日本興亜損害保険という社名ができたのは2001年だが、この会社の資本は明治期の2社にさかのぼる[1]。一方は火災保険から始まった。1892年4月、大阪の財界有力者が発起人となり、資本金50万円で日本火災保険が創立[2]された。1906年に大阪の日本酒造火災を合併し、そのとき本社を東京へ移した。営業の主力は火災保険に置かれ、そのぶん火災の大量発生には弱い体質を抱えた。もう一方は海運から始まった。1896年3月、浅野総一郎氏・広海仁三郎氏・右近権左衛門氏ら有力な海運業者が計画し、資本金300万円で日本海上火災保険が発足した[3]。海運の側から見れば、自分たちの船と荷を自分たちで請け合う仕組みを持つことに意味があった。
日本の損害保険は輸入された知識から始まっている。近代的な保険の考え方が入ってきたのは維新以後で、渋沢栄一氏が損害保険を、福沢諭吉氏が生命保険を、手分けするように広めた[4]。1879年7月、鉄道の払い下げ計画が立ち消えて宙に浮いた華族の出資金を元手に、渋沢氏の勧めで資本金60万円の東京海上保険が創立認可を受けた。火災保険は1887年設立の東京火災保険に安田善次郎氏が経営参画したところから広がった。海上を三菱が、火災を安田が興した[5]。日清戦争をはさむ1893年から1903年までの10年間は企業熱の時代で、明治火災・日本火災・帝国海上をはじめ30社が設立された[6]。乱設の弊害があまりに大きかったため、政府は1900年に保険業法を施行する。競争の激化は業法の制定で自然に淘汰され、日露戦争直後には10社に整理された。日本火災はその10社に残った。
海上保険から出た日本海上火災保険は、欧州大戦の海運好況の波に乗って業績を伸ばした。関東大震災の後は火災保険にも手を広げている。特徴的なのは営業地域で、満州と中国への進出が大きく、この方面の営業量は国内の首位を占めた。解散当時の資本金は1,300万円になっていた[7]。火災を主力に西から出た会社と、海上を主力に海運業者が興した会社。両者が引き受けた危険は重ならない。日本火災の側は関東大震災で火災保険の危うさを[8]知り、日本海上の側は大陸の営業で資本金を4倍に増やした。引受対象の違いが、そのまま2社の体質の差になっている。
1923年の関東大震災は、火災保険を主力とする会社を正面から直撃した。日本火災も大損害を受けている。震災の後は不況が深まって各社が弱体化し、業界では四つの手が同時に打たれた。減資による整理、大会社への合併、大会社を中心とするブロック化[9]、料率協定の強化である。この整理は大正末期から1931年まで続いた。効果は資本の側にはっきり出ている。大正末期に51社あった保険会社の数は昭和6年になっても変わらなかったが、払込資本金は1億44万円から6,990万円へ、5年ほどで3割以上減った[10]。会社の数を減らさずに資本を減らすという処理が、当時の業界の選んだ道だった。震災による損失を保険会社が背負い切れる規模ではなかったという事実が、その後の統合の下地をつくっている。
太平洋戦争に入ると、業界の再編成は政府主導で一気に進められた。1941年には三井系の大正海上と新日本火災が合併して大正海上となり[11]、1944年には合同が加速する。同じ年に、東京海上・明治火災・三菱海上の3社合併で東京海上火災が、東京火災・帝国海上・第一機罐の3社合併で安田火災海上が、朝日海上・共同火災・神戸海上・横浜火災の4社合併で同和火災海上が、それぞれ生まれた。50社以上あった損害保険会社は、終戦時にはわずか16[12]社になっている。海外との再保険取引ができなくなったため、損保各社の出資で東亜火災海上再保険も設立された。日本火災海上と興亜海上火災運送保険は、この1944年の統合でともに生まれた会社にあたる。ともに戦時統合の産物として出発した会社である。
1944年10月、旧日本火災海上保険と日本海上火災保険が解散合併し[13]、資本金3,900万円で日本火災海上保険が発足した。本店は東京に置かれた。旧日本火災はこれに先立つ同じ1944年、同系の帝国火災海上保険を合併しており、資本金は2,600万円になっていた。帝国火災は1912年設立の会社である。新会社は2社の営業種目である火災・海上・運送・傷害・盗難・航空・自動車・信用の各保険とその再保険をそのまま継承した[14]。名前に"火災"と"海上"の両方が入っているのは、合併の中身をそのまま示している。太平洋戦争中は政府の戦争保険の代行機関も務めた。民間の保険会社が国の戦争リスクを扱う機関として使われた時期から、この会社は出発した。
もう一つの合併は、その7か月前に大阪で起きている。1944年3月、政府の推進により4社が解散合併し、資本金[15]1,500万円の興亜海上火災運送保険が発足した。合併したのは辰馬海上火災(1919年設立・資本金200万円)、大北火災海上運送(1920年設立・400万円)、神国海上火災(1921年設立・300万円)、尼崎海上火災(1918年に中外海上保険として設立、1931年に商号変更・200万円)の4社である。いずれも大正期に関西で設立された会社で、単独では小さかった。会長には山縣勝見氏、社長には中野金次郎氏が就いている[16]。本社は当初、大阪に置かれた。社名に"海上"と"運送"が並ぶとおり、この会社が引き受けた危険の中心は船と荷物にあった。
同じ1944年に生まれた2社だが、出自は対照的である。日本火災海上が明治期からの老舗2社を統合したものだったのに対し、興亜は大正期に関西で設立された中小4社を政府が束ねたものだった。合併時の資本金は日本火災海上が3,900万円、興亜が1,500万円。設立当初の年間収入保険料は4,800万円にすぎない。支店の数も合併当時は12にとどまった[17]。10年後の1954年度には収入保険料が34億3,000万円まで増え、支店は12都市に置かれ、出張所76と駐在所24を持つまでになるが、それでも同じ年度に69億3,000万円を集めた日本火災海上の半分の規模である[18]。57年後に両社が一つになるとき、この規模の差と地盤の違いはまだ残っていた。
終戦後の損害保険は、被保険物件の激減と危険度の悪化で各社とも赤字経営に苦しんだ。戦時補償の打切りと在外資産の切捨てで資産面の減価も著しい。終戦時に7億円あった損保会社の資産は[19]1948年1月に5億3,600万円まで減り、そのうち新勘定資産は3億2,000万円にすぎなかった。軌道に乗り始めるのは1949年から1950年ごろで、戦争中とだえた海外との再保険取引もこの時期に再開された。会社の新設も行われ、第一・太陽・東洋・朝日の4社が設立[20]された。ただし既設会社はいずれも古い歴史を持ち基礎が固かったため、新設各社は経営に苦しみ、それぞれ有力な後ろ盾を持つに至った。1951年2月に設立された太陽火災も、大正海上を後ろ盾とした。
日本火災海上の戦後は、大火との闘いから始まっている。1947年の飯田市大火をはじめ各地の大火が続き[21]、海外の取引先も失って大きな困難に遭った。1950年の保険業法改正で欧米の損保事業取引の代理・媒介業務の認可を受け、1952年以降は保証・風水害・ガラスの各保険を手がけた。1950年からは社長と常務が海外の取引先を歴訪し、再保険取引を戦前の水準へ戻した。朝鮮動乱が終わった後は収入保険料の増勢が鈍ったものの、主力の火災保険は再三の料率引下げにもかかわらず毎年増収増益を続けている。新種保険は自動車保険を主体とした十数種にのぼり、機械保険の企画も進めた。1954年度の保険料収入は69億3,000万円、純正味収入保険料は41億6,600万円。同年4月に資本金は9億円になった[22]。
興亜火災海上の戦後は、日本通運との提携で決まった。旧大北火災と密接な関係にある日本通運と全面的な事業提携を行い、全国に散在する日通の支店約350と営業所約4,000をそれぞれ代理店として、その保険契約を一手に取り扱った[23]。運送保険は戦後の輸送状況の悪化で急激な需要を生み、取扱高は1948年以来つねに業界の首位を占めている。海上保険は旧辰馬海上と特殊な関係にある新日本汽船を基盤とした。保証保険を日本で最初に扱ったのも同社である。本社は1948年9月に大阪から東京の神田駿河台へ移り、1952年10月には地下1階地上8階のビルを日本橋室町に建てて移転した[24]。火災保険は当初立ち遅れており、1954年4月に興亜火災海上保険へ商号を改めるとともに、この部門の充実に努めた。
2社は別々の会社として株式市場に出ている。日本火災海上は1949年5月に東京証券取引所、1952年9月に大阪証券取引所、1955年2月に名古屋証券取引所へ上場[25]した。興亜はまだ興亜海上火災運送保険だった1953年10月に東京証券取引所、商号変更後の1961年10月に大阪証券取引所へ上場した。日本火災海上が3市場に出るまでに6年、興亜が2市場に出るまでに8年かかった。この間の1951年3月には、日本火災海上が本店建物を所有していた日本ビルディングを合併した。同じ1944年に生まれ、同じ業界で戦後を再建し、それでも一方は火災と海上、もう一方は運送と保証という別の商品で伸びた2社が、それぞれの看板で市場に出た時期にあたる。
海外への出方は控えめだった。日本火災海上が1974年7月にロンドンへThe Nippon Fire and Marine Insurance Company (U.K.) Limitedを置き[26]、興亜火災海上が1977年10月に同じロンドンへKoa Insurance Company (U.K.) Limitedを、1991年2月に香港へKoa Insurance Company (Asia) Limitedを置いた。20年近い期間で拠点は3つ、しかも2社が別々にロンドンへ出る重複を含む。日本火災海上のロンドン子会社は1989年1月にNippon Insurance Company of Europe Limitedへ商号を変えている。興亜側の2社が社名を書き換えたのは合併の前後で、香港が2001年4月、ロンドンが2002年1月にNIPPONKOAの名を冠した。海外事業が収益の柱に育つことはなく、統合までこの規模のまま推移している。
1980年代後半から1990年代にかけての損害保険は、商品の多様化が続いた期間である。積立保険の開発が相次ぎ、高齢化に見合う医療・介護・年金の分野で商品が作られ、各種の賠償責任保険も売り出された。しかし総資産の伸びは平成に入って鈍っている。理由は一つではない。主力商品である自動車保険の損害率が高まり、バブル期に集めた積立保険が満期[27]を迎えた。安定的であるはずの損保会社も経営の転機を迎えたと当時の産業史は書いている。商品の数を増やしても、主力である自動車保険の採算悪化は埋まらなかった。
外からの圧力も加わった。日米包括経済協議のなかで保険は優先3分野の一つになり、米側は保険審議会が打ち出した傷害・疾病・介護のいわゆる第三分野への本体参入に待ったをかけるよう求めた[28]。米系保険会社の得意分野に日本の生保と損保が乗り出せば市場を奪われかねない、という警戒からである。これに対しては自由化・規制緩和の流れに逆行するという反発も国内で起こった。保険業が国際競争にさらされ始めたのも、この時期である。この順序の逆転は、10年あまり後に業界全体の不払い問題として表に出る。
この時期の両社の経営者は、経済誌にたびたび登場している。日経ビジネスは日本火災海上保険の新社長として、1990年1月に佐野喜秋氏を、1993年7月に広瀬清氏を紹介している。広瀬氏の見出しは『人の思惑気にせず“自己責任”説く』だった。1993年2月には同社相談役の品川正治氏による論説『経済の総動員体制を改めよ』を有訓無訓欄に載せている。興亜火災海上からは1998年9月に岡本睦治氏が新社長として、『細やかな心配りで、開かれた経営目指す』の見出しで登場した[29]。岡本氏は3年後、合併新会社の会長に就く。中堅の損保が経済誌に取り上げられる頻度は大手より低く、記事の多くは社長交代時の紹介にとどまった。合併に至るまでの両社は、報道の量からいえば業界の主役ではなかった。
1996年4月に施行された保険業法の全面改正で、生命保険と損害保険の相互参入が子会社方式で認められた。同年8月、日本火災海上保険は日本火災パートナー生命保険を、興亜火災海上保険は興亜火災まごころ生命保険をそれぞれ設立した。同じ月に、別々の会社が同じ形の子会社を作った。5年後に両社が合併したとき、この2つの生保子会社も同時に合併して日本興亜生命保険になる[30]。生損保の垣根が制度として下がったとき、損保には新しい市場が開いた。同時に自社の主力商品も価格競争にさらされた。1996年に作った生保子会社が育つ前に、1998年7月に損害保険の料率が自由化される。
1998年7月、損害保険の料率が自由化された。収入保険料の規模が小さい下位の損保ほど営業経費率で不利になる制度変更である。同社は『実質債務超過とか、赤字転落などの報道は事実無根で遺憾だ』と反論しつつ、第三者割当増資と劣後ローンの導入を検討していることは認めている。
4か月後の2000年2月、構想は三井海上の離脱で崩壊した。グループを超えた統合のはずだったが、日本火災と興亜が三和色を強める一方で、三井海上も『金融環境が激変した。金融グループに属していないと強力な事業展開ができない』(井口武雄社長)と路線を変えた。新会社の軸をどこに置くかが最後まで定まらなかった。三井海上は三井グループの結束より自社の独自性を重視してきた会社だったが、結局はグループの重みに押し切られている。残された2社には、2社だけで組むという選択肢が残った。
三井海上の判断は、当時の環境では合理的だった。都市銀行が3行連合と住友・さくら連合へ再編されるなかで、金融グループの後ろ盾を求めない損保のほうがむしろ少ない。誤算があったとすれば目的の順序である。当時の報道は『統合の根本を固めないまま合意に走った三社の甘さ』と書いている。破談の責めは離脱した側だけにあるのではない。目的の合意を後回しにしたまま発表を先に出したことは、3社に共通する失敗だった。
2001年4月1日、日本火災海上保険と興亜火災海上保険が合併し、資本金912億4,900万円の日本興亜損害保険が発足した[31]。生保子会社も同時に合併して日本興亜生命保険となっている。翌2002年4月には太陽火災海上保険を合併した。1951年設立の太陽火災は、5年前に経営不安を報じられ、料率自由化のもとで自立の道を限られていた会社である。1944年の戦時統合で生まれた2社が、戦後に新設された1社を吸収する形で、この会社の統合はいったん完結した。合併の主導権をめぐる摩擦は、少なくとも人的な面では表に出ていない。
問題の代理店は中古車販売専業のカーポイント湘南で、神奈川県厚木市に本社を置き、函館から沖縄まで48店舗を展開する業界有数の企業だった。生保関係者からも突出した数字と見られた。同社の持株会社社長は『年6000件の目標が提示されており、この目標達成のために社員が頑張りすぎた面もある』と述べている。両者の言い分は平行線をたどった。
対立が表面化したのは、統合を決めた後である。兵頭社長の再任を含む全議案は可決されたが、持株比率約17%のサウスイースタンは前年に続いて再任に反対の意向を示している。兵頭社長は松澤氏の会長退任について『取締役会で決定した役員定年制導入によるもの。ほかの原因はいっさいない』と説明した。役員OBからは『メインバンク(日本興亜は三菱UFJ、損保ジャパンはみずほ)にもねじれを引き起こすような経営統合は日本興亜にとって大きな損失だ』との批判が出ている。
総会での応酬は、統合の是非をめぐる争いというより、経験の重みをめぐる争いに近い。出席した一般株主からは『情けないというか、あきれるね。これが大会社の株主総会なのか』という声が上がっている。統合の条件を詰めるべき時期に、この会社は自社の内部で時間を使っていた。
統合を決めたときの数字を並べると、この会社が何に追われていたかが見える。連結の正味収入保険料は2006年3月期[32]の7,177億円から2010年3月期の6,450億円へ、4年で10.1%減った。経常収益も同じ期間に9,734億円から9,031億円へ縮んでいる。痩せていたのは規模だけではない。単体の正味損害率は2006年3月期の62.68[33]%から2010年3月期の69.42%へ6.74ポイント上がり、同じ期の正味事業費率35.81%を足すと105%を超える。保険引受だけを取り出せば赤字になる水準である。市場が縮み、主力の自動車保険で支払いが増え、代理店へ払う費用は下がらない。三つが同時に効いていた。
一方で、支払能力そのものが危うくなっていたわけではない。単体のソルベンシー・マージン比率は2009年3月末の711.9%から2010年3月末の742.5%へ上がり[34]、監督上の目安である200%を上回り続けた。連結従業員は9,705人で統合直前の4年間はむしろ増え、代理店手数料等は年1,157億円を払っていた。窮迫して身売りしたのではない。相手方から見れば、この会社は重ならない販路を持っていた。銀行窓販で地銀に強い旧日本火災の地盤と、日本通運系の輸送保険で首位を続けた旧興亜火災の地盤は、いずれも損害保険ジャパンが持たないものである。もっとも、この組み合わせを最善と見ない声もあった。
2010年4月、損害保険ジャパンとの共同株式移転により両社の完全親会社NKSJホールディングスが設立され[35]、日本興亜損害保険はその完全子会社となった。日本火災海上保険が1949年5月に東京証券取引所へ上場してから61年で[36]、この証券コードは市場から消えた。興亜の側のコードは、2001年の合併の時点ですでに消えている。消えたのは上場であって会社ではない。事業会社としての社名も、9,705人の従業員も、日通系の輸送保険と地銀窓販という二つの地盤を支えた代理店網も、そのまま持株会社の下へ移っている。ただし、この会社だけの失敗と読むのは早い。
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|---|---|---|---|---|
| 1892〜1944年二つの源流 ── 大阪の火災保険と、政府が束ねた海上運送保険 | 日本火災保険(のちの旧日本火災海上保険)が大阪で創立 | ★ | ||
| 浅野総一郎・広海仁三郎・右近権左衛門ら海運業者が日本海上火災保険を設立 | ★ | |||
| 関東大震災。火災保険を主力としていた旧日本火災が大損害を受ける | ★★ | |||
| 辰馬海上火災・大北火災海上運送・神国海上火災・尼崎海上火災の4社が解散合併 | ★★ | |||
| 興亜海上火災運送保険が発足 | ★ | |||
| 日本火災海上保険と日本海上火災保険が解散合併 | ★★ | |||
| 日本火災海上保険が発足 | ★ | |||
| 1945〜1995年並び立った50年 ── 独立系の中堅損保という位置 | 日本火災海上保険が東京証券取引所に上場 | ★ | ||
| 太陽火災海上保険が設立(2002年に日本興亜損害保険が合併) | ★ | |||
| 日本火災海上保険が大阪証券取引所に上場 | ★ | |||
| 興亜海上火災運送保険が東京証券取引所に上場 | ★ | |||
| 興亜海上火災運送保険が興亜火災海上保険に商号変更 | ★ | |||
| 火災保険部門の拡充に着手 | ★ | |||
| 興亜火災海上保険が大阪証券取引所に上場 | ★ | |||
| 日本火災海上保険が英国ロンドンに子会社を設立 | ★ | |||
| 興亜火災海上保険が英国ロンドンにKoa Insurance Company (U.K.) Limitedを設立 | ★ | |||
| 興亜火災海上保険が香港にKoa Insurance Company (Asia) Limitedを設立 | ★ | |||
| 1996〜2002年三社統合の破談から、日本興亜損害保険の成立へ | 日本火災海上保険が日本火災パートナー生命保険を設立 | ★ | ||
| 興亜火災海上保険が興亜火災まごころ生命保険を設立 | ★ | |||
| 損害保険の料率が自由化 | ★ | |||
| 三井海上火災・日本火災海上・興亜火災海上の3社が経営統合を発表 | ★★ | |||
| 3社統合構想が崩壊 | ★★ | |||
| 三社統合構想の破談と、残る2社での合併による再出発 1999年10月に三井海上火災・日本火災海上・興亜火災海上の3社が発表した経営統合が、2000年2月の三井海上の離脱で崩れ、残る2社が2001年4月1日に合併して日本興亜損害保険を発足させた判断。首位の東京海上火災を上回る規模という当初の目的が消えた後も、2社は合併そのものを取り下げなかった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 2003〜2010年業務停止命令、物言う株主、そして統合で幕 | 代理店の違法な生保募集による代理店名の非公表 2003年11月6日、金融庁は日本興亜損害保険と子会社の日本興亜生命保険、ピーシーエー生命の3社に行政処分を科した。中古車販売代理店による生命保険商品の虚偽説明や無登録募集が理由で、日本興亜の2社にはこの種の事案では過去最長となる12日間の生保募集業務停止命令が下った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 筆頭株主による社長再任反対と、経営統合をめぐるOB株主の反対 2008年6月、日本興亜損害保険の筆頭株主である米投資ファンド、サウスイースタン・アセット・マネジメント(持ち株比率約17%)が、兵頭誠社長の再任に反対票を投じると表明した。大手金融機関の筆頭株主が社長再任に反対した例は、それまでになかった。2009年3月に損害保険ジャパンとの経営統合が決まると反対はさらに広がり、6月の株主総会は前社長・松澤建氏との応酬で大荒れとなった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 業界3位の損害保険ジャパンとの経営統合を決定 | ★★ | |||
| NKSJホールディングス設立による持株会社体制への移行と、単独路線の放棄 2009年3月、業界3位の損保ジャパンと同5位の日本興亜損害保険が、2010年4月に共同持株会社を設立する経営統合を発表し、2010年4月に共同株式移転でNKSJホールディングスを設立した経営判断。共同CEO制を敷く"対等の統合"であり、同日発足のMS&AD、既存の東京海上ホールディングスと合わせ、国内損保は3メガ体制へ移行した。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(日本興亜損害保険)