1878年12月、わが国最初の保険会社として東京海上保険会社が設立[1]され、翌1879年8月から貨物海上保険の引き受けを目的に営業を開始[2]した。近代海運業が勃興する時期の創業であり、渋沢栄一氏の主唱により、岩崎弥太郎氏をはじめとする旧藩主らが出資[3]した。資金の出どころは廃藩置県で旧藩主が受け取った金禄公債[4]で、当初は鉄道への投資が検討されたものの、鉄道は政府が担うと決まり、渋沢栄一氏が海上保険を勧めた[5]。社名は創業地の地名から取り、初代頭取には華族出身の政治家・蜂須賀茂韶氏が就いた[6]。頭取の座はその後も旧藩主が継ぎ、2代目は宇和島藩主の伊達宗城氏、3代目は岡山藩主の池田茂政氏[7]だった。
創業の翌年には欧米へも営業網を広げ[8]、1884年2月には船舶保険の引き受けを開始[9]した。当初は順調に推移したものの、1890年以降のイギリスでの営業が巨額の損失を招いた[10]。現地の引き受けをブローカーに任せきりにしていた[11]ため、危険を選別して悪いリスクを断る仕組みを欠いたままロンドン市場に出ていた。立て直しののち、1899年以降はロンドン総代理店を開設[12]し、その子会社に火災保険の特約再保険取引を全面的に委託した。同社が創業から敗戦までに数えた経営危機は3度あり[13]、この英国での損失が最初のものだった。
1894年7月、東京海上は当時26歳の各務鎌吉氏をロンドンへ派遣[14]した。各務鎌吉氏は会計方式の切り替えと半額減資を柱とする業務改革を献策[15]し、同社は窮地を脱した。割の合わない契約を断ることの重みは、ノーをいかにうまく言って断るかという教え[16]として後年の社員にまで伝わった。このころ考案されたロンドン・カバーと呼ばれる再保険特約は高い引受能力を可能にし[17]、その後のわが国海運界の発展に寄与した。
各務鎌吉氏はのちに専務から会長へ進み[18]、業界団体の側からも保険制度の設計にあたった。1923年9月の関東大震災では、火災保険に付された地震免責条項の是非が政治問題となった[19]。当時大日本連合火災保険協会長の職にあった各務鎌吉専務の尽力で決着[20]したものの、損保各社は契約上支払う義務のない見舞金として保険金の1割を負担した[21]。住宅を対象に政府の再保険が付く地震保険の仕組みが整うのは戦後[22]であり、震災当時にその備えはなかった。この支出は各社の重荷として戦後まで尾を引き[23]、同社にとって2度目の経営危機となった。
1914年、東京海上は火災・運送・自動車の各保険の営業を開始した[24]。自動車保険はわが国で初めての引き受け[25]であり、以後も各種の保険へ進出した。海上保険は第1次大戦を機に飛躍的に伸び、1918年には東京海上火災保険株式会社へ改称[26]した。海外では1911年にアメリカで本格的な営業を始め、イギリスとイタリアの保険会社と提携[27]して世界各地で営業した。新種保険でも1936年に航空保険、1938年に風水害保険の業務を開始[28]し、他社に先んじた。
1944年3月、旧東京海上、明治火災、三菱海上の3社が合併し[29]、資本金6200万円で新生の東京海上火災保険株式会社が設立[30]された。明治火災は1891年に資本金15万円で設立された火災保険の専業会社[31]で、1929年まで火災保険だけを扱い[32]、1915年に旧東京海上が株式の90%を取得して傘下に入った[33]。合併時、旧東京海上は明治火災株の98%を所有している[34]。三菱海上は1913年に三菱合資会社内へ設けられた保険課を源流とし、1919年3月にこれを分離独立させて資本金500万円で設立[35]されたもので、旧東京海上が総発行株数の99.4%を握っていた[36]。太平洋戦争の開戦後は欧米での営業活動が全面的に停止[37]し、第2次大戦でその海外営業網を一挙に失った。
1944年3月に発足した新会社にとって、1945年8月の終戦がもたらした打撃[38]はきわめて大きく、契約の激減と損害率の悪化に加え、在外資産の喪失、本社ビルの接収、公職追放、優良持株の放出が重なった[39]。戦前の同社は資産を米国・英国・日本へ3分の1ずつ分けて置いていたが、当時の価格で50億円ほどあった英米の財産は没収[40]され、戻らなかった。合併時の資本金6200万円に対し失われた資産はその大半にあたり、戦後はゼロからの再出発となった[41]。1947年には火災保険料率が引き上げられ[42]、経済復興を背景に業績は次第に好転した。
1949年5月、東京証券取引所に株式を上場[43]した。1950年4月には外貨建貨物海上保険の営業を再開し、ロンドンとニューヨーク市場との再保険取引が復活[44]した。元受の海外営業が戻るのはさらに遅く、米国は1956年1月、欧州は同年5月だった[45]。戦前に築いた海外の営業網を組み直すには10年以上を要している[46]。国内では信用保険、労災保険、賠償責任保険といった新種保険の分野を相次いで開発[47]し、1959年に導入した電子計算機システムで事務の合理化を進めた[48]。
1955年12月、強制保険である自賠責保険の営業を開始[49]した。高度成長期に入った1955年度から1970年度にかけて、元受保険料収入は99億円から1640億円へ、15年間で16.6倍に伸びている[50]。種目別の構成比は1955年度の海上49%・火災42%から、1970年度には自賠責30%・自動車23%へ入れ替わった[51]。モータリゼーションの進展とともに自賠責と任意の自動車保険が急速に増え[52]、主力種目は海から陸へ移った。反面、この2種目はいずれも高い損害率に悩まされた[53]。
交通事故の増加は引き受けの現場を直撃し、1967年には、かさむ保険金の支払いに耐えかねて任意の自動車保険の引き受けを断る保険会社が業界で相次いだ[54]。東京海上は1969年4月に補償へ貯蓄性を加えた長期保険である積立保険(長期総合保険)を発売[55]し、1974年2月には業界初の自動車保険オンライン・システムを実施[56]した。業況の伸びに合わせて新商品の開発と事務の機械化が進み、海外営業でも再保険取引に加えて元受営業が欧米や東南アジアで軌道に乗り始めた[57]。1960年代末の元受保険料収入は771億円に達し、元受ベースの市場占有率は20%を超えている[58]。
1974年度の正味保険料は東京海上が2326億円、第2位の安田火災海上保険が1734億円、第3位の大正海上火災保険が1165億円[59]で、下位2社を合わせてようやく東京海上に並ぶ規模だった。差は利益でさらに開き、同年度の利益金は東京海上145億円に対して安田54億円・大正49億円[60]、総資産は5725億円に対して3785億円・2603億円[61]である。もっとも正味保険料の業界シェアで見ると1959年度の16.8%から1974年度の15.6%へ1ポイント低下[62]しており、規模の格差ほどには動いていない。損害保険業界には1位はあっても2、3位はないと言われた序列[63]は、10年近く変わらなかった。
独走を支えた条件のひとつが大蔵省の保護行政で、保険業は大蔵大臣の免許事業であり、過去25年にわたって新規参入は一切認められなかった[64]。保険料率は損害保険料率算定会などが算定して大蔵大臣の認可を受け、体力の劣る会社でもやっていける水準[65]に置かれた。船舶保険や航空保険では会社間の協定が認められ、共同保険や保険プールによる危険分散が可能で、プールの配分は各社の保険料収入シェアに応じて決まるため、上位ほど自動的に多くの保険を獲得[66]できた。業界団体である日本損害保険協会の会長職も、1986年に上位4社の輪番制になるまでの38年間のうち28年を東京海上が務めている[67]。
強さの裏で弱点は大衆保険にあり、企業保険では1件あたりの契約が大きく経費率で有利に立てるのに対し、個人向けの大衆保険は1件が小さくコストがかかった[68]。東京海上の社員はエリート然として大衆相手の商売に向かないとしばしば指摘され[69]、この体質を改めない限り成長分野で苦戦は避けられないとみられていた。1974年度の正味保険料の構成比は自動車27.1%、火災24.1%、船舶・積み荷運送23.2%、自賠責と新種が各12.8%[70]で、大衆向けの種目はすでに過半を占めている。
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|---|---|---|---|---|
| 1879〜1944年海運国家の損保として生まれ、ロンドンで一度折れる | 東京海上保険会社を創業 | ★ | ||
| 船舶保険の営業開始 | ★ | |||
| 明治火災保険を設立 | ★ | |||
| 火災・運送・自動車の各保険の営業開始 | ★ | |||
| 東京海上火災保険に商号変更 | ★ | |||
| 三菱海上火災保険を設立 | ★ | |||
| 関東大震災・地震免責条項問題 | ★★ | |||
| 旧東京海上・明治火災・三菱海上の3社合併で発足 | ★★ | |||
| 1944〜1975年海外網ゼロからの再出発と護送船団下の独走 | 終戦により海外営業網と在外資産を一切喪失 | ★★ | ||
| 田中徳次郎 | 東京証券取引所に株式を上場 | ★ | ||
| 田中徳次郎 | 自賠責保険の営業開始 | ★ | ||
| 田中徳次郎 | 米国元受営業を再開(欧州は5月) | ★ | ||
| 山本源左衛門 | 積立保険(長期総合保険)の発売 | ★★ | ||
| 菊池稔 | 業界初の自動車保険オンラインシステム稼働 | ★ | ||
| 1975〜2002年創業100年の世界一構想と、料率自由化への対応 | 渡辺文夫 | 創業100周年。保険料収入5500億円達成 | ★ | |
| 竹田晴夫 | 「積立特約」の認可取得 | ★ | ||
| 竹田晴夫 | 保険料ベースで世界ベストスリー入り | ★ | ||
| 竹田晴夫 | 第3次オンラインの本格稼働 | ★ | ||
| 河野俊二 | 新中期経営計画IC-95開始 | ★ | ||
| 樋口公啓 | 料率完全自由化への対応と「代理店との共存」 1996年12月の日米保険協議決着で1998年7月の料率完全自由化が固まり、護送船団行政が解体に向かった。正味保険料シェア18%で業界首位の東京海上火災保険は、樋口公啓社長のもとで、約8万の代理店網を捨てず『代理店との共存』を柱に据え、機械化と体質改革で価格競争に備えた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 石原邦夫 | 東京海上火災と日動火災の経営統合とミレアホールディングス設立(2002年成立・国内初の上場保険持株会社) 2002年4月、東京海上火災保険と日動火災海上保険が共同株式移転で持株会社ミレアホールディングスを設立し、国内初の上場保険持株会社が誕生した案件。生損保を糾合する総合金融グループ構想として始まったが、朝日生命・共栄火災の離脱で損保2社の統合へと縮退した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2002〜2025年損保に絞ったグローバル化と、政策保有株ゼロへ | 石原邦夫 | 東京海上と日動火災が合併し東京海上日動火災保険が発足 | ★★ | |
| 隅修三 | Kiln Ltdを買収 | ★ | ||
| 隅修三 | 東京海上HDに商号変更 | ★ | ||
| 隅修三 | Philadelphia Consolidated Holdingを買収 | ★★ | ||
| 隅修三 | Delphi Financial Groupを買収 | ★ | ||
| 隅修三 | 永野毅氏が社長に就任 | ★ | ||
| 永野毅 | 連続する海外M&Aと「海外で稼ぐ」グローバル損保への転換 2008年から2015年にかけて、東京海上ホールディングスが隅修三氏・永野毅氏の二代にわたり米国の保険会社を連続して買収し、国内損保から『海外で稼ぐ』グローバル損保へ主軸を移した経営判断。米フィラデルフィアの約47億ドルに始まり、HCCの約9400億円で日本の金融機関による海外M&Aとして過去最大級に達した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 永野毅 | 西日本豪雨・台風21号等で大規模保険金支払い | ★ | ||
| 小宮暁 | 小宮暁氏が社長に就任 | ★ | ||
| 小宮暁 | PURE Group買収完了 | ★ | ||
| 小宮暁 | 政策保有株ゼロへ ── 損保の持ち合いを解く資本政策の転換 2024年5月、東京海上ホールディングスは政策投資として保有する株式を2029年度末(2030年3月末)までに残高ゼロにする方針を定めた。損害保険業が長く抱えてきた政策保有株の持ち合いを、企業向け保険のカルテル問題を触媒に手放す資本政策の転換である。売却益は2025年3月期の純利益1兆552億円を押し上げたが、ゼロの達成は道半ばにある。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 小宮暁 | FY24親会社株主帰属当期純利益1兆552億円 | ★ | ||
| 小池昌洋 | 小池昌洋氏が社長に就任 | ★ |
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事実根拠:出所(東京海上ホールディングス)