70年という積み上げの長さと、3年という残り時間の短さである。研究開発畑を歩み、決裁の速さを信条とした田中登志於氏が、就任7か月で全社員に"非常事態"を宣言したのは、薬価の3年連続引き下げという制度側の日程が先に決まっていたからなのだろう。相手の都合で期限が切られる以上、自社の側も期限を切って構えるほかなかった。
ただ、宣言が届く範囲には限りがあった。開発期間の短縮も間接部門の効率化も、売上の7割を占める医療用医薬品の価格を自社で決められないという前提は変えられない。三年後に田辺製薬が持ち出した答えが大正製薬との経営統合であったことは、社内の構造改革では規模の問題に届かないと経営者自身が判断したことを示している。"目をつけられる会社"であろうとした結果、実際に目をつけられて統合の相手を探す立場に転じた。宣言の達成と会社の存続は、別のものであったといえる。