日本興亜損害保険 の歴史

創業

1892年

創業者

※日本火災海上保険+興亜火災海上保険

創業地

大阪

直近売上高(2010/3)

9,031億円

長期業績と転換点(2002/3〜2010/3)
売上高(億円純利益率(%)

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1892年〜 二つの源流 ── 大阪の火災保険と、政府が束ねた海上運送保険

  1. 1892年日本火災保険(のちの旧日本火災海上保険)が大阪で創立
  2. 1896年浅野総一郎・広海仁三郎・右近権左衛門ら海運業者が日本海上火災保険を設立
  3. 1923年関東大震災。火災保険を主力としていた旧日本火災が大損害を受ける
  4. 1944年政府の推進により辰馬海上火災・大北火災海上運送・神国海上火災・尼崎海上火災の4社が解散合併し、興亜海上火災運送保険が大阪で発足
  5. 1944年旧日本火災海上保険(1944年に帝国火災海上保険を合併)と日本海上火災保険が解散合併し、日本火災海上保険が東京で発足

日本興亜損害保険の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

商人が興した火災保険と、海運業者が興した海上保険

日本興亜損害保険という社名ができたのは2001年だが、この会社の資本は明治期の2社にさかのぼる。一方は火災保険から始まった。1892年4月、大阪の財界有力者が発起人となり、資本金50万円で日本火災保険が創立された。1906年に大阪の日本酒造火災を合併し、そのとき本社を東京へ移した。営業の主力は火災保険に置かれ、そのぶん火災の大量発生には弱い体質を抱えた。もう一方は海運から始まった。1896年3月、浅野総一郎氏・広海仁三郎氏・右近権左衛門氏ら有力な海運業者が計画し、資本金300万円で日本海上火災保険が発足した。海運の側から見れば、自分たちの船と荷を自分たちで請け合う仕組みを持つことに意味があった。 [1][2][3]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本火災海上」
    • [1]旧日本火災は明治25年(1892年)4月、大阪財界有力者を発起人として資本金50万円で創立され、明治39年(1906年)に大阪の日本酒造火災を合併、本社を東京に移した。営業の主力は火災保険であった
    • [2]旧日本海上は明治二十九年三月、浅野総一郎、広海仁三郎、右近権左衞門氏ら有力海運業者が計画し、資本金三百万円をもって発足した
  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
    • [3]有価証券報告書の沿革は、日本火災海上保険の前身を「旧日本火災海上保険株式会社(明治25年設立)」および「日本海上火災保険株式会社(明治29年設立)」と記載している

日本の損害保険は輸入された知識から始まっている。近代的な保険の考え方が入ってきたのは維新以後で、渋沢栄一氏が損害保険を、福沢諭吉氏が生命保険を、手分けするように広めた。1879年7月、鉄道の払い下げ計画が立ち消えて宙に浮いた華族の出資金を元手に、渋沢氏の勧めで資本金60万円の東京海上保険が創立認可を受けた。火災保険は1887年設立の東京火災保険に安田善次郎氏が経営参画したところから広がった。海上を三菱が、火災を安田が興した。日清戦争をはさむ1893年から1903年までの10年間は企業熱の時代で、明治火災・日本火災・帝国海上をはじめ30社が設立された。乱設の弊害があまりに大きかったため、政府は1900年に保険業法を施行する。競争の激化は業法の制定で自然に淘汰され、日露戦争直後には10社に整理された。日本火災はその10社に残った。 [4][5][6]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
    • [4]明治十一年、鉄道事業を志した大名華族組合が渋沢栄一の勧誘によって保険事業を行うこととなり、三菱の岩崎弥太郎が参加して資本金六十万円をもって東京海上を設立した。火災保険は明治二十年七月民営の有限会社東京火災保険会社が設立され、大火の頻発のため経営困難に陥ったので安田善次郎氏が経営に参画した。つまり海上は三菱、火災は安田財閥が創始者といえる
    • [5]明治二十六年から三十六年に至る十年間は企業熱の勃興時代で、損害保険会社も明治火災、日本火災、帝国海上をはじめ三十社に及んだ。明治三十三年の保険業法制定で乱設による競争の激化は自然に陶汰され、日露戦争直後には十社に整理された
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「保険-輸入知識から出発」
    • [6]明治日本の資本主義なり近代産業の指導者としては渋沢栄一と福沢諭吉の二人があらゆる面でぬきんでた役割を果たしたが、保険業の導入も主としてこの二人の力で成し遂げられた。それも福沢諭吉が生命保険、渋沢栄一が損害保険というように手分けして行なわれた

海上保険から出た日本海上火災保険は、欧州大戦の海運好況の波に乗って業績を伸ばした。関東大震災の後は火災保険にも手を広げている。特徴的なのは営業地域で、満州と中国への進出が大きく、この方面の営業量は国内の首位を占めた。解散当時の資本金は1,300万円になっていた。火災を主力に西から出た会社と、海上を主力に海運業者が興した会社。両者が引き受けた危険は重ならない。日本火災の側は関東大震災で火災保険の危うさを知り、日本海上の側は大陸の営業で資本金を4倍に増やした。引受対象の違いが、そのまま2社の体質の差になっている。 [7][8]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本火災海上」
    • [7]欧州大戦を経て海運界好況の波に乗つて業績は大きく伸びた。関東大震災後、火災保険にも手を広げ、満州、中国への進出も大きく、この方面の営業量は国内の首位を占め、資本金も解散当時は一千三百万円になつていた
    • [8]営業の主力は火災保険であつたため関東大震災では大損害を受けたが、これを克服した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本火災海上」
    • [1]旧日本火災は明治25年(1892年)4月、大阪財界有力者を発起人として資本金50万円で創立され、明治39年(1906年)に大阪の日本酒造火災を合併、本社を東京に移した。営業の主力は火災保険であった
    • [2]旧日本海上は明治二十九年三月、浅野総一郎、広海仁三郎、右近権左衞門氏ら有力海運業者が計画し、資本金三百万円をもって発足した
    • [7]欧州大戦を経て海運界好況の波に乗つて業績は大きく伸びた。関東大震災後、火災保険にも手を広げ、満州、中国への進出も大きく、この方面の営業量は国内の首位を占め、資本金も解散当時は一千三百万円になつていた
    • [8]営業の主力は火災保険であつたため関東大震災では大損害を受けたが、これを克服した
  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
    • [3]有価証券報告書の沿革は、日本火災海上保険の前身を「旧日本火災海上保険株式会社(明治25年設立)」および「日本海上火災保険株式会社(明治29年設立)」と記載している
  • 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
    • [4]明治十一年、鉄道事業を志した大名華族組合が渋沢栄一の勧誘によって保険事業を行うこととなり、三菱の岩崎弥太郎が参加して資本金六十万円をもって東京海上を設立した。火災保険は明治二十年七月民営の有限会社東京火災保険会社が設立され、大火の頻発のため経営困難に陥ったので安田善次郎氏が経営に参画した。つまり海上は三菱、火災は安田財閥が創始者といえる
    • [5]明治二十六年から三十六年に至る十年間は企業熱の勃興時代で、損害保険会社も明治火災、日本火災、帝国海上をはじめ三十社に及んだ。明治三十三年の保険業法制定で乱設による競争の激化は自然に陶汰され、日露戦争直後には十社に整理された
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「保険-輸入知識から出発」
    • [6]明治日本の資本主義なり近代産業の指導者としては渋沢栄一と福沢諭吉の二人があらゆる面でぬきんでた役割を果たしたが、保険業の導入も主としてこの二人の力で成し遂げられた。それも福沢諭吉が生命保険、渋沢栄一が損害保険というように手分けして行なわれた

震災と戦時統合が、50社あった損保を16社にした

1923年の関東大震災は、火災保険を主力とする会社を正面から直撃した。日本火災も大損害を受けている。震災の後は不況が深まって各社が弱体化し、業界では四つの手が同時に打たれた。減資による整理、大会社への合併、大会社を中心とするブロック化、料率協定の強化である。この整理は大正末期から1931年まで続いた。効果は資本の側にはっきり出ている。大正末期に51社あった保険会社の数は昭和6年になっても変わらなかったが、払込資本金は1億44万円から6,990万円へ、5年ほどで3割以上減った。会社の数を減らさずに資本を減らすという処理が、当時の業界の選んだ道だった。震災による損失を保険会社が背負い切れる規模ではなかったという事実が、その後の統合の下地をつくっている。 [9][10]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
    • [9]大正十二年の関東震災で損保業界は大打撃を受けた。その後の不況深化にともなつて会社は弱体化した。かくて、(一)減資による整理、(二)大会社への合併、(三)大会社を中心とするブロック化、(四)料率協定の強化等が行われた。こういつた整理強化は、大正末期から昭和六年までつづいた
    • [10]大正末期保険会社数は五十一社で、その払込資本金は一億四十四万円であつた。それが昭和六年には、会社数は変らなかつたが、払込資本金は六千九百九十万円に減少している

太平洋戦争に入ると、業界の再編成は政府主導で一気に進められた。1941年には三井系の大正海上と新日本火災が合併して大正海上となり、1944年には合同が加速する。同じ年に、東京海上・明治火災・三菱海上の3社合併で東京海上火災が、東京火災・帝国海上・第一機罐の3社合併で安田火災海上が、朝日海上・共同火災・神戸海上・横浜火災の4社合併で同和火災海上が、それぞれ生まれた。50社以上あった損害保険会社は、終戦時にはわずか16社になっている。海外との再保険取引ができなくなったため、損保各社の出資で東亜火災海上再保険も設立された。日本火災海上と興亜海上火災運送保険は、この1944年の統合でともに生まれた会社にあたる。ともに戦時統合の産物として出発した会社である。 [11][12]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
    • [11]十九年には、合同は急速に進んだ。すなわち、同年中、東京海上、明治火災、三菱海上三社合併で東京海上火災、東京火災、帝国海上、第一機罐三社合併で安田火災海上、日本火災、帝国火災、日本海上の三社で日本火災海上、朝日海上、共同火災、神戸海上、横浜火災の四社合併で同和火災海上、大阪海上、住友海上の合併で大阪住友海上火災等が新しく生れ、五十社以上の会社数は、終戦時にはわずか十六社になつた
    • [12]昭和十六年三井系の大正海上と新日本火災が合併して大正海上となり、日本簡易火災と、常磐簡易火災が合併して日本簡易火災(現富士火災)が生れた。海外との再保険取引ができなくなつたので、損保各社出資で、十九年、東亜火災海上再保険会社を設立した

1944年10月、旧日本火災海上保険と日本海上火災保険が解散合併し、資本金3,900万円で日本火災海上保険が発足した。本店は東京に置かれた。旧日本火災はこれに先立つ同じ1944年、同系の帝国火災海上保険を合併しており、資本金は2,600万円になっていた。帝国火災は1912年設立の会社である。新会社は2社の営業種目である火災・海上・運送・傷害・盗難・航空・自動車・信用の各保険とその再保険をそのまま継承した。名前に「火災」と「海上」の両方が入っているのは、合併の中身をそのまま示している。太平洋戦争中は政府の戦争保険の代行機関も務めた。民間の保険会社が国の戦争リスクを扱う機関として使われた時期から、この会社は出発した。 [13][14]

  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
    • [13]昭和19年10月、旧日本火災海上保険株式会社(明治25年設立、昭和19年に帝国火災海上保険株式会社(明治45年設立)と合併)と日本海上火災保険株式会社(明治29年設立)の2社が解散合併し、日本火災海上保険株式会社(資本金39百万円)を設立、本店を東京に置いた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本火災海上」
    • [14]当社は以上二社の営業種目である火災、海上、運送、傷害、盗難、航空、自動車、信用の各保険およびその再保険を継承して発足した。また太平洋戦争中は、政府の戦争保険の代行機関をも努めた。十九年同系の帝国火災を合併、資本金は二千六百万円となつた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
    • [9]大正十二年の関東震災で損保業界は大打撃を受けた。その後の不況深化にともなつて会社は弱体化した。かくて、(一)減資による整理、(二)大会社への合併、(三)大会社を中心とするブロック化、(四)料率協定の強化等が行われた。こういつた整理強化は、大正末期から昭和六年までつづいた
    • [10]大正末期保険会社数は五十一社で、その払込資本金は一億四十四万円であつた。それが昭和六年には、会社数は変らなかつたが、払込資本金は六千九百九十万円に減少している
    • [11]十九年には、合同は急速に進んだ。すなわち、同年中、東京海上、明治火災、三菱海上三社合併で東京海上火災、東京火災、帝国海上、第一機罐三社合併で安田火災海上、日本火災、帝国火災、日本海上の三社で日本火災海上、朝日海上、共同火災、神戸海上、横浜火災の四社合併で同和火災海上、大阪海上、住友海上の合併で大阪住友海上火災等が新しく生れ、五十社以上の会社数は、終戦時にはわずか十六社になつた
    • [12]昭和十六年三井系の大正海上と新日本火災が合併して大正海上となり、日本簡易火災と、常磐簡易火災が合併して日本簡易火災(現富士火災)が生れた。海外との再保険取引ができなくなつたので、損保各社出資で、十九年、東亜火災海上再保険会社を設立した
  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
    • [13]昭和19年10月、旧日本火災海上保険株式会社(明治25年設立、昭和19年に帝国火災海上保険株式会社(明治45年設立)と合併)と日本海上火災保険株式会社(明治29年設立)の2社が解散合併し、日本火災海上保険株式会社(資本金39百万円)を設立、本店を東京に置いた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本火災海上」
    • [14]当社は以上二社の営業種目である火災、海上、運送、傷害、盗難、航空、自動車、信用の各保険およびその再保険を継承して発足した。また太平洋戦争中は、政府の戦争保険の代行機関をも努めた。十九年同系の帝国火災を合併、資本金は二千六百万円となつた

政府が関西の4社を束ねてつくった興亜海上火災運送保険

もう一つの合併は、その7か月前に大阪で起きている。1944年3月、政府の推進により4社が解散合併し、資本金1,500万円の興亜海上火災運送保険が発足した。合併したのは辰馬海上火災(1919年設立・資本金200万円)、大北火災海上運送(1920年設立・400万円)、神国海上火災(1921年設立・300万円)、尼崎海上火災(1918年に中外海上保険として設立、1931年に商号変更・200万円)の4社である。いずれも大正期に関西で設立された会社で、単独では小さかった。会長には山縣勝見氏、社長には中野金次郎氏が就いている。本社は当初、大阪に置かれた。社名に「海上」と「運送」が並ぶとおり、この会社が引き受けた危険の中心は船と荷物にあった。 [15][16]

  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
    • [15]昭和19年3月、辰馬海上火災保険株式会社(大正8年設立)・大北火災海上運送保険株式会社(大正9年設立)・神国海上火災保険株式会社(大正10年設立)・尼崎海上火災保険株式会社(大正7年中外海上保険株式会社として設立、昭和6年商号変更)の4社が解散合併し、興亜海上火災運送保険株式会社(資本金15百万円)を設立、本店を大阪に置いた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「興亜火災海上」
    • [16]昭和十九年三月政府の推進により、既設の大北火災海上運送(大正九年設立資本金四百万円)、辰馬海上火災(大正八年設立、資本金二百万円)、尼崎海上火災(大正七年設立、資本金二百万円)、神国海上火災(大正十年設立、資本金三百万円)の四保険会社が合併し、資本金一千五百万円の興亜海上火災運送保険として設立され、会長に山縣勝見氏が、社長に中野金次郎氏がそれぞれ就任して発足した

同じ1944年に生まれた2社だが、出自は対照的である。日本火災海上が明治期からの老舗2社を統合したものだったのに対し、興亜は大正期に関西で設立された中小4社を政府が束ねたものだった。合併時の資本金は日本火災海上が3,900万円、興亜が1,500万円。設立当初の年間収入保険料は4,800万円にすぎない。支店の数も合併当時は12にとどまった。10年後の1954年度には収入保険料が34億3,000万円まで増え、支店は12都市に置かれ、出張所76と駐在所24を持つまでになるが、それでも同じ年度に69億3,000万円を集めた日本火災海上の半分の規模である。57年後に両社が一つになるとき、この規模の差と地盤の違いはまだ残っていた。 [17][18]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「興亜火災海上」
    • [17]収入保険料は合併当初の十九年においては四千八百万円であつたが、逐年累増して二十九年度には三十四億三千万円、純正味収入保険料は二十二億二千万円に達した。支店数は合併当時十二であつたが、現在では大阪に支社を置き、十二都市に支店を、その他全国主要都市に七十六の出張所と二十四の駐在所を有している
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本火災海上」
    • [18]日本火災海上の二十九年度保険料収入は六十九億三千万円、純正味収入保険料四十一億六千六百万円
  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
    • [15]昭和19年3月、辰馬海上火災保険株式会社(大正8年設立)・大北火災海上運送保険株式会社(大正9年設立)・神国海上火災保険株式会社(大正10年設立)・尼崎海上火災保険株式会社(大正7年中外海上保険株式会社として設立、昭和6年商号変更)の4社が解散合併し、興亜海上火災運送保険株式会社(資本金15百万円)を設立、本店を大阪に置いた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「興亜火災海上」
    • [16]昭和十九年三月政府の推進により、既設の大北火災海上運送(大正九年設立資本金四百万円)、辰馬海上火災(大正八年設立、資本金二百万円)、尼崎海上火災(大正七年設立、資本金二百万円)、神国海上火災(大正十年設立、資本金三百万円)の四保険会社が合併し、資本金一千五百万円の興亜海上火災運送保険として設立され、会長に山縣勝見氏が、社長に中野金次郎氏がそれぞれ就任して発足した
    • [17]収入保険料は合併当初の十九年においては四千八百万円であつたが、逐年累増して二十九年度には三十四億三千万円、純正味収入保険料は二十二億二千万円に達した。支店数は合併当時十二であつたが、現在では大阪に支社を置き、十二都市に支店を、その他全国主要都市に七十六の出張所と二十四の駐在所を有している
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本火災海上」
    • [18]日本火災海上の二十九年度保険料収入は六十九億三千万円、純正味収入保険料四十一億六千六百万円

1945年〜 並び立った50年 ── 独立系の中堅損保という位置

  1. 1949年日本火災海上保険が東京証券取引所に上場
  2. 1951年太陽火災海上保険が設立(2002年に日本興亜損害保険が合併)
  3. 1951年日本火災海上保険が本店建物を所有していた日本ビルディングを合併
  4. 1952年日本火災海上保険が大阪証券取引所に上場
  5. 1953年興亜海上火災運送保険が東京証券取引所に上場
  6. 1954年興亜海上火災運送保険が興亜火災海上保険に商号変更し、立ち遅れていた火災保険部門の拡充に着手
  7. 1955年日本火災海上保険が名古屋証券取引所に上場

日本興亜損害保険の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

戦後の再建を経て、得意分野の違いがそのまま残った

終戦後の損害保険は、被保険物件の激減と危険度の悪化で各社とも赤字経営に苦しんだ。戦時補償の打切りと在外資産の切捨てで資産面の減価も著しい。終戦時に7億円あった損保会社の資産は1948年1月に5億3,600万円まで減り、そのうち新勘定資産は3億2,000万円にすぎなかった。軌道に乗り始めるのは1949年から1950年ごろで、戦争中とだえた海外との再保険取引もこの時期に再開された。会社の新設も行われ、第一・太陽・東洋・朝日の4社が設立された。ただし既設会社はいずれも古い歴史を持ち基礎が固かったため、新設各社は経営に苦しみ、それぞれ有力な後ろ盾を持つに至った。1951年2月に設立された太陽火災も、大正海上を後ろ盾とした。 [19][20]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
    • [19]終戦時、損保会社の資産は七億円であつたが二十三年一月五億三千六百万円となり、このうち三億二千万円が新勘定資産にすぎなくなつた。しかし、二十四、五年ごろからようやく軌道に乗り、戦争中とだえた海外との再保険取引も再開された
    • [20]また会社の新設も行われ、第一、太陽、東洋、朝日の四社が設立された。既設会社は、戦争の打撃を被つたとはいえ、いずれも古い歴史を持ち、基礎がしつかりしている。そのため新設各社は、経営困難を窮めた。そこで第一火災は住友、太陽火災は大正、朝日火災は大和銀行、野村証券、東洋火災は安田と、それぞれ有力なバックを持つに至つた

日本火災海上の戦後は、大火との闘いから始まっている。1947年の飯田市大火をはじめ各地の大火が続き、海外の取引先も失って大きな困難に遭った。1950年の保険業法改正で欧米の損保事業取引の代理・媒介業務の認可を受け、1952年以降は保証・風水害・ガラスの各保険を手がけた。1950年からは社長と常務が海外の取引先を歴訪し、再保険取引を戦前の水準へ戻した。朝鮮動乱が終わった後は収入保険料の増勢が鈍ったものの、主力の火災保険は再三の料率引下げにもかかわらず毎年増収増益を続けている。新種保険は自動車保険を主体とした十数種にのぼり、機械保険の企画も進めた。1954年度の保険料収入は69億3,000万円、純正味収入保険料は41億6,600万円。同年4月に資本金は9億円になった。 [21][22]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本火災海上」
    • [21]戦後経済界の混乱、二十二年の飯田市はじめ各地の大火、海外取引先の喪失等により、大きな困難に遭つたが、その後経済界の安定に伴ない収益は増加し二十七年以降は保証、風水害、ガラスの各保険を手がけ、一方二十五年保険業法の改正に伴ない欧米の損保事業取引の代理および媒介業務の認可を受けた
    • [22]朝鮮動乱終熄後は収入保険料の増勢は鈍つたが、主力の火災保険は再三の料率引下げにもかかわらず毎年順調な増収益をあげ、二十九年度保険料収入は六十九億三千万円、純正味収入保険料四十一億六千六百万円に達した。この間資本金も数次の増額を経て二十九年四月には九億円となつた

興亜火災海上の戦後は、日本通運との提携で決まった。旧大北火災と密接な関係にある日本通運と全面的な事業提携を行い、全国に散在する日通の支店約350と営業所約4,000をそれぞれ代理店として、その保険契約を一手に取り扱った。運送保険は戦後の輸送状況の悪化で急激な需要を生み、取扱高は1948年以来つねに業界の首位を占めている。海上保険は旧辰馬海上と特殊な関係にある新日本汽船を基盤とした。保証保険を日本で最初に扱ったのも同社である。本社は1948年9月に大阪から東京の神田駿河台へ移り、1952年10月には地下1階地上8階のビルを日本橋室町に建てて移転した。火災保険は当初立ち遅れており、1954年4月に興亜火災海上保険へ商号を改めるとともに、この部門の充実に努めた。 [23][24]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「興亜火災海上」
    • [23]当社営業の特色は、旧大北火災と密接な関係にある日本通運と全面的な事業提携を行い、その全国に散在する各支店(約三百五十)、各営業所(約四千)をそれぞれ当社代理店として、その保険契約を一手に取り扱つていることである。特に運送保険は戦後の輸送状況の悪化により急激な需要をみるに至り、当社の運送保険取扱高は、二十三年以来、常に業界の首位を占めている
    • [24]設立当初は本社を大阪に置いたが、二十三年九月東京都神田駿河台に移し、さらに二十七年十月現在の日本橋室町に地下一階地上八階のビルを建築し、ここに移転した。ただ火災保険は当初立ち遅れの感があつたが、二十九年四月現社名に改めるとともにこの部門の充実に努めている。特に保証保険の取扱はわが国では当社が最初である
  • 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
    • [19]終戦時、損保会社の資産は七億円であつたが二十三年一月五億三千六百万円となり、このうち三億二千万円が新勘定資産にすぎなくなつた。しかし、二十四、五年ごろからようやく軌道に乗り、戦争中とだえた海外との再保険取引も再開された
    • [20]また会社の新設も行われ、第一、太陽、東洋、朝日の四社が設立された。既設会社は、戦争の打撃を被つたとはいえ、いずれも古い歴史を持ち、基礎がしつかりしている。そのため新設各社は、経営困難を窮めた。そこで第一火災は住友、太陽火災は大正、朝日火災は大和銀行、野村証券、東洋火災は安田と、それぞれ有力なバックを持つに至つた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本火災海上」
    • [21]戦後経済界の混乱、二十二年の飯田市はじめ各地の大火、海外取引先の喪失等により、大きな困難に遭つたが、その後経済界の安定に伴ない収益は増加し二十七年以降は保証、風水害、ガラスの各保険を手がけ、一方二十五年保険業法の改正に伴ない欧米の損保事業取引の代理および媒介業務の認可を受けた
    • [22]朝鮮動乱終熄後は収入保険料の増勢は鈍つたが、主力の火災保険は再三の料率引下げにもかかわらず毎年順調な増収益をあげ、二十九年度保険料収入は六十九億三千万円、純正味収入保険料四十一億六千六百万円に達した。この間資本金も数次の増額を経て二十九年四月には九億円となつた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「興亜火災海上」
    • [23]当社営業の特色は、旧大北火災と密接な関係にある日本通運と全面的な事業提携を行い、その全国に散在する各支店(約三百五十)、各営業所(約四千)をそれぞれ当社代理店として、その保険契約を一手に取り扱つていることである。特に運送保険は戦後の輸送状況の悪化により急激な需要をみるに至り、当社の運送保険取扱高は、二十三年以来、常に業界の首位を占めている
    • [24]設立当初は本社を大阪に置いたが、二十三年九月東京都神田駿河台に移し、さらに二十七年十月現在の日本橋室町に地下一階地上八階のビルを建築し、ここに移転した。ただ火災保険は当初立ち遅れの感があつたが、二十九年四月現社名に改めるとともにこの部門の充実に努めている。特に保証保険の取扱はわが国では当社が最初である

別々に果たした上場と、控えめだった海外への出方

2社は別々の会社として株式市場に出ている。日本火災海上は1949年5月に東京証券取引所、1952年9月に大阪証券取引所、1955年2月に名古屋証券取引所へ上場した。興亜はまだ興亜海上火災運送保険だった1953年10月に東京証券取引所、商号変更後の1961年10月に大阪証券取引所へ上場した。日本火災海上が3市場に出るまでに6年、興亜が2市場に出るまでに8年かかった。この間の1951年3月には、日本火災海上が本店建物を所有していた日本ビルディングを合併した。同じ1944年に生まれ、同じ業界で戦後を再建し、それでも一方は火災と海上、もう一方は運送と保証という別の商品で伸びた2社が、それぞれの看板で市場に出た時期にあたる。 [25]

  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
    • [25]昭和24年5月 日本火災海上保険株式会社、東京証券取引所に上場/昭和27年9月 大阪証券取引所に上場/昭和30年2月 名古屋証券取引所に上場/昭和28年10月 興亜海上火災運送保険株式会社、東京証券取引所に上場/昭和36年10月 興亜火災海上保険株式会社、大阪証券取引所に上場/昭和26年3月 日本火災海上保険株式会社、日本ビルディング株式会社を合併

海外への出方は控えめだった。日本火災海上が1974年7月にロンドンへThe Nippon Fire and Marine Insurance Company (U.K.) Limitedを置き、興亜火災海上が1977年10月に同じロンドンへKoa Insurance Company (U.K.) Limitedを、1991年2月に香港へKoa Insurance Company (Asia) Limitedを置いた。20年近い期間で拠点は3つ、しかも2社が別々にロンドンへ出る重複を含む。日本火災海上のロンドン子会社は1989年1月にNippon Insurance Company of Europe Limitedへ商号を変えている。興亜側の2社が社名を書き換えたのは合併の前後で、香港が2001年4月、ロンドンが2002年1月にNIPPONKOAの名を冠した。海外事業が収益の柱に育つことはなく、統合までこの規模のまま推移している。 [26]

  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
    • [26]昭和49年7月 日本火災海上保険株式会社、英国ロンドンにThe Nippon Fire and Marine Insurance Company(U.K.) Limited を設立(平成元年1月、Nippon Insurance Company of Europe Limitedに商号変更)/昭和52年10月 興亜火災海上保険株式会社、英国ロンドンにKoa Insurance Company (U.K.) Limitedを設立(平成14年1月、NIPPONKOA Insurance Company (Europe) Limitedに商号変更)/平成3年2月 香港にKoa Insurance Company (Asia) Limitedを設立(平成13年4月、NIPPONKOA Insurance Company (Asia) Limitedに商号変更)
  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
    • [25]昭和24年5月 日本火災海上保険株式会社、東京証券取引所に上場/昭和27年9月 大阪証券取引所に上場/昭和30年2月 名古屋証券取引所に上場/昭和28年10月 興亜海上火災運送保険株式会社、東京証券取引所に上場/昭和36年10月 興亜火災海上保険株式会社、大阪証券取引所に上場/昭和26年3月 日本火災海上保険株式会社、日本ビルディング株式会社を合併
    • [26]昭和49年7月 日本火災海上保険株式会社、英国ロンドンにThe Nippon Fire and Marine Insurance Company(U.K.) Limited を設立(平成元年1月、Nippon Insurance Company of Europe Limitedに商号変更)/昭和52年10月 興亜火災海上保険株式会社、英国ロンドンにKoa Insurance Company (U.K.) Limitedを設立(平成14年1月、NIPPONKOA Insurance Company (Europe) Limitedに商号変更)/平成3年2月 香港にKoa Insurance Company (Asia) Limitedを設立(平成13年4月、NIPPONKOA Insurance Company (Asia) Limitedに商号変更)

自由化の前夜に、この業界の何が痩せ始めていたか

1980年代後半から1990年代にかけての損害保険は、商品の多様化が続いた期間である。積立保険の開発が相次ぎ、高齢化に見合う医療・介護・年金の分野で商品が作られ、各種の賠償責任保険も売り出された。しかし総資産の伸びは平成に入って鈍っている。理由は一つではない。主力商品である自動車保険の損害率が高まり、バブル期に集めた積立保険が満期を迎えた。安定的であるはずの損保会社も経営の転機を迎えたと当時の産業史は書いている。商品の数を増やしても、主力である自動車保険の採算悪化は埋まらなかった。 [27]

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [27]六十年代から平成の損害保険は、保険商品の多様化が続いた。積立保険の開発ラッシュが続いたほか、高齢化社会に見合って医療、介護、年金分野で商品が開発された。また各種の賠償責任保険が売り出された。しかし、総資産の伸びは六十年代に比べて、平成時代に入って鈍ってきた。主力商品である自動車保険の損害率が高まったほか、バブル期に集めた積立保険が満期を迎えるなど安定的であるはずの損保会社も経営の転機を迎えている

外からの圧力も加わった。日米包括経済協議のなかで保険は優先3分野の一つになり、米側は保険審議会が打ち出した傷害・疾病・介護のいわゆる第三分野への本体参入に待ったをかけるよう求めた。米系保険会社の得意分野に日本の生保と損保が乗り出せば市場を奪われかねない、という警戒からである。これに対しては自由化・規制緩和の流れに逆行するという反発も国内で起こった。保険業が国際競争にさらされ始めたのも、この時期である。参入が遅れて始まった第三分野で、各社は販売を先に急ぎ、支払いと管理の体制を後回しにした。この順序の逆転は、10年あまり後に業界全体の不払い問題として表に出る。 [28][29]

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [28]国際摩擦も大きな問題になった。日米経済関係をきしませた日米包括経済協議のなかで保険分野は優先三分野の一つになった。米側は、保険審議会が打ち出した傷害、疾病、介護といったいわゆる第三分野への本体による参入に、待ったをかけてほしいと求めた。米系保険会社の得意分野に、日本の生保、損保が乗り出すと市場を奪われかねないと警戒したためだ。しかし、これには自由化、規制緩和の流れに逆行するものとして反発も起こった
  • 週刊東洋経済 2006年11月18日号「泥沼化する保険金不払い 顧客軽視の損保業界」
    • [29]自動車保険が成熟化する中、損保各社は、躍起になって販売に力を入れたが、支払いなどの管理体制は整備されていなかったようだ

この時期の両社の経営者は、経済誌にたびたび登場している。日経ビジネスは日本火災海上保険の新社長として、1990年1月に佐野喜秋氏を、1993年7月に広瀬清氏を紹介している。広瀬氏の見出しは「人の思惑気にせず“自己責任”説く」だった。1993年2月には同社相談役の品川正治氏による論説「経済の総動員体制を改めよ」を有訓無訓欄に載せている。興亜火災海上からは1998年9月に岡本睦治氏が新社長として、「細やかな心配りで、開かれた経営目指す」の見出しで登場した。岡本氏は3年後、合併新会社の会長に就く。中堅の損保が経済誌に取り上げられる頻度は大手より低く、記事の多くは社長交代時の紹介にとどまった。合併に至るまでの両社は、報道の量からいえば業界の主役ではなかった。 [30]

  • 日経ビジネス 1990年1月29日号 新社長「佐野喜秋氏[日本火災海上保険]登場」ほか同誌3本(1993年2月22日号・1993年7月5日号・1998年9月7日号)
    • [30]日経ビジネス 1990年1月29日号 No.547 p154「佐野喜秋氏[日本火災海上保険]登場」/1993年7月5日号 No.697 p88「広瀬清氏[日本火災海上保険]登場 人の思惑気にせず“自己責任”説く」/1993年2月22日号 No.678 p5「品川正治[日本火災海上保険相談役]経済の総動員体制を改めよ」/1998年9月7日号 No.956 p84「岡本睦治氏[興亜火災海上保険]登場 細やかな心配りで、開かれた経営目指す」
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [27]六十年代から平成の損害保険は、保険商品の多様化が続いた。積立保険の開発ラッシュが続いたほか、高齢化社会に見合って医療、介護、年金分野で商品が開発された。また各種の賠償責任保険が売り出された。しかし、総資産の伸びは六十年代に比べて、平成時代に入って鈍ってきた。主力商品である自動車保険の損害率が高まったほか、バブル期に集めた積立保険が満期を迎えるなど安定的であるはずの損保会社も経営の転機を迎えている
    • [28]国際摩擦も大きな問題になった。日米経済関係をきしませた日米包括経済協議のなかで保険分野は優先三分野の一つになった。米側は、保険審議会が打ち出した傷害、疾病、介護といったいわゆる第三分野への本体による参入に、待ったをかけてほしいと求めた。米系保険会社の得意分野に、日本の生保、損保が乗り出すと市場を奪われかねないと警戒したためだ。しかし、これには自由化、規制緩和の流れに逆行するものとして反発も起こった
  • 週刊東洋経済 2006年11月18日号「泥沼化する保険金不払い 顧客軽視の損保業界」
    • [29]自動車保険が成熟化する中、損保各社は、躍起になって販売に力を入れたが、支払いなどの管理体制は整備されていなかったようだ
  • 日経ビジネス 1990年1月29日号 新社長「佐野喜秋氏[日本火災海上保険]登場」ほか同誌3本(1993年2月22日号・1993年7月5日号・1998年9月7日号)
    • [30]日経ビジネス 1990年1月29日号 No.547 p154「佐野喜秋氏[日本火災海上保険]登場」/1993年7月5日号 No.697 p88「広瀬清氏[日本火災海上保険]登場 人の思惑気にせず“自己責任”説く」/1993年2月22日号 No.678 p5「品川正治[日本火災海上保険相談役]経済の総動員体制を改めよ」/1998年9月7日号 No.956 p84「岡本睦治氏[興亜火災海上保険]登場 細やかな心配りで、開かれた経営目指す」

1996年〜 三社統合の破談から、日本興亜損害保険の成立へ

  1. 1996年日本火災海上保険が日本火災パートナー生命保険を、興亜火災海上保険が興亜火災まごころ生命保険をそれぞれ設立し、生損保相互参入に踏み出す
  2. 1998年損害保険の料率が自由化され、収入保険料の規模が小さい下位損保ほど営業経費率で不利になる競争環境に入る
  3. 1999年三井海上火災・日本火災海上・興亜火災海上の3社が経営統合を発表。実現すれば業界首位の東京海上火災を上回る規模となるはずだった
  4. 2000年新会社を三井グループに属させるという条件をめぐり三井海上が離脱し、3社統合構想が崩壊
  5. 2001年日本火災海上保険と興亜火災海上保険が合併し、日本興亜損害保険が発足
  6. 2001年興亜火災まごころ生命保険と日本火災パートナー生命保険が合併し、日本興亜生命保険となる
  7. 2002年太陽火災海上保険を合併

日本興亜損害保険の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

料率の自由化が、下位の損保に突きつけたもの

1996年4月に施行された保険業法の全面改正で、生命保険と損害保険の相互参入が子会社方式で認められた。同年8月、日本火災海上保険は日本火災パートナー生命保険を、興亜火災海上保険は興亜火災まごころ生命保険をそれぞれ設立した。同じ月に、別々の会社が同じ形の子会社を作った。5年後に両社が合併したとき、この2つの生保子会社も同時に合併して日本興亜生命保険になる。生損保の垣根が制度として下がったとき、損保には新しい市場が開いた。同時に自社の主力商品も価格競争にさらされた。1996年に作った生保子会社が育つ前に、1998年7月に損害保険の料率が自由化される。 [31]

  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
    • [31]平成8年8月 日本火災海上保険株式会社、日本火災パートナー生命保険株式会社を設立 興亜火災海上保険株式会社、興亜火災まごころ生命保険株式会社を設立/平成13年4月 興亜火災まごころ生命保険株式会社と日本火災パートナー生命保険株式会社が合併し、日本興亜生命保険株式会社となる

1998年7月、損害保険の料率が自由化された。収入保険料の規模が小さい下位の損保ほど営業経費率で不利になる制度変更である。前年の1997年11月には、1996年度の正味収入保険料が140億円、総資産1,060億円、経常利益7,000万円の太陽火災海上保険をめぐって、実質債務超過に陥っているという雑誌記事と、太陽生命などによる再建支援の新聞報道が相次いだ。同社は「実質債務超過とか、赤字転落などの報道は事実無根で遺憾だ」と反論しつつ、第三者割当増資と劣後ローンの導入を検討していることは認めている。損保各社はバブルの被害が小さく、大手のソルベンシー・マージン比率は安全とされる200を上回っていた。それでも下位の会社が自立して生き残る道は限られる、というのが当時の観測だった。 [32][33]

  • 週刊東洋経済 1997年11月22日号「太陽火災 資本充実策を検討「損保も例外ではない?」報道の衝撃波」
    • [32]太陽火災は店頭公開の損害保険会社で、年間の正味収入保険料は一四〇億円、総資産は一〇六〇億円(96年度)。96年度の経常利益は七〇〇〇万円である
    • [33]損保会社はバブルの被害がなく、経営の健全性を維持している。東京海上など大手のソルベンシー・マージン比率は、安全とされる二〇〇をはるかに超える水準にある。損害保険は98年7月に料率の自由化を迎える。太陽火災のような収入保険料の規模の小さい下位損保は営業経費率で不利である。自立して生き残る道は限られているだろう
  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
    • [31]平成8年8月 日本火災海上保険株式会社、日本火災パートナー生命保険株式会社を設立 興亜火災海上保険株式会社、興亜火災まごころ生命保険株式会社を設立/平成13年4月 興亜火災まごころ生命保険株式会社と日本火災パートナー生命保険株式会社が合併し、日本興亜生命保険株式会社となる
  • 週刊東洋経済 1997年11月22日号「太陽火災 資本充実策を検討「損保も例外ではない?」報道の衝撃波」
    • [32]太陽火災は店頭公開の損害保険会社で、年間の正味収入保険料は一四〇億円、総資産は一〇六〇億円(96年度)。96年度の経常利益は七〇〇〇万円である
    • [33]損保会社はバブルの被害がなく、経営の健全性を維持している。東京海上など大手のソルベンシー・マージン比率は、安全とされる二〇〇をはるかに超える水準にある。損害保険は98年7月に料率の自由化を迎える。太陽火災のような収入保険料の規模の小さい下位損保は営業経費率で不利である。自立して生き残る道は限られているだろう

三井海上を加えた三社統合構想と、その崩壊

1999年10月、三井海上火災・日本火災海上・興亜火災海上の3社が経営統合を発表した。実現すれば、業界首位の東京海上火災を上回る規模の損保が誕生するはずだった。3社はさらに住友海上火災にも統合への参加を呼びかけている。この年は金融の再編が続いた年でもある。8月に興銀・第一勧銀・富士、10月にあさひ・東海と住友・さくらが相次いで統合を決め、1997年に10行あった都市銀行はわずか2か月で実質6行に半減した。損保3社の発表はその同じ10月に出ている。日本火災と興亜は三和銀行が進める六社連合に加わっており、三和色を強めていた。銀行の統合が保険の統合を誘発するという当時の見立てのなかに、この構想は置かれていた。 [34][35]

  • 週刊東洋経済 1999年11月6日号「超大合併時代/金融 都銀の“メガ統合”が誘発する再編の連鎖」
    • [34]同じ10月には、三井海上火災と三和銀行に近い興亜火災海上、日本火災海上の損保三社が統合を発表、業界トップの東京海上火災を上回る巨大損保が誕生する。さらに三社は住友海上火災にも、統合への参加を呼びかけている
    • [35]8月の興銀・第一勧銀・富士、10月のあさひ・東海、住友・さくらと続いた都銀の大再編である。97年には一〇行あった都銀は、この二カ月の間に実質的には六行にまで半減した

4か月後の2000年2月、構想は三井海上の離脱で崩壊した。引き金は、三井海上が「統合後の新会社は三井グループに属する」ことを統合条件に持ち出したことである。グループを超えた統合のはずだったが、日本火災と興亜が三和色を強める一方で、三井海上も「金融環境が激変した。金融グループに属していないと強力な事業展開ができない」(井口武雄社長)と路線を変えた。新会社の軸をどこに置くかが最後まで定まらなかった。三井海上は三井グループの結束より自社の独自性を重視してきた会社だったが、結局はグループの重みに押し切られている。離脱後の三井海上はただちに住友海上との提携交渉に入り、業界3位と4位の組み合わせへ進んだ。残された2社には、2社だけで組むという選択肢が残った。 [36][37]

  • 週刊東洋経済 2000年2月26日号「破談 損保3社統合崩壊 バツイチ三井海上がこれから払うツケ」
    • [36]新会社の軸足をどこに置くかもぐらつく。グループを超えての統合のはずだったが、日本、興亜は三和銀行等との「フィナンシャルワン」に参加し三和色を強める。これに対し、三井も「金融環境が激変した。金融グループに属していないと強力な事業展開ができない」(井口社長)と路線転換。「統合後の新会社は三井グループに属する」ことを統合条件に持ち出し、これが破談の引き金を引いた。三井海上は三井グループの結束より自社の独自性を重視してきたが、結局、グループの重みに押し切られた形だ
    • [37]三井海上は新たに住友海上と提携交渉を開始。業界三位、四位の二社が手を結べば、住友銀行・さくら銀行合併との相乗効果もあり、三社統合より強力な保険会社が誕生し、業界再編を加速する可能性が高い

三井海上の判断は、当時の環境では合理的だった。都市銀行が3行連合と住友・さくら連合へ再編されるなかで、金融グループの後ろ盾を求めない損保のほうがむしろ少ない。誤算があったとすれば目的の順序である。何を目指して統合するかを固めないまま合意へ走り、規模を最優先する三井海上と、それに必ずしも賛同していなかった松澤建・日本火災社長、岡本睦治・興亜火災社長との考え方の違いに目をつぶった。当時の報道は「統合の根本を固めないまま合意に走った三社の甘さ」と書いている。破談の責めは離脱した側だけにあるのではない。目的の合意を後回しにしたまま発表を先に出したことは、3社に共通する失敗だった。 [38]

  • 週刊東洋経済 2000年2月26日号「破談 損保3社統合崩壊 バツイチ三井海上がこれから払うツケ」
    • [38]背景には統合の根本を固めないまま合意に走った三社の甘さ、中でも三井海上の読み違いがある。井口武雄・三井海上社長が「規模がナンバーワンであることが重要」と力説する一方で、松澤建・日本火災社長、岡本睦治・興亜火災社長はそれに必ずしも賛同しているように見えなかった。何を目指し統合するかは基本の基本。だが、井口社長は規模追求を急ぐあまり、考え方の違いに目をつぶっていなかったか
  • 週刊東洋経済 1999年11月6日号「超大合併時代/金融 都銀の“メガ統合”が誘発する再編の連鎖」
    • [34]同じ10月には、三井海上火災と三和銀行に近い興亜火災海上、日本火災海上の損保三社が統合を発表、業界トップの東京海上火災を上回る巨大損保が誕生する。さらに三社は住友海上火災にも、統合への参加を呼びかけている
    • [35]8月の興銀・第一勧銀・富士、10月のあさひ・東海、住友・さくらと続いた都銀の大再編である。97年には一〇行あった都銀は、この二カ月の間に実質的には六行にまで半減した
  • 週刊東洋経済 2000年2月26日号「破談 損保3社統合崩壊 バツイチ三井海上がこれから払うツケ」
    • [36]新会社の軸足をどこに置くかもぐらつく。グループを超えての統合のはずだったが、日本、興亜は三和銀行等との「フィナンシャルワン」に参加し三和色を強める。これに対し、三井も「金融環境が激変した。金融グループに属していないと強力な事業展開ができない」(井口社長)と路線転換。「統合後の新会社は三井グループに属する」ことを統合条件に持ち出し、これが破談の引き金を引いた。三井海上は三井グループの結束より自社の独自性を重視してきたが、結局、グループの重みに押し切られた形だ
    • [37]三井海上は新たに住友海上と提携交渉を開始。業界三位、四位の二社が手を結べば、住友銀行・さくら銀行合併との相乗効果もあり、三社統合より強力な保険会社が誕生し、業界再編を加速する可能性が高い
    • [38]背景には統合の根本を固めないまま合意に走った三社の甘さ、中でも三井海上の読み違いがある。井口武雄・三井海上社長が「規模がナンバーワンであることが重要」と力説する一方で、松澤建・日本火災社長、岡本睦治・興亜火災社長はそれに必ずしも賛同しているように見えなかった。何を目指し統合するかは基本の基本。だが、井口社長は規模追求を急ぐあまり、考え方の違いに目をつぶっていなかったか

2社だけでの合併と、混乱のうちに終わった初年度

2001年4月1日、日本火災海上保険と興亜火災海上保険が合併し、資本金912億4,900万円の日本興亜損害保険が発足した。生保子会社も同時に合併して日本興亜生命保険となっている。社長には旧日本火災出身の松澤建氏、会長には旧興亜火災出身の岡本睦治氏が就いた。翌2002年4月には太陽火災海上保険を合併した。1951年設立の太陽火災は、5年前に経営不安を報じられ、料率自由化のもとで自立の道を限られていた会社である。1944年の戦時統合で生まれた2社が、戦後に新設された1社を吸収する形で、この会社の統合はいったん完結した。合併の主導権をめぐる摩擦は、少なくとも人的な面では表に出ていない。 [39][40]

  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
    • [39]平成13年4月 日本火災海上保険株式会社と興亜火災海上保険株式会社が合併し、日本興亜損害保険株式会社となる(資本金91,249百万円)/平成14年4月 太陽火災海上保険株式会社を合併/昭和26年2月 太陽火災海上保険株式会社設立(資本金60百万円)
  • 週刊東洋経済 2002年5月18日号「ザ・トーク 松澤建/清水隆雄」
    • [40]日本興亜は合併後の人的融和がもっともスムーズといわれる。旧・日本火災出身の松澤社長と旧・興亜火災出身の岡本睦治会長の相性もいいようだ

合併初年度の2001年度は、営業ベースの収入保険料が前年同期比1%減と低調だった。上期にはシステムを一本化したものの一部で不具合が生じ、代理店との申込書や伝票のやり取り、営業部門の入力作業の不慣れから事務作業に滞りが出ている。下期にこの問題は解消したが、新社名の浸透が課題として残った。松澤氏は「合併初年度はエネルギーと時間とコストと気配りが必要。増収に転じるのは二年目以降だ」と述べ、プロの中核代理店会・ディーラー・整備工場といった代理店網について合併後の新体制は構築できたと説明している。同じ年、業界では合併新会社が4つ生まれた。4月に日本興亜損保・あいおい損保・ニッセイ同和損保、10月に三井住友海上火災が発足している。 [41][42]

  • 週刊東洋経済 2002年4月20日号「自由化の影響 損害保険再編で二極分化が鮮明に」
    • [41]日本興亜は上期に、合併に伴う初期混乱があった。システムは一本化されたが、一部で、やはり不具合が生じたほか、代理店との申込書や伝票のやり取りや、営業部門の入力作業の不慣れなど事務作業に滞りが生じた。下期は、こうした問題は解消したが、新社名の浸透が課題として残った
  • 週刊東洋経済 2002年5月18日号「ザ・トーク 松澤建/清水隆雄」
    • [42]「合併初年度はエネルギーと時間とコストと気配りが必要。増収に転じるのは二年目以降だ。システムの混乱は01年度上期で収束した。営業面ではプロの中核代理店会、ディーラー、整備工場などの代理店網について合併後の新体制がシッカリ構築できた」/01年度は合併による新会社が四社誕生した。4月に日本興亜損保、あいおい損保、ニッセイ同和損保、10月には三井住友海上火災がスタート

市場が伸び悩むなかで大手3社は増収、中堅以下はニッセイ同和損保を除き軒並み減収となり、二極分化が鮮明になった。第一火災と大成火災の破綻を経て、顧客と代理店による信用力やブランドの選別が始まっている。代理店の手数料も自由化され、1社にまとめて売上を増やしたほうが手数料が増える仕組みになったため、乗り合い代理店は扱うブランドを絞り始めた。銀行窓販で地銀に強い旧日本火災、日本通運など輸送保険に強い旧興亜火災の地盤はそれぞれ生きていたものの、周囲が再び財閥色を強めるなかで「独立系の損保」という旗印の訴求力は弱かった。松澤氏は規模を追う流れと距離を置き、「大きいことがいいことだとは思わない。保険事業に奇手妙手はなく、CSつまり顧客満足をベースに、地味な努力を重ね、基本に忠実にやるしかない」と語っている。 [43][44][45]

  • 週刊東洋経済 2002年4月20日号「自由化の影響 損害保険再編で二極分化が鮮明に」
    • [43]全体として市場が伸び悩むなかで、二極分化が鮮明だ。その理由の一つは、第一火災、大成火災と損保でも破綻が起きたことで、顧客や代理店の信用力やブランドの選別が始まったこと、二つ目は代理店の手数料自由化で、一つの保険会社にまとめて売り上げを増やしたほうが手数料が増える仕組みとなったため、乗り合い代理店がブランドを絞る傾向が出てきたこと
    • [44]銀行窓販などで地銀に強い旧日本、日本通運など輸送保険に強い旧興亜の地盤は、それなりに生きているものの、銀行はじめ周囲の環境が再び財閥色を強めるなかで、「独立系の損保」という旗印が、現時点では訴求力が弱いことは否めない
  • 週刊東洋経済 2002年5月18日号「ザ・トーク 松澤建/清水隆雄」
    • [45]「大きいことがいいことだとは思わない。保険事業に奇手妙手はなく、CSつまり顧客満足をベースに、地味な努力を重ね、基本に忠実にやるしかない。しっかりした内容を持ち、株主、契約者、代理店に多く報いることができる会社がよい会社」
  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
    • [39]平成13年4月 日本火災海上保険株式会社と興亜火災海上保険株式会社が合併し、日本興亜損害保険株式会社となる(資本金91,249百万円)/平成14年4月 太陽火災海上保険株式会社を合併/昭和26年2月 太陽火災海上保険株式会社設立(資本金60百万円)
  • 週刊東洋経済 2002年5月18日号「ザ・トーク 松澤建/清水隆雄」
    • [40]日本興亜は合併後の人的融和がもっともスムーズといわれる。旧・日本火災出身の松澤社長と旧・興亜火災出身の岡本睦治会長の相性もいいようだ
    • [42]「合併初年度はエネルギーと時間とコストと気配りが必要。増収に転じるのは二年目以降だ。システムの混乱は01年度上期で収束した。営業面ではプロの中核代理店会、ディーラー、整備工場などの代理店網について合併後の新体制がシッカリ構築できた」/01年度は合併による新会社が四社誕生した。4月に日本興亜損保、あいおい損保、ニッセイ同和損保、10月には三井住友海上火災がスタート
    • [45]「大きいことがいいことだとは思わない。保険事業に奇手妙手はなく、CSつまり顧客満足をベースに、地味な努力を重ね、基本に忠実にやるしかない。しっかりした内容を持ち、株主、契約者、代理店に多く報いることができる会社がよい会社」
  • 週刊東洋経済 2002年4月20日号「自由化の影響 損害保険再編で二極分化が鮮明に」
    • [41]日本興亜は上期に、合併に伴う初期混乱があった。システムは一本化されたが、一部で、やはり不具合が生じたほか、代理店との申込書や伝票のやり取りや、営業部門の入力作業の不慣れなど事務作業に滞りが生じた。下期は、こうした問題は解消したが、新社名の浸透が課題として残った
    • [43]全体として市場が伸び悩むなかで、二極分化が鮮明だ。その理由の一つは、第一火災、大成火災と損保でも破綻が起きたことで、顧客や代理店の信用力やブランドの選別が始まったこと、二つ目は代理店の手数料自由化で、一つの保険会社にまとめて売り上げを増やしたほうが手数料が増える仕組みとなったため、乗り合い代理店がブランドを絞る傾向が出てきたこと
    • [44]銀行窓販などで地銀に強い旧日本、日本通運など輸送保険に強い旧興亜の地盤は、それなりに生きているものの、銀行はじめ周囲の環境が再び財閥色を強めるなかで、「独立系の損保」という旗印が、現時点では訴求力が弱いことは否めない

2003年〜 業務停止命令、物言う株主、そして統合で幕

  1. 2003年代理店の保険業法違反を理由に、金融庁が日本興亜損害保険と日本興亜生命保険に生保募集の業務停止命令12日間と業務改善命令を発動
  2. 2004年安田ライフダイレクト損害保険を子会社化し、同年10月にそんぽ24損害保険へ商号変更。通信販売チャネルを取り込む
  3. 2005年一部の顧客への費用保険金等の支払漏れをめぐり、日本興亜損害保険とそんぽ24損害保険が保険業法に基づく業務改善命令を受ける
  4. 2008年筆頭株主の米投資ファンド、サウスイースタン・アセット・マネジメントが株主総会で兵頭誠社長の再任に反対票を投じると表明
  5. 2009年業界3位の損害保険ジャパンとの経営統合を決定
  6. 2009年株主総会で兵頭誠社長と前社長の松澤建が経営統合をめぐって応酬し、大荒れとなる。全議案は可決
  7. 2010年損害保険ジャパンとの共同株式移転により両社の完全親会社NKSJホールディングスが発足し、その完全子会社となる。上場は廃止された

日本興亜損害保険の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

代理店をめぐる、この種の事案で過去最長の業務停止

2003年11月6日、金融庁は日本興亜損害保険と子会社の日本興亜生命保険、それに以前同じ代理店と契約していたピーシーエー生命の3社に行政処分を発表した。生命保険商品の虚偽説明や無登録募集など、保険代理店による保険業法違反が認められたためである。3社に業務改善命令が下り、日本興亜の2社にはこの種の事案では過去最長となる12日間の生保募集の業務停止命令が科された。処分を受けた側も監督当局も、肝心の代理店名を明かさなかった。登録が抹消されて実際に販売できないため消費者への影響はない、というのが共通の言い分である。ただし登録は3年経てば復活しうると言われており、当該業者の公表こそ消費者の望む情報開示にあたるという指摘も出た。 [46][47]

  • 週刊東洋経済 2003年11月22日号「日本興亜に行政処分「まさか業務停止」の波紋 中古車業者の違法販売で厳罰」
    • [46]11月6日、生命保険商品の虚偽説明や無登録募集など、保険代理店による保険業法違反が認められるとして、金融庁は日本興亜損害保険と同社子会社の日本興亜生命保険、以前に同代理店と契約を結んでいた別グループのピーシーエー生命の3社に対する行政処分を発表した。3社に業務改善命令が下るとともに、日本興亜損保と同生保両社には、この種の事案では「過去最長の12日間の(生保募集の)業務停止命令」が下された
    • [47]「極めて悪質」と断ずる行政当局も、処分を受けた3社も肝心の当該業者名を明かさないことだ。「登録が抹消され、実際に販売できないため消費者への影響はない」というのが共通の言い分だ。ただ、「3年経てば登録は復活可能」(業界関係者)と言われる中、当該業者の公表こそ、消費者が望む情報開示にほかならない

問題の代理店は中古車販売専業のカーポイント湘南で、神奈川県厚木市に本社を置き、函館から沖縄まで48店舗を展開する業界有数の企業だった。同社は1年強で安い掛け捨て定期保険を4,000件売っており、これは日本興亜生命の2002年度個人保険新規契約件数の5.5%にあたる。生保関係者からも突出した数字と見られた。同社の持株会社社長は「年6000件の目標が提示されており、この目標達成のために社員が頑張りすぎた面もある」と述べている。日本興亜側は「違法性を認識しながら契約件数を上げるために黙認していたということは断じてない」(日本興亜生命の井川二朗取締役)と否定し、業務改善の研修を3度実施したうえで最終通告も行っていたと説明した。両者の言い分は平行線をたどった。 [48][49]

  • 週刊東洋経済 2003年11月22日号「日本興亜に行政処分「まさか業務停止」の波紋 中古車業者の違法販売で厳罰」
    • [48]当該業者は中古車販売専業のカーポイント湘南。神奈川県厚木市に本社を置き、函館から沖縄まで48店舗を全国に展開する業界有数の企業だ。カーポイント湘南は安い掛け捨て定期保険とはいえ、1年強の間に4000件売っている。これは日本興亜生命の02年度の個人保険の新規契約件数の5・5%に相当する。「これは突出したレベル。数字を聞いて驚いた」と生保関係者も口をそろえる
    • [49]「年6000件の目標が提示されており、この目標達成のために社員が頑張りすぎた面もある」と大久保社長は強調する/業務改善の研修などを3度もカーポイント側に対し実施。今年1月には今年4月までに改善しなければ厳しい業務監査も辞さずという“最終通告”も行っている。そのうえで、「違法性を認識しながら契約件数を上げるために黙認していたということは断じてない」(井川取締役)と強調する

この処分の背景には、損保という商売の作りそのものがある。伝統的な損保商品は加入時の審査が基本的になく、事故が起きてから契約者の過失を見極めて損害額を査定する。代理店網を広げて大量に売り、支払いは厳しく査定して抑えることが収益確保の常道とされてきた。第三分野の商品は逆で、加入時に既往症を正確に把握しなければ成り立たない。自動車保険が成熟するなかで各社が第三分野の販売に力を入れた一方、支払いと管理の体制は整っていなかった。2006年には損保26社で31万8,000件・187億円の自動車保険金の支払い漏れが、大手・中小11社で5,000件余り・14億円の第三分野の不払いが発覚した。2003年に日本興亜損害保険が問われたのは生命保険の販売であり、2006年に業界が問われたのは自動車保険と第三分野の支払いだった。商品は違う。ただし代理店に量を求め、管理が追いつかないという順序は同じである。 [50][51]

  • 週刊東洋経済 2006年11月18日号「泥沼化する保険金不払い 顧客軽視の損保業界」
    • [50]自動車保険や火災保険など伝統的な損保商品は、加入時の審査は基本的になく、事故発生時に契約者の過失などを見極め、損害額を査定する。損保会社にとっては代理店網を拡大して大量に保険を売りつつ、事故発生時に厳しく査定して支払いを抑えることが、収益確保の王道だった。一方、第3分野商品は加入時に、契約者の既往症などを正確に把握することが重要になる
    • [51]大手・中小損害保険11社で、不適切な保険金不払いが大量に発覚した。対象は医療保険などの「第3分野」商品。10月末時点の不払い件数は5000件余り、合計額は14億円を超える/損保業界では、9月にも損保26社で31万8000件、計187億円にも上る自動車保険金の支払い漏れが明らかになったばかりだ
  • 週刊東洋経済 2003年11月22日号「日本興亜に行政処分「まさか業務停止」の波紋 中古車業者の違法販売で厳罰」
    • [46]11月6日、生命保険商品の虚偽説明や無登録募集など、保険代理店による保険業法違反が認められるとして、金融庁は日本興亜損害保険と同社子会社の日本興亜生命保険、以前に同代理店と契約を結んでいた別グループのピーシーエー生命の3社に対する行政処分を発表した。3社に業務改善命令が下るとともに、日本興亜損保と同生保両社には、この種の事案では「過去最長の12日間の(生保募集の)業務停止命令」が下された
    • [47]「極めて悪質」と断ずる行政当局も、処分を受けた3社も肝心の当該業者名を明かさないことだ。「登録が抹消され、実際に販売できないため消費者への影響はない」というのが共通の言い分だ。ただ、「3年経てば登録は復活可能」(業界関係者)と言われる中、当該業者の公表こそ、消費者が望む情報開示にほかならない
    • [48]当該業者は中古車販売専業のカーポイント湘南。神奈川県厚木市に本社を置き、函館から沖縄まで48店舗を全国に展開する業界有数の企業だ。カーポイント湘南は安い掛け捨て定期保険とはいえ、1年強の間に4000件売っている。これは日本興亜生命の02年度の個人保険の新規契約件数の5・5%に相当する。「これは突出したレベル。数字を聞いて驚いた」と生保関係者も口をそろえる
    • [49]「年6000件の目標が提示されており、この目標達成のために社員が頑張りすぎた面もある」と大久保社長は強調する/業務改善の研修などを3度もカーポイント側に対し実施。今年1月には今年4月までに改善しなければ厳しい業務監査も辞さずという“最終通告”も行っている。そのうえで、「違法性を認識しながら契約件数を上げるために黙認していたということは断じてない」(井川取締役)と強調する
  • 週刊東洋経済 2006年11月18日号「泥沼化する保険金不払い 顧客軽視の損保業界」
    • [50]自動車保険や火災保険など伝統的な損保商品は、加入時の審査は基本的になく、事故発生時に契約者の過失などを見極め、損害額を査定する。損保会社にとっては代理店網を拡大して大量に保険を売りつつ、事故発生時に厳しく査定して支払いを抑えることが、収益確保の王道だった。一方、第3分野商品は加入時に、契約者の既往症などを正確に把握することが重要になる
    • [51]大手・中小損害保険11社で、不適切な保険金不払いが大量に発覚した。対象は医療保険などの「第3分野」商品。10月末時点の不払い件数は5000件余り、合計額は14億円を超える/損保業界では、9月にも損保26社で31万8000件、計187億円にも上る自動車保険金の支払い漏れが明らかになったばかりだ

筆頭株主と前社長 ── 統合をめぐる社内外の対立

2008年6月、筆頭株主の米投資ファンド、サウスイースタン・アセット・マネジメントが、株主総会で兵頭誠社長の再任に反対票を投じると表明した。大手金融機関の筆頭株主が社長の再任に反対した例は過去にない。同ファンドは他の株主へ反対票を求める意図はないとしており、再任が否決される見込みは低かった。ただ兵頭社長は日本損害保険協会の次期会長職がほぼ内定しており、辞退となれば影響は損保各社に及ぶ状況にあった。ファンドの狙いはこの時点で明確ではない。ただし表明の時期は、前社長・松澤建の動静と重なっていた。松澤氏が社長退任を表明したとき、同ファンドは大量保有報告書の保有目的に、経営陣へ重要提案などを行うと追加している。再任反対の表明は、松澤氏が会長退任を表明した直後である。 [52][53]

  • 週刊東洋経済 2008年6月21日号「損保 日本興亜社長続投に 米ファンドが「NO!」」
    • [52]日本興亜損害保険の筆頭株主である米投資ファンド、サウスイースタン・アセット・マネジメント(SAM)が、26日に開催される株主総会で兵頭誠社長の再任に反対票を投じると表明した。大手金融機関の筆頭株主が社長再任に反対したことは、過去に例がない。SAMは他の株主に反対票を投じるよう要請する意図はないとしており、再任が否決される可能性は低い。ただ、兵頭社長は日本損害保険協会の次期会長職がほぼ内定しており、仮に辞退ということになれば、その影響は損保各社に及ぶ
    • [53]SAMの狙いは現時点では明確ではないが、その動きは松澤建・前社長の動静と微妙に重なる。松澤氏が社長退任を表明したとき、SAMは大量保有報告書の保有目的に、経営陣に重要提案等を行うと追加。また今回の再任反対も、松澤氏が会長退任を表明した直後である。松澤氏はSAMと蜜月関係を築いた人物

対立が表面化したのは、統合を決めた後である。2009年6月25日の株主総会で、株主として出席した松澤氏と兵頭社長が経営統合をめぐって応酬し、総会は前代未聞の大荒れとなった。兵頭社長の再任を含む全議案は可決されたが、持株比率約17%のサウスイースタンは前年に続いて再任に反対の意向を示している。兵頭社長は松澤氏の会長退任について「取締役会で決定した役員定年制導入によるもの。ほかの原因はいっさいない」と説明した。役員OBからは「メインバンク(日本興亜は三菱UFJ、損保ジャパンはみずほ)にもねじれを引き起こすような経営統合は日本興亜にとって大きな損失だ」との批判が出ている。旧日本火災と同じく川崎財閥の流れをくむ地銀などの株主が、12月の臨時株主総会で反対する可能性も指摘されていた。 [54][55]

  • 週刊東洋経済 2009年7月11日号「スペシャルリポート 大株主、OBが批判 揺れる日本興亜」
    • [54]6月25日、日本興亜損害保険の株主総会は、兵頭誠社長と前社長である松澤建氏の“対決”で、前代未聞の大荒れとなった。新旧社長の激しいバトルが繰り広げられたが、兵頭社長再任を含め、すべての議案が可決された。同社の筆頭株主で米投資ファンドのサウスイースタン・アセット・マネジメント(持ち株比率約17%)は、昨年に続き今年も兵頭社長の再任に、「反対」の意向を表明している
    • [55]「取引先も含め、メインバンク(日本興亜は三菱UFJ、損保ジャパンはみずほ)にもねじれを引き起こすような経営統合は日本興亜にとって大きな損失だ」と話す/日本興亜の前身である旧日本火災と同じく、川崎財閥の流れをくむ地銀などの株主が反対する可能性もあり、経営統合に向けてまだまだ紆余曲折がありそうだ

総会での応酬は、統合の是非をめぐる争いというより、経験の重みをめぐる争いに近い。統合について問われた兵頭社長は「株主様は過去から、いろいろご経験をされています。そのご経験を基に、現在を見ていらっしゃいます。私は現在を基に未来を見なくちゃいけないんです」と答え、松澤氏は「ずいぶん独断的ですね。私が将来のことを見ていないようなことを断定しないでほしい」と憤激した。出席した一般株主からは「情けないというか、あきれるね。これが大会社の株主総会なのか」という声が上がっている。株主からの質問や提案はほとんどが途中で打ち切られ、総会は1時間40分で終了した。統合の条件を詰めるべき時期に、この会社は自社の内部で時間を使っていた。 [56][57]

  • 週刊東洋経済 2009年7月11日号「スペシャルリポート 大株主、OBが批判 揺れる日本興亜」
    • [56]「対等の精神でやっていく。今がチャンス。株主様(松澤氏)は過去から、いろいろご経験をされています。そのご経験を基に、現在を見ていらっしゃいます。私は現在を基に未来を見なくちゃいけないんです。その違いなんです」/松澤氏がこれに憤激し「ずいぶん独断的ですね。私が将来のことを見ていないようなことを断定しないでほしい」
    • [57]出席した株主から「情けないというか、あきれるね。これが大会社の株主総会なのか……。しかも、現社長とその社長を指名した前社長が対決とは」と言われるのも当然だった/今回の株主総会では株主からの質問や提案のほとんどが途中で打ち切られた。混乱はあったものの、総会は1時間40分で終了している
  • 週刊東洋経済 2008年6月21日号「損保 日本興亜社長続投に 米ファンドが「NO!」」
    • [52]日本興亜損害保険の筆頭株主である米投資ファンド、サウスイースタン・アセット・マネジメント(SAM)が、26日に開催される株主総会で兵頭誠社長の再任に反対票を投じると表明した。大手金融機関の筆頭株主が社長再任に反対したことは、過去に例がない。SAMは他の株主に反対票を投じるよう要請する意図はないとしており、再任が否決される可能性は低い。ただ、兵頭社長は日本損害保険協会の次期会長職がほぼ内定しており、仮に辞退ということになれば、その影響は損保各社に及ぶ
    • [53]SAMの狙いは現時点では明確ではないが、その動きは松澤建・前社長の動静と微妙に重なる。松澤氏が社長退任を表明したとき、SAMは大量保有報告書の保有目的に、経営陣に重要提案等を行うと追加。また今回の再任反対も、松澤氏が会長退任を表明した直後である。松澤氏はSAMと蜜月関係を築いた人物
  • 週刊東洋経済 2009年7月11日号「スペシャルリポート 大株主、OBが批判 揺れる日本興亜」
    • [54]6月25日、日本興亜損害保険の株主総会は、兵頭誠社長と前社長である松澤建氏の“対決”で、前代未聞の大荒れとなった。新旧社長の激しいバトルが繰り広げられたが、兵頭社長再任を含め、すべての議案が可決された。同社の筆頭株主で米投資ファンドのサウスイースタン・アセット・マネジメント(持ち株比率約17%)は、昨年に続き今年も兵頭社長の再任に、「反対」の意向を表明している
    • [55]「取引先も含め、メインバンク(日本興亜は三菱UFJ、損保ジャパンはみずほ)にもねじれを引き起こすような経営統合は日本興亜にとって大きな損失だ」と話す/日本興亜の前身である旧日本火災と同じく、川崎財閥の流れをくむ地銀などの株主が反対する可能性もあり、経営統合に向けてまだまだ紆余曲折がありそうだ
    • [56]「対等の精神でやっていく。今がチャンス。株主様(松澤氏)は過去から、いろいろご経験をされています。そのご経験を基に、現在を見ていらっしゃいます。私は現在を基に未来を見なくちゃいけないんです。その違いなんです」/松澤氏がこれに憤激し「ずいぶん独断的ですね。私が将来のことを見ていないようなことを断定しないでほしい」
    • [57]出席した株主から「情けないというか、あきれるね。これが大会社の株主総会なのか……。しかも、現社長とその社長を指名した前社長が対決とは」と言われるのも当然だった/今回の株主総会では株主からの質問や提案のほとんどが途中で打ち切られた。混乱はあったものの、総会は1時間40分で終了している

何を抱えて統合に入り、そして何が消えたか

統合を決めたときの数字を並べると、この会社が何に追われていたかが見える。連結の正味収入保険料は2006年3月期の7,177億円から2010年3月期の6,450億円へ、4年で10.1%減った。経常収益も同じ期間に9,734億円から9,031億円へ縮んでいる。業界順位は5位で、統合相手の損害保険ジャパンは3位だった。痩せていたのは規模だけではない。単体の正味損害率は2006年3月期の62.68%から2010年3月期の69.42%へ6.74ポイント上がり、同じ期の正味事業費率35.81%を足すと105%を超える。保険引受だけを取り出せば赤字になる水準である。市場が縮み、主力の自動車保険で支払いが増え、代理店へ払う費用は下がらない。三つが同時に効いていた。 [58][59][60]

  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)主要な経営指標等の推移
    • [58]連結の正味収入保険料は第62期717,727百万円(2006年3月期)、第63期712,862、第64期698,685、第65期663,888、第66期645,021百万円(2010年3月期)。経常収益は973,424百万円から903,102百万円
    • [59]正味損害率(単体)62.68%(2006年3月期)→65.47→65.42→66.74→69.42%(2010年3月期)。正味事業費率 35.73→35.46→34.91→35.06→35.81%
  • 週刊東洋経済 2009年7月11日号「スペシャルリポート 大株主、OBが批判 揺れる日本興亜」
    • [60]3月に業界5位の日本興亜は損保ジャパン(同3位)との経営統合を決めている

一方で、支払能力そのものが危うくなっていたわけではない。単体のソルベンシー・マージン比率は2009年3月末の711.9%から2010年3月末の742.5%へ上がり、監督上の目安である200%を上回り続けた。連結従業員は9,705人で統合直前の4年間はむしろ増え、代理店手数料等は年1,157億円を払っていた。窮迫して身売りしたのではない。相手方から見れば、この会社は重ならない販路を持っていた。銀行窓販で地銀に強い旧日本火災の地盤と、日本通運系の輸送保険で首位を続けた旧興亜火災の地盤は、いずれも損害保険ジャパンが持たないものである。もっとも、この組み合わせを最善と見ない声もあった。筆頭株主のサウスイースタンは損害保険ジャパンの筆頭株主でもあり約7.5%を保有していて、統合そのものには固執していない。役員OBの一人は「ほかにも、提携先の候補はあるのに、今回の選択は失敗だ」と述べた。 [61][62][63]

  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)
    • [61]ソルベンシー・マージン比率は前事業年度(平成21年3月31日)711.9%、当事業年度(平成22年3月31日)742.5%。連結従業員数は8,858人(2006年3月期)→9,268→9,444→9,501→9,705人(2010年3月期)。事業費の内訳は代理店手数料等115,735百万円、給与69,556百万円(2010年3月期)
  • 週刊東洋経済 2009年7月11日号「スペシャルリポート 大株主、OBが批判 揺れる日本興亜」
    • [62]日本興亜の筆頭株主であるサウスイースタンは、損保ジャパンの筆頭株主(約7・5%保有)でもある。損保ジャパンに対して協力的な姿勢をみせているものの、日本興亜との統合に固執してはいない
    • [63]別のOBは「サウスイースタンは統合発表後、再度、兵頭社長続投にノーを突きつけているが、統合ではなく単独であってもかまわない姿勢を見せている。ほかにも、提携先の候補はあるのに、今回の選択は失敗だ」

2010年4月、損害保険ジャパンとの共同株式移転により両社の完全親会社NKSJホールディングスが設立され、日本興亜損害保険はその完全子会社となった。日本火災海上保険が1949年5月に東京証券取引所へ上場してから61年で、この証券コードは市場から消えた。興亜の側のコードは、2001年の合併の時点ですでに消えている。消えたのは上場であって会社ではない。事業会社としての社名も、9,705人の従業員も、日通系の輸送保険と地銀窓販という二つの地盤を支えた代理店網も、そのまま持株会社の下へ移っている。実質として失われたのは、松澤建氏が2002年に「大きいことがいいことだとは思わない」と語ってみせた独立系という立ち位置だった。ただし、この会社だけの失敗と読むのは早い。料率自由化のもとで下位の損保が営業経費率で不利になる構造は制度が作ったもので、同じ構造のなかで中堅の損保はほとんどが統合を選んでいる。 [64][65][66][67]

  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
    • [64]平成22年4月 株式会社損害保険ジャパンと共同株式移転の方法により両社の完全親会社であるNKSJホールディングス株式会社を設立し、同社の完全子会社となる
    • [65]昭和24年5月 日本火災海上保険株式会社、東京証券取引所に上場/昭和28年10月 興亜海上火災運送保険株式会社、東京証券取引所に上場
  • 週刊東洋経済 2002年5月18日号「ザ・トーク 松澤建/清水隆雄」
    • [66]「大きいことがいいことだとは思わない。保険事業に奇手妙手はなく、CSつまり顧客満足をベースに、地味な努力を重ね、基本に忠実にやるしかない」
  • 週刊東洋経済 1997年11月22日号「太陽火災 資本充実策を検討「損保も例外ではない?」報道の衝撃波」
    • [67]損害保険は98年7月に料率の自由化を迎える。太陽火災のような収入保険料の規模の小さい下位損保は営業経費率で不利である。自立して生き残る道は限られているだろう
  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)主要な経営指標等の推移
    • [58]連結の正味収入保険料は第62期717,727百万円(2006年3月期)、第63期712,862、第64期698,685、第65期663,888、第66期645,021百万円(2010年3月期)。経常収益は973,424百万円から903,102百万円
    • [59]正味損害率(単体)62.68%(2006年3月期)→65.47→65.42→66.74→69.42%(2010年3月期)。正味事業費率 35.73→35.46→34.91→35.06→35.81%
  • 週刊東洋経済 2009年7月11日号「スペシャルリポート 大株主、OBが批判 揺れる日本興亜」
    • [60]3月に業界5位の日本興亜は損保ジャパン(同3位)との経営統合を決めている
    • [62]日本興亜の筆頭株主であるサウスイースタンは、損保ジャパンの筆頭株主(約7・5%保有)でもある。損保ジャパンに対して協力的な姿勢をみせているものの、日本興亜との統合に固執してはいない
    • [63]別のOBは「サウスイースタンは統合発表後、再度、兵頭社長続投にノーを突きつけているが、統合ではなく単独であってもかまわない姿勢を見せている。ほかにも、提携先の候補はあるのに、今回の選択は失敗だ」
  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)
    • [61]ソルベンシー・マージン比率は前事業年度(平成21年3月31日)711.9%、当事業年度(平成22年3月31日)742.5%。連結従業員数は8,858人(2006年3月期)→9,268→9,444→9,501→9,705人(2010年3月期)。事業費の内訳は代理店手数料等115,735百万円、給与69,556百万円(2010年3月期)
  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
    • [64]平成22年4月 株式会社損害保険ジャパンと共同株式移転の方法により両社の完全親会社であるNKSJホールディングス株式会社を設立し、同社の完全子会社となる
    • [65]昭和24年5月 日本火災海上保険株式会社、東京証券取引所に上場/昭和28年10月 興亜海上火災運送保険株式会社、東京証券取引所に上場
  • 週刊東洋経済 2002年5月18日号「ザ・トーク 松澤建/清水隆雄」
    • [66]「大きいことがいいことだとは思わない。保険事業に奇手妙手はなく、CSつまり顧客満足をベースに、地味な努力を重ね、基本に忠実にやるしかない」
  • 週刊東洋経済 1997年11月22日号「太陽火災 資本充実策を検討「損保も例外ではない?」報道の衝撃波」
    • [67]損害保険は98年7月に料率の自由化を迎える。太陽火災のような収入保険料の規模の小さい下位損保は営業経費率で不利である。自立して生き残る道は限られているだろう

日本興亜損害保険の沿革1892〜2010年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
日本火災保険(のちの旧日本火災海上保険)が大阪で創立★★★
浅野総一郎・広海仁三郎・右近権左衛門ら海運業者が日本海上火災保険を設立★★
関東大震災。火災保険を主力としていた旧日本火災が大損害を受ける★★
政府の推進により辰馬海上火災・大北火災海上運送・神国海上火災・尼崎海上火災の4社が解散合併し、興亜海上火災運送保険が大阪で発足★★★
旧日本火災海上保険(1944年に帝国火災海上保険を合併)と日本海上火災保険が解散合併し、日本火災海上保険が東京で発足★★★
日本火災海上保険が東京証券取引所に上場
太陽火災海上保険が設立(2002年に日本興亜損害保険が合併)
日本火災海上保険が本店建物を所有していた日本ビルディングを合併
日本火災海上保険が大阪証券取引所に上場
興亜海上火災運送保険が東京証券取引所に上場
興亜海上火災運送保険が興亜火災海上保険に商号変更し、立ち遅れていた火災保険部門の拡充に着手★★
日本火災海上保険が名古屋証券取引所に上場
興亜火災海上保険が大阪証券取引所に上場
日本火災海上保険が英国ロンドンに現地法人を設立(のちのNipponkoa Insurance Company (Europe) Limited)
興亜火災海上保険が英国ロンドンにKoa Insurance Company (U.K.) Limitedを設立
興亜火災海上保険が香港にKoa Insurance Company (Asia) Limitedを設立
日本火災海上保険が日本火災パートナー生命保険を、興亜火災海上保険が興亜火災まごころ生命保険をそれぞれ設立し、生損保相互参入に踏み出す★★
損害保険の料率が自由化され、収入保険料の規模が小さい下位損保ほど営業経費率で不利になる競争環境に入る★★
三井海上火災・日本火災海上・興亜火災海上の3社が経営統合を発表。実現すれば業界首位の東京海上火災を上回る規模となるはずだった★★
新会社を三井グループに属させるという条件をめぐり三井海上が離脱し、3社統合構想が崩壊★★★
日本火災海上保険と興亜火災海上保険が合併し、日本興亜損害保険が発足★★★
興亜火災まごころ生命保険と日本火災パートナー生命保険が合併し、日本興亜生命保険となる★★
太陽火災海上保険を合併★★
英国ロンドンにNipponkoa Management Services (Europe) Limitedを設立
代理店の保険業法違反を理由に、金融庁が日本興亜損害保険と日本興亜生命保険に生保募集の業務停止命令12日間と業務改善命令を発動★★★
安田ライフダイレクト損害保険を子会社化し、同年10月にそんぽ24損害保険へ商号変更。通信販売チャネルを取り込む★★
一部の顧客への費用保険金等の支払漏れをめぐり、日本興亜損害保険とそんぽ24損害保険が保険業法に基づく業務改善命令を受ける★★
筆頭株主の米投資ファンド、サウスイースタン・アセット・マネジメントが株主総会で兵頭誠社長の再任に反対票を投じると表明★★★
業界3位の損害保険ジャパンとの経営統合を決定★★★
株主総会で兵頭誠社長と前社長の松澤建が経営統合をめぐって応酬し、大荒れとなる。全議案は可決★★
中国深センにNipponkoa Insurance Company (China) Limitedを設立
損害保険ジャパンとの共同株式移転により両社の完全親会社NKSJホールディングスが発足し、その完全子会社となる。上場は廃止された★★★
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本火災海上」
  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)【沿革】
  • 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「保険-輸入知識から出発」
  • 会社銀行八十年史(1955年)「興亜火災海上」
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
  • 週刊東洋経済 2006年11月18日号「泥沼化する保険金不払い 顧客軽視の損保業界」
  • 日経ビジネス 1990年1月29日号 新社長「佐野喜秋氏[日本火災海上保険]登場」ほか同誌3本(1993年2月22日号・1993年7月5日号・1998年9月7日号)
  • 週刊東洋経済 1997年11月22日号「太陽火災 資本充実策を検討「損保も例外ではない?」報道の衝撃波」
  • 週刊東洋経済 1999年11月6日号「超大合併時代/金融 都銀の“メガ統合”が誘発する再編の連鎖」
  • 週刊東洋経済 2000年2月26日号「破談 損保3社統合崩壊 バツイチ三井海上がこれから払うツケ」
  • 週刊東洋経済 2002年5月18日号「ザ・トーク 松澤建/清水隆雄」
  • 週刊東洋経済 2002年4月20日号「自由化の影響 損害保険再編で二極分化が鮮明に」
  • 週刊東洋経済 2003年11月22日号「日本興亜に行政処分「まさか業務停止」の波紋 中古車業者の違法販売で厳罰」
  • 週刊東洋経済 2008年6月21日号「損保 日本興亜社長続投に 米ファンドが「NO!」」
  • 週刊東洋経済 2009年7月11日号「スペシャルリポート 大株主、OBが批判 揺れる日本興亜」
  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)主要な経営指標等の推移
  • 日本興亜損害保険 有価証券報告書 第66期(2010年3月期)

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