ジャストシステム の歴史

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創業 1979年
創業者 浮川和宣
創業地 徳島県徳島市
創業
1979年7月、浮川和宣氏と初子氏が徳島市で東芝系のオフィスコンピュータ販売代理店としてジャストシステムを興した。和宣氏は愛媛大学工学部を出て西芝電機に6年勤めた技術者で、双方の親を養うには勤め人では足りないと考えて退職している。東芝の機種を選んだのは、漢字処理の機能が当時最も進んでいたためである。1981年6月に株式会社として設立し、和宣氏が社長、初子氏が専務に就任した。1982年10月に日本語処理システム「KTIS」を発表し、1985年8月には日本電気のPC-9801向けに「一太郎」を発売する。ただし前年に仕上げた最初のワープロソフト「JSワード」の商標は契約上アスキーが持ち、自社の名では世に出せなかった。
決断
自力で再建できず、45億円と引き換えに議決権の4割を渡した。1997年10月の株式公開の直後から業績は崩れ、翌1998年3月期に創業以来初の赤字と無配へ転落する。同年6月、ソニーの出資を受けて再建に入り、1,700人の人員を1,000人強まで減らした。2000年代半ばに次の収益源として選んだXML実行環境「xfy」は、2008年3月期に売上高145億円に対して営業損失39億円・純損失47億円を出し、xfy事業自体の売上は1億7,000万円にとどまった。2009年4月、キーエンスへ45億円の第三者割当増資を割り当てた。キーエンスの持株比率は43.96%となり、浮川和宣氏は13.43%の第2位株主へ下がる。同年6月に和宣氏が社長を退任し、10月には夫妻がそろって取締役を辞任して会社を離れた。
現況
収益の中心は、日本語のソフトではなく専用タブレットの通信教育に移っている。2012年11月に専用タブレットの通信教育スマイルゼミを家庭へ投入した。端末は汎用品ではなく、9.7インチのIPS液晶を載せたAndroidベースの専用機を用意し、手のひらが触れても反応しない仕様で鉛筆の動作をそのまま持ち込めるようにした。パッケージソフトは新版を出した年に売上が集中するが、通信教育では会員が学年をまたいで毎月払い続ける。2022年3月期には売上高416億円の75%が継続課金となり、2026年3月期は売上高515億円・営業利益224億円・純利益150億円で営業利益率は43.7%に達した。連結従業員は302名にとどまる。売り切りをやめたことが、300人の会社に4割を超える営業利益率を生んだ。
競合
一国だけで通じる規格を差別化要因にしてきたが、その規格ごと相手に握られた。マイクロソフトは1995年10月の「ワード95」で仮名漢字変換を初めて自社開発へ切り替え、1996年7月には日本法人に一つの商品だけを担当する営業部隊を置いた。同年4月には1万2,000円のワードを投入し、4万円だった一太郎6.3との価格差を作る。ジャストシステムは7月に定価を2万円へ下げたが、次期版の一太郎7は4度延期されて9月13日にずれ込み、その間に基本ソフトと同じ売り場を持つ相手が標準の位置を占めた。現在の主力である通信教育も、日本の学習指導要領に合わせた国内向けの商品である。国内の制度に合わせた商品だけを作ってきたことが、世界の大手と規模で競わずに済む位置をジャストシステムに残した。
ジャストシステム:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2006年3月期2026年3月期

創業ストーリー 徳島のオフコン代理店が日本語ワープロの標準を取るまで(1979〜1989) (1979年〜)

親を養うために選んだ独立と、漢字処理への的の絞り込み

浮川和宣氏は1949年5月に生まれ、1973年3月に愛媛大学工学部を卒業して船舶用電機メーカーの西芝電機に入社[1]した。6年間勤めたのち、いずれ自分と妻の双方の親を養う必要があり、それには勤め人では足りない[2]と考えて退職した。1979年7月、妻の初子氏の実家の応接間を改造した事務所で、東芝系のオフィスコンピュータ販売代理店[3]としてジャストシステムを興した。東芝の機種を扱うと決めたのも、漢字処理の機能が当時最も進んでいた[4]からであった。1981年6月に株式会社として設立し、浮川氏が社長、初子氏が専務[5]に就いた。

  • 日経ビジネス 1995年12月4日号
    • [1]浮川和宣氏は1949年5月生まれ、1973年3月に愛媛大学工学部を卒業し、4月に西芝電機へ入社した
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [2]浮川和宣氏は西芝電機に6年間勤めた後、親の扶養を理由に勤め人をやめて独立した
    • [3]1979年7月、初子夫人の実家の応接間を改造した事務所で東芝系オフコン販売代理店として創業した
    • [4]東芝のオフコンを扱うと決めたのは、漢字処理機能が当時最も進んでいたためであった
  • ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1981年6月に株式会社ジャストシステムを設立し、浮川和宣氏が社長、浮川初子氏が専務に就任した

浮川初子氏は1951年3月に生まれ、1969年4月に愛媛大学工学部電子工学科の開設1期生[6]として入学した。1973年に卒業して外資系計算機メーカーの高千穂バロースに入り、オフィスコンピュータのソフトウェア開発[7]に携わった。1975年1月に同級生だった和宣氏と結婚し、姫路市でコンピュータ販売会社に移ったのち、1979年に徳島へ戻って[8]夫とともに創業に加わった。創業の年に手がけたのは、ビニールハウス用フィルムの販売管理システム[9]であった。初子専務はその後の半年間、吉田種苗へ手弁当で通い詰めて細かな要望を聞き取った。出来上がったソフトは、機器の性能が上がっても7年間は手直しなし[10]で使われた。

  • 日経ビジネス 1993年9月13日号
    • [6]浮川初子氏は1951年3月20日徳島県生まれ、1969年4月に愛媛大学工学部電子工学科の開設1期生として入学した
    • [7]浮川初子氏は1973年に卒業後、外資系コンピューターメーカーの高千穂バロースでオフコンのソフトウェア開発に従事した
    • [8]1975年1月に大学の同級生だった浮川和宣氏と結婚し、姫路市在住でコンピューター販売会社に転職、1979年に徳島へ帰郷して創業した
    • [9]創業当初の1979年に作ったのはビニールハウス用のビニールフィルムの販売管理システムであった
    • [10]浮川初子氏は半年間にわたり吉田種苗へ手弁当で通い詰め、完成したソフトは7年間手直しなしで使われた
  • 日経ビジネス 1995年12月4日号
    • [1]浮川和宣氏は1949年5月生まれ、1973年3月に愛媛大学工学部を卒業し、4月に西芝電機へ入社した
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [2]浮川和宣氏は西芝電機に6年間勤めた後、親の扶養を理由に勤め人をやめて独立した
    • [3]1979年7月、初子夫人の実家の応接間を改造した事務所で東芝系オフコン販売代理店として創業した
    • [4]東芝のオフコンを扱うと決めたのは、漢字処理機能が当時最も進んでいたためであった
  • ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1981年6月に株式会社ジャストシステムを設立し、浮川和宣氏が社長、浮川初子氏が専務に就任した
  • 日経ビジネス 1993年9月13日号
    • [6]浮川初子氏は1951年3月20日徳島県生まれ、1969年4月に愛媛大学工学部電子工学科の開設1期生として入学した
    • [7]浮川初子氏は1973年に卒業後、外資系コンピューターメーカーの高千穂バロースでオフコンのソフトウェア開発に従事した
    • [8]1975年1月に大学の同級生だった浮川和宣氏と結婚し、姫路市在住でコンピューター販売会社に転職、1979年に徳島へ帰郷して創業した
    • [9]創業当初の1979年に作ったのはビニールハウス用のビニールフィルムの販売管理システムであった
    • [10]浮川初子氏は半年間にわたり吉田種苗へ手弁当で通い詰め、完成したソフトは7年間手直しなしで使われた

商標を持たない会社が自社ブランドを取り戻すまで

1982年10月、ジャストシステムは日本語処理システム『KTIS』[11]を発表した。翌1983年には一太郎の前身にあたるワープロソフト『JSワード』が生まれ、編集メニューをワンタッチで呼び出せる設計[12]を備えている。ところがJSワードの商標は契約上アスキーが持っており、1984年夏、社員が10人に満たなかった時期に苦心して作った最初のワープロソフトは、アスキーの商品として雑誌などに紹介された。自分たちの商品が世に出るのを楽しみに働いてきただけに、社員の落胆は大きかった[13]。初子専務は半ば強引に月曜を休みと決め、週末に2泊3日で高知へ社員旅行に出かけた。旅館では車座になって皆で話し、この旅行のあと社内の空気が入れ替わった[14]

  • ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
    • [11]1982年10月に日本語処理システム「KTIS」を発表した
  • 日経ビジネス 1993年9月13日号
    • [12]1983年に一太郎の前身である「JSワード」が生まれ、編集メニューをワンタッチで呼び出せる設計を備えていた
    • [13]JSワードの商標は契約上アスキーが持っており、1984年夏、社員10人未満の時期に作った最初のワープロソフトはアスキーの商品として紹介された
    • [14]商標問題で落胆した社員のため、浮川初子氏は月曜を休みと決めて週末2泊3日の高知旅行に出かけ、旅行後に社内の気分が一新した

アスキーとの関係は、初子専務がかけた1本の電話から始まっている。マイクロソフトの基本ソフトを組み込んだ応用ソフトを商品として販売できるかどうかを問い合わせたところ、日曜に出社していたアスキーの古川享氏が受けた[15]。当時そこまで細かく気を配る利用者はおらず、古川氏は著作権への意識の高さに感心したという。二人は意気投合し、アスキーからワープロソフトを販売する話が進んだ[16]。商標の一件で落胆した若手社員は、高知への旅行のあとIBMのパソコン向けに『JXワード』の開発へ入り、わずか3カ月で初の自社ブランド商品を仕上げた[17]

  • 日経ビジネス 1993年9月13日号
    • [15]浮川初子氏がマイクロソフトの基本ソフトを組み込んだ応用ソフトの販売可否を問い合わせた電話を、日曜に出社していたアスキーの古川享氏が受けた
    • [16]古川享氏は浮川初子氏の著作権に対する高い意識に感動し、その後アスキーからワープロソフトを販売する話が進んだ
    • [17]若手社員はIBMのパソコン向けに「JXワード」の開発に乗り出し、わずか3カ月で初の自社ブランド商品を完成させた

1985年8月、同じく日本電気のパソコンPC-9801向けに『一太郎』[18]を発売する。当時の先端を行く機能に加え、一般へ広めるため従来製品の半値に置いた価格が受けて大量に売れた[19]。発売の年に9億円だった売上高は5年間で約97億円へ伸び、社員は28人から約500人[20]に増えている。1988年5月に大阪営業所、1989年6月に東京支社を開き[21]、徳島だけで作って売る会社ではなくなった。

  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [18]1985年8月、日本電気のパソコンPC-9801向けに「一太郎」を発売した
    • [19]一太郎は当時の先端機能と従来製品の半値という価格設定が受けて大ヒットした
    • [20]一太郎発売の年に9億円(1986年4月期)だった売上高は5年間で約97億円(1991年4月期見込み)へ拡大し、社員は28人から約500人に増えた
  • ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
    • [21]1988年5月に大阪営業所、1989年6月に東京支社を開設した
  • ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
    • [11]1982年10月に日本語処理システム「KTIS」を発表した
    • [21]1988年5月に大阪営業所、1989年6月に東京支社を開設した
  • 日経ビジネス 1993年9月13日号
    • [12]1983年に一太郎の前身である「JSワード」が生まれ、編集メニューをワンタッチで呼び出せる設計を備えていた
    • [13]JSワードの商標は契約上アスキーが持っており、1984年夏、社員10人未満の時期に作った最初のワープロソフトはアスキーの商品として紹介された
    • [14]商標問題で落胆した社員のため、浮川初子氏は月曜を休みと決めて週末2泊3日の高知旅行に出かけ、旅行後に社内の気分が一新した
    • [15]浮川初子氏がマイクロソフトの基本ソフトを組み込んだ応用ソフトの販売可否を問い合わせた電話を、日曜に出社していたアスキーの古川享氏が受けた
    • [16]古川享氏は浮川初子氏の著作権に対する高い意識に感動し、その後アスキーからワープロソフトを販売する話が進んだ
    • [17]若手社員はIBMのパソコン向けに「JXワード」の開発に乗り出し、わずか3カ月で初の自社ブランド商品を完成させた
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [18]1985年8月、日本電気のパソコンPC-9801向けに「一太郎」を発売した
    • [19]一太郎は当時の先端機能と従来製品の半値という価格設定が受けて大ヒットした
    • [20]一太郎発売の年に9億円(1986年4月期)だった売上高は5年間で約97億円(1991年4月期見込み)へ拡大し、社員は28人から約500人に増えた

16万本の回収を越えて積み上げた売上高281億円

1991年、一太郎を第4版へ移す際に開発が遅れ、出荷時期が2度にわたって延びた[22]。ようやく出荷にこぎ着けたところ商品に欠陥があることが判明し、急きょ交換に応じたものの、その交換品にも動作が遅いといった苦情が相次いだ[23]。最終的な回収本数は16万本に達し、その間ほかの開発は完全に止まっている。当時300人近くにいた社員とともに、浮川社長はこの時期を耐えた[24]。騒動の真相について浮川社長は発売時期を巡る自身の判断の誤りと認め、多くを語っていない[25]。それでもその年は増収を確保し、この事件を境に一太郎への評価と人気はかえって高まった[26]

  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [22]一太郎を第4版へ移す際、開発の遅れから出荷時期が2度にわたり延期された
    • [23]出荷した商品に欠陥が判明して交換に応じたが交換品にも苦情が相次ぎ、最終的な回収本数は16万本に上った
    • [24]回収の間ほかの開発は完全にストップし、浮川和宣氏は当時300人近くになっていた社員とともに危機を耐えた
    • [25]浮川和宣氏は騒動の真相を「発売時期を巡る私の判断ミス」と全面的に非を認め、多くを語らなかった
    • [26]騒動の年も難なく増収を確保し、この事件を境に一太郎に対する評価や人気は以前にも増して高まった

業績は伸び続けた。1994年度の売上高は195億円、経常利益は29億円[27]で、1996年3月期には売上高281億円・経常利益61億円に達している。従業員は1000人を超え[28]、1996年4月には一太郎の累計出荷本数が500万本を上回った[29]。本社を徳島に置いたままである点について、浮川社長は本社・東京・名古屋・大阪の拠点をすべて同一のネットワークで結び、役職に関係なく社員全員が横並びで同じ情報を共有して互いにメッセージを交換できる仕組みを作った[30]と説明している。かつて徳島本社では先端の情報に遅れるという危惧があったが、ネットワークが完成してその感覚は消え、本社を東京へ移す必要はなくなった[31]

  • 日経ビジネス 1995年12月4日号
    • [27]1994年度の売上高は195億円、経常利益は29億円であった
    • [30]本社のある徳島と東京・名古屋・大阪の拠点をすべて同一のネットワークで結び、役職に関係なく社員全員が横並びで情報を共有できる仕組みを作った
    • [31]浮川和宣氏は、かつて徳島本社では先端の情報に遅れるという危機感があったがネットワークの完成で解消し、本社を東京に移す必要はないと語った
  • 日経ビジネス 1996年8月19日号
    • [28]1996年3月期は売上高281億円、経常利益61億円で、従業員は1000人を超えた
    • [29]1996年4月に一太郎シリーズの累計出荷本数が500万本を超えた

1995年、浮川社長は事業の幅を広げる手を続けて打った。8月にパソコン通信『ジャストネット』[32]を始め、会員だけが集まる区画からインターネットへ出られる構成を採った。4月には米国シリコンバレーに子会社を設立し、1996年4月にはピッツバーグのカーネギーメロン大学の近くへ先端技術研究所を開いて[33]同大学の教授を所長に迎えた。任天堂・スクウェアとゲームソフトの合弁会社[34]も設立した。家庭にネットワークを広げるにはパソコンだけでは限界があり、10万円かかる機器の代わりにゲーム機を使う道があると見た[35]ためであった。1997年の株式公開も、この時点で予定に[36]入っていた。

  • 日経ビジネス 1995年12月4日号
    • [32]1995年8月にパソコン通信「ジャストネット」をスタートさせ、会員専用の区画からインターネットへ接続できる構成を採った
    • [34]任天堂・スクウェアとともにゲームソフトの合弁会社を設立した
    • [35]家庭へネットワークを広げるにはパソコンだけでは限界があり、10万円かかるパソコンの代わりにゲーム機を使う手があると考えていた
    • [36]1997年の株式公開を予定しており、狙いは資金調達であった
  • 日経ビジネス 1996年8月19日号
    • [33]1995年4月に米国シリコンバレーに子会社を設立し、1996年4月にピッツバーグのカーネギーメロン大学近くへ先端技術研究所を開設して同大学教授を所長に迎えた
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [22]一太郎を第4版へ移す際、開発の遅れから出荷時期が2度にわたり延期された
    • [23]出荷した商品に欠陥が判明して交換に応じたが交換品にも苦情が相次ぎ、最終的な回収本数は16万本に上った
    • [24]回収の間ほかの開発は完全にストップし、浮川和宣氏は当時300人近くになっていた社員とともに危機を耐えた
    • [25]浮川和宣氏は騒動の真相を「発売時期を巡る私の判断ミス」と全面的に非を認め、多くを語らなかった
    • [26]騒動の年も難なく増収を確保し、この事件を境に一太郎に対する評価や人気は以前にも増して高まった
  • 日経ビジネス 1995年12月4日号
    • [27]1994年度の売上高は195億円、経常利益は29億円であった
    • [30]本社のある徳島と東京・名古屋・大阪の拠点をすべて同一のネットワークで結び、役職に関係なく社員全員が横並びで情報を共有できる仕組みを作った
    • [31]浮川和宣氏は、かつて徳島本社では先端の情報に遅れるという危機感があったがネットワークの完成で解消し、本社を東京に移す必要はないと語った
    • [32]1995年8月にパソコン通信「ジャストネット」をスタートさせ、会員専用の区画からインターネットへ接続できる構成を採った
    • [34]任天堂・スクウェアとともにゲームソフトの合弁会社を設立した
    • [35]家庭へネットワークを広げるにはパソコンだけでは限界があり、10万円かかるパソコンの代わりにゲーム機を使う手があると考えていた
    • [36]1997年の株式公開を予定しており、狙いは資金調達であった
  • 日経ビジネス 1996年8月19日号
    • [28]1996年3月期は売上高281億円、経常利益61億円で、従業員は1000人を超えた
    • [29]1996年4月に一太郎シリーズの累計出荷本数が500万本を超えた
    • [33]1995年4月に米国シリコンバレーに子会社を設立し、1996年4月にピッツバーグのカーネギーメロン大学近くへ先端技術研究所を開設して同大学教授を所長に迎えた

「打倒一太郎」を掲げた相手と、4度延びた一太郎7

マイクロソフトが日本語ワープロソフトの市場開拓に本腰を入れたのは1995年からである。同年10月に発売した『ワード95』では、それまで他社製品を採用していた仮名漢字変換ソフトを初めて自社開発に切り替えた[37]。1996年7月には日本法人に『ワードスワットグループ』が発足し、東京に6人、大阪と名古屋に各1人の担当者を置いた。1つの商品だけに特化した営業部隊は同社で初めて[38]であった。同年4月にはインターネット対応を強めたワードを希望小売価格1万2000円で投入し、4万円の一太郎6.3[39]を追う。ジャストシステムは7月に定価を2万円へ下げて[40]応じた。

  • 日経ビジネス 1996年8月19日号
    • [37]マイクロソフトは1995年10月発売の「ワード95」で初めて自社開発の仮名漢字変換ソフトを搭載した
    • [38]1996年7月にマイクロソフト日本法人に“打倒一太郎”チーム「ワードスワットグループ」が発足し、東京に6人、大阪・名古屋に各1人の担当者を配置した
    • [39]1996年4月にマイクロソフトがインターネット対応を強化したワードを希望小売価格1万2000円で投入し、4万円の一太郎6.3を追った
    • [40]ジャストシステムは対抗策として1996年7月に一太郎の定価を2万円に値下げした

次期版の一太郎7は当初1996年2月の発売を予定していたが、4度先延ばしされて9月13日[41]にずれ込んだ。遅れの最大の理由は、ソフトを部品に分けるオブジェクト指向を採り入れた点にある。1つの機能を持つ小さなソフトを積み上げて大きなソフトにする方式で、利用者は必要としない機能を外せる[42]。浮川社長はこれを生みの苦しみと呼び、インターネットを通じてソフトを受け取る時代には大きなソフトほど配信に時間がかかるため軽くする意義がある[43]と説明した。1991年に発売していた独自のグループウエアは、今後はイントラネットが主流になると割り切って[44]捨てた。それでも一太郎の売上比率は7割のまま[45]であった。

  • 日経ビジネス 1996年8月19日号
    • [41]一太郎7の発売時期は当初1996年2月だったが過去4度先延ばしされ、1996年9月13日となった
    • [42]一太郎7の開発に手間取った最大の理由は「オブジェクト指向」の採用で、1つの機能を持つ小さなソフトを積み上げて大きなソフトにする方式であった
    • [43]浮川和宣氏は発売の遅れを「生みの苦しみ」と表現し、ネットワークを介したソフトのやり取りでは大きなソフトは配信に時間がかかるため軽量化の意義があるとした
    • [44]1991年に発売していた独自のグループウエアを、今後はイントラネットが主流になると割り切って捨てた
    • [45]1996年8月時点で一太郎の売り上げ比率は依然として7割を占めていた
  • 日経ビジネス 1996年8月19日号
    • [37]マイクロソフトは1995年10月発売の「ワード95」で初めて自社開発の仮名漢字変換ソフトを搭載した
    • [38]1996年7月にマイクロソフト日本法人に“打倒一太郎”チーム「ワードスワットグループ」が発足し、東京に6人、大阪・名古屋に各1人の担当者を配置した
    • [39]1996年4月にマイクロソフトがインターネット対応を強化したワードを希望小売価格1万2000円で投入し、4万円の一太郎6.3を追った
    • [40]ジャストシステムは対抗策として1996年7月に一太郎の定価を2万円に値下げした
    • [41]一太郎7の発売時期は当初1996年2月だったが過去4度先延ばしされ、1996年9月13日となった
    • [42]一太郎7の開発に手間取った最大の理由は「オブジェクト指向」の採用で、1つの機能を持つ小さなソフトを積み上げて大きなソフトにする方式であった
    • [43]浮川和宣氏は発売の遅れを「生みの苦しみ」と表現し、ネットワークを介したソフトのやり取りでは大きなソフトは配信に時間がかかるため軽量化の意義があるとした
    • [44]1991年に発売していた独自のグループウエアを、今後はイントラネットが主流になると割り切って捨てた
    • [45]1996年8月時点で一太郎の売り上げ比率は依然として7割を占めていた

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ジャストシステムの沿革1979〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1979〜1989年徳島のオフコン代理店が日本語ワープロの標準を取るまで(1979〜1989)ジャストシステムを創業
浮川和宣ジャストシステムを設立
浮川和宣日本語処理システム「KTIS」を発表
浮川和宣日本語ワードプロセッサ「一太郎」を発売★★
浮川和宣大阪営業所を開設
浮川和宣東京支社を開設
1997〜2008年公開直後の赤字転落と、脱「一太郎」の模索(1997〜2008)浮川和宣店頭登録銘柄として株式を公開
浮川和宣文書検索・要約システム「ConceptBase Search」を発売
浮川和宣「一太郎オフィス8」の失速で初の赤字、人員削減とソニー出資による再建

1997年10月に店頭公開したジャストシステムが、主力に据えた新製品『一太郎オフィス8』の販売不振によって1998年3月期に創業以来初の赤字へ転落し、人員と経費の圧縮、ソニーからの第三者割当増資による資本増強で立て直しにかかった経営判断である。

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★★★
浮川和宣人員削減とソニーへの第三者割当増資で再建に着手★★
浮川和宣小学生用日本語ワープロソフト「一太郎スマイル」を発売
浮川和宣オンラインショッピングサイト「Just MyShop」をオープン
浮川和宣オンラインストレージ「InternetDisk ASP」を提供開始
浮川和宣Blast Radius社の「XMetaL」事業を譲受しJUSTSYSTEMS CANADA, INC.に事業移管
2009〜2025年45億円で入れ替わった経営と、家庭へ移した代金の受け取り方(2009〜2025)浮川和宣キーエンスに45億円の第三者割当増資を割り当て、議決権の4割と経営を委ねる

2009年4月3日、ジャストシステムがキーエンスとの資本・業務提携を発表し、キーエンスを割当先とする第三者割当増資で約45億円を調達した経営判断である。増資後のキーエンスの持株比率は43.96%となり、創業者の浮川和宣氏は13.43%の第2位株主に下がった。

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★★★
福良伴昭IBM Corporationから「ホームページ・ビルダー」のプログラム著作権と商標権を取得
福良伴昭ファイルサーバー統合管理システム「GDMS」を発売
福良伴昭ノンプログラミングWebデータベース「UnitBase」を発売
福良伴昭専用タブレットの通信教育「スマイルゼミ」を家庭へ投入し、売り切りソフト会社をやめる

2012年11月20日にジャストシステムが小学生向けのタブレット通信教育『スマイルゼミ』を発表し、同年12月17日に開講した経営判断である。学校向け学習ソフトで13年かけて蓄えた知見を家庭向けに転用し、パッケージソフトの売り切りから月額課金へ収益の受け取り方を移した。

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★★★
福良伴昭中学生向け通信教育「SMILE ZEMI」を提供開始
関灘恭太郎米国向けHome Learning Service「Smile Zemi」(Grade K)を提供開始
出典・参考
  • ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
  • 日経ビジネス 1993年9月13日号
  • 日経ビジネス 1995年12月4日号
  • 日経ビジネス 1996年8月19日号

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