ジャストシステム「一太郎オフィス8」の失速で初の赤字、人員削減とソニー出資による再建
店頭公開の半年後に創業以来初の赤字を出した浮川和宣社長は、何を削り、誰に頼ったか
- 概要
- 1997年10月に店頭公開したジャストシステムが、主力に据えた新製品「一太郎オフィス8」の販売不振によって1998年3月期に創業以来初の赤字へ転落し、人員と経費の圧縮、ソニーからの第三者割当増資による資本増強で立て直しにかかった経営判断である。
- 背景
- 「一太郎」で日本語ワープロソフトの首位を保ってきた同社は、マイクロソフトの攻勢を受けるなかで105億円を投じた新本社を建設し、店頭公開による調達を返済の前提としていた。公開で得た資金は75億円にとどまり、借入は高い水準のまま残った。
- 内容
- 1997年9月に投入した「一太郎オフィス8」は年度目標180万本に対し77万本にとどまり、1998年3月期は最終赤字52億円・無配となった。派遣を含め1700人まで膨らんだ人員を1000人強へ削減し、前期比75億円の経費削減を掲げるとともに、1998年6月にソニーへ12億7400万円の第三者割当増資を実施した。
- 含意
- 浮川和宣社長は「マイクロソフトへの対抗意識が強すぎ、一太郎の良さを育てることを忘れていた」と総括した。ソニーとの資本提携は受託開発という新しい仕事も伴っており、パッケージソフト専業という自己規定を緩める選択でもあった。
180万本に預けた返済計画
1998年に問われたのは製品の作り直しではなく、会社の大きさの決め方であった。1997年6月竣工の新本社は105億円、銀行借入は1年で31億円から111億円へ増え、その返済は同年10月の店頭公開と、9月に発売した「一太郎オフィス8」の売れ行きに預けられていた。公開で入ったのは75億円、オフィス8は11月に180万本へ引き上げた目標に対し77万本にとどまる。二つの前提が同時に外れたとき、崩れたのは製品の採算ではなく返済の道筋のほうであった。
もっとも、マイクロソフトを基準に置いたことは、製品を並べる力でもあった。最後発でオフィスパック市場へ出られたのは表計算の「三四郎」まで自前で揃えていたからで、その品揃えは相手が持っているという理由で積み増されている。浮川和宣社長が対抗意識の強さを反省したのは製品についてであるが、同じ対抗意識が派遣を含め1,700人という会社の大きさも決めていた。1,000人強への削減と75億円の経費圧縮を経て残ったのは、他社の品揃えではなく自社の売れる本数で身の丈を決めるという、それまで持たなかった物差しであったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
店頭公開と新本社が残した借入
ジャストシステムは1997年10月16日、店頭市場へ株式を公開した。株式市況は最悪に近い水準であったが、浮川和宣社長は「六年近くも株式公開に向けた作業を続けてきた。公開準備には多くの手間が取られるため延期は考えなかった」と語っていた。延期しにくい事情は資金の側にもあった。同社は公開による調達を前提に徳島市川内町の新本社を105億円で建設しており、銀行借入は1996年3月期末の31億円から1997年3月期末には111億円へ膨らんでいた[1]。
ところが公開時の初値はブックビルディング方式で2500円に抑えられ、調達できたのは75億円にとどまった。その大部分は借入金の返済に回る計算であった。浮川社長は「早い段階で海外でさらに資金調達を行うことも考えている」と述べていたが、その前に1998年3月期の増益計画を達成できるかどうかという関門が控えていた。同社の経常利益は1995年3月期の30億円、1996年3月期の60億円から1997年3月期には7億円まで落ちており、これを再び30億円へ戻す計画になっていた[2]。
「一太郎オフィス8」に賭けた下期
増益計画の鍵は、1997年9月19日に発売したオフィスパック「一太郎オフィス8」が握っていた。ワープロ単体の「一太郎」と同じ標準価格4万円で表計算の「三四郎」などを束ねた製品で、下期の主力はこれに切り替わる設計になっていた。マイクロソフトが8割、ロータスが2割とされたオフィスパック市場に最後発で挑む構図で、浮川社長は「年度内に一一〇万本売ってシェア三割を確保する」と語っていた[3]。
店頭の反応は発売直後から鈍かった。流通商社を通じて初回に出荷した後、追加注文がほとんど入らず、量販店からは売れ行きへの疑問が漏れていた。国内のパソコン出荷の伸び悩みも重なり、目標本数は11月にいったん180万本へ引き上げられた後、1998年1月には80万本へ引き下げられた。開発費などを繰り延べる中間決算調整勘定を27億円積んで上期は黒字を保っていたが、それがなければ上期の時点ですでに17億円の営業赤字であった[4]。
決断
規模の縮小という選択
1998年1月、同社は下期の売上見通しを249億円から125億円へ半減させ、通期で43億円の営業赤字となる見込みを公表した。店頭公開から3カ月あまりでの下方修正であった。浮川社長は市場環境の悪化を理由に挙げたが、日経ビジネスの取材には別の説明もしている。「マイクロソフトへの対抗意識が強すぎ、『一太郎』の良さを、さらに大事に育てることを忘れてしまいました」と述べている。新製品の多くは、マイクロソフトが揃えているという理由で開発されていた[5][6]。
打ち手はまず規模の縮小に向かった。新製品開発のために毎年百人単位で増やしてきた人員は、派遣を含めて1700人に達していた。同社はこれを1000人強まで落とし、正社員は定年退職などの自然減を中心に百数十人を減らす方針を取った。広告費の節約と合わせ、1999年3月期は前期比75億円の経費削減を狙う計画であった。浮川社長は「社員に夢を持たせたい」と述べる一方、身売りの噂は明確に否定していた[7][8]。
ソニーを口説く
もう一方の手は資本であった。赤字転落の後も浮川社長は「他社との資本提携は考えていない。あくまで自主再建していく」と語っていたが、実際には1998年1月にソニーの出井伸之社長を訪ねていた。シャープなど他の電機メーカーも候補として検討した末、ソフト開発の案件が多くタイミングが合ったソニーと条件が折り合う。1998年6月1日、12億7400万円の第三者割当増資が発表され、ソニーは6.7%を持つ第4位株主となった[9]。
金額そのものは大きくない。1998年3月期の最終赤字は52億円に達し、1年以内に返済期限が来る銀行借入金は91億円に膨らんでいた。同社は百十四銀行や阿波銀行と長期債務への振り替えを交渉しており、ソニーが株主に入ることの信用補強の効果が期待された。加えてソニー向けの受託開発は当初20人から100人規模の部隊を要する仕事であり、パッケージソフト専業を守ってきた同社にとって収益源の性格を変えるものでもあった[10][11]。
結果
残された財務の重荷
再建策を打った後も、財務の重荷は消えなかった。株価は1997年10月の初値2500円から1998年半ばには600円台まで下げ、公開前に株式を持った社員の多くも含み損を抱えた。人員削減の結果、1987年に徳島市中心部へ建てた旧本社は必要がなくなり、賃貸か売却による資金化が検討された。株主資本の大半を占めていたプログラム準備金は、1998年3月期に37億円を積み立てて90億円を取り崩してもなお160億円が残り、今後の取り崩しは税負担の増加につながる構造にあった[12][13]。
業績の回復にも時間がかかった。赤字は1998年3月期から3期続き、黒字転換の目標は2001年3月期へ持ち越された。1996年度に年394万本を売り上げてピークを打った「一太郎」は、パソコンへの同梱契約がピーク時の140万本からゼロへ細り、本業の縮小が止まらなかった。同社は1999年6月に小学生向けの「一太郎スマイル」を、2000年7月にはインターネット接続事業「ジャストネット」の分社を進め、収益源を主力製品の外側へ広げる作業を続けた[14][15]。
- 週刊東洋経済 1997年11月1日号「[フラッシュ]ジャストシステム 株式公開後の「危機」」
- 週刊東洋経済 1998年2月7日号「[フラッシュ]ジャストシステム 赤字で一転危機」
- 日経ビジネス 1998年3月9日号「敗軍の将、兵を語る 浮川和宣氏[ジャストシステム社長]新ソフトが裏目、赤字転落へ独自性を取り戻し再起図る」
- 週刊東洋経済 1998年6月13日号「[フラッシュ]ジャストシステム ソニーの次は?」
- 週刊東洋経済 1998年7月4日号「企業分析ジャストシステム 再建への“選択”」
- 週刊東洋経済 2000年6月17日号「[Lineup/IT最前線]IT決算ジャストシステムは黒字化できるのか?」
- 週刊東洋経済 2003年8月9日号「[特集]V字回復に挑む夏 CASE05:ジャストシステム」