損害保険という事業は、明治の初めに輸入された知識から始まった。海上保険は1879年に渋沢栄一が華族の出資団を説き伏せて東京海上保険会社を興したのが最初で[1]、火災保険は1887年7月に設立された東京火災保険会社が先鞭をつけ、大火の頻発で経営が行き詰まったのちに安田善次郎が経営へ加わった。[2]渋沢が海上保険を選んだのは、地租が金納になって農村から都市へ穀物を運ぶ必要が生じ、その運搬上の危険を引き受ける仕組みが要ると考えたからである。日清戦争をはさむ十年間には明治火災・日本火災・帝国海上など30社が設立されたが、乱設による競争の激化を受けて1900年に保険業法が制定され、日露戦争直後には10社まで整理された[3]。ニッセイ同和損害保険の源流にあたる4社は、この整理を経て保険熱が再び高まった時期に、相次いで生まれている。
最も古いのは横浜火災海上保険で、1897年8月、富田鉄之助[4]・土子金四郎・小野光景らが発起人となり、横浜の生糸業者を中心とする出資で横浜に設立された。次いで1906年6月、村上定・田辺貞吉・森本清兵衛ら三田・三井・住友系の関係者が東京で共同火災海上保険を興し、のちに本店を大阪へ移している。1907年4月には、岡崎藤吉・伊藤長次郎・辰馬吉左衛門ら関西の有力者と船主が神戸海上火災保険を神戸に設立した。最後が1918年8月の朝日海上火災保険で、内田信也が主体となり窪田四郎・勝田銀次郎らが加わって東京に興し、こちらも本店を大阪へ移した。日露戦争後の1906年から1913年までに設立された14社は、いずれも既設会社か三井・住友財閥の援助[5]を受けており、基礎は固かった。
出自を並べると、4社が引き受けようとした危険の違いが見える。横浜火災は生糸の輸出を、神戸海上は瀬戸内から外洋へ出る船を、共同火災と朝日海上は東京で興りながら本拠を大阪へ移して関西の商業を、それぞれ相手にした。海上保険と火災保険が損保事業の二本柱だった時代に、貨物と船と町の火事という異なる危険を、その土地の商人と船主が自分たちの手で引き受けようとした結果である。ただし4社はどれも、単独では業界の上位に届かなかった。1944年の合併時点の資本金は神戸海上が1,500万円[6]、共同火災が1,300万円、横浜火災が1,250万円、朝日海上が700万円で、4社を合わせても当時の東京海上や安田系の大手には及ばない規模にとどまっている。
4社が別々に営業を続けた時代を終わらせたのは、震災と戦争だった。1923年の関東大震災で損害保険業界は大きな打撃を受け、その後の不況の深まりとともに各社は弱体化する。業界はこれに対して、減資による整理、大会社への合併、大会社を中心とするブロック化、料率協定の強化という4つの手を打った。整理は大正末期から1931年まで続き、会社数こそ51社で変わらなかったものの、払込資本金は1億44万円から6,990[7]万円へ3割以上減っている。数だけを見れば業界の姿は変わらないのに、体力は目に見えて落ちていた。この弱った状態が、戦時下の企業整備を一気に進める下地となった。
1944年3月23日、神戸海上火災・共同火災海上・朝日海上火災・横浜火災海上の4社は大阪市で対等条件のもとに合併し[8]、同和火災海上保険が発足した。資本金は4,750万円(払込1,187万5,000円)、会長[9]には横浜火災の社長だった吉井桃磨呂、社長には共同火災の社長だった広瀬鍼太郎が就き、のちに社長となる岡崎真一が副社長に入った。同じ年、東京海上・明治火災・三菱海上の3社が東京海上火災に、東京火災・帝国海上・第一機罐の3社が安田火災海上に、日本火災・帝国火災・日本海上の3社が日本火災海上に、大阪海上と住友海上が大阪住友海上火災にまとまっている。50社を超えていた損害保険会社は、終戦時にわずか16社まで減った。
新会社は4社の基盤を受け継ぎ、火災・海上・運送・傷害・自動車・信用・盗難・航空[10]の8種目について事業免許を受けて、本店を大阪に置いて営業を始めた。ただし発足の時点で、海上保険を引き受ける会社にとって不可欠な海外との再保険取引は途絶えていた。損保各社は1944年に共同出資で東亜火災海上再保険を設立[11]し、国内で危険を分け合う仕組みを急ごしらえで整えている。4つの商人集団がそれぞれの土地で育てた営業網を一つの会社にまとめながら、その会社が引き受けられる危険の量は戦争によって細っていた。同和火災海上という会社は、こうして自ら選んだのではない合併から出発している。
終戦は損害保険会社から引き受けるべき対象そのものを奪った。被保険物件は激減し、残った物件の危険度は空襲と混乱で悪化する。加えて戦時補償の打切りと在外資産の切捨てが資産を直撃した。終戦時に7億円あった損保会社の資産は、1948年1月には5億3,600万円[12]まで減り、そのうち新勘定に属する資産は3億2,000万円にすぎなかった。同和火災海上も営業の主力を火災保険に置いて営業網[13]の整備に努めたものの、この時期の業績は悪化している。合併から3年ほどの新しい会社にとって、4社から受け継いだ営業網を保つだけでも重い仕事だった。
経済情勢の安定とともに、業績は急速に改善した。戦争で途絶えていた海外保険会社との再保険取引の交換が復活し、1955年の時点で取引先は16社に及んでいる。海上保険は1947年の貿易再開以来ふえ続け、計画造船の進捗と1950年4月以降の外貨建引受の再開が重なって契約量が伸びた。運送保険も活況を呈し、1952年からはノーザン保険・ドミニオン保険・ホーム保険・ノースアメリカ保険の4社について、外貨建海上保険の代理業を順次営むようになる。[14]新種保険では競走馬・ガラス・保証・風水害の各保険が追加免許となり[15]、1950年には輸出保険の取扱いも始めた。危険を引き受ける種目の幅は、戦前の水準を超えて広がった。
資本の増強も進んだ。同和火災海上は1948年12月に同和ビルヂングを吸収合併し、数次の増資を経て1954年10月に資本金を8億円とした[16]。1954年度の収入保険料は59億円、純正味収入保険料は36億6,000万円、契約準備金は36億円に達している。もっとも、この伸びは同社だけのものではない。全損保の資本金総額は1949年3月末の3億5,500万円から1955年3月末の92億4,000万円へと約30倍に膨らみ[17]、1954年度の業界全体の正味収入保険料は503億円を数えた。同社の純正味収入保険料36億6,000万円は[18]、その7%あまりにあたる。戦時下の統合で新しく生まれた会社の一つという位置を[19]、同社は戦後も保っている。
高度成長期に同和火災海上が市場からどう見られていたかは、当時の証券資料に残る。1950年代なかばの"証券"が載せた信用取引の代用有価証券価格表では、損保株のうち東京海上火災保険が1株170円と抜きん出ており、住友海上火災保険65円、大東京火災海上保険60円、同和火災海上保険と興亜火災海上保険が55円、千代田火災海上保険50円と続く。[20]同社は中位の一群に置かれていた。同じ時期に新規上場した高岳製作所・東洋ゴム工業・太平製糖・新潟硫酸の大株主欄に並ぶ損保は東京海上火災[21]・住友海上火災・大正海上火災であり、同社の名はそこにない。上場企業の株を抱える機関投資家としても、大手との差は明らかだった。
それでも、同社の名が上位株主に残る会社はある。大日本製薬(現・住友ファーマ)の1955年11月時点の大株主は、住友生命[22]25万株・住友銀行20万株・日本生命20万株に次いで同和火災海上が17万1,500株で4位に入る顔ぶれだった。半官半民で発足した日本航空でも、1955年9月時点で大蔵大臣の400万株に次ぐ15万株を持って民間の筆頭株主となり、1961年4月時点でも1.6%を保有して東京海上火災の1.4[23]%を上回っている。関西の商業と住友系企業の周辺に張った営業網が、同社の実体だった。それでも4社の合併で生まれた会社は、関西の名門と呼ばれながら、業界の順位を押し上げる材料をついに持たなかった。
1998年に社長へ就いた須藤秀一郎氏は、この順序を『ラッキーなタイミングだった』と語っている。自由化のスピードが業界の予想を越えたため、周年行事として始めた刷新が結果として先回りになった、という説明である。運動の中身は『新しい同和火災を作る意気込みでマインドを含めすべてを見直した。組織も支店制に切り替えた』というもので、焦点は価格競争力と収益力に置かれた。同社が備えたのは商品の価格が下がる事態であって、業界の枠組みそのものが再編される事態ではなかった。
同社の財務は、当時の損保のなかでも堅い部類にあった。S&Pによる格付けはAAで、須藤秀一郎氏は『不良債権は少なく、株式の含み益も多い。財務内容はAAAでいいと格付機関にも言われる』と述べている。名門ゆえに航空保険や企業物件には強みがあり、海外との再保険取引を通じて『昔からグローバルスタンダードの世界の経験はある』とも語っている。ただし市場の評価は逆へ動いた。安田火災海上・住友海上火災・三井海上火災がそろってAAAからAA+へ下げられたなかでの格下げであり、財務の堅さという自己認識は業界全体の評価下落に飲み込まれた。
自由化後に価格が下がっても収益力を保つ方法として、須藤秀一郎氏は『サービス充実か、商品の魅力を高めるしかない。同時に代理店を強化する』と述べた。同社の代理店は顧客から親切だと評価されていたが、その評価は手間をかけた結果であり、手間はそのままコストだった。そこで打ち出されたのが選別である。『代理店はうちを親切と言う。それは手をかけているからで、コストがかかっている。これからは自立できない代理店はやめていただかざるをえない』。財産と呼んだ代理店網は、同時に費用を削る対象でもあった。
販売網の設計でも、同社は全国一律を捨てている。外資が攻勢をかけていた通信販売について須藤秀一郎氏は『やったとしても、代理店通販の世界にとどまる』と線を引き、地域展開では『全国一律とはいかない。本社のある関西の基盤はより強化し、首都圏も攻める。支店も見直しを続け半減もありうる』と述べた。規模を追わず、関西という地盤の上で商品を積み増す。この選択は、代理店を抱えたまま費用を絞るという意味では筋が通っていた。ただし、料率が自由化された市場では、その地盤の価値そのものが目減りした。
相手方となったニッセイ損害保険は、1996年に日本生命保険が設立した損保子会社である。本店は東京都新宿区、資本金は100億円だった。[24]生損保の相互参入が始まったのは1996年10月で、ニッセイ損害保険が損害保険の販売に加わったのは1997年1月である。初代社長の森口昌司氏は同月のインタビューで『損害保険は成熟マーケットだけに、生保系が成長するには時間がかかる』と述べている。日本生命の営業職員のうち損保の初級資格を取得したのは約3万4,000人で、これに普通資格をどれだけ早く取らせるかが成長のカギだった。加えて森口昌司氏は、最も期待していた団体傷害保険への参入が実質的に閉ざされたとして、『生保系にとっても大変不利な結果。黒字化は二年は遅れる』と語っている。
2001年4月1日、同和火災海上保険はニッセイ損害保険を吸収合併し[25]、商号をニッセイ同和損害保険へ変更した。存続会社は同和火災海上保険であり、事業年度の期数も同社から連続している。最終事業年度が第67期の2010年3月期であることから逆算すると、第1期は設立年度にあたる1943年度になる。生保が損保を傘下に収めた合併でありながら、法人の連続性は関西の中堅損保の側に残された形である。社長は合併後も須藤秀一郎氏が務めている。
日本生命が業界12位の相手を選んだ理由は、規模ではなかった。同社の総合企画部長だった加藤貞男氏は、物足りないという見方に対して『大きいところと組めばうまくいくのか。同和火災とは共通のコンセプトを持ってやっている』と反論している。生保が損保から手を引くなかで、日本生命だけが本体合併という重い方法を選んだ。
統合を選ぶ前の同社の状態は、決算に表れている。正味収入保険料は2007年3月期の3,263億円を頂点に2009年3月期には3,109億円まで下がり、金融危機の影響で同期は経常損失168億円・当期純損失67億円を計上した。自己資本比率は2006年3月期の26.87%から2009[26]年3月期には16.76%へ落ち、純資産額は3,628億円から1,843億円へほぼ半減している。従業員は4,385人、正味損害率は67.36%、正味事業費率は34.64%で、保険料の収入では費用を賄いきれない水準に近づいていた。上位3社が1兆円台後半を売り上げる市場で3,000億円台にとどまる会社が、単独で自由化後の価格競争を続ける条件は残っていない。2009年1月、同社は三井住友海上グループホールディングスおよびあいおい損害保険との3社による経営統合と業務提携の協議に合意した[27]。
2010年3月29日、株式は東京証券取引所と大阪証券取引所で上場を廃止された。4月1日、あいおい損害保険とともに株式交換が行われ[28]、両社は同日付で三井住友海上グループホールディングスから商号を変更したMS&ADインシュアランスグループホールディングスの完全子会社となる。日本生命は、この株式交換によってその他の関係会社に該当しなくなった。同年10月1日、あいおい損害保険との合併によってあいおいニッセイ同和損害保険が発足し、ニッセイ同和損害保険という商号は消えた。海外の代理店子会社やリスクコンサルティング子会社[29]、人材派遣子会社も、統合先の同種の会社へ吸収されている。
消えたものは商号と上場と法人格である。残ったものもある。最終年度の従業員4,445人と[30]、自由化に向き合った社長が財産と呼んだ代理店網は、統合先へ引き継がれた。日本生命との販売協力も、ニッセイ同和損保という会社が消えたあとの現在まで続いている。1897年に横浜の生糸業者が始めた保険会社は[31]、戦時統合で関西の名門となり、自由化のなかで生保系チャネルと接合し、最後は3社統合の一角として姿を消した。単独では業界の上位に届かない規模のまま、他社と組む相手を替えながら113年を通した会社である。組む相手を選ぶ判断は、そのつど当時の条件では合理的だった。得たものもあった。ただし、いずれの判断も規模の差を埋めるには至らなかった。
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|---|---|---|---|---|
| 1897〜1944年横浜の生糸商と関西の船主が興した4社の合流 | 富田鉄之助氏らが発起人となり横浜で横浜火災海上保険を設立 | ★ | ||
| 村上定氏・田辺貞吉氏・森本清兵衛氏らを発起人に共同火災海上保険を東京で設立 | ★ | |||
| 神戸海上火災保険を設立 | ★ | |||
| 岡崎藤吉氏・伊藤長次郎氏・辰馬吉左衛門氏ら関西の船主が出資 | ★ | |||
| 朝日海上火災保険を設立 | ★ | |||
| 内田信也氏が主体となり窪田四郎氏・勝田銀次郎氏らが参加 | ★ | |||
| 神戸海上火災・共同火災海上・朝日海上火災・横浜火災海上の4社が対等合併 | ★★ | |||
| 本店を置く同和火災海上保険が発足 | ★ | |||
| 吉井桃磨呂氏が会長、広瀬鍼太郎氏が社長に就任 | ★ | |||
| 1944〜1990年戦時統合が生んだ関西の名門損保と戦後の再建 | 同和ビルヂングを吸収合併 | ★ | ||
| 輸出保険の取扱いを開始 | ★ | |||
| 外貨建引受の再開と計画造船で海上保険の契約量が回復 | ★ | |||
| ノーザン保険・ドミニオン保険・ホーム保険・ノースアメリカ保険の代理業を開始 | ★ | |||
| 1954年度の収入保険料59億円・純正味収入保険料36億6,000万円 | ★ | |||
| 1990〜2001年創業100年と料率自由化に向き合った「名門の遺産」 | 子会社ニッセイ損害保険の設立による損害保険業への新規参入 1996年、日本生命保険が損害保険子会社としてニッセイ損害保険を設立した経営判断。本店は東京都新宿区、資本金は100億円で、生損保の相互参入が解禁された第1陣として損害保険市場へ入った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 組織を支店制へ切り替え | ★ | |||
| ニッセイ損害保険が損害保険の販売を開始 | ★★ | |||
| 須藤秀一郎氏が社長に就任 | ★ | |||
| 料率自由化を前にした支店制への移行と代理店網の選別 1998年7月の損害保険料率の自由化を前に、大阪の中堅損保である同和火災海上保険が、須藤秀一郎社長のもとで組織を支店制に改め、代理店の選別と関西を厚くする地域配分に踏み込んだ経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| ニッセイ損害保険の吸収合併と、ニッセイ同和損害保険への商号変更 2001年4月1日、同和火災海上保険が日本生命保険の損害保険子会社ニッセイ損害保険を吸収合併し、商号をニッセイ同和損害保険へ改めた合併。存続会社は同和火災であり、事業年度の期数も同社から引き継いだ。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 2001〜2010年ニッセイブランドとの接合、そして統合で幕 | 日本生命の123支社に社員を2名ずつ配置 | ★ | ||
| 「ニッセイ保険口座」顧客の損保契約率8%を3割へ引き上げる計画 | ★ | |||
| 2002年度決算で経常損失85億円・当期純損失43億円を計上 | ★ | |||
| 三井住友海上グループHD・あいおい損害保険と経営統合の協議に合意 | ★★ | |||
| 損保3社の統合によるMS&ADインシュアランスグループの結成 2009年1月23日、三井住友海上グループホールディングス・あいおい損害保険・ニッセイ同和損害保険の3社が、持株会社方式による経営統合と業務提携の協議で合意したと発表した経営判断。2010年4月の統合を掲げ、三井住友海上HDを受け皿の持株会社として活用する枠組みが示された。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(ニッセイ同和損害保険)