田辺製薬大正製薬との共同持株会社設立の合意と、二か月半での白紙撤回

医療用で相手の2倍を売る会社が、資本では買われる側に置かれる——その比率をのむか、のまないか

時期 2001年9月
意思決定者(推定) 田中登志於 社長
論点 規模拡大と主導権
概要
2001年9月、田辺製薬は大正製薬と共同持株会社「大正田辺ファルマグループ」を2002年4月に設立して経営統合すると発表した。統合後の連結売上高は4600億円となり、武田薬品工業・三共に次ぐ規模になる計画であった。ところが同年12月3日、両社は統合の白紙撤回を発表する。合意から二か月半での解消であった。
背景
薬価は2年に一度引き下げられ、1996年から3年連続の改定が田辺製薬の収益を削っていた。医療用医薬品で単独の生き残りは難しいと見られ、有力な販売網に着目する外資系メーカーからは買収の最右翼候補と目されていた。
内容
株式移転比率は大正1に対して田辺0.55で、事実上は大正による田辺の買収にあたる。2002年10月をめどに医療用医薬品を田辺へ、大衆薬とドリンク剤を大正へ寄せる設計であった。売上高は大正2700億円・田辺1900億円だが、医療用に限れば田辺1500億円に対し大正は700億円強にとどまる。
含意
撤回会見で両社は持株会社の位置づけと企業風土の違いを挙げたが、決裂の最大の要因は秘密保持契約を理由に明かさなかった。利益は大衆薬部門から出て医療用へ回る設計で、その配分と主導権をめぐる溝が埋まらなかったと報じられている。
筆者の見解

のめなかったのは比率ではなく、比率が意味するもの

医療用で1500億円を売る会社が、700億円強しか売らない会社に0.55で評価される。田辺製薬がのみ込めなかったのは、この数字そのものよりも、数字が決める順番であったとみられる。統合後の利益はリポビタンDから出て、それが自社の研究開発へ回る。金を出す側が方針を決めるのが筋である以上、医療用の主導権を握るという田辺製薬側の前提は、資本の設計と最初から噛み合っていなかった。合意の時点で埋まっていなかった溝が、実務の部会で表に出たにすぎない。

ただし、田辺製薬だけを責めても足りない。事業の重みと資本の重みが逆を向いた統合は、どちらの経営陣であっても同じところで詰まったであろう。破談から6年後、田辺製薬が選んだ相手は自社と同規模の事業会社ではなく、三菱ケミカルホールディングスという親会社を持つ三菱ウェルファーマであった。対等をうたって主導権を争うより、親会社の下に入って役割を決めてもらうほうが早い。2001年に埋まらなかった溝は、2007年には資本の構造そのものを変えることで回避されたといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

単独では規模が足りないという見立て

1990年代後半から欧米では巨大医薬品メーカーが相次いで生まれ、資金力にものをいわせた開発競争が激しさを増していた。国内最大手の武田薬品工業ですら世界では15位前後にとどまり、規模の拡大を目指した再編の必要はかねて指摘されていた。売上高1900億円の田辺製薬は、その序列のさらに下に置かれる。薬価が2年に一度引き下げられる制度のもとで、既存薬の利益は改定のたびに削られていた[1]

とりわけ田辺製薬は、医療用医薬品での単独の生き残りが難しいと見られていた。1500億円の医療用売上を支える販売網に外資系メーカーが着目し、この1〜2年は買収の最右翼候補と目されている、と当時報じられている。1998年1月に田中登志於社長が全社員へ「非常事態」を宣言してから3年、構造改革を進めてもなお、規模そのものは動かせていなかった[2][3]

相手が大正製薬であったことの意外

田辺製薬の統合そのものに驚きは無かったが、その相手が大衆薬を主体とする大正製薬であったことは、業界にやや意外感をもって受け止められた。大正製薬の売上高2700億円は田辺製薬の1900億円を上回るものの、その7割はリポビタンDに代表されるドリンク剤と大衆薬が占める。医療用医薬品の年商は700億円強と中堅規模にとどまり、その拡大が大正製薬側の課題であった[4]

医療用で1500億円を売る田辺製薬にとっては、海外企業の軍門に下るよりも、発言権を確保しながら医療用の規模を広げられる相手のほうが望ましい。大正製薬にとっては、自力では伸ばせなかった医療用を一気に倍以上にできる。双方に都合のよいこうした事情が合併に至った背景にある、と当時の報道は見ていた。欠けたものを互いに埋め合う組み合わせとして説明できる[5]

決断

共同持株会社という設計と、0.55という比率

2001年9月、両社は2002年4月に共同持株会社「大正田辺ファルマグループ」を設立して経営統合すると発表した。統合後の連結売上高は4600億円で、国内系の医薬品メーカーとしては武田薬品工業・三共に次ぎ、3位の山之内製薬と並ぶ規模になる計算である。2002年10月をめどに、医療用医薬品を田辺製薬へ、大衆薬とドリンク剤を大正製薬へ寄せる機能別の再編も描かれていた[6][7]

設計の要は、持株会社への株式移転比率を大正1に対して田辺0.55と定めた点にある。この比率は事実上、大正製薬による田辺製薬の買収を意味する。一方で医療用医薬品の事業規模は田辺製薬が大正製薬の2倍を超える。資本の序列と事業の序列が逆を向いたまま、両社は「対等な精神」で統合を図るとした[8]

市場が冷淡だった理由

発表後の両社の株価は下がった。医薬品株全体が冴えなかった事情もあるが、統合しても国内系に限った医療用医薬品でようやく7〜8位に浮上するにすぎず、世界の巨大企業と競うにはあまりに小さい。「グローバル企業としての競争に耐えるには、規模の拡大が必須」という上原明・大正製薬社長の言葉の割に、増える規模がそれほど大きくないという指摘であった[9]

加えて、今後の成長に欠かせない新薬候補の数が双方とも十分でなく、アナリストからは「シナジー効果が小さい」との声が出た。人員を減らさない方針も表明されており、統合による費用削減も見込みにくい。両社はこれから具体的な合併効果の実現を求められる、というのが発表直後の評価であった。合意の時点で、市場はこの組み合わせを支持していなかった[10]

結果

二か月半での白紙撤回

2001年12月3日、両社は統合の白紙撤回を発表した。会見に出た大正製薬の大平明副社長と田辺製薬の葉山夏樹副社長は「持株会社の位置づけ、機能の違いについて考え方の違いがあった。人事や年金を含めた企業風土の違いも早期には詰められなかった」と説明したが、何が決裂の最大の要因になったのかは、秘密保持契約を理由に最後まで明かさなかった。記者団は再三にわたって本当の理由を問うている[11]

報じられた実情では、統合準備委員会の部会で田辺製薬が自社の制度にこだわり、大正製薬側が戸惑う場面もあったという。新会社の利益はリポビタンDを軸とする大衆薬部門から出て、それを研究開発費のかさむ医療用部門へ注ぐ構造になる。その利益配分と主導権をめぐって溝が埋まらなかった。統合で国内第4位の医薬品メーカーが誕生する筋書きは、わずかの間に流れた[12][13]

老舗意識と、その後

破談の責めを田辺製薬側に帰す見方は、撤回の前から出ていた。メリルリンチ日本証券の三好昌武氏は11月13日付のレポートで「両社間の統合に対する温度差は非常に大きい。田辺のわきまえの欠如が大きな障害になることを強く懸念する」と書いている。三好氏は、田辺製薬が中間決算説明会で自社単独の創薬方針を詳細に説明した点について、大正製薬から異動してくる医療用医薬品部門1400名の気持ちを無視しているのではないか、との印象を受けたと述べた[14][15]

田辺製薬の背景には老舗意識があった、とも報じられている。医療用医薬品では国内系で10位前後ながら、創業は1678年で、大阪の製薬会社では名門とされる。翌2002年6月に社長へ就いた葉山夏樹氏は「両社が固有の制度を持つなかで難しかった」と振り返りつつ、「方向は間違っていない。この先もいろいろな対応はありうる」と述べ、確定拠出型年金と職種別賃金体系の導入に着手した。制度の違いで統合が流れた会社が、制度そのものを組み替えにかかっている[16][17]

出典・参考
  • 週刊東洋経済 2001年10月6日号「医薬品業界 製薬再編の第一幕 大正・田辺の意外な合併に株式市場が冷淡な理由」
  • 週刊東洋経済 2001年12月15日号「製薬業界 主導権争いで溝深め 大正・田辺が婚約解消」
  • 週刊東洋経済 2002年9月7日号「トップの履歴書 田辺製薬社長 葉山夏樹 仕組みの普遍化へ改革の旗振る」
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「新社長登場 田中登志於氏[田辺製薬]薬価下げ、「非常事態」宣言し社内に布石」
  • 田辺製薬 有価証券報告書(2002年3月期・連結)

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