{"title":"損害保険ジャパンの歴史概略","sections":[{"start_year":1887,"end_year":1944,"main_title":"東京火災保険と帝国海上保険 ── 安田善次郎が育てた二社が戦時統合で一つになるまで","subsections":[{"title":"政府の火災保険構想が民間に落ちた出発点","text":"日本の火災保険は、政府が自ら手がけようとした事業として構想された。きっかけは1878年にドイツ人パウル・マイエットが発表した「日本家屋保険論」で、政府はこれを受けて公営の火災保険事業を検討した。計画は1881年の政変で立ち消えとなり、案は東京府に引き継がれて府知事の松田道之氏が公営化を図ったが、松田氏の死去で再び宙に浮いた。最終的にこれを引き取ったのは松田氏の縁籍にあたる旧鳥取藩の関係者で、1887年7月、民営の有限責任東京火災保険会社として設立された。三度の頓挫を経て、火災保険は民間の事業として世に出た。\n\n発足したものの、経営はすぐに行き詰まった。保険思想が普及しておらず、各地で大火が頻発したためである。行き詰まった東京火災に1893年6月、安田善次郎氏が経営者として入り、株式組織に改めて建て直しにかかった。海上保険が1879年に渋沢栄一氏の呼びかけで華族の出資団によって東京海上保険会社として始まり、そこに三菱の岩崎弥太郎氏が加わったのに対し、火災保険は安田の手で立て直された。損害保険の二本柱は、それぞれ別の財閥を出発点に持つ。以後の東京火災は安田系の会社として、火災保険に海上と運送を重ねながら業容を広げた。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「安田火災海上」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「日産火災海上」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「損害保険」概説","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻 金融・商業（日本経済新聞社、1994年）「保険－輸入知識から出発」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"損害保険ジャパン 有価証券報告書（第67期・2010年6月開示）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"東京海上に次ぐ海上保険会社と、汽罐保険の独占会社","text":"安田善次郎氏は火災保険の建て直しと並行して、海上保険にも自ら会社を起こした。1893年9月、4人の発起人とともに設立した帝国海上である。日本の海上保険会社としては東京海上に次いで古く、日清・日露の両戦争と第一次世界大戦を機に業容を広げた。当初は海上保険だけを扱っていたが、1899年に日本の会社として初めて運送保険を始め、1902年に火災保険、1929年以降に各種の新種保険を加えた。一方の東京火災も1906年に海上・運送の両保険へ広げ、1930年以降は新種保険を扱うようになる。二社は種目を重ねながら並び立った。\n\n三つ目の源流は毛色が違う。1908年8月に設立された第一機関汽罐保険は、英国の汽缶製造会社バブコック・アンド・ウイルコックス社と日本の紡績関係者らが起こした会社で、機関と汽缶だけを引き受けた。同種の保険を扱う会社が他になかったため、実質的に独占状態が続いた。特徴は引き受けの前に予防検査を行った点にあり、そのためほとんど保険事故が起きなかった。危険を引き受けて保険料を得るのではなく、危険そのものを減らして収支を作る会社であった。1930年11月に第一機罐保険へ商号を改めている。\n\nこの時期、損害保険は乱立と淘汰を繰り返していた。1893年から1903年までの10年間は企業熱の勃興期にあたり、明治火災・日本火災・帝国海上をはじめ30社が設立された。政府は1900年に保険業法を定めて業界の健全化を図り、乱設による競争は法の施行とともに整理されて、日露戦争直後には10社にまで絞られた。1923年の関東大震災は業界全体に大きな損害を与え、その後の不況で各社は弱体化する。減資による整理、大会社への合併、大会社を軸としたブロック化、料率協定の強化が、大正末期から1931年まで続いた。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「安田火災海上」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「日産火災海上」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「損害保険」概説","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻 金融・商業（日本経済新聞社、1994年）「保険－輸入知識から出発」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"損害保険ジャパン 有価証券報告書（第67期・2010年6月開示）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"五十社超を十六社に絞った戦時企業整備と三社合併","text":"太平洋戦争に入ると、業界再編は行政の手で強く進められた。安田系の各社もその流れに乗り、東京火災は1941年11月に太平火災海上を、1943年2月に東洋火災を合併し、帝国海上は同じ1943年2月に第一火災海上を合併した。企業整備は1944年に一気に進み、統合の組み合わせは系列ごとに決められた。東京海上・明治火災・三菱海上の3社が東京海上火災に、日本火災・帝国火災・日本海上の3社が日本火災海上に、朝日海上・共同火災・神戸海上・横浜火災の4社が同和火災海上になるなど、50社を超えていた損保は終戦時に16社まで減った。\n\n1944年2月、東京火災・帝国海上・第一機罐の3社が解散合併し、資本金3,390万円のうち4分の1を払い込んで安田火災海上保険が発足した。それまで安田系の姉妹会社として並んでいた損害保険5社と第一機罐が、一つの会社にまとまった形である。引き継いだ種目は火災・海上・運送・傷害・信用・自動車・航空・盗難・風水害・ガラス・機関・汽缶と広い。ただし新会社に与えられた時間は短く、発足から1年半で終戦を迎える。この間は戦争保険業務に全社をあげて取り組んだ。国策で作られた会社が、国策の保険を引き受けたまま終戦を迎えた。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「安田火災海上」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「日産火災海上」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「損害保険」概説","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻 金融・商業（日本経済新聞社、1994年）「保険－輸入知識から出発」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"損害保険ジャパン 有価証券報告書（第67期・2010年6月開示）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1945,"end_year":1979,"main_title":"戦時補償の打切りを資本金を削らずに越え、一万四千の代理店で再建した戦後","subsections":[{"title":"資本金を切り捨てずに終えた再建整備","text":"終戦は、安田火災から二つのものを奪った。一つは東京火災と帝国海上の時代に長年かけて築いた海外市場と海外営業機構で、これは全部失われた。もう一つは国内の引受基盤で、戦災による被保険物件の滅失と大火の頻発が重なった。損保業界全体でも、終戦時に7億円あった資産は1948年1月には5億3,600万円に減り、そのうち新勘定に属する資産は3億2,000万円にすぎなかった。戦時補償の打切りは、保険会社にとって帳簿上の資産が消えることを意味した。引き受けた危険も、それに備えて積んだ資産も、同時に失われた。\n\nそれでも安田火災の再建整備は、他社に比べて有利に決着した。1948年3月の旧勘定の最終処理で、資本金を切り捨てることなく、損失金を旧勘定の剰余金と諸積立金の戻し入れで埋めた。戦後の再建整備では資本金の切捨てを迫られる会社が多かったなかで、資本を減らさずに旧勘定を閉じられたことは、その後の増資余力を残した。合併三社が積み上げた積立金の厚みが、戦時補償の打切りを吸収したとみることができる。1944年の企業整備は国策に従わされた統合だったが、三社ぶんの剰余金と積立金を一つの帳簿に集めた結果として、戦後の清算では会社を守る側に働いた。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「安田火災海上」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「損害保険」概説","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券（1954年〜1956年）各号「新規上場会社紹介」欄の株主・取引先一覧","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"損害保険ジャパン 有価証券報告書（第67期・2010年6月開示）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"契約準備金積立率一二一％と、一万四千店の代理店網","text":"復興が進むにつれて業績は戻り、朝鮮動乱の勃発後は景気の活況を映して伸びが加速した。1954年度の契約高は2兆761億円、総収入保険料は82億1,500万円、契約準備金は61億4,300万円に達している。契約準備金の純正味収入保険料50億6,700万円に対する積立率は121.2％で、この時期の損保としては厚い部類にあった。増資も有償・無償を合わせて数次にわたり、1954年2月に資本金10億円となる。損保業界の資本金総額が1949年3月末の3億5,500万円から1955年3月末に92億4,000万円へと約30倍に膨らんだ増資の波の、一角を占めた。\n\n数字を支えたのは営業機構の再建である。強制疎開と戦災で受けた損害から立ち直り、1955年時点で本店のほかに29支店・93営業所・23支部・13駐在所を置き、代理店は1万4,000余を数えた。損害保険は代理店が契約を取り、事故が起きれば損害調査の網が動く事業であり、店舗と代理店の数がそのまま引受能力になる。合わせて事務処理の合理化にはIBMの統計機械組織を採り入れ、1949年には本社に防災課を設けて火災予防の方法を研究させた。引き受けた危険を減らす発想は、第一機罐の予防検査から続くものであった。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「安田火災海上」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「損害保険」概説","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券（1954年〜1956年）各号「新規上場会社紹介」欄の株主・取引先一覧","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"損害保険ジャパン 有価証券報告書（第67期・2010年6月開示）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"引き受け種目の拡張と、機関投資家としての損保","text":"引受種目も広がった。合併三社から受け継いだ12種目に、1947年に競走馬保険、1950年に輸出信用保険、1952年に保証保険を加えている。もう一つ、この時期の損保が持っていた顔は機関投資家としてのそれである。1950年代半ばの上場会社の株主・取引先一覧には、東京海上火災・大正海上火災・大阪住友海上とともに安田火災海上保険の名が並んでいた。保険料として集めた資金を株式に振り向ける立場は、後年の政策保有株の問題につながる原型でもあった。損害保険は保険料を先に受け取り、支払いは事故が起きたときに行う。その時間差が生む資金をどこに置くかという判断が、引受と並ぶもう一つの収益源になった。\n\n事業の外への広がりも始まった。1958年9月にブラジルでYasuda Seguros S.A.を、1962年8月に米国でThe Yasuda Fire & Marine Insurance Company of Americaを設立し、戦争で失った海外機構を自前の現地法人として組み直していく。国内では1976年7月、本社を東京都千代田区から新宿区へ移した。移転先は新宿副都心に建てた超高層ビルで、その42階に開いた美術館が、11年後にゴッホ「ひまわり」を収めた。以後2010年に上場を終えるまで、本社所在地は新宿から動いていない。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「安田火災海上」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「損害保険」概説","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券（1954年〜1956年）各号「新規上場会社紹介」欄の株主・取引先一覧","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"損害保険ジャパン 有価証券報告書（第67期・2010年6月開示）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1980,"end_year":1995,"main_title":"「損保の野武士集団」と呼ばれた営業力と、ゴッホ「ひまわり」が担った企業ブランド","subsections":[{"title":"東京海上への挑戦者が身につけた営業の型","text":"1980年代の安田火災を業界の外から見たときの呼び名が「損保の野武士集団」であった。護送船団行政のもとで商品も価格も横並びだった当時の損保にあって、差がつく余地は営業の量と密度にしかない。首位の東京海上に対して挑戦者の位置を降りず、そこで培った拡販の型が社風として定着した。後藤康男会長は1994年に「当社は業界2位です。新しい挑戦を掲げなければ、トップにはなれません」と書いている。二位であることを前提に据えた自己認識であり、そこから出てくる行動は営業の量に振れた。この呼び名は20年以上あとまで同社に付いて回る。\n\n同時代の損保は、商品の多様化で伸びしろを探していた。積立保険の開発が相次ぎ、高齢化を見込んで医療・介護・年金の分野で商品が作られ、各種の賠償責任保険も売り出された。だが総資産の伸びは1980年代後半に比べて平成に入ると鈍る。主力の自動車保険では損害率が高まり、バブル期に集めた積立保険が満期を迎える時期が近づいていた。安定していると見られてきた損害保険会社にも、経営の転機が迫っていた。銀行や生命保険が不良債権と逆ざやで傷んだのに対し、損保は保険期間が1年と短く資産の劣化が軽い業種とされてきた。その相対的な健全さが、自由化の衝撃を遅れて受ける理由にもなった。","references":[{"title":"日経ビジネス 1988年8月15日号「編集長インタビュー 後藤康男［安田火災海上保険社長］『会社にも文化の香りを』」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1994年8月22日号「有訓無訓 論語とテクノロジー」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年3月15日号「絵画ビジネスの舞台裏『ゴッホ』日本人を走らす」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年6月10日号「損保ジャパンに厳罰 業界の顧客軽視露呈」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞 2020年3月27日「3月30日 ゴッホの『ひまわり』 安田火災が53億円で落札」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻 金融・商業（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－バブル発生と崩壊の主役」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"損害保険ジャパン 有価証券報告書（第67期・2010年6月開示）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"一枚の絵に投じた五十億円超と、企業の文化という説明","text":"1987年3月30日、安田火災はロンドンのクリスティーズでゴッホ「ひまわり」を落札した。落札額は約53億円、手数料を含む取得額は当時の報道で約58億円と伝えられている。損害保険という業種の会社が1枚の絵にこれだけを投じた理由は、資産運用の言葉では説明しきれない。同社は1976年から本社ビル42階に東郷青児美術館を持っていたが、館蔵の最高額は岸田劉生の8,000万円ほどで、人を呼ぶ核を欠いていた。翌1988年8月、後藤康男社長は日経ビジネスの編集長インタビューに「会社にも文化の香りを」という表題で応じている。\n\n後藤社長は落札の効果を、資産の価値ではなく会社の名が知られたことに置いた。「200カ国以上の国でうちの会社のことがニュースになったことの意味のほうが大きい。世界で日本の損保会社を知っている人なんていなかったけれど、ゴッホの絵を買った日本の損保会社として知られるようになりましたからね」。買ったのは絵であると同時に、会社の名前が語られる回路であった。同年10月、美術館は「安田火災東郷青児美術館」と改称して一般公開を始めている。買った作品を倉庫に収めず本社ビルの高層階で見せるという選択が、後年この落札を他のバブル期の名画取引から分ける点になった。\n\nバブル期の日本企業による名画の買い集めは、後年ほぼすべてが批判の対象になった。1990年には大昭和製紙の斉藤了英名誉会長がゴッホ「医師ガシェの肖像」を125億円で落札してオークション史上最高値をつけたが、経営が行き詰まると絵の所在は分からなくなり、1999年にメトロポリタン美術館が展覧会のために探しても見つからなかった。同じ時期に買われた作品の多くが海外へ流出するか行方不明になったなかで、安田火災の「ひまわり」は自社の美術館で公開され続けた。買った動機の当否とは別に、公開を続けたという事実が残っている。","references":[{"title":"日経ビジネス 1988年8月15日号「編集長インタビュー 後藤康男［安田火災海上保険社長］『会社にも文化の香りを』」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1994年8月22日号「有訓無訓 論語とテクノロジー」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年3月15日号「絵画ビジネスの舞台裏『ゴッホ』日本人を走らす」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年6月10日号「損保ジャパンに厳罰 業界の顧客軽視露呈」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞 2020年3月27日「3月30日 ゴッホの『ひまわり』 安田火災が53億円で落札」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻 金融・商業（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－バブル発生と崩壊の主役」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"損害保険ジャパン 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2003年3月15日号「絵画ビジネスの舞台裏『ゴッホ』日本人を走らす」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年6月10日号「損保ジャパンに厳罰 業界の顧客軽視露呈」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞 2020年3月27日「3月30日 ゴッホの『ひまわり』 安田火災が53億円で落札」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻 金融・商業（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－バブル発生と崩壊の主役」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"損害保険ジャパン 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1999年5月1日号「キーパーソン 安田火災海上保険社長 平野浩志」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年9月9日号「野望『最強・最優』への道険し 第一生命、安田火災提携」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年11月18日号「一巡合併の決断迫られた安田火災 損保再編の第一幕は終了へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年12月8日号「まさかの大成火災破綻 巨額損失続出で露呈した損保会社のリスク管理不在」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年12月22日号「『最後の砦』損保にも募る健全性への不安」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年4月20日号「自由化の影響 損害保険再編で二極分化が鮮明に」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2004年4月24日号「国内損保 自動車保険125年で初の首位陥落」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年6月10日号「損保ジャパンに厳罰 業界の顧客軽視露呈」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年11月18日号「泥沼化する保険金不払い 顧客軽視の損保業界」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"損害保険ジャパン 有価証券報告書（第63期・2006年6月開示／第64期・2007年6月開示／第66期・2009年6月開示／第67期・2010年6月開示）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"三社合併の決断と、破綻を抱き込んだ発足","text":"その2か月後、単独路線は撤回された。2000年11月、安田火災は業界11位の日産火災、15位の大成火災と2002年4月の合併を目指すことで合意する。三社の正味収入保険料シェアは合計18.7％で、三井・住友連合を上回る計算であった。背中を押したのは東京海上である。東京海上が日動火災・朝日生命との統合を明らかにしたことで、事業費率など内容面では勝ると構えてきた安田火災も、規模では首位連合の半分強に落ちる形勢になった。「規模が収益を決めるというのは規制時代のこと」と語りながら、平野社長は規模拡大を優先する道を選んだ。\n\n統合の準備そのものが、想定していなかった事実を掘り起こした。2001年1月に始めた合併デューデリジェンスで、大成火災と日産火災が米国の再保険アレンジャーに運用を任せきりにしていた金融再保険の簿外債務が浮かび上がる。精査を米監査法人に依頼した翌日に米同時多発テロが起き、航空保険に偏ったポートフォリオが損失を確定させた。11月22日、大成火災は744億円の損失で398億円の債務超過に陥り、更生特例法の適用を申請する。安田火災と日産火災はスポンサーに就いて合併の枠組みを守り、2002年7月に損害保険ジャパンが発足、同年12月に大成火災を合併して三社の結集を終えた。\n\n合併の効果は数字にすぐ表れた。連結の経常収益は2002年3月期の1兆4,137億円から2004年3月期に1兆8,971億円へ増えている。ただし合併を挟んだ2期は赤字で、2002年3月期は経常損失584億円・当期純損失535億円、2003年3月期も経常損失238億円・当期純損失293億円を計上した。破綻会社の契約を引き取りながらの発足であり、利益が戻るのは2004年3月期の当期純利益551億円を待った。成果が順位に現れたのはその翌年である。2003年度の自動車保険の営業成績速報値で、損保ジャパンは125周年を迎える東京海上を44億円上回り、初めて首位に立った。第一生命ルートからの自動車保険収入は推定300億円とされ、生保から販路を借りるという2000年の選択が3年後の順位に現れた。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1999年5月1日号「キーパーソン 安田火災海上保険社長 平野浩志」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年9月9日号「野望『最強・最優』への道険し 第一生命、安田火災提携」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年11月18日号「一巡合併の決断迫られた安田火災 損保再編の第一幕は終了へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年12月8日号「まさかの大成火災破綻 巨額損失続出で露呈した損保会社のリスク管理不在」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年12月22日号「『最後の砦』損保にも募る健全性への不安」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年4月20日号「自由化の影響 損害保険再編で二極分化が鮮明に」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2004年4月24日号「国内損保 自動車保険125年で初の首位陥落」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年6月10日号「損保ジャパンに厳罰 業界の顧客軽視露呈」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年11月18日号「泥沼化する保険金不払い 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