東京海上ホールディングス の歴史

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創業 1879年
母体 東京海上火災保険+日動火災海上保険
創業地 東京都千代田区
創業
1879年8月、東京海上保険会社がわが国最初の保険会社として貨物海上保険の引き受けを始めた。渋沢栄一氏の主唱により岩崎弥太郎氏ら旧藩主が金禄公債を元手に出資し、初代頭取には華族出身の蜂須賀茂韶氏が就任した。創業の翌年から欧米へ営業網を広げたが、現地の引き受けをブローカーへ委ねて危険を選別できず、1890年以降のイギリス営業で巨額の損失を出す。1894年7月に26歳の各務鎌吉氏をロンドンへ派遣し、会計方式の切り替えと半額減資で窮地を脱した。1914年にわが国初の自動車保険を引き受け、1918年に東京海上火災保険へ改称し、1944年3月に明治火災・三菱海上との3社合併で現在に続く会社が発足した。
決断
外から来た規制の変化を、そのつど稼ぐ場所を移し替える機会に変えてきた。1996年の日米保険協議決着で料率の完全自由化が決まると、業界最大の約8万店を抱えたまま代理店との共存を選び、機械化と体質改革で価格競争に備えた。2002年4月には日動火災と共同株式移転で統合し、国内初の上場保険持株会社ミレアホールディングスが発足する。ただし総合金融グループ構想は朝日生命と共栄火災の離脱で崩れ、2004年10月の東京海上日動火災保険の発足で損保2社の統合にとどまった。業態を広げる道が閉じた以上、残る余地は地理だけで、2008年12月の米フィラデルフィア取得を皮切りに米国で商品領域を一つずつ買い足した。捨てなかった代理店網が国内の保険料を支え、買い足した米国のスペシャルティ保険が成長を担う分業へ行き着いた。
現況
現在最も大きな収益源は、国内の損害保険ではなく海外の保険事業である。2025年3月期は海外保険事業の経常収益4兆3,054億円が国内損害保険事業の3兆8,679億円を上回り、連続買収で積み上げた米国のスペシャルティ保険がこの規模を作っている。一方、利益では国内損害保険事業の8,933億円が海外の4,884億円を上回るが、前期の3,234億円からの急増は政策保有株を2030年3月末までにゼロにする方針にもとづく売却益によるところが大きい。同期の親会社株主に帰属する当期純利益は1兆552億円と、邦損保として初めて1兆円を超えた。売却益は残高が減るほど細るため、この水準を保つ役目は海外の引受へ移っていく。
競合
同じ3メガ損保でも、米国で何をいつ買ったかで稼ぎ方が分かれた。東京海上は2008年の米フィラデルフィアに始まり、デルファイ・HCC・PUREと商品領域を一つずつ買い足した。2位のMS&ADは2015年に英アムリンを買収してロイズ市場へ入ったが、計画未達が続いて2020年に事業を絞り込み、3位のSOMPOは2016年に米エンデュランスを取得したのち、2024年には保険金不正の責任で経営陣を刷新した。国内では2023年の企業向け保険の価格調整問題で東京海上日動も業務改善命令を受けており、取引先との関係を組み替える課題は3社に共通する。東京海上が2008年に動いてから2社が大型買収へ出るまでには7年の開きがあり、その先行が海外保険事業の利益を国内損保に並ぶ水準まで育てた。
東京海上ホールディングス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2007年3月期2025年3月期

設立ストーリー 海運国家の損保として生まれ、ロンドンで一度折れる (1879年〜)

渋沢栄一氏の主唱で生まれた日本初の保険会社

1878年12月、わが国最初の保険会社として東京海上保険会社が設立[1]され、翌1879年8月から貨物海上保険の引き受けを目的に営業を開始[2]した。近代海運業が勃興する時期の創業であり、渋沢栄一氏の主唱により、岩崎弥太郎氏をはじめとする旧藩主らが出資[3]した。資金の出どころは廃藩置県で旧藩主が受け取った金禄公債[4]で、当初は鉄道への投資が検討されたものの、鉄道は政府が担うと決まり、渋沢栄一氏が海上保険を勧めた[5]。社名は創業地の地名から取り、初代頭取には華族出身の政治家・蜂須賀茂韶氏が就いた[6]。頭取の座はその後も旧藩主が継ぎ、2代目は宇和島藩主の伊達宗城氏、3代目は岡山藩主の池田茂政氏[7]だった。

  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]1878年12月 わが国最初の保険会社として設立
    • [3]渋沢栄一の主唱・岩崎弥太郎ら旧藩主の出資
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [2]1879年8月 貨物海上保険の引き受けを目的に営業開始
    • [6]初代頭取 蜂須賀茂韶(華族出身の政治家)
  • 日経ビジネス 1979年10月22日号(日経BP)
    • [4]創業資金の出どころ 廃藩置県で旧藩主が受け取った金禄公債
    • [5]鉄道投資案の断念と渋沢栄一の海上保険提案
    • [7]2代目頭取 伊達宗城(宇和島藩主)・3代目頭取 池田茂政(岡山藩主)

創業の翌年には欧米へも営業網を広げ[8]、1884年2月には船舶保険の引き受けを開始[9]した。当初は順調に推移したものの、1890年以降のイギリスでの営業が巨額の損失を招いた[10]。現地の引き受けをブローカーに任せきりにしていた[11]ため、危険を選別して悪いリスクを断る仕組みを欠いたままロンドン市場に出ていた。立て直しののち、1899年以降はロンドン総代理店を開設[12]し、その子会社に火災保険の特約再保険取引を全面的に委託した。同社が創業から敗戦までに数えた経営危機は3度あり[13]、この英国での損失が最初のものだった。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [8]創業翌年からの欧米への営業網拡大
    • [9]1884年2月 船舶保険の引き受け開始
    • [10]1890年以降 イギリスでの営業が巨額の損失
  • 日経ビジネス 1979年10月22日号(日経BP)
    • [11]英国営業を現地ブローカーへ委ねた引受体制
    • [13]創業から敗戦までの経営危機 3度(英国の損失・関東大震災・第2次大戦)
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [12]1899年以降 ロンドン総代理店の開設と火災保険特約再保険の全面委託
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]1878年12月 わが国最初の保険会社として設立
    • [3]渋沢栄一の主唱・岩崎弥太郎ら旧藩主の出資
    • [12]1899年以降 ロンドン総代理店の開設と火災保険特約再保険の全面委託
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [2]1879年8月 貨物海上保険の引き受けを目的に営業開始
    • [6]初代頭取 蜂須賀茂韶(華族出身の政治家)
    • [8]創業翌年からの欧米への営業網拡大
    • [9]1884年2月 船舶保険の引き受け開始
    • [10]1890年以降 イギリスでの営業が巨額の損失
  • 日経ビジネス 1979年10月22日号(日経BP)
    • [4]創業資金の出どころ 廃藩置県で旧藩主が受け取った金禄公債
    • [5]鉄道投資案の断念と渋沢栄一の海上保険提案
    • [7]2代目頭取 伊達宗城(宇和島藩主)・3代目頭取 池田茂政(岡山藩主)
    • [11]英国営業を現地ブローカーへ委ねた引受体制
    • [13]創業から敗戦までの経営危機 3度(英国の損失・関東大震災・第2次大戦)

26歳の各務鎌吉氏をロンドンへ送った立て直し

1894年7月、東京海上は当時26歳の各務鎌吉氏をロンドンへ派遣[14]した。各務鎌吉氏は会計方式の切り替えと半額減資を柱とする業務改革を献策[15]し、同社は窮地を脱した。割の合わない契約を断ることの重みは、ノーをいかにうまく言って断るかという教え[16]として後年の社員にまで伝わった。このころ考案されたロンドン・カバーと呼ばれる再保険特約は高い引受能力を可能にし[17]、その後のわが国海運界の発展に寄与した。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [14]1894年7月 当時26歳の各務鎌吉をロンドンへ派遣
    • [15]会計方式の切り替えと半額減資を柱とする業務改革
    • [17]ロンドン・カバー(再保険特約)の考案と引受能力の拡大
  • 日経ビジネス 1979年10月22日号(日経BP)
    • [16]危険の選別を説いた各務鎌吉の教え「ノーをいかにうまく言って断るか」

各務鎌吉氏はのちに専務から会長へ進み[18]、業界団体の側からも保険制度の設計にあたった。1923年9月の関東大震災では、火災保険に付された地震免責条項の是非が政治問題となった[19]。当時大日本連合火災保険協会長の職にあった各務鎌吉専務の尽力で決着[20]したものの、損保各社は契約上支払う義務のない見舞金として保険金の1割を負担した[21]。住宅を対象に政府の再保険が付く地震保険の仕組みが整うのは戦後[22]であり、震災当時にその備えはなかった。この支出は各社の重荷として戦後まで尾を引き[23]、同社にとって2度目の経営危機となった。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [18]各務鎌吉 のちに専務から会長へ
    • [19]1923年 関東大震災で火災保険の地震免責条項が政治問題化
    • [20]大日本連合火災保険協会長 各務鎌吉専務の尽力で決着
  • 日経ビジネス 1979年10月22日号(日経BP)
    • [21]関東大震災で支払い義務のない見舞金として保険金の1割を負担
    • [22]震災当時は住宅対象の政府再保険(地震保険)の仕組みがなかった
    • [23]震災の見舞金負担が戦後まで尾を引いた(2度目の経営危機)
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [14]1894年7月 当時26歳の各務鎌吉をロンドンへ派遣
    • [15]会計方式の切り替えと半額減資を柱とする業務改革
    • [17]ロンドン・カバー(再保険特約)の考案と引受能力の拡大
    • [18]各務鎌吉 のちに専務から会長へ
    • [19]1923年 関東大震災で火災保険の地震免責条項が政治問題化
    • [20]大日本連合火災保険協会長 各務鎌吉専務の尽力で決着
  • 日経ビジネス 1979年10月22日号(日経BP)
    • [16]危険の選別を説いた各務鎌吉の教え「ノーをいかにうまく言って断るか」
    • [21]関東大震災で支払い義務のない見舞金として保険金の1割を負担
    • [22]震災当時は住宅対象の政府再保険(地震保険)の仕組みがなかった
    • [23]震災の見舞金負担が戦後まで尾を引いた(2度目の経営危機)

わが国初の自動車保険と1944年の3社合併

1914年、東京海上は火災・運送・自動車の各保険の営業を開始した[24]。自動車保険はわが国で初めての引き受け[25]であり、以後も各種の保険へ進出した。海上保険は第1次大戦を機に飛躍的に伸び、1918年には東京海上火災保険株式会社へ改称[26]した。海外では1911年にアメリカで本格的な営業を始め、イギリスとイタリアの保険会社と提携[27]して世界各地で営業した。新種保険でも1936年に航空保険、1938年に風水害保険の業務を開始[28]し、他社に先んじた。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [24]1914年 火災・運送・自動車の各保険の営業開始(自動車保険はわが国初)
    • [25]自動車保険はわが国初の引き受け
    • [26]第1次大戦を機に海上保険が飛躍的発展・1918年 東京海上火災保険株式会社へ改称
    • [27]1911年 アメリカで本格営業を開始・英伊の保険会社と提携
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [28]1936年 航空保険・1938年 風水害保険の業務開始

1944年3月、旧東京海上、明治火災、三菱海上の3社が合併し[29]、資本金6200万円で新生の東京海上火災保険株式会社が設立[30]された。明治火災は1891年に資本金15万円で設立された火災保険の専業会社[31]で、1929年まで火災保険だけを扱い[32]、1915年に旧東京海上が株式の90%を取得して傘下に入った[33]。合併時、旧東京海上は明治火災株の98%を所有している[34]。三菱海上は1913年に三菱合資会社内へ設けられた保険課を源流とし、1919年3月にこれを分離独立させて資本金500万円で設立[35]されたもので、旧東京海上が総発行株数の99.4%を握っていた[36]。太平洋戦争の開戦後は欧米での営業活動が全面的に停止[37]し、第2次大戦でその海外営業網を一挙に失った。

  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [29]1944年3月 旧東京海上・明治火災・三菱海上の3社合併で東京海上火災保険が設立
    • [30]3社合併時の資本金 6200万円
    • [31]明治火災 1891年設立・資本金15万円の火災保険専業会社
    • [33]1915年 旧東京海上が明治火災株の90%を取得・合併時は98%を所有
    • [34]合併時 旧東京海上の明治火災株保有比率 98%
    • [35]三菱海上 1913年設置の三菱合資会社保険課を源流とし1919年3月に分離独立・資本金500万円
    • [36]旧東京海上が保有した三菱海上の総発行株数比率 99.4%
    • [37]太平洋戦争開戦後の欧米営業停止と第2次大戦での海外営業網の喪失
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [32]明治火災は1929年まで火災保険専業
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [24]1914年 火災・運送・自動車の各保険の営業開始(自動車保険はわが国初)
    • [25]自動車保険はわが国初の引き受け
    • [26]第1次大戦を機に海上保険が飛躍的発展・1918年 東京海上火災保険株式会社へ改称
    • [27]1911年 アメリカで本格営業を開始・英伊の保険会社と提携
    • [32]明治火災は1929年まで火災保険専業
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [28]1936年 航空保険・1938年 風水害保険の業務開始
    • [29]1944年3月 旧東京海上・明治火災・三菱海上の3社合併で東京海上火災保険が設立
    • [30]3社合併時の資本金 6200万円
    • [31]明治火災 1891年設立・資本金15万円の火災保険専業会社
    • [33]1915年 旧東京海上が明治火災株の90%を取得・合併時は98%を所有
    • [34]合併時 旧東京海上の明治火災株保有比率 98%
    • [35]三菱海上 1913年設置の三菱合資会社保険課を源流とし1919年3月に分離独立・資本金500万円
    • [36]旧東京海上が保有した三菱海上の総発行株数比率 99.4%
    • [37]太平洋戦争開戦後の欧米営業停止と第2次大戦での海外営業網の喪失

在外資産の喪失と戦後のゼロからの再出発

1944年3月に発足した新会社にとって、1945年8月の終戦がもたらした打撃[38]はきわめて大きく、契約の激減と損害率の悪化に加え、在外資産の喪失、本社ビルの接収、公職追放、優良持株の放出が重なった[39]。戦前の同社は資産を米国・英国・日本へ3分の1ずつ分けて置いていたが、当時の価格で50億円ほどあった英米の財産は没収[40]され、戻らなかった。合併時の資本金6200万円に対し失われた資産はその大半にあたり、戦後はゼロからの再出発となった[41]。1947年には火災保険料率が引き上げられ[42]、経済復興を背景に業績は次第に好転した。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [38]1945年8月 第2次大戦の終結により一切の在外資産・海外営業網を喪失
    • [39]戦争による打撃 契約の激減・損害率の悪化・在外資産の喪失・本社ビルの接収・公職追放・優良持株の放出
    • [42]1947年 火災保険料率の引き上げ
  • 日経ビジネス 1979年10月22日号(日経BP)
    • [40]戦前の資産配置 米国・英国・日本へ3分の1ずつ/没収された英米の財産 当時の価格で約50億円
    • [41]資産の大半を失い戦後はゼロから再スタート

1949年5月、東京証券取引所に株式を上場[43]した。1950年4月には外貨建貨物海上保険の営業を再開し、ロンドンとニューヨーク市場との再保険取引が復活[44]した。元受の海外営業が戻るのはさらに遅く、米国は1956年1月、欧州は同年5月だった[45]。戦前に築いた海外の営業網を組み直すには10年以上を要している[46]。国内では信用保険、労災保険、賠償責任保険といった新種保険の分野を相次いで開発[47]し、1959年に導入した電子計算機システムで事務の合理化を進めた[48]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [43]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
    • [44]1950年4月 外貨建貨物海上保険の営業再開とロンドン・ニューヨーク市場との再保険取引の復活
    • [45]1956年1月 米国元受営業を再開(欧州は同年5月)
    • [46]戦後10年以上を要した海外営業網の再建
    • [47]新種保険での信用保険・労災保険・賠償責任保険の開発
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [48]1959年 電子計算機システムの導入による事務合理化
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [38]1945年8月 第2次大戦の終結により一切の在外資産・海外営業網を喪失
    • [39]戦争による打撃 契約の激減・損害率の悪化・在外資産の喪失・本社ビルの接収・公職追放・優良持株の放出
    • [42]1947年 火災保険料率の引き上げ
    • [43]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
    • [44]1950年4月 外貨建貨物海上保険の営業再開とロンドン・ニューヨーク市場との再保険取引の復活
    • [45]1956年1月 米国元受営業を再開(欧州は同年5月)
    • [46]戦後10年以上を要した海外営業網の再建
    • [47]新種保険での信用保険・労災保険・賠償責任保険の開発
  • 日経ビジネス 1979年10月22日号(日経BP)
    • [40]戦前の資産配置 米国・英国・日本へ3分の1ずつ/没収された英米の財産 当時の価格で約50億円
    • [41]資産の大半を失い戦後はゼロから再スタート
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [48]1959年 電子計算機システムの導入による事務合理化

海上49%・火災42%から自動車・自賠責へ

1955年12月、強制保険である自賠責保険の営業を開始[49]した。高度成長期に入った1955年度から1970年度にかけて、元受保険料収入は99億円から1640億円へ、15年間で16.6倍に伸びている[50]。種目別の構成比は1955年度の海上49%・火災42%から、1970年度には自賠責30%・自動車23%へ入れ替わった[51]。モータリゼーションの進展とともに自賠責と任意の自動車保険が急速に増え[52]、主力種目は海から陸へ移った。反面、この2種目はいずれも高い損害率に悩まされた[53]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [49]1955年12月 自賠責保険(強制保険)の営業開始
    • [50]元受保険料収入 1955年度99億円→1970年度1640億円(15年で16.6倍)
    • [51]種目別構成比 1955年度 海上49%・火災42%/1970年度 自賠責30%・自動車23%
    • [52]モータリゼーションの進展による自賠責・任意自動車保険の急増と高い損害率
    • [53]両保険が抱えた高い損害率

交通事故の増加は引き受けの現場を直撃し、1967年には、かさむ保険金の支払いに耐えかねて任意の自動車保険の引き受けを断る保険会社が業界で相次いだ[54]。東京海上は1969年4月に補償へ貯蓄性を加えた長期保険である積立保険(長期総合保険)を発売[55]し、1974年2月には業界初の自動車保険オンライン・システムを実施[56]した。業況の伸びに合わせて新商品の開発と事務の機械化が進み、海外営業でも再保険取引に加えて元受営業が欧米や東南アジアで軌道に乗り始めた[57]。1960年代末の元受保険料収入は771億円に達し、元受ベースの市場占有率は20%を超えている[58]

  • 読売新聞 1967年6月22日
    • [54]1967年 交通戦争の激化で任意自動車保険の引き受けを断る損保が相次ぐ
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [55]1969年4月 積立保険(長期総合保険)の発売
    • [56]1974年2月 業界初の自動車保険オンライン・システムを実施
    • [57]新商品開発・事務機械化の進展と欧米・東南アジアでの元受営業の軌道化
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [58]1960年代末の元受保険料収入 771億円・元受ベースの市場占有率20%超
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [49]1955年12月 自賠責保険(強制保険)の営業開始
    • [50]元受保険料収入 1955年度99億円→1970年度1640億円(15年で16.6倍)
    • [51]種目別構成比 1955年度 海上49%・火災42%/1970年度 自賠責30%・自動車23%
    • [52]モータリゼーションの進展による自賠責・任意自動車保険の急増と高い損害率
    • [53]両保険が抱えた高い損害率
    • [55]1969年4月 積立保険(長期総合保険)の発売
    • [56]1974年2月 業界初の自動車保険オンライン・システムを実施
    • [57]新商品開発・事務機械化の進展と欧米・東南アジアでの元受営業の軌道化
  • 読売新聞 1967年6月22日
    • [54]1967年 交通戦争の激化で任意自動車保険の引き受けを断る損保が相次ぐ
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [58]1960年代末の元受保険料収入 771億円・元受ベースの市場占有率20%超

護送船団行政が支えた独走と、大衆保険という弱点

1974年度の正味保険料は東京海上が2326億円、第2位の安田火災海上保険が1734億円、第3位の大正海上火災保険が1165億円[59]で、下位2社を合わせてようやく東京海上に並ぶ規模だった。差は利益でさらに開き、同年度の利益金は東京海上145億円に対して安田54億円・大正49億円[60]、総資産は5725億円に対して3785億円・2603億円[61]である。もっとも正味保険料の業界シェアで見ると1959年度の16.8%から1974年度の15.6%へ1ポイント低下[62]しており、規模の格差ほどには動いていない。損害保険業界には1位はあっても2、3位はないと言われた序列[63]は、10年近く変わらなかった。

  • 日経ビジネス 1975年12月22日号(日経BP)
    • [59]1974年度の正味保険料 東京海上2326億円・安田火災1734億円・大正海上1165億円
    • [60]1974年度の利益金 東京海上145億円・安田54億円・大正49億円
    • [61]1974年度の総資産 東京海上5725億円・安田3785億円・大正2603億円
    • [62]正味保険料の業界シェア 1959年度16.8%→1974年度15.6%
    • [63]業界での序列を語った言葉「1位はあっても2、3位はない」

独走を支えた条件のひとつが大蔵省の保護行政で、保険業は大蔵大臣の免許事業であり、過去25年にわたって新規参入は一切認められなかった[64]。保険料率は損害保険料率算定会などが算定して大蔵大臣の認可を受け、体力の劣る会社でもやっていける水準[65]に置かれた。船舶保険や航空保険では会社間の協定が認められ、共同保険や保険プールによる危険分散が可能で、プールの配分は各社の保険料収入シェアに応じて決まるため、上位ほど自動的に多くの保険を獲得[66]できた。業界団体である日本損害保険協会の会長職も、1986年に上位4社の輪番制になるまでの38年間のうち28年を東京海上が務めている[67]

  • 日経ビジネス 1975年12月22日号(日経BP)
    • [64]保険業は大蔵大臣の免許事業・過去25年にわたり新規参入を認めず
    • [65]保険料率は算定会が算定し大蔵大臣が認可・体力の劣る会社に合わせた水準
    • [66]共同保険・保険プールの配分がシェア比例で決まり上位ほど有利
  • 日経ビジネス 1990年9月24日号(日経BP)
    • [67]日本損害保険協会の会長職 輪番制になる1986年までの38年間のうち28年を東京海上が担当

強さの裏で弱点は大衆保険にあり、企業保険では1件あたりの契約が大きく経費率で有利に立てるのに対し、個人向けの大衆保険は1件が小さくコストがかかった[68]。東京海上の社員はエリート然として大衆相手の商売に向かないとしばしば指摘され[69]、この体質を改めない限り成長分野で苦戦は避けられないとみられていた。1974年度の正味保険料の構成比は自動車27.1%、火災24.1%、船舶・積み荷運送23.2%、自賠責と新種が各12.8%[70]で、大衆向けの種目はすでに過半を占めている。

  • 日経ビジネス 1975年12月22日号(日経BP)
    • [68]企業保険は1件あたりのロットが大きく経費率で有利・大衆保険は1件が小さくコスト増
    • [69]大衆保険での苦戦を招くとされたエリート体質
    • [70]1974年度の正味保険料構成比 自動車27.1%・火災24.1%・船舶積み荷運送23.2%・自賠責12.8%・新種12.8%
  • 日経ビジネス 1975年12月22日号(日経BP)
    • [59]1974年度の正味保険料 東京海上2326億円・安田火災1734億円・大正海上1165億円
    • [60]1974年度の利益金 東京海上145億円・安田54億円・大正49億円
    • [61]1974年度の総資産 東京海上5725億円・安田3785億円・大正2603億円
    • [62]正味保険料の業界シェア 1959年度16.8%→1974年度15.6%
    • [63]業界での序列を語った言葉「1位はあっても2、3位はない」
    • [64]保険業は大蔵大臣の免許事業・過去25年にわたり新規参入を認めず
    • [65]保険料率は算定会が算定し大蔵大臣が認可・体力の劣る会社に合わせた水準
    • [66]共同保険・保険プールの配分がシェア比例で決まり上位ほど有利
    • [68]企業保険は1件あたりのロットが大きく経費率で有利・大衆保険は1件が小さくコスト増
    • [69]大衆保険での苦戦を招くとされたエリート体質
    • [70]1974年度の正味保険料構成比 自動車27.1%・火災24.1%・船舶積み荷運送23.2%・自賠責12.8%・新種12.8%
  • 日経ビジネス 1990年9月24日号(日経BP)
    • [67]日本損害保険協会の会長職 輪番制になる1986年までの38年間のうち28年を東京海上が担当

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東京海上ホールディングスの沿革1879〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1879〜1944年海運国家の損保として生まれ、ロンドンで一度折れる東京海上保険会社を創業
船舶保険の営業開始
明治火災保険を設立
火災・運送・自動車の各保険の営業開始
東京海上火災保険に商号変更
三菱海上火災保険を設立
関東大震災・地震免責条項問題★★
旧東京海上・明治火災・三菱海上の3社合併で発足★★
1944〜1975年海外網ゼロからの再出発と護送船団下の独走終戦により海外営業網と在外資産を一切喪失★★
田中徳次郎東京証券取引所に株式を上場
田中徳次郎自賠責保険の営業開始
田中徳次郎米国元受営業を再開(欧州は5月)
山本源左衛門積立保険(長期総合保険)の発売★★
菊池稔業界初の自動車保険オンラインシステム稼働
1975〜2002年創業100年の世界一構想と、料率自由化への対応渡辺文夫創業100周年。保険料収入5500億円達成
竹田晴夫「積立特約」の認可取得
竹田晴夫保険料ベースで世界ベストスリー入り
竹田晴夫第3次オンラインの本格稼働
河野俊二新中期経営計画IC-95開始
樋口公啓料率完全自由化への対応と「代理店との共存」

1996年12月の日米保険協議決着で1998年7月の料率完全自由化が固まり、護送船団行政が解体に向かった。正味保険料シェア18%で業界首位の東京海上火災保険は、樋口公啓社長のもとで、約8万の代理店網を捨てず『代理店との共存』を柱に据え、機械化と体質改革で価格競争に備えた経営判断。

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★★★
石原邦夫東京海上火災と日動火災の経営統合とミレアホールディングス設立(2002年成立・国内初の上場保険持株会社)

2002年4月、東京海上火災保険と日動火災海上保険が共同株式移転で持株会社ミレアホールディングスを設立し、国内初の上場保険持株会社が誕生した案件。生損保を糾合する総合金融グループ構想として始まったが、朝日生命・共栄火災の離脱で損保2社の統合へと縮退した。

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★★★
2002〜2025年損保に絞ったグローバル化と、政策保有株ゼロへ石原邦夫東京海上と日動火災が合併し東京海上日動火災保険が発足★★
隅修三Kiln Ltdを買収
隅修三東京海上HDに商号変更
隅修三Philadelphia Consolidated Holdingを買収★★
隅修三Delphi Financial Groupを買収
隅修三永野毅氏が社長に就任
永野毅連続する海外M&Aと「海外で稼ぐ」グローバル損保への転換

2008年から2015年にかけて、東京海上ホールディングスが隅修三氏・永野毅氏の二代にわたり米国の保険会社を連続して買収し、国内損保から『海外で稼ぐ』グローバル損保へ主軸を移した経営判断。米フィラデルフィアの約47億ドルに始まり、HCCの約9400億円で日本の金融機関による海外M&Aとして過去最大級に達した。

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★★★
永野毅西日本豪雨・台風21号等で大規模保険金支払い
小宮暁小宮暁氏が社長に就任
小宮暁PURE Group買収完了
小宮暁政策保有株ゼロへ ── 損保の持ち合いを解く資本政策の転換

2024年5月、東京海上ホールディングスは政策投資として保有する株式を2029年度末(2030年3月末)までに残高ゼロにする方針を定めた。損害保険業が長く抱えてきた政策保有株の持ち合いを、企業向け保険のカルテル問題を触媒に手放す資本政策の転換である。売却益は2025年3月期の純利益1兆552億円を押し上げたが、ゼロの達成は道半ばにある。

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★★★
小宮暁FY24親会社株主帰属当期純利益1兆552億円
小池昌洋小池昌洋氏が社長に就任
出典・参考
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • 日経ビジネス 1975年12月22日号(日経BP)
  • 日経ビジネス 1979年10月22日号(日経BP)
  • 日経ビジネス 1990年9月24日号(日経BP)
  • 読売新聞 1967年6月22日

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