ニッセイ同和損害保険同和火災海上保険によるニッセイ損害保険の吸収合併と、ニッセイ同和損害保険への商号変更
業界12位の相手では物足りないのか——日本生命が損保子会社を畳まず本体合併を選んだ理由
- 概要
- 2001年4月1日、同和火災海上保険が日本生命保険の損害保険子会社ニッセイ損害保険を吸収合併し、商号をニッセイ同和損害保険へ改めた合併。存続会社は同和火災であり、事業年度の期数も同社から引き継いだ。
- 背景
- 1996年の生損保相互参入で大手生保が設けた損保子会社は伸び悩み、第一生命保険は安田火災海上保険へ、三井生命保険は三井住友海上火災保険へ損保事業を手放した。損害保険は損害調査網とシステム費用を抱える装置産業で、新設の子会社では規模が足りなかった。
- 内容
- 日本生命は損保を第二の本業ととらえ、持株比率33.4%で同和火災を傘下に収めた。ニッセイ損保に不足していた営業職員への教育支援を強め、プロ代理店の育成も始めた。2005年度の正味収入保険料5,000億円を目標に掲げた。
- 含意
- 約6万人の営業職員とニッセイブランドは初年度から増収をもたらし、業界6位・シェア4.6%を確保した。だが正味収入保険料は3,200億円台で頭打ちとなり、5,000億円には届かないまま2010年の3社統合を迎えた。
規模ではなく、割引を呑めるかで相手を選んだ
日本生命が同和火災を選んだ条件は、規模ではなく「ニッセイ保険口座」の顧客に割引を認めるかどうかにあった。自前の商売の仕組みを持つ上位損保に、他社の生保顧客のために価格を下げる理由はない。加藤貞男氏(日本生命取締役総合企画部長)が「大きいところと組めばうまくいくのか」と反論したときの中身は、この一点にある。損保業界12位という順位は、条件を呑める相手を探した結果として付いてきた。
その条件で組んだ結果、増収は生保のチャネルの外へは広がらなかった。須藤社長が認めたとおり2001年度は日本生命のチャネルを除けば若干の減収であり、成田空港で2割伸びた海外旅行傷害保険も、名前が変わっただけの伸びだった。正味収入保険料は3,200億円台で止まり、5,000億円には届かないまま2010年の3社統合を迎えた。ただし、合併の進め方に落ち度を求めるのは当たらない。1,200万の契約者を死亡保障で支える販売網に損害保険を重ねる設計である以上、伸びる量は損保側の努力ではなく、その販売網が何を売って成り立っているかで決まる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
生損保相互参入から五年
1996年に生保と損保の相互参入が解禁されると、大手生命保険会社はそろって損害保険子会社を設けた。日本生命保険が同じ年に設立したニッセイ損害保険も、本店を東京都新宿区に置き、資本金100億円で発足した一社である。ところが五年が過ぎても、当初期待したほどの成果はどの社にも出なかった。1998年7月に自動車保険の料率が自由化されると価格競争が広がり、後発の小さな損保が採算に乗せることは難しくなった[1][2]。
損害保険は、全国の代理店に対応する営業拠点網と、自動車事故の損害調査網を抱えなければ成り立たない。商品を増やすためのシステム費用も重く、一種の装置産業にあたる。この負担を嫌って、第一生命保険は包括提携した安田火災海上保険へ損保子会社を売却し、三井生命保険も2002年暮れに三井住友海上火災保険へ営業譲渡した。同じ第1陣のなかで、損保を続ける側と畳む側とが分かれた[3][4]。
関西の名門損保と、規模の問題
相手方の同和火災海上保険は、1944年3月に戦時下の企業整備で神戸海上火災・共同火災海上・朝日海上火災・横浜火災海上の4社が対等の条件で合併して生まれ、本店を大阪に置いた。最も古い横浜火災の創立は1897年8月にさかのぼる。1997年11月に創業100周年を迎えたころには、格付けはS&PのAAにあり、不良債権の少なさと株式含み益の厚さが評価される一方、成長力の不足が課題として残っていた[5][6]。
業界の側では、規模をめぐる淘汰が始まっていた。保険業は規模の利益が大きく、規模が引受能力を決め、効率も高まって価格競争力に表れる。2001年度だけで日本興亜損保・あいおい損保・ニッセイ同和損保・三井住友海上火災の4社が合併で誕生した。総合保険会社への挑戦に失敗した会社は、ニッチ市場に特化するか、銀行や異業種の傘下に入るしかないと当時は見られていた[7][8]。
決断
子会社を畳まず、本体合併を選ぶ
2001年4月1日、同和火災海上保険はニッセイ損害保険を吸収合併し、商号をニッセイ同和損害保険へ改めた。存続会社は同和火災であり、事業年度の期数もそのまま引き継いだ。最終事業年度が第67期の2010年3月期にあたることから逆算すると、第1期は設立年度の1943年度になる。日本生命保険は合併後に持株比率を33.4%まで引き上げ、筆頭株主として同社を傘下に収めた[9][10]。
日本生命だけは、逆へ動いた。東京海上火災保険が生保を第二の本業としたのと対称に、日本生命は損保を第二の本業ととらえ、保険グループとして独立した集団を目指していた。合併では、ニッセイ損保に十分でなかった営業職員への教育支援の機能を強め、プロ代理店の本格的な育成も始めた。加藤貞男氏(日本生命取締役総合企画部長)は「我々は一つの思想で生損保商品を提供し、サービスの具体的な事実を積み上げていく」と語っている[11][12]。
なぜ業界12位の相手だったのか
相手の選び方には、発表の時点から週刊東洋経済が疑問を向けている。損保業界12位の同和火災では物足りない、という見方である。加藤貞男氏はこれに「大きいところと組めばうまくいくのか。同和火災とは共通のコンセプトを持ってやっている」と反論した。のちにニッセイ同和損害保険の武田嘉和氏(企画部長)も、同和火災を選んだのは「ニッセイブランドとして結束し、生損統合、同じ目標を共有できる」ことが条件であったからだと説明している[13][14]。
条件の中身は、価格政策に表れた。「ニッセイ保険口座」の加入者は、ニッセイ同和の損保商品を買っても割引を受けられる。自前の商売の仕組みを持つ上位損保であれば、他社の生保顧客のために価格を下げる選択はしない。合併会社が掲げた目標は、2005年度の正味収入保険料5,000億円である。1999年度の2社合計のおよそ2倍にあたり、達成には連続二ケタ成長を要した[15][16]。
結果
ニッセイブランドと6万人の営業職員
接合の効果は初年度から数字に表れた。2001年度の営業ベースの収入保険料は、大手3社とニッセイ同和がプラスで、中堅以下はニッセイ同和を除いて軒並みマイナスとなった。旧ニッセイ損保の顧客分の上乗せに加え、30%の筆頭株主となった日本生命の営業支援で企業保険に攻勢をかけ、対前年同期比で5%を超える伸びを記録した。増収率は合併前の2000年度が4.5%、2001年度が4.6%と、いずれも4%台にとどまった[17][18]。
ブランドの効き目は、成田空港の自動販売機で売る海外旅行傷害保険に表れた。2001年度は名前が変わっただけで前年度比2割伸び、日本生命の約6万人の営業職員が扱った効果も加わった。須藤秀一郎社長は日本生命の123の支社に社員を2名ずつ配置し、1,800の営業拠点すべてを自社の支社・営業所が受け持つ体制へ移した。「ニッセイ保険口座」の顧客が損保商品を契約している率は8%で、これを3割へ引き上げる計画を掲げた[19][20]。
5,000億円には届かなかった
目標との距離は、縮まらなかった。合併初年度の2002年3月期の正味収入保険料は2,806億円、翌2003年3月期は3,083億円で、この期は経常損失85億円・当期純損失43億円を計上した。以後も2004年3月期3,224億円、目標年度にあたる2006年3月期3,218億円と3,200億円台で頭打ちとなり、2005年度5,000億円という目標は6割強で終わった。2009年3月期には経常損失168億円を計上している[21][22]。
届かなかった理由は、生保の営業職員に損保を売らせることの構造にあった。営業職員は定着率が採用数の2割にとどまり、上位2割が全体の8割を稼ぐ販売網である。日本生命は1,200万の契約者を抱え、その維持のために死亡保障を主体に売らなければ採算が合わない。須藤社長も、2001年度は日本生命のチャネルを除けば前年度比で若干のマイナスであったと認めている。損保は保険口座の顧客を守り、新規を開拓するための道具にとどまった[23][24]。
- 週刊東洋経済 2000年10月7日号「最強の保険会社特集 最強の保険会社はここだ!」
- 週刊東洋経済 2001年9月15日号「覇権争い 日本生命vs東京海上「生保のガリバー」に挑む「損保の盟主」の賭け」
- 週刊東洋経済 2002年4月20日号「自由化の影響 損害保険再編で二極分化が鮮明に 課題抱えたあいおい損保」
- 週刊東洋経済 2003年4月12日号「悩める巨人 日本生命の闘い 営業職員拡大しかない 巨大であることの桎梏」
- 週刊東洋経済 1998年3月7日号「須藤秀一郎 同和火災海上保険社長(内定) 100年めに自由化の荒波」
- ニッセイ同和損害保険 有価証券報告書【沿革】
- ニッセイ同和損害保険 有価証券報告書(単体)