1897年〜 横浜の生糸商と関西の船主が興した4社の合流
- 1897年横浜火災海上保険を横浜で設立。富田鉄之助・土子金四郎・小野光景らが発起人となり、横浜の生糸業者を中心に出資した
- 1906年共同火災海上保険を東京で設立。村上定・田辺貞吉・森本清兵衛ら三田・三井・住友系の関係者が発起人となり、のちに本店を大阪へ移した
- 1907年神戸海上火災保険を神戸で設立。岡崎藤吉・伊藤長次郎・辰馬吉左衛門ら関西の船主・有力者が出資した
- 1918年朝日海上火災保険を東京で設立。内田信也が主体となり窪田四郎・勝田銀次郎らが加わった。のちに本店を大阪へ移した
- 1944年戦時下の企業整備により神戸海上火災・共同火災海上・朝日海上火災・横浜火災海上の4社が対等条件で合併し、本店を大阪に置く同和火災海上保険を設立。会長に吉井桃磨呂(もと横浜火災社長)、社長に広瀬鍼太郎(もと共同火災社長)が就任した
ニッセイ同和損害保険の業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
保険業法の整理をくぐって生まれた4社
損害保険という事業は、明治の初めに輸入された知識から始まった。海上保険は1879年に渋沢栄一が華族の出資団を説き伏せて東京海上保険会社を興したのが最初で、火災保険は1887年7月に設立された東京火災保険会社が先鞭をつけ、大火の頻発で経営が行き詰まったのちに安田善次郎が経営へ加わった。渋沢が海上保険を選んだのは、地租が金納になって農村から都市へ穀物を運ぶ必要が生じ、その運搬上の危険を引き受ける仕組みが要ると考えたからである。日清戦争をはさむ十年間には明治火災・日本火災・帝国海上など30社が設立されたが、乱設による競争の激化を受けて1900年に保険業法が制定され、日露戦争直後には10社まで整理された。ニッセイ同和損害保険の源流にあたる4社は、この整理を経て保険熱が再び高まった時期に、相次いで生まれている。 [1][2][3]
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「保険-輸入知識から出発」
- [1]東京海上保険会社は明治12年(1879年)7月に創立認可。渋沢栄一が華族出資団に損害保険会社の設立を勧め、運搬上の危険を保険で回避する必要を説いた
- 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險(概説)」
- [2]明治20年(1887年)7月に民営の「有限会社東京火災保険会社」が設立され、大火の頻発により経営困難に陥ったので安田善次郎が経営に参画した(参画年は資料に記載なし)
- [3]明治26年から36年の十年間に損害保険会社が30社に及んだが、1900年の保険業法制定により日露戦争直後には10社に整理された
最も古いのは横浜火災海上保険で、1897年8月、富田鉄之助・土子金四郎・小野光景らが発起人となり、横浜の生糸業者を中心とする出資で横浜に設立された。次いで1906年6月、村上定・田辺貞吉・森本清兵衛ら三田・三井・住友系の関係者が東京で共同火災海上保険を興し、のちに本店を大阪へ移している。1907年4月には、岡崎藤吉・伊藤長次郎・辰馬吉左衛門ら関西の有力者と船主が神戸海上火災保険を神戸に設立した。最後が1918年8月の朝日海上火災保険で、内田信也が主体となり窪田四郎・勝田銀次郎らが加わって東京に興し、こちらも本店を大阪へ移した。日露戦争後の1906年から1913年までに設立された14社は、いずれも既設会社か三井・住友財閥の援助を受けており、基礎は固かった。 [4][5]
- 会社銀行八十年史(1955年)「同和火災海上」
- [4]横浜火災海上は明治30年8月に横浜の生糸業者を中心とし富田鉄之助・土子金四郎・小野光景らにより横浜に創立、共同火災海上は明治39年6月に村上定・田辺貞吉・森本清兵衛ら三田・三井・住友系の人により東京に創立、神戸海上火災は明治40年4月に岡崎藤吉・伊藤長次郎・辰馬吉左衛門ら関西の有力者・船主により創立、朝日海上火災は大正7年8月に内田信也が主体となり窪田四郎・勝田銀次郎らにより東京に創立
- 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險(概説)」
- [5]日露戦争後の明治39年から大正2年までの間に14社が設立されたが、これらはいずれも既設会社または三井・住友財閥の援助があって基礎は固かった
出自を並べると、4社が引き受けようとした危険の違いが見える。横浜火災は生糸の輸出を、神戸海上は瀬戸内から外洋へ出る船を、共同火災と朝日海上は東京で興りながら本拠を大阪へ移して関西の商業を、それぞれ相手にした。海上保険と火災保険が損保事業の二本柱だった時代に、貨物と船と町の火事という異なる危険を、その土地の商人と船主が自分たちの手で引き受けようとした結果である。ただし4社はどれも、単独では業界の上位に届かなかった。1944年の合併時点の資本金は神戸海上が1,500万円、共同火災が1,300万円、横浜火災が1,250万円、朝日海上が700万円で、4社を合わせても当時の東京海上や安田系の大手には及ばない規模にとどまっている。 [6]
- 会社銀行八十年史(1955年)「同和火災海上」
- [6]合併時の資本金は神戸海上火災1,500万円、共同火災海上1,300万円、横浜火災海上1,250万円、朝日海上火災700万円
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「保険-輸入知識から出発」
- [1]東京海上保険会社は明治12年(1879年)7月に創立認可。渋沢栄一が華族出資団に損害保険会社の設立を勧め、運搬上の危険を保険で回避する必要を説いた
- 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險(概説)」
- [2]明治20年(1887年)7月に民営の「有限会社東京火災保険会社」が設立され、大火の頻発により経営困難に陥ったので安田善次郎が経営に参画した(参画年は資料に記載なし)
- [3]明治26年から36年の十年間に損害保険会社が30社に及んだが、1900年の保険業法制定により日露戦争直後には10社に整理された
- [5]日露戦争後の明治39年から大正2年までの間に14社が設立されたが、これらはいずれも既設会社または三井・住友財閥の援助があって基礎は固かった
- 会社銀行八十年史(1955年)「同和火災海上」
- [4]横浜火災海上は明治30年8月に横浜の生糸業者を中心とし富田鉄之助・土子金四郎・小野光景らにより横浜に創立、共同火災海上は明治39年6月に村上定・田辺貞吉・森本清兵衛ら三田・三井・住友系の人により東京に創立、神戸海上火災は明治40年4月に岡崎藤吉・伊藤長次郎・辰馬吉左衛門ら関西の有力者・船主により創立、朝日海上火災は大正7年8月に内田信也が主体となり窪田四郎・勝田銀次郎らにより東京に創立
- [6]合併時の資本金は神戸海上火災1,500万円、共同火災海上1,300万円、横浜火災海上1,250万円、朝日海上火災700万円
震災と戦時統合が4社を1社にまとめるまで
4社が別々に営業を続けた時代を終わらせたのは、震災と戦争だった。1923年の関東大震災で損害保険業界は大きな打撃を受け、その後の不況の深まりとともに各社は弱体化する。業界はこれに対して、減資による整理、大会社への合併、大会社を中心とするブロック化、料率協定の強化という4つの手を打った。整理は大正末期から1931年まで続き、会社数こそ51社で変わらなかったものの、払込資本金は1億44万円から6,990万円へ3割以上減っている。数だけを見れば業界の姿は変わらないのに、体力は目に見えて落ちていた。この弱った状態が、戦時下の企業整備を一気に進める下地となった。 [7]
- 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險(概説)」
- [7]大正末期の保険会社数51社・払込資本金1億44万円が、昭和6年には会社数は変わらず払込資本金6,990万円に減少。関東大震災後の整理は減資・合併・ブロック化・料率協定の強化として行われた
1944年3月23日、神戸海上火災・共同火災海上・朝日海上火災・横浜火災海上の4社は大阪市で対等条件のもとに合併し、同和火災海上保険が発足した。資本金は4,750万円(払込1,187万5,000円)、会長には横浜火災の社長だった吉井桃磨呂、社長には共同火災の社長だった広瀬鍼太郎が就き、のちに社長となる岡崎真一が副社長に入った。同じ年、東京海上・明治火災・三菱海上の3社が東京海上火災に、東京火災・帝国海上・第一機罐の3社が安田火災海上に、日本火災・帝国火災・日本海上の3社が日本火災海上に、大阪海上と住友海上が大阪住友海上火災にまとまっている。50社を超えていた損害保険会社は、終戦時にわずか16社まで減った。 [8][9]
- 有価証券報告書(2010年3月期)
- [8]昭和19年3月、旧神戸海上火災保険・旧共同火災海上保険・旧朝日海上火災保険・旧横浜火災海上保険の4社が対等条件において合併の上、商号を同和火災海上保険株式会社として大阪市に設立
- 会社銀行八十年史(1955年)「同和火災海上」
- [9]同和火災海上は資本金4,750万円(払込1,187万5,000円)で創立。会長に吉井桃磨呂(もと横浜火災社長)、社長に広瀬鍼太郎(もと共同火災社長)、岡崎真一が副社長に就任。同年の統合で50社以上あった損保会社は終戦時に16社になった
新会社は4社の基盤を受け継ぎ、火災・海上・運送・傷害・自動車・信用・盗難・航空の8種目について事業免許を受けて、本店を大阪に置いて営業を始めた。ただし発足の時点で、海上保険を引き受ける会社にとって不可欠な海外との再保険取引は途絶えていた。損保各社は1944年に共同出資で東亜火災海上再保険を設立し、国内で危険を分け合う仕組みを急ごしらえで整えている。4つの商人集団がそれぞれの土地で育てた営業網を一つの会社にまとめながら、その会社が引き受けられる危険の量は戦争によって細っていた。同和火災海上という会社は、こうして自ら選んだのではない合併から出発している。 [10][11]
- 会社銀行八十年史(1955年)「同和火災海上」
- [10]同和火災海上は4社の基盤を受け継ぎ、火災・海上・運送・傷害・自動車・信用・盗難・航空の各保険の事業免許を受け、本店を大阪に置いて営業を開始した
- 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險(概説)」
- [11]海外との再保険取引ができなくなったため、損保各社の出資により昭和19年に東亜火災海上再保険会社が設立された
- 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險(概説)」
- [7]大正末期の保険会社数51社・払込資本金1億44万円が、昭和6年には会社数は変わらず払込資本金6,990万円に減少。関東大震災後の整理は減資・合併・ブロック化・料率協定の強化として行われた
- [11]海外との再保険取引ができなくなったため、損保各社の出資により昭和19年に東亜火災海上再保険会社が設立された
- 有価証券報告書(2010年3月期)
- [8]昭和19年3月、旧神戸海上火災保険・旧共同火災海上保険・旧朝日海上火災保険・旧横浜火災海上保険の4社が対等条件において合併の上、商号を同和火災海上保険株式会社として大阪市に設立
- 会社銀行八十年史(1955年)「同和火災海上」
- [9]同和火災海上は資本金4,750万円(払込1,187万5,000円)で創立。会長に吉井桃磨呂(もと横浜火災社長)、社長に広瀬鍼太郎(もと共同火災社長)、岡崎真一が副社長に就任。同年の統合で50社以上あった損保会社は終戦時に16社になった
- [10]同和火災海上は4社の基盤を受け継ぎ、火災・海上・運送・傷害・自動車・信用・盗難・航空の各保険の事業免許を受け、本店を大阪に置いて営業を開始した