損害保険ジャパン の歴史

創業

1887年

創業者

柳川清助ほか4名

創業地

東京

直近売上高(2010/3)

18,078億円

長期業績と転換点(2002/3〜2010/3)
売上高(億円純利益率(%)

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1887年〜 東京火災保険と帝国海上保険 ── 安田善次郎が育てた二社が戦時統合で一つになるまで

  1. 1887年有限責任東京火災保険会社を設立
  2. 1893年東京火災の経営に安田善次郎が参画し、株式組織に改組
  3. 1893年帝国海上保険株式会社を設立
  4. 1941年東京火災が太平火災海上保険を合併
  5. 1943年東京火災が東洋火災保険を合併
  6. 1943年帝国海上が第一火災海上保険を合併
  7. 1944年東京火災・帝国海上・第一機罐の3社が合併し、安田火災海上保険株式会社を設立

損害保険ジャパンの業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

政府の火災保険構想が民間に落ちた出発点

日本の火災保険は、政府が自ら手がけようとした事業として構想された。きっかけは1878年にドイツ人パウル・マイエットが発表した「日本家屋保険論」で、政府はこれを受けて公営の火災保険事業を検討した。計画は1881年の政変で立ち消えとなり、案は東京府に引き継がれて府知事の松田道之氏が公営化を図ったが、松田氏の死去で再び宙に浮いた。最終的にこれを引き取ったのは松田氏の縁籍にあたる旧鳥取藩の関係者で、1887年7月、民営の有限責任東京火災保険会社として設立された。三度の頓挫を経て、火災保険は民間の事業として世に出た。 [1][2]

  • 日本産業史 第1巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「保険-輸入知識から出発」
    • [1]火災保険は1878年のマイエット「日本家屋保険論」を機に政府の公営事業として構想され、1881年の政変と松田道之東京府知事の逝去で二度立ち消えとなったのち、旧鳥取藩が引き継いで1887年7月に有限責任東京火災保険会社が設立された
  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第67期・2010年6月開示)【沿革】
    • [2]有限責任東京火災保険会社の設立は明治20年7月で、損害保険ジャパンの有価証券報告書【沿革】もこれを提出会社の起点としている

発足したものの、経営はすぐに行き詰まった。保険思想が普及しておらず、各地で大火が頻発したためである。行き詰まった東京火災に1893年6月、安田善次郎氏が経営者として入り、株式組織に改めて建て直しにかかった。海上保険が1879年に渋沢栄一氏の呼びかけで華族の出資団によって東京海上保険会社として始まり、そこに三菱の岩崎弥太郎氏が加わったのに対し、火災保険は安田の手で立て直された。損害保険の二本柱は、それぞれ別の財閥を出発点に持つ。以後の東京火災は安田系の会社として、火災保険に海上と運送を重ねながら業容を広げた。 [3][4]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「安田火災海上」
    • [3]東京火災は柳川清助氏ら5人の発起人によりわが国最初の火災保険会社として創立されたが、保険思想の未発達と大火の頻発で経営が困難になり、1893年6月に安田善次郎氏が経営に参画して株式組織に改組した
  • 日本産業史 第1巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「保険-輸入知識から出発」
    • [4]渋沢栄一氏が華族出資団に海上保険会社の設立を勧め、1879年7月に東京海上保険会社が創立認可された。出資団は1878年から保険事業への転換を協議しており、岩崎弥太郎氏も参加している
  • 日本産業史 第1巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「保険-輸入知識から出発」
    • [1]火災保険は1878年のマイエット「日本家屋保険論」を機に政府の公営事業として構想され、1881年の政変と松田道之東京府知事の逝去で二度立ち消えとなったのち、旧鳥取藩が引き継いで1887年7月に有限責任東京火災保険会社が設立された
    • [4]渋沢栄一氏が華族出資団に海上保険会社の設立を勧め、1879年7月に東京海上保険会社が創立認可された。出資団は1878年から保険事業への転換を協議しており、岩崎弥太郎氏も参加している
  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第67期・2010年6月開示)【沿革】
    • [2]有限責任東京火災保険会社の設立は明治20年7月で、損害保険ジャパンの有価証券報告書【沿革】もこれを提出会社の起点としている
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「安田火災海上」
    • [3]東京火災は柳川清助氏ら5人の発起人によりわが国最初の火災保険会社として創立されたが、保険思想の未発達と大火の頻発で経営が困難になり、1893年6月に安田善次郎氏が経営に参画して株式組織に改組した

東京海上に次ぐ海上保険会社と、汽罐保険の独占会社

安田善次郎氏は火災保険の建て直しと並行して、海上保険にも自ら会社を起こした。1893年9月、4人の発起人とともに設立した帝国海上である。日本の海上保険会社としては東京海上に次いで古く、日清・日露の両戦争と第一次世界大戦を機に業容を広げた。当初は海上保険だけを扱っていたが、1899年に日本の会社として初めて運送保険を始め、1902年に火災保険、1929年以降に各種の新種保険を加えた。一方の東京火災も1906年に海上・運送の両保険へ広げ、1930年以降は新種保険を扱うようになる。二社は種目を重ねながら並び立った。 [5][6]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「安田火災海上」
    • [5]帝国海上火災は明治26年9月に安田善次郎氏を中心とする4人の発起人により創立され、東京海上に次いで古い海上保険会社として明治32年に日本で初めて運送保険業務を開始、明治35年に火災保険、昭和4年以降に新種保険を加えた
    • [6]東京火災は当初火災保険のみを扱い、明治39年に海上・運送の両保険を加え、昭和5年以降に各種の新種保険を追加した

三つ目の源流は毛色が違う。1908年8月に設立された第一機関汽罐保険は、英国の汽缶製造会社バブコック・アンド・ウイルコックス社と日本の紡績関係者らが起こした会社で、機関と汽缶だけを引き受けた。同種の保険を扱う会社が他になかったため、実質的に独占状態が続いた。特徴は引き受けの前に予防検査を行った点にあり、そのためほとんど保険事故が起きなかった。危険を引き受けて保険料を得るのではなく、危険そのものを減らして収支を作る会社であった。1930年11月に第一機罐保険へ商号を改めている。 [7][8]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「安田火災海上」
    • [7]第一機罐は明治41年8月に英国のバブコック・アンド・ウイルコックス社と日本の紡績関係者らが創立し、機関・汽缶の保険のみを営んで独占状態にあり、予防検査を行ったためほとんど保険事故が発生しなかった
  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第67期・2010年6月開示)【沿革】
    • [8]第一機関汽罐保険株式会社は明治41年8月に設立され、昭和5年11月に第一機罐保険株式会社へ商号を変更した

この時期、損害保険は乱立と淘汰を繰り返していた。1893年から1903年までの10年間は企業熱の勃興期にあたり、明治火災・日本火災・帝国海上をはじめ30社が設立された。政府は1900年に保険業法を定めて業界の健全化を図り、乱設による競争は法の施行とともに整理されて、日露戦争直後には10社にまで絞られた。1923年の関東大震災は業界全体に大きな損害を与え、その後の不況で各社は弱体化する。減資による整理、大会社への合併、大会社を軸としたブロック化、料率協定の強化が、大正末期から1931年まで続いた。 [9][10]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「損害保険」概説
    • [9]明治26年から36年に損保会社は30社に及んだが、明治33年の保険業法制定で淘汰が進み日露戦争直後には10社に整理された
    • [10]関東大震災で損保業界は大打撃を受け、その後の不況深化で会社が弱体化し、減資による整理・大会社への合併・ブロック化・料率協定の強化が大正末期から昭和6年まで続いた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「安田火災海上」
    • [5]帝国海上火災は明治26年9月に安田善次郎氏を中心とする4人の発起人により創立され、東京海上に次いで古い海上保険会社として明治32年に日本で初めて運送保険業務を開始、明治35年に火災保険、昭和4年以降に新種保険を加えた
    • [6]東京火災は当初火災保険のみを扱い、明治39年に海上・運送の両保険を加え、昭和5年以降に各種の新種保険を追加した
    • [7]第一機罐は明治41年8月に英国のバブコック・アンド・ウイルコックス社と日本の紡績関係者らが創立し、機関・汽缶の保険のみを営んで独占状態にあり、予防検査を行ったためほとんど保険事故が発生しなかった
  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第67期・2010年6月開示)【沿革】
    • [8]第一機関汽罐保険株式会社は明治41年8月に設立され、昭和5年11月に第一機罐保険株式会社へ商号を変更した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「損害保険」概説
    • [9]明治26年から36年に損保会社は30社に及んだが、明治33年の保険業法制定で淘汰が進み日露戦争直後には10社に整理された
    • [10]関東大震災で損保業界は大打撃を受け、その後の不況深化で会社が弱体化し、減資による整理・大会社への合併・ブロック化・料率協定の強化が大正末期から昭和6年まで続いた

五十社超を十六社に絞った戦時企業整備と三社合併

太平洋戦争に入ると、業界再編は行政の手で強く進められた。安田系の各社もその流れに乗り、東京火災は1941年11月に太平火災海上を、1943年2月に東洋火災を合併し、帝国海上は同じ1943年2月に第一火災海上を合併した。企業整備は1944年に一気に進み、統合の組み合わせは系列ごとに決められた。東京海上・明治火災・三菱海上の3社が東京海上火災に、日本火災・帝国火災・日本海上の3社が日本火災海上に、朝日海上・共同火災・神戸海上・横浜火災の4社が同和火災海上になるなど、50社を超えていた損保は終戦時に16社まで減った。 [11][12][13]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「損害保険」概説
    • [11]昭和19年に東京海上・明治火災・三菱海上の3社合併で東京海上火災、東京火災・帝国海上・第一機罐の3社合併で安田火災海上、日本火災・帝国火災・日本海上の3社で日本火災海上などが生まれ、50社以上あった損保は終戦時に16社になった
    • [13]昭和19年に朝日海上・共同火災・神戸海上・横浜火災の4社が合併して同和火災海上が生まれた(会社銀行八十年史「損害保険」概説に「朝日海上、共同火災、神戸海上、横浜火災の四社合併で同和火災海上」と記載)
  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第67期・2010年6月開示)【沿革】
    • [12]東京火災は昭和16年11月に太平火災海上保険を、昭和18年2月に東洋火災保険を合併し、帝国海上は昭和18年2月に第一火災海上保険を合併した

1944年2月、東京火災・帝国海上・第一機罐の3社が解散合併し、資本金3,390万円のうち4分の1を払い込んで安田火災海上保険が発足した。それまで安田系の姉妹会社として並んでいた損害保険5社と第一機罐が、一つの会社にまとまった形である。引き継いだ種目は火災・海上・運送・傷害・信用・自動車・航空・盗難・風水害・ガラス・機関・汽缶と広い。ただし新会社に与えられた時間は短く、発足から1年半で終戦を迎える。この間は戦争保険業務に全社をあげて取り組んだ。国策で作られた会社が、国策の保険を引き受けたまま終戦を迎えた。 [14][15]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「安田火災海上」
    • [14]安田火災海上保険は昭和19年2月に国策に応じて東京火災海上・帝国海上火災・第一機罐の3社を解散合併し、資本金3,390万円(4分の1払込済)をもって創立された
    • [15]従前安田系姉妹会社の関係にあった損害保険5社と第一機罐が安田火災海上をかたちづくり、新発足から1年半で終戦を迎え、この間は戦争保険業務に注力した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「損害保険」概説
    • [11]昭和19年に東京海上・明治火災・三菱海上の3社合併で東京海上火災、東京火災・帝国海上・第一機罐の3社合併で安田火災海上、日本火災・帝国火災・日本海上の3社で日本火災海上などが生まれ、50社以上あった損保は終戦時に16社になった
    • [13]昭和19年に朝日海上・共同火災・神戸海上・横浜火災の4社が合併して同和火災海上が生まれた(会社銀行八十年史「損害保険」概説に「朝日海上、共同火災、神戸海上、横浜火災の四社合併で同和火災海上」と記載)
  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第67期・2010年6月開示)【沿革】
    • [12]東京火災は昭和16年11月に太平火災海上保険を、昭和18年2月に東洋火災保険を合併し、帝国海上は昭和18年2月に第一火災海上保険を合併した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「安田火災海上」
    • [14]安田火災海上保険は昭和19年2月に国策に応じて東京火災海上・帝国海上火災・第一機罐の3社を解散合併し、資本金3,390万円(4分の1払込済)をもって創立された
    • [15]従前安田系姉妹会社の関係にあった損害保険5社と第一機罐が安田火災海上をかたちづくり、新発足から1年半で終戦を迎え、この間は戦争保険業務に注力した

1945年〜 戦時補償の打切りを資本金を削らずに越え、一万四千の代理店で再建した戦後

  1. 1948年戦時補償打切りに伴う再建整備で旧勘定を最終処理し、資本金を切り捨てずに損失を補填
  2. 1954年数次の増資を経て資本金10億円
  3. 1958年ブラジルに Yasuda Seguros S.A. を設立
  4. 1962年米国に The Yasuda Fire & Marine Insurance Company of America を設立
  5. 1976年本社を東京都千代田区から東京都新宿区へ移転

損害保険ジャパンの業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

資本金を切り捨てずに終えた再建整備

終戦は、安田火災から二つのものを奪った。一つは東京火災と帝国海上の時代に長年かけて築いた海外市場と海外営業機構で、これは全部失われた。もう一つは国内の引受基盤で、戦災による被保険物件の滅失と大火の頻発が重なった。損保業界全体でも、終戦時に7億円あった資産は1948年1月には5億3,600万円に減り、そのうち新勘定に属する資産は3億2,000万円にすぎなかった。戦時補償の打切りは、保険会社にとって帳簿上の資産が消えることを意味した。引き受けた危険も、それに備えて積んだ資産も、同時に失われた。 [16][17]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「安田火災海上」
    • [16]終戦で東京火災・帝国海上時代に培った海外市場と海外営業機構を全部喪失し、国内では戦災による被保険物件の滅失と大火の頻発が重なった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「損害保険」概説
    • [17]終戦時に7億円あった損保会社の資産は昭和23年1月に5億3,600万円となり、うち新勘定資産は3億2,000万円にすぎなかった

それでも安田火災の再建整備は、他社に比べて有利に決着した。1948年3月の旧勘定の最終処理で、資本金を切り捨てることなく、損失金を旧勘定の剰余金と諸積立金の戻し入れで埋めた。戦後の再建整備では資本金の切捨てを迫られる会社が多かったなかで、資本を減らさずに旧勘定を閉じられたことは、その後の増資余力を残した。合併三社が積み上げた積立金の厚みが、戦時補償の打切りを吸収したとみることができる。1944年の企業整備は国策に従わされた統合だったが、三社ぶんの剰余金と積立金を一つの帳簿に集めた結果として、戦後の清算では会社を守る側に働いた。 [18]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「安田火災海上」
    • [18]戦時補償打切りに伴う再建整備は昭和23年3月の旧勘定の最終処理において資本金の切捨てをすることなく、損失金を旧勘定の剰余金および諸積立金の戻入れによって補填した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「安田火災海上」
    • [16]終戦で東京火災・帝国海上時代に培った海外市場と海外営業機構を全部喪失し、国内では戦災による被保険物件の滅失と大火の頻発が重なった
    • [18]戦時補償打切りに伴う再建整備は昭和23年3月の旧勘定の最終処理において資本金の切捨てをすることなく、損失金を旧勘定の剰余金および諸積立金の戻入れによって補填した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「損害保険」概説
    • [17]終戦時に7億円あった損保会社の資産は昭和23年1月に5億3,600万円となり、うち新勘定資産は3億2,000万円にすぎなかった

契約準備金積立率一二一%と、一万四千店の代理店網

復興が進むにつれて業績は戻り、朝鮮動乱の勃発後は景気の活況を映して伸びが加速した。1954年度の契約高は2兆761億円、総収入保険料は82億1,500万円、契約準備金は61億4,300万円に達している。契約準備金の純正味収入保険料50億6,700万円に対する積立率は121.2%で、この時期の損保としては厚い部類にあった。増資も有償・無償を合わせて数次にわたり、1954年2月に資本金10億円となる。損保業界の資本金総額が1949年3月末の3億5,500万円から1955年3月末に92億4,000万円へと約30倍に膨らんだ増資の波の、一角を占めた。 [19][20]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「安田火災海上」
    • [19]昭和29年度の契約高は2兆761億円、総収入保険料82億1,500万円、契約準備金61億4,300万円で、純正味収入保険料50億6,700万円に対する契約準備金の積立率は121.2%、昭和29年2月に資本金10億円となった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「損害保険」概説
    • [20]損保業界の資本金総額は昭和24年3月末の3億5,500万円から昭和30年3月末には92億4,000万円となり約30倍に膨張した

数字を支えたのは営業機構の再建である。強制疎開と戦災で受けた損害から立ち直り、1955年時点で本店のほかに29支店・93営業所・23支部・13駐在所を置き、代理店は1万4,000余を数えた。損害保険は代理店が契約を取り、事故が起きれば損害調査の網が動く事業であり、店舗と代理店の数がそのまま引受能力になる。合わせて事務処理の合理化にはIBMの統計機械組織を採り入れ、1949年には本社に防災課を設けて火災予防の方法を研究させた。引き受けた危険を減らす発想は、第一機罐の予防検査から続くものであった。 [21]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「安田火災海上」
    • [21]1955年時点で本店のほか29支店・93営業所・23支部・13駐在所を有し、1万4,000余の代理店を設けていた。事務処理合理化にIBM統計機械組織を採用し、昭和24年には本社に防災課を設置して科学的な火災予防の方法を研究した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「安田火災海上」
    • [19]昭和29年度の契約高は2兆761億円、総収入保険料82億1,500万円、契約準備金61億4,300万円で、純正味収入保険料50億6,700万円に対する契約準備金の積立率は121.2%、昭和29年2月に資本金10億円となった
    • [21]1955年時点で本店のほか29支店・93営業所・23支部・13駐在所を有し、1万4,000余の代理店を設けていた。事務処理合理化にIBM統計機械組織を採用し、昭和24年には本社に防災課を設置して科学的な火災予防の方法を研究した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「損害保険」概説
    • [20]損保業界の資本金総額は昭和24年3月末の3億5,500万円から昭和30年3月末には92億4,000万円となり約30倍に膨張した

引き受け種目の拡張と、機関投資家としての損保

引受種目も広がった。合併三社から受け継いだ12種目に、1947年に競走馬保険、1950年に輸出信用保険、1952年に保証保険を加えている。もう一つ、この時期の損保が持っていた顔は機関投資家としてのそれである。1950年代半ばの上場会社の株主・取引先一覧には、東京海上火災・大正海上火災・大阪住友海上とともに安田火災海上保険の名が並んでいた。保険料として集めた資金を株式に振り向ける立場は、後年の政策保有株の問題につながる原型でもあった。損害保険は保険料を先に受け取り、支払いは事故が起きたときに行う。その時間差が生む資金をどこに置くかという判断が、引受と並ぶもう一つの収益源になった。 [22][23]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「安田火災海上」
    • [22]合併三社から受け継いだ火災・海上・運送・傷害・信用・自動車・航空・盗難・風水害・ガラス・機関・汽缶の各種保険に加え、昭和22年に競走馬、25年に輸出信用、27年に保証の各保険を加えた
  • 証券 1954年(2)(54)「東京特殊電線株式会社」
    • [23]1954年から1956年の上場会社紹介記事の株主・取引先一覧に、東京海上火災保険・大正海上火災保険・大阪住友海上火災保険と並んで安田火災海上保険の名が記載されている

事業の外への広がりも始まった。1958年9月にブラジルでYasuda Seguros S.A.を、1962年8月に米国でThe Yasuda Fire & Marine Insurance Company of Americaを設立し、戦争で失った海外機構を自前の現地法人として組み直していく。国内では1976年7月、本社を東京都千代田区から新宿区へ移した。移転先は新宿副都心に建てた超高層ビルで、その42階に開いた美術館が、11年後にゴッホ「ひまわり」を収めた。以後2010年に上場を終えるまで、本社所在地は新宿から動いていない。 [24][25][26]

  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第67期・2010年6月開示)【沿革】
    • [24]安田火災は昭和33年9月にブラジルでYasuda Seguros S.A.を、昭和37年8月に米国でThe Yasuda Fire & Marine Insurance Company of Americaを設立した
    • [25]安田火災は昭和51年7月に本社を東京都千代田区から東京都新宿区へ移転した
    • [26]有価証券報告書【沿革】は昭和51年7月の移転先を「現在の東京都新宿区」と記し、第67期(2010年3月期)まで本社所在地の変更記載はない
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「安田火災海上」
    • [22]合併三社から受け継いだ火災・海上・運送・傷害・信用・自動車・航空・盗難・風水害・ガラス・機関・汽缶の各種保険に加え、昭和22年に競走馬、25年に輸出信用、27年に保証の各保険を加えた
  • 証券 1954年(2)(54)「東京特殊電線株式会社」
    • [23]1954年から1956年の上場会社紹介記事の株主・取引先一覧に、東京海上火災保険・大正海上火災保険・大阪住友海上火災保険と並んで安田火災海上保険の名が記載されている
  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第67期・2010年6月開示)【沿革】
    • [24]安田火災は昭和33年9月にブラジルでYasuda Seguros S.A.を、昭和37年8月に米国でThe Yasuda Fire & Marine Insurance Company of Americaを設立した
    • [25]安田火災は昭和51年7月に本社を東京都千代田区から東京都新宿区へ移転した
    • [26]有価証券報告書【沿革】は昭和51年7月の移転先を「現在の東京都新宿区」と記し、第67期(2010年3月期)まで本社所在地の変更記載はない

1980年〜 「損保の野武士集団」と呼ばれた営業力と、ゴッホ「ひまわり」が担った企業ブランド

  1. 1986年安田火災投資顧問株式会社を設立
  2. 1987年ロンドンのクリスティーズでゴッホ「ひまわり」を約53億円(手数料を含む取得額は約58億円)で落札
  3. 1989年シンガポールに Yasuda Fire & Marine Insurance Co (Asia) Pte Ltd を設立
  4. 1993年アイ・エヌ・エイ生命保険株式会社の株式10%を取得
  5. 1993年英国に The Yasuda Kasai Insurance Company of Europe Limited を設立

損害保険ジャパンの業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

東京海上への挑戦者が身につけた営業の型

1980年代の安田火災を業界の外から見たときの呼び名が「損保の野武士集団」であった。護送船団行政のもとで商品も価格も横並びだった当時の損保にあって、差がつく余地は営業の量と密度にしかない。首位の東京海上に対して挑戦者の位置を降りず、そこで培った拡販の型が社風として定着した。後藤康男会長は1994年に「当社は業界2位です。新しい挑戦を掲げなければ、トップにはなれません」と書いている。二位であることを前提に据えた自己認識であり、そこから出てくる行動は営業の量に振れた。この呼び名は20年以上あとまで同社に付いて回る。 [27][28]

  • 日経ビジネス 1994年8月22日号「有訓無訓 論語とテクノロジー」
    • [27]後藤康男・安田火災海上保険会長は1994年8月の寄稿で「当社は業界2位です。新しい挑戦を掲げなければ、トップにはなれません」と述べた
  • 週刊東洋経済 2006年6月10日号「損保ジャパンに厳罰 業界の顧客軽視露呈」
    • [28]損保ジャパンは営業力の強さから「野武士集団」と呼ばれてきた

同時代の損保は、商品の多様化で伸びしろを探していた。積立保険の開発が相次ぎ、高齢化を見込んで医療・介護・年金の分野で商品が作られ、各種の賠償責任保険も売り出された。だが総資産の伸びは1980年代後半に比べて平成に入ると鈍る。主力の自動車保険では損害率が高まり、バブル期に集めた積立保険が満期を迎える時期が近づいていた。安定していると見られてきた損害保険会社にも、経営の転機が迫っていた。銀行や生命保険が不良債権と逆ざやで傷んだのに対し、損保は保険期間が1年と短く資産の劣化が軽い業種とされてきた。その相対的な健全さが、自由化の衝撃を遅れて受ける理由にもなった。 [29]

  • 日本産業史 第4巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [29]昭和60年代から平成の損害保険は積立保険の開発ラッシュが続き、医療・介護・年金分野や賠償責任保険が開発されたが、総資産の伸びは平成に入って鈍り、自動車保険の損害率上昇とバブル期の積立保険の満期到来で経営の転機を迎えた
  • 日経ビジネス 1994年8月22日号「有訓無訓 論語とテクノロジー」
    • [27]後藤康男・安田火災海上保険会長は1994年8月の寄稿で「当社は業界2位です。新しい挑戦を掲げなければ、トップにはなれません」と述べた
  • 週刊東洋経済 2006年6月10日号「損保ジャパンに厳罰 業界の顧客軽視露呈」
    • [28]損保ジャパンは営業力の強さから「野武士集団」と呼ばれてきた
  • 日本産業史 第4巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [29]昭和60年代から平成の損害保険は積立保険の開発ラッシュが続き、医療・介護・年金分野や賠償責任保険が開発されたが、総資産の伸びは平成に入って鈍り、自動車保険の損害率上昇とバブル期の積立保険の満期到来で経営の転機を迎えた

一枚の絵に投じた五十億円超と、企業の文化という説明

1987年3月30日、安田火災はロンドンのクリスティーズでゴッホ「ひまわり」を落札した。落札額は約53億円、手数料を含む取得額は当時の報道で約58億円と伝えられている。損害保険という業種の会社が1枚の絵にこれだけを投じた理由は、資産運用の言葉では説明しきれない。同社は1976年から本社ビル42階に東郷青児美術館を持っていたが、館蔵の最高額は岸田劉生の8,000万円ほどで、人を呼ぶ核を欠いていた。翌1988年8月、後藤康男社長は日経ビジネスの編集長インタビューに「会社にも文化の香りを」という表題で応じている。 [30][31][32]

  • 日本経済新聞 2020年3月27日「3月30日 ゴッホの『ひまわり』 安田火災が53億円で落札」
    • [30]1987年3月30日に安田火災がゴッホ「ひまわり」を約53億円で落札した
  • 週刊東洋経済 2003年3月15日号「絵画ビジネスの舞台裏『ゴッホ』日本人を走らす」
    • [31]1987年に安田火災海上保険がゴッホ「ひまわり」を58億円で落札し、同社の美術館で公開を続けた
  • 日経ビジネス 1988年8月15日号「編集長インタビュー 後藤康男[安田火災海上保険社長]『会社にも文化の香りを』」
    • [32]安田火災は1976年7月に本社ビル42階へ東郷青児美術館を開館しており、館蔵の岸田劉生は8,000万円ほどで美術館の目玉を欠いていた

後藤社長は落札の効果を、資産の価値ではなく会社の名が知られたことに置いた。「200カ国以上の国でうちの会社のことがニュースになったことの意味のほうが大きい。世界で日本の損保会社を知っている人なんていなかったけれど、ゴッホの絵を買った日本の損保会社として知られるようになりましたからね」。買ったのは絵であると同時に、会社の名前が語られる回路であった。同年10月、美術館は「安田火災東郷青児美術館」と改称して一般公開を始めている。買った作品を倉庫に収めず本社ビルの高層階で見せるという選択が、後年この落札を他のバブル期の名画取引から分ける点になった。 [33][34]

  • 日経ビジネス 1988年8月15日号「編集長インタビュー 後藤康男[安田火災海上保険社長]『会社にも文化の香りを』」
    • [33]後藤康男社長は落札の効果として「200カ国以上の国でうちの会社のことがニュースになった」ことを挙げ、ゴッホの絵を買った日本の損保会社として知られるようになったと述べた
  • SOMPO美術館「SOMPO美術館の沿革」
    • [34]1987年10月に東郷青児美術館は「安田火災東郷青児美術館」へ改称し、ゴッホ「ひまわり」の一般公開を始めた

バブル期の日本企業による名画の買い集めは、後年ほぼすべてが批判の対象になった。1990年には大昭和製紙の斉藤了英名誉会長がゴッホ「医師ガシェの肖像」を125億円で落札してオークション史上最高値をつけたが、経営が行き詰まると絵の所在は分からなくなり、1999年にメトロポリタン美術館が展覧会のために探しても見つからなかった。同じ時期に買われた作品の多くが海外へ流出するか行方不明になったなかで、安田火災の「ひまわり」は自社の美術館で公開され続けた。買った動機の当否とは別に、公開を続けたという事実が残っている。 [35][36]

  • 週刊東洋経済 2003年3月15日号「絵画ビジネスの舞台裏『ゴッホ』日本人を走らす」
    • [35]1990年に斉藤了英氏がゴッホ「医師ガシェの肖像」を125億円で落札してオークション史上最高値を記録したが、その後所在不明となり1999年にメトロポリタン美術館が探しても発見できなかった
    • [36]安田火災が落札した「ひまわり」はバブル崩壊後も海外流出を免れ、損保ジャパン美術館で公開された
  • 日本経済新聞 2020年3月27日「3月30日 ゴッホの『ひまわり』 安田火災が53億円で落札」
    • [30]1987年3月30日に安田火災がゴッホ「ひまわり」を約53億円で落札した
  • 週刊東洋経済 2003年3月15日号「絵画ビジネスの舞台裏『ゴッホ』日本人を走らす」
    • [31]1987年に安田火災海上保険がゴッホ「ひまわり」を58億円で落札し、同社の美術館で公開を続けた
    • [35]1990年に斉藤了英氏がゴッホ「医師ガシェの肖像」を125億円で落札してオークション史上最高値を記録したが、その後所在不明となり1999年にメトロポリタン美術館が探しても発見できなかった
    • [36]安田火災が落札した「ひまわり」はバブル崩壊後も海外流出を免れ、損保ジャパン美術館で公開された
  • 日経ビジネス 1988年8月15日号「編集長インタビュー 後藤康男[安田火災海上保険社長]『会社にも文化の香りを』」
    • [32]安田火災は1976年7月に本社ビル42階へ東郷青児美術館を開館しており、館蔵の岸田劉生は8,000万円ほどで美術館の目玉を欠いていた
    • [33]後藤康男社長は落札の効果として「200カ国以上の国でうちの会社のことがニュースになった」ことを挙げ、ゴッホの絵を買った日本の損保会社として知られるようになったと述べた
  • SOMPO美術館「SOMPO美術館の沿革」
    • [34]1987年10月に東郷青児美術館は「安田火災東郷青児美術館」へ改称し、ゴッホ「ひまわり」の一般公開を始めた

真贋が確定するまでの十五年と、生命保険への足がかり

もっとも、この作品には長い付帯条件がついていた。落札にあたってクリスティーズが真作を保証していたにもかかわらず、その後長く真贋論争にさらされ、ゴッホ美術館が「真作に間違いなし」と判定したのは2002年3月のことである。落札から15年、会社の名を冠した美術館で公開しながら、作品の真贋が確定しない期間を抱えていた。企業が知名度のために美術品を買う判断には、支払った価格とは別の危険がついて回る。落札の翌年に後藤社長が語った効果は世界での報道であり、その報道が真贋論争へ転じれば同じ回路が逆向きに働く。判定が下りるまでの15年間、会社は自力では反証できない疑いを抱えたまま公開を続けた。 [37]

  • 週刊東洋経済 2003年3月15日号「絵画ビジネスの舞台裏『ゴッホ』日本人を走らす」
    • [37]「ひまわり」はクリスティーズが真作を保証していたにもかかわらず長く真贋論争にさらされ、2002年3月にゴッホ美術館が真作と判定した

1980年代後半から1990年代前半にかけて、安田火災は損害保険の外側に手を伸ばしている。1986年2月に安田火災投資顧問を設立し、1989年12月にシンガポール、1993年12月に英国で現地法人を立ち上げた。戦争で失った海外機構を、40年をかけて自前で組み直した形である。1993年7月には米Life Insurance Company of North Americaからアイ・エヌ・エイ生命保険の株式10%を取得した。生命保険への参入を、子会社の新設ではなく既存の生保への出資から始めた点が、後の判断につながっていく。 [38]

  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第67期・2010年6月開示)【沿革】
    • [38]安田火災は昭和61年2月に安田火災投資顧問、平成元年12月にシンガポール、平成5年12月に英国で現地法人を設立し、平成5年7月にLife Insurance Company of North Americaからアイ・エヌ・エイ生命保険の株式10%を取得した
  • 週刊東洋経済 2003年3月15日号「絵画ビジネスの舞台裏『ゴッホ』日本人を走らす」
    • [37]「ひまわり」はクリスティーズが真作を保証していたにもかかわらず長く真贋論争にさらされ、2002年3月にゴッホ美術館が真作と判定した
  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第67期・2010年6月開示)【沿革】
    • [38]安田火災は昭和61年2月に安田火災投資顧問、平成元年12月にシンガポール、平成5年12月に英国で現地法人を設立し、平成5年7月にLife Insurance Company of North Americaからアイ・エヌ・エイ生命保険の株式10%を取得した

1996年〜 料率自由化が壊した同一価格の前提と、提携・合併を経て統合で閉じた十五年

  1. 1998年損害保険料率算定会の料率使用義務が廃止され、損保の価格競争が始まる
  2. 1999年平野浩志氏が安田火災の社長に就任
  3. 2000年第一生命と包括業務提携を締結し、生損保の相互販売に踏み出す
  4. 2002年安田火災と日産火災が合併し、商号を株式会社損害保険ジャパンへ変更
  5. 2002年会社更生手続を経た大成火災を合併し、三社の結集が完了
  6. 2006年保険金不払いと契約手続の不正で金融庁から業務停止命令を受け、平野浩志社長の退任と佐藤正敏氏の社長昇格を発表
  7. 2010年日本興亜損害保険と経営統合し、株式移転により共同持株会社NKSJホールディングスを設立、上場廃止

損害保険ジャパンの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

同一価格・同一商品という前提が崩れた日

自由化は二段階で来た。1996年の保険業法改正で生命保険と損害保険の相互参入が解禁され、上位各社は競うように子会社を設立する。続く1998年7月、損害保険料率算定会の料率使用義務が廃止された。それまで損保各社はほとんど同じ商品を同じ価格で売っており、規制のもとでは顧客の要求を読む力は磨かれない。自由化と同時に外資が通信販売のリスク細分型自動車保険を持ち込み、価格競争が始まった。市場は飽和し、保険金の支払いは増える。経営統合で損害率と事業費率を下げなければ利益が残らないという危機感が業界を覆い、1999年秋から合従連衡が加速した。 [39][40][41]

  • 週刊東洋経済 2000年9月9日号「野望『最強・最優』への道険し 第一生命、安田火災提携」
    • [39]1996年に生損保の相互参入が解禁され、上位各社は競うように子会社を設立したが、全体としては当初見込んだ成果を収めていなかった
  • 週刊東洋経済 2001年12月22日号「『最後の砦』損保にも募る健全性への不安」
    • [40]1998年7月の料率算定会の料率使用義務廃止と外資参入で価格競争が激化し、経営統合により損害率・事業費率を引き下げなければ利益が残らないという危機感が広がった
  • 週刊東洋経済 1999年5月1日号「キーパーソン 安田火災海上保険社長 平野浩志」
    • [41]料率使用義務が廃止された1998年7月まで損保各社はほとんど同じ商品・サービスを提供しており、規制のもとでマーケットニーズへの嗅覚は磨かれてこなかった

1999年4月に社長へ就いた平野浩志氏は、この時期にも単独での競争力を掲げた。新型の自動車保険「カーオーナーズ保険」を投入し、多くの損保が収入保険料を減らした1999年1〜3月に、既存会社でトップの増加率を記録している。1万2,000人近い社員と7万を超える代理店を抱える体制で、販売チャネルは代理店から変えないと明言した。生命保険への参入も、他社が子会社を新設したのに対し、アイ・エヌ・エイひまわり生命との提携を強め、1999年3月に出資比率を39%へ引き上げる道を採った。新しく会社を作るのではなく、既にある生保の株を買い増す形である。 [42][43]

  • 週刊東洋経済 1999年5月1日号「キーパーソン 安田火災海上保険社長 平野浩志」
    • [42]平野浩志社長は1999年4月の就任直後、新自動車保険「カーオーナーズ保険」を牽引役に既存会社トップの増加率を記録した
    • [43]安田火災は生保参入で子会社新設ではなくアイ・エヌ・エイひまわり生命との提携強化を選び、1999年3月に出資比率を39%へ引き上げた。社員は1万2,000人近く、代理店は7万を超えていた

2000年9月、安田火災は第一生命と包括業務提携を結んだ。同年8月に金融庁が保険会社同士の販売代理契約を認める方針を示したことが後押しとなり、保険会社がメーカー機能を他社に委ねて販社として生きる道が開けた。第一生命は損保のメーカー機能を手放し、安田火災は第一生命の営業職員という販売ルートを得る。両社はこの時点で経営統合の可能性はないと明言していた。損保同士で規模を並べるのではなく、生保から販路を借りるという選択である。第一生命の損保子会社だった第一ライフ損保は1999年度の正味収入保険料が約150億円と事業計画の7〜8割にとどまっており、単独では将来の展望を描けなくなっていた。 [44][45][46]

  • 週刊東洋経済 2000年9月9日号「野望『最強・最優』への道険し 第一生命、安田火災提携」
    • [44]第一生命の子会社である第一ライフ損保の1999年度の正味収入保険料は約150億円で事業計画に比べ7〜8割の規模にとどまり、単独では将来の展望を描けなくなっていた
    • [45]2000年8月に金融庁が保険会社同士の販売代理契約を認める方針を示したことが後押しとなり、第一生命と安田火災は包括業務提携で合意した。第一生命は損保のメーカー機能を手放し、安田火災は第一生命の営業職員という新しい販売ルートを得た
    • [46]提携時点で両社は経営統合の可能性はないと明言していた
  • 週刊東洋経済 2000年9月9日号「野望『最強・最優』への道険し 第一生命、安田火災提携」
    • [39]1996年に生損保の相互参入が解禁され、上位各社は競うように子会社を設立したが、全体としては当初見込んだ成果を収めていなかった
    • [44]第一生命の子会社である第一ライフ損保の1999年度の正味収入保険料は約150億円で事業計画に比べ7〜8割の規模にとどまり、単独では将来の展望を描けなくなっていた
    • [45]2000年8月に金融庁が保険会社同士の販売代理契約を認める方針を示したことが後押しとなり、第一生命と安田火災は包括業務提携で合意した。第一生命は損保のメーカー機能を手放し、安田火災は第一生命の営業職員という新しい販売ルートを得た
    • [46]提携時点で両社は経営統合の可能性はないと明言していた
  • 週刊東洋経済 2001年12月22日号「『最後の砦』損保にも募る健全性への不安」
    • [40]1998年7月の料率算定会の料率使用義務廃止と外資参入で価格競争が激化し、経営統合により損害率・事業費率を引き下げなければ利益が残らないという危機感が広がった
  • 週刊東洋経済 1999年5月1日号「キーパーソン 安田火災海上保険社長 平野浩志」
    • [41]料率使用義務が廃止された1998年7月まで損保各社はほとんど同じ商品・サービスを提供しており、規制のもとでマーケットニーズへの嗅覚は磨かれてこなかった
    • [42]平野浩志社長は1999年4月の就任直後、新自動車保険「カーオーナーズ保険」を牽引役に既存会社トップの増加率を記録した
    • [43]安田火災は生保参入で子会社新設ではなくアイ・エヌ・エイひまわり生命との提携強化を選び、1999年3月に出資比率を39%へ引き上げた。社員は1万2,000人近く、代理店は7万を超えていた

三社合併の決断と、破綻を抱き込んだ発足

その2か月後、単独路線は撤回された。2000年11月、安田火災は業界11位の日産火災、15位の大成火災と2002年4月の合併を目指すことで合意する。三社の正味収入保険料シェアは合計18.7%で、三井・住友連合を上回る計算であった。背中を押したのは東京海上である。東京海上が日動火災・朝日生命との統合を明らかにしたことで、事業費率など内容面では勝ると構えてきた安田火災も、規模では首位連合の半分強に落ちる形勢になった。「規模が収益を決めるというのは規制時代のこと」と語りながら、平野社長は規模拡大を優先する道を選んだ。 [47][48]

  • 週刊東洋経済 2000年11月18日号「一巡合併の決断迫られた安田火災 損保再編の第一幕は終了へ」
    • [47]2000年11月に安田火災は11位の日産火災、15位の大成火災と2002年4月の合併で合意し、三社の正味収入保険料シェアは合計18.7%で三井・住友連合を上回る計算だった
    • [48]東京海上が日動火災・朝日生命との統合を表明したことで安田火災は規模で半分強の存在になる形勢となり、平野社長は「規模が収益を決めるというのは規制時代のこと」と語りながら経営統合のリスクを冒しても規模拡大を優先する道を選んだ

統合の準備そのものが、想定していなかった事実を掘り起こした。2001年1月に始めた合併デューデリジェンスで、大成火災と日産火災が米国の再保険アレンジャーに運用を任せきりにしていた金融再保険の簿外債務が浮かび上がる。精査を米監査法人に依頼した翌日に米同時多発テロが起き、航空保険に偏ったポートフォリオが損失を確定させた。11月22日、大成火災は744億円の損失で398億円の債務超過に陥り、更生特例法の適用を申請する。安田火災と日産火災はスポンサーに就いて合併の枠組みを守り、2002年7月に損害保険ジャパンが発足、同年12月に大成火災を合併して三社の結集を終えた。 [49][50][51]

  • 週刊東洋経済 2001年12月8日号「まさかの大成火災破綻 巨額損失続出で露呈した損保会社のリスク管理不在」
    • [49]2001年11月22日に大成火災が744億円の損失で398億円の債務超過に陥り更生特例法を申請した。簿外債務は2001年1月から始めた三社合併のデューデリジェンスで発覚した
    • [51]2001年9月10日に会計監査法人の米PwCへ調査を依頼してスタッフが現地入りし、その翌日に米同時多発テロが発生した。FR社の組んだポートフォリオは航空保険に偏っていた
  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第67期・2010年6月開示)【沿革】
    • [50]安田火災と日産火災は2002年7月に合併して商号を株式会社損害保険ジャパンへ変更し、同年12月に大成火災を合併した

合併の効果は数字にすぐ表れた。連結の経常収益は2002年3月期の1兆4,137億円から2004年3月期に1兆8,971億円へ増えている。ただし合併を挟んだ2期は赤字で、2002年3月期は経常損失584億円・当期純損失535億円、2003年3月期も経常損失238億円・当期純損失293億円を計上した。破綻会社の契約を引き取りながらの発足であり、利益が戻るのは2004年3月期の当期純利益551億円を待った。成果が順位に現れたのはその翌年である。2003年度の自動車保険の営業成績速報値で、損保ジャパンは125周年を迎える東京海上を44億円上回り、初めて首位に立った。第一生命ルートからの自動車保険収入は推定300億円とされ、生保から販路を借りるという2000年の選択が3年後の順位に現れた。 [52]

  • 週刊東洋経済 2004年4月24日号「国内損保 自動車保険125年で初の首位陥落」
    • [52]2003年度の自動車保険営業成績速報値で損保ジャパンが東京海上を44億円上回って初めて首位に立ち、第一生命ルートからの自動車保険収入は推定300億円とされた
  • 週刊東洋経済 2000年11月18日号「一巡合併の決断迫られた安田火災 損保再編の第一幕は終了へ」
    • [47]2000年11月に安田火災は11位の日産火災、15位の大成火災と2002年4月の合併で合意し、三社の正味収入保険料シェアは合計18.7%で三井・住友連合を上回る計算だった
    • [48]東京海上が日動火災・朝日生命との統合を表明したことで安田火災は規模で半分強の存在になる形勢となり、平野社長は「規模が収益を決めるというのは規制時代のこと」と語りながら経営統合のリスクを冒しても規模拡大を優先する道を選んだ
  • 週刊東洋経済 2001年12月8日号「まさかの大成火災破綻 巨額損失続出で露呈した損保会社のリスク管理不在」
    • [49]2001年11月22日に大成火災が744億円の損失で398億円の債務超過に陥り更生特例法を申請した。簿外債務は2001年1月から始めた三社合併のデューデリジェンスで発覚した
    • [51]2001年9月10日に会計監査法人の米PwCへ調査を依頼してスタッフが現地入りし、その翌日に米同時多発テロが発生した。FR社の組んだポートフォリオは航空保険に偏っていた
  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第67期・2010年6月開示)【沿革】
    • [50]安田火災と日産火災は2002年7月に合併して商号を株式会社損害保険ジャパンへ変更し、同年12月に大成火災を合併した
  • 週刊東洋経済 2004年4月24日号「国内損保 自動車保険125年で初の首位陥落」
    • [52]2003年度の自動車保険営業成績速報値で損保ジャパンが東京海上を44億円上回って初めて首位に立ち、第一生命ルートからの自動車保険収入は推定300億円とされた

行政処分が突いた営業至上主義と、統合で閉じた百二十三年

もっとも東京海上には同年10月に日動火災と合併する予定があり、日動との合算では損保ジャパンに1,950億円の差をつけていた。単独での逆転は一度きりで終わる。2006年5月、その営業力が別の形で露呈した。金融庁は損保ジャパンに対し、損保販売2週間(山口支社は1か月)、生保販売1か月、新商品開発と海外拠点の新設3か月の停止という行政処分を下した。保険金の不払い調査で人員配置を怠り、営業現場では顧客の印鑑を無断で作って契約を更新し、山口支店では検査が入ってから印鑑を破棄していた。生保では加入意思のない人に契約させる水増し販売が横行し、香港支店では保険証券の偽造まで起きていた。平野社長は「経営陣が現場の実態を把握できなかった」と述べ、佐藤正敏氏への社長交代が発表された。不払いは1社の問題でもなかった。同じ年に損保26社で31万8,000件・187億円の自動車保険金の支払い漏れが明らかになっている。 [53][54][55][56]

  • 週刊東洋経済 2006年6月10日号「損保ジャパンに厳罰 業界の顧客軽視露呈」
    • [53]2006年5月に金融庁は損保ジャパンに対し損保販売2週間(山口支社は1カ月)、生保販売1カ月、新商品開発・海外拠点新設3カ月の停止処分を下した。保険金不払い調査での人員配置の怠り、印鑑の無断作成による契約更新、山口支店での証拠隠滅、生保の水増し販売、香港支店での保険証券偽造が指摘された
    • [54]平野浩志社長は「経営陣が現場の実態を把握できなかった」と繰り返し、佐藤正敏取締役が社長に昇格する人事が発表された
  • 週刊東洋経済 2004年4月24日号「国内損保 自動車保険125年で初の首位陥落」
    • [55]東京海上は2004年10月に日動火災海上と合併する予定で、日動との合算値では自動車保険で損保ジャパンに1,950億円の差をつけていた
  • 週刊東洋経済 2006年11月18日号「泥沼化する保険金不払い 顧客軽視の損保業界」
    • [56]2006年9月に損保26社で31万8,000件・計187億円の自動車保険金の支払い漏れが明らかになった

最後の数年、単独の損保ジャパンが置かれていた状態は数字に表れている。連結の正味収入保険料は2006年3月期の1兆3,948億円を頂点に減り続け、2010年3月期には1兆2,909億円になった。単体の正味損害率は2006年3月期の61.27%から2010年3月期の73.87%へ12ポイント上がり、正味事業費率も30.34%から34.06%へ上がっている。保険料が減り、支払いと経費の比率が同時に上がる形である。金融危機を挟んだ2009年3月期には経常損失1,441億円・当期純損失667億円を計上し、ソルベンシー・マージン比率は2006年3月期の1,130.9%から628.5%へ落ちた。一方で連結従業員数は15,997人から20,772人へ増えている。セゾン自動車火災保険の子会社化と東南アジア・香港での拠点開設が続いたためで、保険料が減るなかで人員と拠点を広げれば、事業費率は上がる。 [57][58][59][60]

  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第63期・2006年6月開示/第67期・2010年6月開示)「主要な経営指標等の推移」
    • [57]連結正味収入保険料は2006年3月期1,394,783百万円(1兆3,948億円)を頂点に、2007年3月期1,386,662百万円、2008年3月期1,368,740百万円、2009年3月期1,308,194百万円、2010年3月期1,290,948百万円(1兆2,909億円)と5期連続で減少した。2002年3月期999,055百万円以降で2006年3月期が最大である
  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第67期・2010年6月開示)「主要な経営指標等の推移」
    • [58]単体の正味損害率は2006年3月期61.27%、2007年3月期64.27%、2008年3月期65.11%、2009年3月期70.34%、2010年3月期73.87%、正味事業費率は同順に30.34%・30.94%・32.89%・34.51%・34.06%
  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第63期・2006年6月開示/第65期・2008年6月開示/第66期・2009年6月開示/第67期・2010年6月開示)「ソルベンシー・マージン比率」
    • [59]単体のソルベンシー・マージン比率は2006年3月期1,130.9%、2007年3月期1,010.3%、2008年3月期887.9%、2009年3月期628.5%、2010年3月期800.0%。2009年3月期の628.5%は第66期有価証券報告書の当事業年度の開示値である
  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第67期・2010年6月開示)【沿革】
    • [60]2009年7月にセゾン自動車火災保険の株式63.8%を取得して連結子会社化し、2008年9月にSompo Japan Asia Holdings Pte. Ltd.を設立、2010年1月に元受営業を開始したSompo Japan Insurance (Hong Kong) Company Limitedを連結子会社化した

2010年4月1日、損害保険ジャパンは日本興亜損害保険と株式移転により共同持株会社NKSJホールディングスを設立し、上場企業としての歴史を終えた。1887年の東京火災保険から数えて123年、1944年の安田火災海上保険の設立から66年である。消えたのは上場と、自ら資本市場に立つ立場であった。残ったのは社名と、代理店網と、2万人を超える従業員で、いずれも持株会社傘下の事業会社に引き継がれた。会社が消えたのではなく、株主が持株会社一つに置き換わった。三度の頓挫を経て1887年に民間へ落ちた火災保険会社は、123年後に自ら市場から降りる側で幕を閉じた。 [61][62]

  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第67期・2010年6月開示)【沿革】
    • [61]2010年4月に損保ジャパンは日本興亜損害保険と経営統合し、株式移転により共同持株会社NKSJホールディングス株式会社を設立した
    • [62]有限責任東京火災保険会社の設立は1887年7月、安田火災海上保険株式会社の設立は1944年2月である
  • 週刊東洋経済 2006年6月10日号「損保ジャパンに厳罰 業界の顧客軽視露呈」
    • [53]2006年5月に金融庁は損保ジャパンに対し損保販売2週間(山口支社は1カ月)、生保販売1カ月、新商品開発・海外拠点新設3カ月の停止処分を下した。保険金不払い調査での人員配置の怠り、印鑑の無断作成による契約更新、山口支店での証拠隠滅、生保の水増し販売、香港支店での保険証券偽造が指摘された
    • [54]平野浩志社長は「経営陣が現場の実態を把握できなかった」と繰り返し、佐藤正敏取締役が社長に昇格する人事が発表された
  • 週刊東洋経済 2004年4月24日号「国内損保 自動車保険125年で初の首位陥落」
    • [55]東京海上は2004年10月に日動火災海上と合併する予定で、日動との合算値では自動車保険で損保ジャパンに1,950億円の差をつけていた
  • 週刊東洋経済 2006年11月18日号「泥沼化する保険金不払い 顧客軽視の損保業界」
    • [56]2006年9月に損保26社で31万8,000件・計187億円の自動車保険金の支払い漏れが明らかになった
  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第63期・2006年6月開示/第67期・2010年6月開示)「主要な経営指標等の推移」
    • [57]連結正味収入保険料は2006年3月期1,394,783百万円(1兆3,948億円)を頂点に、2007年3月期1,386,662百万円、2008年3月期1,368,740百万円、2009年3月期1,308,194百万円、2010年3月期1,290,948百万円(1兆2,909億円)と5期連続で減少した。2002年3月期999,055百万円以降で2006年3月期が最大である
  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第67期・2010年6月開示)「主要な経営指標等の推移」
    • [58]単体の正味損害率は2006年3月期61.27%、2007年3月期64.27%、2008年3月期65.11%、2009年3月期70.34%、2010年3月期73.87%、正味事業費率は同順に30.34%・30.94%・32.89%・34.51%・34.06%
  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第63期・2006年6月開示/第65期・2008年6月開示/第66期・2009年6月開示/第67期・2010年6月開示)「ソルベンシー・マージン比率」
    • [59]単体のソルベンシー・マージン比率は2006年3月期1,130.9%、2007年3月期1,010.3%、2008年3月期887.9%、2009年3月期628.5%、2010年3月期800.0%。2009年3月期の628.5%は第66期有価証券報告書の当事業年度の開示値である
  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第67期・2010年6月開示)【沿革】
    • [60]2009年7月にセゾン自動車火災保険の株式63.8%を取得して連結子会社化し、2008年9月にSompo Japan Asia Holdings Pte. Ltd.を設立、2010年1月に元受営業を開始したSompo Japan Insurance (Hong Kong) Company Limitedを連結子会社化した
    • [61]2010年4月に損保ジャパンは日本興亜損害保険と経営統合し、株式移転により共同持株会社NKSJホールディングス株式会社を設立した
    • [62]有限責任東京火災保険会社の設立は1887年7月、安田火災海上保険株式会社の設立は1944年2月である

損害保険ジャパンの沿革1887〜2010年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
有限責任東京火災保険会社を設立★★★
東京火災の経営に安田善次郎が参画し、株式組織に改組★★★
帝国海上保険株式会社を設立★★
第一機関汽罐保険株式会社を設立
日本傷害保険株式会社(のちの日産火災海上保険)を設立
大成火災海上保険株式会社を設立
第一機関汽罐が第一機罐保険株式会社へ商号を変更
東京火災が太平火災海上保険を合併★★
東京火災が東洋火災保険を合併★★
帝国海上が第一火災海上保険を合併★★
東京火災・帝国海上・第一機罐の3社が合併し、安田火災海上保険株式会社を設立★★★
戦時補償打切りに伴う再建整備で旧勘定を最終処理し、資本金を切り捨てずに損失を補填★★
数次の増資を経て資本金10億円
ブラジルに Yasuda Seguros S.A. を設立
米国に The Yasuda Fire & Marine Insurance Company of America を設立
本社を東京都千代田区から東京都新宿区へ移転
安田火災投資顧問株式会社を設立
ロンドンのクリスティーズでゴッホ「ひまわり」を約53億円(手数料を含む取得額は約58億円)で落札★★★
シンガポールに Yasuda Fire & Marine Insurance Co (Asia) Pte Ltd を設立
アイ・エヌ・エイ生命保険株式会社の株式10%を取得★★
英国に The Yasuda Kasai Insurance Company of Europe Limited を設立
第一生命が損保子会社の第一ライフ損害保険株式会社を設立
損害保険料率算定会の料率使用義務が廃止され、損保の価格競争が始まる★★
平野浩志氏が安田火災の社長に就任★★
日産火災がディー・アイ・ワイ生命保険株式会社(のちの損保ジャパン・ディー・アイ・ワイ生命保険)を設立
米シグナとの合弁で安田火災シグナ証券株式会社を設立
第一生命と包括業務提携を締結し、生損保の相互販売に踏み出す★★★
安田火災フィナンシャルギャランティー損害保険株式会社を設立
日産火災・大成火災との三社合併を正式発表★★
合併相手の大成火災が再保険損失で経営破綻し、安田火災と日産火災がスポンサーに就く★★
安田火災ひまわり生命保険株式会社の株式100%を取得★★
第一生命の損保子会社である第一ライフ損害保険を合併★★
安田火災と日産火災が合併し、商号を株式会社損害保険ジャパンへ変更★★★
会社更生手続を経た大成火災を合併し、三社の結集が完了★★★
セゾン自動車火災保険株式会社の株式27.7%を取得
損保ジャパン・シグナ証券株式会社の株式100%を取得
2003年度の自動車保険営業成績で東京海上を上回り、初めて首位に立つ★★
中国に Sompo Japan Insurance (China) Co., Ltd. を設立
株式会社損害保険ジャパン・フィナンシャルギャランティーを合併
株式会社ヘルスケア・フロンティア・ジャパンを設立
保険金不払いと契約手続の不正で金融庁から業務停止命令を受け、平野浩志社長の退任と佐藤正敏氏の社長昇格を発表★★★
Sompo Japan Asia Holdings Pte. Ltd. を設立し連結子会社化
株式会社全国訪問健康指導協会の株式100%を取得
ヘルスケア・フロンティア・ジャパンと全国訪問健康指導協会の合併新会社を連結子会社化
セゾン自動車火災保険株式会社の株式63.8%を取得し連結子会社化★★
元受営業を開始した Sompo Japan Insurance (Hong Kong) Company Limited を連結子会社化
日本興亜損害保険と経営統合し、株式移転により共同持株会社NKSJホールディングスを設立、上場廃止★★★
出典・参考
  • 日本産業史 第1巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「保険-輸入知識から出発」
  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第67期・2010年6月開示)【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「安田火災海上」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「損害保険」概説
  • 証券 1954年(2)(54)「東京特殊電線株式会社」
  • 日経ビジネス 1994年8月22日号「有訓無訓 論語とテクノロジー」
  • 週刊東洋経済 2006年6月10日号「損保ジャパンに厳罰 業界の顧客軽視露呈」
  • 日本産業史 第4巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
  • 日本経済新聞 2020年3月27日「3月30日 ゴッホの『ひまわり』 安田火災が53億円で落札」
  • 週刊東洋経済 2003年3月15日号「絵画ビジネスの舞台裏『ゴッホ』日本人を走らす」
  • 日経ビジネス 1988年8月15日号「編集長インタビュー 後藤康男[安田火災海上保険社長]『会社にも文化の香りを』」
  • SOMPO美術館「SOMPO美術館の沿革」
  • 週刊東洋経済 2000年9月9日号「野望『最強・最優』への道険し 第一生命、安田火災提携」
  • 週刊東洋経済 2001年12月22日号「『最後の砦』損保にも募る健全性への不安」
  • 週刊東洋経済 1999年5月1日号「キーパーソン 安田火災海上保険社長 平野浩志」
  • 週刊東洋経済 2000年11月18日号「一巡合併の決断迫られた安田火災 損保再編の第一幕は終了へ」
  • 週刊東洋経済 2001年12月8日号「まさかの大成火災破綻 巨額損失続出で露呈した損保会社のリスク管理不在」
  • 週刊東洋経済 2004年4月24日号「国内損保 自動車保険125年で初の首位陥落」
  • 週刊東洋経済 2006年11月18日号「泥沼化する保険金不払い 顧客軽視の損保業界」
  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第63期・2006年6月開示/第67期・2010年6月開示)「主要な経営指標等の推移」
  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第67期・2010年6月開示)「主要な経営指標等の推移」
  • 損害保険ジャパン 有価証券報告書(第63期・2006年6月開示/第65期・2008年6月開示/第66期・2009年6月開示/第67期・2010年6月開示)「ソルベンシー・マージン比率」

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