾で説いた請合制度の講述を聴いた門下の一人で、日本に保険の知識が入ってきた最初期の場に居合わせた人物である。関西財界と大倉組が立て直した会社と、福沢門下が作った会社。出自の違う2社が対等の条件で合併し、資本金2400万円の大倉千代田火災海上として設立されたのが1945年10月20日、終戦の2か月後だった。1946年5月には大倉の名を外して千代田火災海上保険と改めている。 [20][21][22]
- 会社銀行八十年史(1955年)「千代田火災」
- [20]旧千代田火災は、大正二年七月門野幾之進氏ら三田系の人を中心に資本金五百万円をもつて東京に設立された
- [22]当社は昭和二十年十月、旧大倉火災海上保険と旧千代田火災海上保険とが対等条件で合併し、資本金二千四百万円をもつて大倉千代田火災海上として設立された。設立は昭和20年10月20日。二十一年五月現社名に改めた
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「保険-輸入知識から出発」
- [21]慶応四年(1868年)春に開校した芝新銭座の慶応義塾で福沢諭吉はしきりに請合制度を講述し、小泉信吉・阿部泰蔵・荘田平五郎・朝吹英二・早矢仕有的・門野幾之進らが若い聴講生であった
千代田火災は戦後、大東京火災を上回る速さで種目と規模を広げた。1946年に自動車・森林火災・盗難・傷害、1947年に競走馬、1950年に輸出信用、1952年に保証と航空、1953年に風水害とガラスの各保険を始めている。資本金は1954年4月に3億6000万円となり、1954年度の全種目で契約金額1兆2149億円、収入保険料42億3000万円を計上した。同じ年度の大東京火災の収入保険料は22億1000万円で、のちに合併する2社の規模は、この時点では千代田火災の側が倍近く大きかった。 [23][24]
- 会社銀行八十年史(1955年)「千代田火災」
- [23]昭和二十一年自動車、森林火災、盗難、傷害、二十二年競走馬、二十五年輸出信用、二十七年保証、航空、二十八年風水害、ガラスの各保険の営業を開始した
- [24]資本金は昭和二十九年四月三億六千万円となり、二十九年度の全保険種目において契約金額一兆二千百四十九億円、収入保険料四十二億三千万円、純正味収入保険二十七億四千万円、契約準備金二十四億八千万円の成果を収めた
- 会社銀行八十年史(1955年)「千代田火災」
- [17]旧大倉火災は前身を日清火災海上と称し、明治四十四年十月、八木千之助、岡崎藤吉、吉田長敬、岸本五兵衞氏ら関西財界の有力者により資本金百万円をもつて大阪に設立された
- [18]大正五年に二百万円に増資、六年には火災、海上のほかに運送保険営業も開始した。欧州大戦後の恐慌、関東大震災の影響を受け、十四年十一月以降、一時営業停止のやむなきに至つた
- [19]昭和二年十月に大倉組がこれを買収し、社名を大倉火災海上と改めて本社を東京に移し、十三年には東京海上とも連携した。十八年日本共立火災を合併、十九年に片倉系の富国火災を合併し資本金九百万円とした
- [20]旧千代田火災は、大正二年七月門野幾之進氏ら三田系の人を中心に資本金五百万円をもつて東京に設立された
- [22]当社は昭和二十年十月、旧大倉火災海上保険と旧千代田火災海上保険とが対等条件で合併し、資本金二千四百万円をもつて大倉千代田火災海上として設立された。設立は昭和20年10月20日。二十一年五月現社名に改めた
- [23]昭和二十一年自動車、森林火災、盗難、傷害、二十二年競走馬、二十五年輸出信用、二十七年保証、航空、二十八年風水害、ガラスの各保険の営業を開始した
- [24]資本金は昭和二十九年四月三億六千万円となり、二十九年度の全保険種目において契約金額一兆二千百四十九億円、収入保険料四十二億三千万円、純正味収入保険二十七億四千万円、契約準備金二十四億八千万円の成果を収めた
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「保険-輸入知識から出発」
- [21]慶応四年(1868年)春に開校した芝新銭座の慶応義塾で福沢諭吉はしきりに請合制度を講述し、小泉信吉・阿部泰蔵・荘田平五郎・朝吹英二・早矢仕有的・門野幾之進らが若い聴講生であった