田辺製薬全社員への「非常事態」宣言と構造改革委員会の設置
3年連続の薬価引き下げに、売上の7割を医療用に置く会社はどう構えたか
- 概要
- 1998年1月、田辺製薬の田中登志於社長は全社員に向けて「非常事態」を宣言し、3月末までに構造改革委員会を発足させて研究開発の期間短縮と営業・間接部門の効率化に入る方針を示した。就任から7か月での宣言であった。
- 背景
- 厚生省は医療費を抑えるため1996年と1997年に2年続けて薬価を引き下げ、1998年4月には3年連続となる約10%の引き下げが予想されていた。医療機関向け薬品が売上の7割を占める田辺製薬は、手を打たなければ翌期も減収に追い込まれる位置にいた。
- 内容
- 構造改革委員会を設けて社内の体質を改め、研究開発では新薬の開発期間を短縮し、営業と間接部門では業務の効率化を進める。田中社長は「これまで3年かかっていたことを1年で実現できるようにしよう」と社員に繰り返した。
- 含意
- 田中社長は買収されることそのものを避けようとはしなかった。「存在意義もなく自立もできない会社など、外資は目もくれませんよ」と述べ、買われないことではなく買いたいと思われる会社であることを生き残りの条件に置いた。
期限を区切った経営者の見立て
「七〇年近くかけてやってきた体質強化を、この三年で総仕上げする」という言い方には、時間の見積もりが二つ入っている。70年という積み上げの長さと、3年という残り時間の短さである。研究開発畑を歩み、決裁の速さを信条とした田中登志於氏が、就任7か月で全社員に「非常事態」を宣言したのは、薬価の3年連続引き下げという制度側の日程が先に決まっていたからだとみられる。相手の都合で期限が切られる以上、自社の側も期限を切って構えるほかなかった。
ただ、宣言が届く範囲には限りがあった。開発期間の短縮も間接部門の効率化も、売上の7割を占める医療用医薬品の価格を自社で決められないという前提は変えられない。三年後に田辺製薬が持ち出した答えが大正製薬との経営統合であったことは、社内の構造改革では規模の問題に届かないと経営者自身が判断したことを示している。「目をつけられる会社」であろうとした結果、実際に目をつけられて統合の相手を探す側に回った。宣言の達成と会社の存続は、別のものであったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
3年続いた薬価引き下げ
医療機関向け薬品の公定価格である薬価を、厚生省は医療費の抑制のために1996年と1997年の2年続けて引き下げた。その影響で、田辺製薬や藤沢薬品工業といった大手製薬会社には、1998年3月期に前期比で減収を見込む会社が並んだ。さらに1998年4月には3年連続となる引き下げが予定され、下げ幅は約10%に及ぶとも予想されていた。医療機関向け薬品が売上の7割を占める田辺製薬は、何も手を打たなければ来期も減収に追い込まれる位置にいた[1][2]。
制度の変化は薬価だけではなかった。1997年9月からサラリーマンの薬剤費自己負担が2割へ引き上げられ、一部の医療現場では高額な薬の投与を拒む患者が早くも現れている。薬価制度も新薬メーカーに不利な方向へ動きそうで、80社近くが林立する新薬業界は遠くない将来に半分以下へ淘汰される可能性が高い、と当時は見られていた。心臓薬ヘルベッサーで世界に名を馳せた田辺製薬も、この見立ての外にはいなかった[3]。
開発畑から出た社長
1997年6月に社長へ就いた田中登志於氏は、1935年に福井県で生まれ、1959年3月に京都大学農学部を卒業して同月に入社した。以来ほぼ一貫して研究開発畑を歩み、1990年に開発統括センター所長、1991年に取締役、1994年に常務、1995年に専務を経ての就任である。高血圧治療剤タナトリルや胃潰瘍治療剤ガストロームといった主力製品の開発に自ら携わってきた人物であった[4][5]。
経営で田中氏が信条としたのは速度であった。「社長就任以来、これまで3年かかっていたことを1年で実現できるようにしようと、社員に対してくどいほど繰り返してきた」と語り、自身の決裁も速く、未決の書類が机に滞留することはまずなかったという。1991年に発売した疲労回復用カプセル剤ナンパオでは、厚生省と中国の原料供給元を自ら飛び回って製品化を実現し、年商15億円まで育てた実績を持つ[6][7]。
決断
「このままでは生き残れない」
1998年1月、田中氏は全社員に向けて「非常事態」を宣言した。このままでは生き残れないという危機感からであった。3月末までに構造改革委員会(仮称)を発足させて社内の体質を改め、研究開発では新薬の開発期間を短縮し、営業や間接部門では業務の効率化を進める。社長就任から7か月、薬価の3年連続引き下げが4月に迫る時期に打ち出された段取りであった[8]。
田中氏は就任直後の取材でも、残された時間を短く見積もっていた。「環境は強烈に厳しい。この一年の変化は過去一〇年の変化に匹敵する。七〇年近くかけてやってきた体質強化を、この三年で総仕上げすることが迫られている」[9]。1933年の法人改組から数えて64年、創業から数えれば319年になる会社が、自らに与えた期限は三年であった。
買われないことではなく、買いたいと思われること
田中氏は、外資による買収を避けるべき事態とは考えていなかった。「外資に買収されたらイヤだ、なんてとんでもない間違い。存在意義もなく自立もできない会社など、外資は目もくれませんよ」と述べている。小粒でもピリリと辛い、目をつけられるくらいの会社であることが生き残りの最低条件になる、という見立てであった。守るべき対象を会社の独立ではなく事業の存在意義に置いた点に、この宣言の性格が表れている[10]。
手立てとしては、何が何でも自社開発という考え方から離れ、得意分野の絞り込み、研究機関や海外ベンチャーとの提携、競合メーカーとの連携を探るべき道として挙げた。そのうえで「顧客満足度の向上という、他業界では珍しくもない言葉を、改めて我々の活動すべての原点に据えることだ」と語っている。保守的な風土を変えるために、田中氏は「リーダーたちは、私の顔じゃなく下の顔を見て仕事をしてほしい」とも述べた[11][12]。
結果
三年後に起きたこと
宣言から三年が過ぎた2001年9月、田辺製薬は大正製薬との経営統合を発表し、同年12月にこれを白紙撤回した。総仕上げの期限として自ら区切った三年のあいだに、体質の改善は進んでも規模そのものは動かせていない。この時点で田辺製薬は、医療用医薬品での単独の生き残りは難しく、外資系メーカーから買収の最右翼候補と目される会社として報じられている。目をつけられる会社にはなっていた[13]。
数字の上では、構造改革は利益を守る形で効いた。連結売上高は2002年3月期の1897億円から2007年3月期の1775億円へ減ったが、経常利益は322億円から323億円とほぼ横ばいを保ち、親会社株主に帰属する当期純利益は125億円から202億円へ増えている。売上が伸びない環境で利益を落とさない経営としては成り立っていた。それでも規模の問題は残り、2007年10月に三菱ウェルファーマとの合併で田辺三菱製薬が発足する[14][15]。
- 週刊東洋経済 1997年8月30日号「[ひと]田中登志於 田辺製薬社長 激動期入りした製薬業界で“目をつけられる”会社にする」
- 日経ビジネス 1998年2月2日号「新社長登場 田中登志於氏[田辺製薬]薬価下げ、「非常事態」宣言し社内に布石」
- 週刊東洋経済 2001年10月6日号「医薬品業界 製薬再編の第一幕 大正・田辺の意外な合併に株式市場が冷淡な理由」
- 田辺製薬 有価証券報告書(2007年3月期・連結)
- 田辺製薬 有価証券報告書【沿革】