ジャストシステム の歴史

更新:

創業 1979年
創業者 浮川和宣
創業地 徳島県徳島市
創業 1979年7月、浮川和宣氏と初子氏が徳島市で東芝系のオフィスコンピュータ販売代理
1979年7月、浮川和宣氏と初子氏が徳島市で東芝系のオフィスコンピュータ販売代理店としてジャストシステムを興した。和宣氏は愛媛大学工学部を出て西芝電機に6年勤めた技術者で、双方の親を養うには勤め人では足りないと考えて退職している。東芝の機種を選んだのは、漢字処理の機能が当時最も進んでいたためである。1981年6月に株式会社として設立し、和宣氏が社長、初子氏が専務に就任した。1982年10月に日本語処理システム「KTIS」を発表し、1985年8月には日本電気のPC-9801向けに「一太郎」を発売する。ただし前年に仕上げた最初のワープロソフト「JSワード」の商標は契約上アスキーが持ち、自社の名では世に出せなかった。
決断 自力で再建できず、45億円と引き換えに議決権の4割を渡した。1997年10月の株
自力で再建できず、45億円と引き換えに議決権の4割を渡した。1997年10月の株式公開の直後から業績は崩れ、翌1998年3月期に創業以来初の赤字と無配へ転落する。同年6月、ソニーの出資を受けて再建に入り、1,700人の人員を1,000人強まで減らした。2000年代半ばに次の収益源として選んだXML実行環境「xfy」は、2008年3月期に売上高145億円に対して営業損失39億円・純損失47億円を出し、xfy事業自体の売上は1億7,000万円にとどまった。2009年4月、キーエンスへ45億円の第三者割当増資を割り当てたキーエンスの持株比率は43.96%となり、浮川和宣氏は13.43%の第2位株主へ下がる。同年6月に和宣氏が社長を退任し、10月には夫妻がそろって取締役を辞任して会社を離れた。
現況 収益の中心は、日本語のソフトではなく専用タブレットの通信教育に移っている。201
収益の中心は、日本語のソフトではなく専用タブレットの通信教育に移っている。2012年12月に専用タブレットの通信教育スマイルゼミを家庭へ投入した。端末は汎用品ではなく、9.7インチのIPS液晶を載せたAndroidベースの専用機を用意し、手のひらが触れても反応しない仕様で鉛筆の動作をそのまま持ち込めるようにした。パッケージソフトは新版を出した年に売上が集中するが、通信教育では会員が学年をまたいで毎月払い続ける。2022年3月期には売上高416億円の75%が継続課金となり、2026年3月期は売上高515億円・営業利益224億円・純利益150億円で営業利益率は43.7%に達した。連結従業員は302名にとどまる。売り切りをやめたことが、300人の会社に4割を超える営業利益率を生んだ。
競合 一国だけで通じる規格を差別化要因にしてきたが、その規格ごと相手に握られた。マイク
一国だけで通じる規格を差別化要因にしてきたが、その規格ごと相手に握られた。マイクロソフトは1995年10月の「ワード95」で仮名漢字変換を初めて自社開発へ切り替え、1996年7月には日本法人に一つの商品だけを担当する営業部隊を置いた。同年4月には1万2,000円のワードを投入し、4万円だった一太郎6.3との価格差を作る。ジャストシステムは7月に定価を2万円へ下げたが、次期版の一太郎7は4度延期されて9月13日にずれ込み、その間に基本ソフトと同じ売り場を持つ相手が標準の位置を占めた。現在の主力である通信教育も、日本の学習指導要領に合わせた国内向けの商品である。国内の制度に合わせた商品だけを作ってきたことが、世界の大手と規模で競わずに済む位置をジャストシステムに残した。
長期業績の推移 1993〜2026年
ジャストシステム:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2006年3月期2026年3月期

第1章 1979年〜 日本語処理への一点集中東芝系オフコン代理店から一太郎の標準獲得へ

1979年〜親を養うために選んだ独立と、漢字処理への的の絞り込み

漢字が進んでいるという理由で機種を選ぶ

浮川和宣氏は1949年5月に愛媛県で生まれ、1973年3月に愛媛大学工学部を卒業して船舶用電機メーカーの西芝電機に入社した。在職中は船舶用クレーンの制御を通じてコンピュータに触れ、この先で最も伸びる産業はコンピュータ関連だという確信を得ていた。6年間勤めたのち、いずれ自分と妻の双方の親を養う必要があり、それには勤め人では足りないと考えて退職した。1979年7月、妻の初子氏の実家の応接間を改造した事務所で、東芝系のオフィスコンピュータ販売代理店としてジャストシステムを興した。東芝の機種を扱うと決めたのも、漢字処理の機能が当時最も進んでいたからであった。1981年6月に株式会社として設立し、浮川氏が社長、初子氏が専務に就任した。

  • 日経ビジネス 1995年12月4日号
    • [1]浮川和宣氏は1949年5月生まれ、1973年3月に愛媛大学工学部を卒業し、4月に西芝電機へ入社した
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [2]西芝電機では船舶用クレーンの制御を通じてコンピュータに触れ、この先最も伸びる産業はコンピュータ関連だとの確信を持っていた
    • [3]浮川和宣氏は西芝電機に6年間勤めた後、親の扶養を理由に勤め人をやめて独立した
    • [4]1979年7月、初子夫人の実家の応接間を改造した事務所で東芝系オフコン販売代理店として創業した
    • [5]東芝のオフコンを扱うと決めたのは、漢字処理機能が当時最も進んでいたためであった
  • ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1981年6月に株式会社ジャストシステムを設立し、浮川和宣氏が社長、浮川初子氏が専務取締役に就任した
発注先へ半年通い詰めて仕様を取る

浮川初子氏は1951年3月に徳島県で生まれ、1969年4月に愛媛大学工学部電子工学科の開設1期生として入学した。コンピュータ関係なら新しい分野で、卒業後も女性がこなせる仕事がありそうだという見通しからの進学であった。1973年に卒業して外資系計算機メーカーの高千穂バロースに入り、オフィスコンピュータのソフトウェア開発に携わった。1975年1月に同級生だった和宣氏と結婚し、姫路市のコンピュータ販売会社でシステムエンジニアを務めたのち、1979年に徳島へ戻って創業に加わった。創業には、結婚前から基本ソフトの開発に携わってきた初子氏の力添えがあった。創業の年に手がけたのは、促成栽培用ビニールハウスのフィルム販売管理システムであった。初子氏はその後の半年間、発注元の吉成種苗へ手弁当で通い詰めて細かな要望を聞き取り、出来上がったソフトは機器の性能が上がっても7年間は手直しなしで使われた。

  • 日経ビジネス 1993年9月13日号
    • [7]浮川初子氏は1951年3月20日徳島県生まれ、1969年4月に愛媛大学工学部電子工学科の開設1期生として入学した
    • [8]浮川初子氏は、コンピュータ関係なら新しい分野で卒業後も女性がこなせる仕事がありそうだと考えて電子工学科へ進んだ
    • [9]浮川初子氏は1973年に卒業後、外資系コンピューターメーカーの高千穂バロースでオフコンのソフトウェア開発に従事した
    • [10]1975年1月に大学の同級生だった浮川和宣氏と結婚し、姫路市在住でコンピューター販売会社へ転職してシステムエンジニアを務め、1979年に徳島へ帰郷して創業した
    • [12]創業当初の1979年に作ったのは促成栽培用ビニールハウスに使うビニールフィルムの販売管理システムであった
    • [13]浮川初子氏は半年間にわたり発注元の吉成種苗へ手弁当で通い詰め、完成したソフトはハードの性能が向上しても7年間手直しなしで使われた
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [11]創業には、結婚前に高千穂バロースでミニコンの基本ソフト開発に携わっていた初子夫人の力添えがあった
受託をやめて不特定多数の相手へ移る

ジャストシステムは1980年代初め、酪農家の飼料配合管理のような業種を限ったオフィスコンピュータ向け受託ソフトを作っていたが浮川和宣氏はこれを多数の一般利用者に売る商品へ切り替えると決め、対象に日本語ワープロを選ぶ。漢字処理の市場が手つかずだったのは、コンピュータに携わる技術者なら英語を使えれば足り、日本語を扱う必要はないとする考えが当時強かったからである。漢字を処理できる16ビット機のパソコンが現れると、和宣氏は、パソコン事業の先行きを危ぶむ初子氏を口説いて開発に踏み出した。口説き方は、プログラムを書く初子氏の隣で漢字変換を実演し、技術者としての関心をかき立てるというものだった受託では顧客の数だけ仕様が増えるが、パッケージなら一つの仕様を複製して売れる。

  • 日経ビジネス 1993年9月13日号
    • [14]ジャストシステムはそれまで酪農家向けに飼料配合を管理するソフトなど、オフコンを使った特定業種向けの業務用ソフトを作っていた
    • [15]浮川和宣氏には不特定多数のユーザーを相手にするソフトに挑戦したいという考えがあり、それがワープロであった
    • [18]浮川和宣氏はプログラムを組む初子氏のわきでパソコンによる漢字変換をしてみせ、技術者としての関心を誘う形で説得した
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [16]当時は「コンピューターの専門家なら英語ができて当然、日本語など必要ない」という雰囲気が支配的であった
    • [17]漢字が扱える16ビットパソコンが登場すると、浮川和宣氏はパソコンにしり込みする初子夫人を説き伏せて日本語ワープロソフトの開発に乗り出した
参考文献[1]-[18]
  • 日経ビジネス 1995年12月4日号
    • [1]浮川和宣氏は1949年5月生まれ、1973年3月に愛媛大学工学部を卒業し、4月に西芝電機へ入社した
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [2]西芝電機では船舶用クレーンの制御を通じてコンピュータに触れ、この先最も伸びる産業はコンピュータ関連だとの確信を持っていた
    • [3]浮川和宣氏は西芝電機に6年間勤めた後、親の扶養を理由に勤め人をやめて独立した
    • [4]1979年7月、初子夫人の実家の応接間を改造した事務所で東芝系オフコン販売代理店として創業した
    • [5]東芝のオフコンを扱うと決めたのは、漢字処理機能が当時最も進んでいたためであった
    • [11]創業には、結婚前に高千穂バロースでミニコンの基本ソフト開発に携わっていた初子夫人の力添えがあった
    • [16]当時は「コンピューターの専門家なら英語ができて当然、日本語など必要ない」という雰囲気が支配的であった
    • [17]漢字が扱える16ビットパソコンが登場すると、浮川和宣氏はパソコンにしり込みする初子夫人を説き伏せて日本語ワープロソフトの開発に乗り出した
  • ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1981年6月に株式会社ジャストシステムを設立し、浮川和宣氏が社長、浮川初子氏が専務取締役に就任した
  • 日経ビジネス 1993年9月13日号
    • [7]浮川初子氏は1951年3月20日徳島県生まれ、1969年4月に愛媛大学工学部電子工学科の開設1期生として入学した
    • [8]浮川初子氏は、コンピュータ関係なら新しい分野で卒業後も女性がこなせる仕事がありそうだと考えて電子工学科へ進んだ
    • [9]浮川初子氏は1973年に卒業後、外資系コンピューターメーカーの高千穂バロースでオフコンのソフトウェア開発に従事した
    • [10]1975年1月に大学の同級生だった浮川和宣氏と結婚し、姫路市在住でコンピューター販売会社へ転職してシステムエンジニアを務め、1979年に徳島へ帰郷して創業した
    • [12]創業当初の1979年に作ったのは促成栽培用ビニールハウスに使うビニールフィルムの販売管理システムであった
    • [13]浮川初子氏は半年間にわたり発注元の吉成種苗へ手弁当で通い詰め、完成したソフトはハードの性能が向上しても7年間手直しなしで使われた
    • [14]ジャストシステムはそれまで酪農家向けに飼料配合を管理するソフトなど、オフコンを使った特定業種向けの業務用ソフトを作っていた
    • [15]浮川和宣氏には不特定多数のユーザーを相手にするソフトに挑戦したいという考えがあり、それがワープロであった
    • [18]浮川和宣氏はプログラムを組む初子氏のわきでパソコンによる漢字変換をしてみせ、技術者としての関心を誘う形で説得した

1982年〜商標を持たない会社が自社ブランドを取り戻すまで

例外処理の連鎖を根気で潰す

1982年10月、ジャストシステムは日本語処理システム"KTIS"を発表した。日本語は論理で割り切れない言語なので、かな漢字変換では例外の処理が次々に連なり、一つを片づけると別の例外が手つかずになる。浮川初子氏はこの連なりを一件ずつ根気よく解いていった。日本語は文化として丁寧に扱うべきものだというのが初子氏の考えだった。米国製の開発ツールに不具合があれば、納得がいくまで米国に電話をかけて問いただした。一太郎の前身となる"JSワード"はこうした作業の末に1983年にでき上がり、編集メニューをワンタッチで呼び出せる作りを備えていた。1985年春、日本アイ・ビー・エムのパーソナル・コンピュータ事業開発本部長が徳島の事務所を訪ねた。文節単位の変換さえ難しかった時代に長い文を一度に変換してみせられ、本部長は地方にいる天才には太刀打ちできないと感嘆している

  • ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1982年10月に日本語処理システム「KTIS」(現「ATOK」)を発表した
  • 日経ビジネス 1993年9月13日号
    • [20]日本語は論理的に構築されていないため例外処理の連続になり、一つの例外を解決すると他の例外が処理できなくなったが、浮川初子氏は日本語を文化として尊重するという信念のもとで根気強く克服した
    • [21]日本語は論理的に構築されていないため例外処理の連続になり、一つの例外を解決すると他の例外が処理できなくなったが、浮川初子氏は日本語を文化として尊重するという信念のもとで根気強く克服した
    • [22]浮川初子氏は使用していた米国製の開発用ソフトの問題点に気付くと、納得するまで米国へ電話で問い合わせた
    • [23]1983年に一太郎の前身である「JSワード」が生まれ、編集メニューをワンタッチで呼び出せる設計を備えていた
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [24]1985年春に同社を訪問した日本アイ・ビー・エムのパーソナル・コンピュータ事業開発本部長は、文節単位の変換がやっとの時期に長い入力文を一発で変換してみせられ、「街の天才にはかなわない」と舌を巻いた
商標を持たないまま最初の商品を出す

商標の"JSワード"は契約でアスキーの持ち物とされていた。そのため、社員が10人にも届かない1984年夏に苦心して仕上げた最初のワープロソフトは、雑誌などではアスキー製品として取り上げられた。1985年春の時点でもワープロの開発要員は4人しかおらず、中核のかな漢字変換は若手技術者1人の肩にかかっていた。製品の発表を心待ちにしていた社員の失望は深かった。創業以来の片腕で開発リーダーを務めた取締役でさえ、気持ちが荒れて仕事に身が入らなかったと後年語っている。初子氏は見かねて、月曜を半ば強引に休みにし、週末と合わせた2泊3日の高知への社員旅行を仕立てた。社内の空気が一変したのは、旅館で輪になって語り合ったのがきっかけだったという

  • 日経ビジネス 1993年9月13日号
    • [25]JSワードの商標は契約上アスキーが持っており、1984年夏、社員10人未満の時期に作った最初のワープロソフトはアスキーの商品として雑誌などに紹介された
    • [26]JSワードの商標は契約上アスキーが持っており、1984年夏、社員10人未満の時期に作った最初のワープロソフトはアスキーの商品として雑誌などに紹介された
    • [28]創業当時からの初子氏の片腕で一太郎の開発リーダーを務めた取締役は、商標の一件の当時を「反抗的になって仕事をやる気もしなかった」と振り返った
    • [29]商標問題で落胆した社員のため、浮川初子氏は月曜を休みと決めて週末2泊3日の高知旅行に出かけ、旅館では車座になって話し、旅行後に社内の気分が一新した
    • [30]商標問題で落胆した社員のため、浮川初子氏は月曜を休みと決めて週末2泊3日の高知旅行に出かけ、旅館では車座になって話し、旅行後に社内の気分が一新した
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [27]1985年春の時点でワープロ開発に従事していたのは4人で、かな漢字変換は若い技術者が1人で手がけていた
3カ月で初の自社ブランドを仕上げる

アスキーとの関係は、初子氏がかけた1本の電話から始まっている。マイクロソフトの基本ソフトを組み込んだ応用ソフトを商品として販売できるかどうかを問い合わせたところ、日曜に出社していた古川享氏が受けた。当時そこまで細かく気を配る利用者はおらず、古川氏は著作権への意識の高さに感心したという。二人は意気投合し、アスキーからワープロソフトを販売する話が進んだ。パソコン向けソフトの流通はまだ整っておらず、ソフトバンクの孫正義社長が若くしてその道を開いた時期にあたる。商標の一件で落胆した若手社員は、高知への旅行のあとIBMのパソコン向けに"JXワード"の開発へ入り、わずか3カ月で初の自社ブランド商品を仕上げた商標と引き換えに販路を得た関係は、ここで自社の名前を取り戻す側へ一度巻き戻された。

  • 日経ビジネス 1993年9月13日号
    • [31]浮川初子氏がマイクロソフトの基本ソフトを組み込んだ応用ソフトの販売可否を問い合わせた電話を、日曜に出社していたアスキーの古川享氏が受けた
    • [32]浮川初子氏がマイクロソフトの基本ソフトを組み込んだ応用ソフトの販売可否を問い合わせた電話を、日曜に出社していたアスキーの古川享氏が受けた
    • [33]古川享氏は浮川初子氏の著作権に対する高い意識に感動し、その後アスキーからワープロソフトを販売する話が進んだ
    • [34]古川享氏は浮川初子氏の著作権に対する高い意識に感動し、その後アスキーからワープロソフトを販売する話が進んだ
    • [36]高知旅行の後、若手社員はIBMのパソコン向けに「JXワード」の開発に乗り出し、わずか3カ月で初の自社ブランド商品を完成させた
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [35]ソフトバンクの孫正義社長は若くしてパソコンソフト流通に道を開き、一太郎の成功にも一役買った
参考文献[19]-[36]
  • ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1982年10月に日本語処理システム「KTIS」(現「ATOK」)を発表した
  • 日経ビジネス 1993年9月13日号
    • [20]日本語は論理的に構築されていないため例外処理の連続になり、一つの例外を解決すると他の例外が処理できなくなったが、浮川初子氏は日本語を文化として尊重するという信念のもとで根気強く克服した
    • [21]日本語は論理的に構築されていないため例外処理の連続になり、一つの例外を解決すると他の例外が処理できなくなったが、浮川初子氏は日本語を文化として尊重するという信念のもとで根気強く克服した
    • [22]浮川初子氏は使用していた米国製の開発用ソフトの問題点に気付くと、納得するまで米国へ電話で問い合わせた
    • [23]1983年に一太郎の前身である「JSワード」が生まれ、編集メニューをワンタッチで呼び出せる設計を備えていた
    • [25]JSワードの商標は契約上アスキーが持っており、1984年夏、社員10人未満の時期に作った最初のワープロソフトはアスキーの商品として雑誌などに紹介された
    • [26]JSワードの商標は契約上アスキーが持っており、1984年夏、社員10人未満の時期に作った最初のワープロソフトはアスキーの商品として雑誌などに紹介された
    • [28]創業当時からの初子氏の片腕で一太郎の開発リーダーを務めた取締役は、商標の一件の当時を「反抗的になって仕事をやる気もしなかった」と振り返った
    • [29]商標問題で落胆した社員のため、浮川初子氏は月曜を休みと決めて週末2泊3日の高知旅行に出かけ、旅館では車座になって話し、旅行後に社内の気分が一新した
    • [30]商標問題で落胆した社員のため、浮川初子氏は月曜を休みと決めて週末2泊3日の高知旅行に出かけ、旅館では車座になって話し、旅行後に社内の気分が一新した
    • [31]浮川初子氏がマイクロソフトの基本ソフトを組み込んだ応用ソフトの販売可否を問い合わせた電話を、日曜に出社していたアスキーの古川享氏が受けた
    • [32]浮川初子氏がマイクロソフトの基本ソフトを組み込んだ応用ソフトの販売可否を問い合わせた電話を、日曜に出社していたアスキーの古川享氏が受けた
    • [33]古川享氏は浮川初子氏の著作権に対する高い意識に感動し、その後アスキーからワープロソフトを販売する話が進んだ
    • [34]古川享氏は浮川初子氏の著作権に対する高い意識に感動し、その後アスキーからワープロソフトを販売する話が進んだ
    • [36]高知旅行の後、若手社員はIBMのパソコン向けに「JXワード」の開発に乗り出し、わずか3カ月で初の自社ブランド商品を完成させた
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [24]1985年春に同社を訪問した日本アイ・ビー・エムのパーソナル・コンピュータ事業開発本部長は、文節単位の変換がやっとの時期に長い入力文を一発で変換してみせられ、「街の天才にはかなわない」と舌を巻いた
    • [27]1985年春の時点でワープロ開発に従事していたのは4人で、かな漢字変換は若い技術者が1人で手がけていた
    • [35]ソフトバンクの孫正義社長は若くしてパソコンソフト流通に道を開き、一太郎の成功にも一役買った

1985年〜半値の値付けで取った事実上の業界標準

従来製品の半値で一太郎を出す

漢字の処理こそ、誰もがコンピュータを扱うようになる世の中で壁になると浮川和宣氏は早くから見定め、そこに的を絞っていた。その答えとして1985年8月、日本電気のPC-9801向けに世に出た日本語ワードプロセッサが一太郎で、一般の利用者まで行き渡るよう従来製品の半値に抑えた価格と先端的な機能とが相まって、売れ行きは大きかった。国内ワープロソフトの首位の座は、発売から途切れることなく一太郎が占めた。会社の規模も膨らみ、発売翌期にあたる1986年4月期に9億円だった売上高は1991年4月期の見込みで約97億円となり、28人だった社員は約500人を数えるまでになった

  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [37]浮川和宣氏は、日本人一人ひとりがコンピューターを手足のように扱う時代が来ると考え、その時にネックとなる漢字の扱いに早くから的を絞った
    • [39]1985年8月に日本電気のパソコンPC-9801向けに発売された一太郎は、先端を行く機能と、一般大衆に広めるため従来製品の半値に設定した価格が受けて大ヒットした
    • [40]1985年8月に日本電気のパソコンPC-9801向けに発売された一太郎は、先端を行く機能と、一般大衆に広めるため従来製品の半値に設定した価格が受けて大ヒットした
    • [42]一太郎発売の翌期にあたる1986年4月期に9億円だった売上高は1991年4月期見込みで約97億円となり、社員は28人から約500人に増えた
  • ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
    • [38]1985年8月に日本語ワードプロセッサ「一太郎」を発売した
  • 日経ビジネス 1998年3月9日号
    • [41]一太郎は1985年8月の発売以来、国内のワープロソフトでナンバーワンの製品として支持された
夫婦の議論で開発の速さを保つ

営業と製品の構想は和宣氏が、技術と開発は初子氏が受け持ち、両氏は一日中そばにいて激しく言い合った。この体制があったから、半年に一度機能を強める一太郎の開発は、求められる速さに追いつけた。和宣氏の説明は筋が通っているように聞こえても、その裏にあいまいな点が隠れていることがある。初子氏はそこを鋭く突き、疑問が晴れるまで議論を引かなかったソフトバンクの孫正義社長は、夫婦のあいだで議論を尽くし事実上24時間体制で開発しているのだから製品の質が高いのは当然だと評した。創業後まもないころから交友のあった徳島大学工学部の赤松則男教授も、構想の担い手と一流のソフト技術者が夫婦で組んだ組み合わせの妙に成功の理由を見ている。徳島市郊外に建てた本社には社長自らショールームを回って集めた机と椅子が並び、儲けた分は社員に還元するという経営姿勢が設備の形で表れていた

  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [43]一太郎の開発では半年ごとの機能強化など常にスピードが要求され、製品づくりの鍵を握る2人が四六時中行動を共にして白熱した意見交換を行ったことでそれが可能になった
    • [44]一太郎の開発では半年ごとの機能強化など常にスピードが要求され、製品づくりの鍵を握る2人が四六時中行動を共にして白熱した意見交換を行ったことでそれが可能になった
    • [45]浮川初子氏は和宣氏の理路整然とした言葉に潜むあいまいさを敏感に察知し、疑問を解消するまで徹底的に議論を交わした
    • [47]創立後間もないころから交友のある赤松則男・徳島大学工学部教授は、コンセプトメーカーである浮川社長と一流のソフト技術者である初子専務が組んだ夫婦の組み合わせの妙が成功の秘密だと分析した
    • [48]徳島市郊外の本社には社長自らショールームを回って集めた机や椅子が並び、儲けた分は社員に還元するという経営姿勢が表れていた
    • [49]徳島市郊外の本社には社長自らショールームを回って集めた机や椅子が並び、儲けた分は社員に還元するという経営姿勢が表れていた
  • 日経ビジネス 1993年9月13日号
    • [46]ソフトバンクの孫正義社長は、夫婦の間で議論を尽くし事実上24時間体制で開発しているジャストシステムの製品が高品質なのは当然だと評した
16万本を回収して信用を残す

一太郎の第4版への切り替えは1989年に開発が遅れ、出荷予定日が2度延びた浮川和宣氏は、発売の時期を読み違えた責任は全面的に自分にあると認めている。出荷後に欠陥が判明して交換したものの、交換品も動作が遅いと苦情を集め、回収は最終的に16万本に達した。この間はほかの開発がまったく進まず、報道もそれまでの称賛から批判へと調子を変えた。社員は300人近くに増えており、同氏は彼らとともにこの局面をしのいだ。回収の年にあたる1989年6月には東京支社を開設して営業網を広げ続け、騒ぎが収まったとき、その年の売上は前年を上回っていた。誠実な対処と改訂内容の先進性から「一太郎」の評価はむしろ上がり、1991年5月末までに累計約88万本が売れ、不正コピーを含めた利用者は200万人を超えるとみられて、事実上の業界標準と呼ばれた回収の規模そのものより、非を自分の判断へ帰して表に出した対応が、標準としての信用を固めた。

  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [50]一太郎を第4版へ移行する際に開発の遅れから出荷が2度延期され、出荷後に欠陥が判明して交換に応じたが交換品にも苦情が相次ぎ、最終的な回収本数は16万本に上り、その間ほかの開発は完全に止まり報道は一転して批判に回った
    • [51]一太郎を第4版へ移行する際に開発の遅れから出荷が2度延期され、出荷後に欠陥が判明して交換に応じたが交換品にも苦情が相次ぎ、最終的な回収本数は16万本に上り、その間ほかの開発は完全に止まり報道は一転して批判に回った
    • [52]一太郎を第4版へ移行する際に開発の遅れから出荷が2度延期され、出荷後に欠陥が判明して交換に応じたが交換品にも苦情が相次ぎ、最終的な回収本数は16万本に上り、その間ほかの開発は完全に止まり報道は一転して批判に回った
    • [53]浮川和宣氏は騒動を「発売時期を巡る私の判断ミス」として非を認め、当時300人近くになっていた社員とともに危機を耐え、その年も増収を確保した
    • [55]浮川和宣氏は騒動を「発売時期を巡る私の判断ミス」として非を認め、当時300人近くになっていた社員とともに危機を耐え、その年も増収を確保した
    • [56]1991年5月末までの一太郎の累計販売は約88万本で、不正コピーを含めれば国内の利用者は200万人以上と見られ、事実上の業界標準と呼ばれた
  • ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
    • [54]1989年6月に東京支社を開設した
参考文献[37]-[56]
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [37]浮川和宣氏は、日本人一人ひとりがコンピューターを手足のように扱う時代が来ると考え、その時にネックとなる漢字の扱いに早くから的を絞った
    • [39]1985年8月に日本電気のパソコンPC-9801向けに発売された一太郎は、先端を行く機能と、一般大衆に広めるため従来製品の半値に設定した価格が受けて大ヒットした
    • [40]1985年8月に日本電気のパソコンPC-9801向けに発売された一太郎は、先端を行く機能と、一般大衆に広めるため従来製品の半値に設定した価格が受けて大ヒットした
    • [42]一太郎発売の翌期にあたる1986年4月期に9億円だった売上高は1991年4月期見込みで約97億円となり、社員は28人から約500人に増えた
    • [43]一太郎の開発では半年ごとの機能強化など常にスピードが要求され、製品づくりの鍵を握る2人が四六時中行動を共にして白熱した意見交換を行ったことでそれが可能になった
    • [44]一太郎の開発では半年ごとの機能強化など常にスピードが要求され、製品づくりの鍵を握る2人が四六時中行動を共にして白熱した意見交換を行ったことでそれが可能になった
    • [45]浮川初子氏は和宣氏の理路整然とした言葉に潜むあいまいさを敏感に察知し、疑問を解消するまで徹底的に議論を交わした
    • [47]創立後間もないころから交友のある赤松則男・徳島大学工学部教授は、コンセプトメーカーである浮川社長と一流のソフト技術者である初子専務が組んだ夫婦の組み合わせの妙が成功の秘密だと分析した
    • [48]徳島市郊外の本社には社長自らショールームを回って集めた机や椅子が並び、儲けた分は社員に還元するという経営姿勢が表れていた
    • [49]徳島市郊外の本社には社長自らショールームを回って集めた机や椅子が並び、儲けた分は社員に還元するという経営姿勢が表れていた
    • [50]一太郎を第4版へ移行する際に開発の遅れから出荷が2度延期され、出荷後に欠陥が判明して交換に応じたが交換品にも苦情が相次ぎ、最終的な回収本数は16万本に上り、その間ほかの開発は完全に止まり報道は一転して批判に回った
    • [51]一太郎を第4版へ移行する際に開発の遅れから出荷が2度延期され、出荷後に欠陥が判明して交換に応じたが交換品にも苦情が相次ぎ、最終的な回収本数は16万本に上り、その間ほかの開発は完全に止まり報道は一転して批判に回った
    • [52]一太郎を第4版へ移行する際に開発の遅れから出荷が2度延期され、出荷後に欠陥が判明して交換に応じたが交換品にも苦情が相次ぎ、最終的な回収本数は16万本に上り、その間ほかの開発は完全に止まり報道は一転して批判に回った
    • [53]浮川和宣氏は騒動を「発売時期を巡る私の判断ミス」として非を認め、当時300人近くになっていた社員とともに危機を耐え、その年も増収を確保した
    • [55]浮川和宣氏は騒動を「発売時期を巡る私の判断ミス」として非を認め、当時300人近くになっていた社員とともに危機を耐え、その年も増収を確保した
    • [56]1991年5月末までの一太郎の累計販売は約88万本で、不正コピーを含めれば国内の利用者は200万人以上と見られ、事実上の業界標準と呼ばれた
  • ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
    • [38]1985年8月に日本語ワードプロセッサ「一太郎」を発売した
    • [54]1989年6月に東京支社を開設した
  • 日経ビジネス 1998年3月9日号
    • [41]一太郎は1985年8月の発売以来、国内のワープロソフトでナンバーワンの製品として支持された
  • 日経ビジネス 1993年9月13日号
    • [46]ソフトバンクの孫正義社長は、夫婦の間で議論を尽くし事実上24時間体制で開発しているジャストシステムの製品が高品質なのは当然だと評した

第2章 1992年〜 製品多角化による赤字転落マイクロソフトへの対抗が招いた一太郎オフィスの失速

1992年〜マイクロソフトの価格攻勢と一太郎の市場地位

狙い撃ちされても店頭の首位を守る

1993年、マイクロソフトは日本でワープロソフトのワードを買う際に他社のワープロソフトを店頭へ持参すれば半値以下に割り引くという販促を始めた。狙いが、1985年の発売以来150万本を売り国内シェア6割を占めるとされた一太郎にあることは、ソフト業界では常識とされた。それでも一太郎は店頭の販売順位で首位を保ったアスキーの西和彦社長は、その強さを親切さときめ細かさ、言い換えれば使い勝手の良さに見て、男性が開発を担う他社製品にはまねしにくいと評した。ジャストシステムはこの一太郎を軸に年商100億円を超え、社員600人の半数を開発が占める国内有数のパッケージソフト会社になっており、1994年度の売上高は195億円、経常利益は29億円に達した

  • 日経ビジネス 1993年9月13日号
    • [57]マイクロソフトはワード購入時に他社のワープロソフトを店頭へ持参すれば半値以下に割り引くキャンペーンを行い、業界ではこれが1985年の発売以来150万本を販売し国内シェア6割とされる一太郎の狙い撃ちであることが常識とされたが、一太郎は店頭の販売ランキングで常にトップを維持した
    • [58]マイクロソフトはワード購入時に他社のワープロソフトを店頭へ持参すれば半値以下に割り引くキャンペーンを行い、業界ではこれが1985年の発売以来150万本を販売し国内シェア6割とされる一太郎の狙い撃ちであることが常識とされたが、一太郎は店頭の販売ランキングで常にトップを維持した
    • [59]マイクロソフトはワード購入時に他社のワープロソフトを店頭へ持参すれば半値以下に割り引くキャンペーンを行い、業界ではこれが1985年の発売以来150万本を販売し国内シェア6割とされる一太郎の狙い撃ちであることが常識とされたが、一太郎は店頭の販売ランキングで常にトップを維持した
    • [60]アスキーの西和彦社長は、一太郎には女性的な親切さときめ細かさ、すなわち使い勝手の良さがあり、男性が開発を担当する他社製品にはまねできないと分析した
    • [61]ジャストシステムは一太郎を武器に年商100億円を超える国内有数のパッケージソフトメーカーに成長し、600人の社員の半数が開発部隊であった
  • 日経ビジネス 1995年12月4日号
    • [62]1994年度の売上高は195億円、経常利益は29億円であった
打倒一太郎の専門部隊に迎え撃たれる

1996年7月、マイクロソフトの日本法人はワードだけを専門に売る営業部隊、パーソナルシステム事業部ワードスワットグループを置いた。東京に6人、大阪と名古屋に各1人を配し、顧客の業種別に組んできた同法人の営業体制のなかで、一つの商品に特化した部隊は初めてであった。同時に、一太郎より弱いとされてきたかな漢字変換にも手を入れ、1995年10月のワード95から他社製に代えて自社開発の変換ソフトを載せ、次の版に関わる開発担当者を3倍から4倍へ増やした。ワード95は自社の基本ソフトであるウィンドウズ95に完全対応し、長いファイル名や複数ページの同時表示といった特徴をそのまま使えた。これに対し1995年8月発売の一太郎6.3はウィンドウズ95の特徴を生かし切れず、完全対応は次の版を待つことになった。基本ソフトを持つ側が応用ソフトでも先に動く構図を、浮川初子氏は世界市場に通用する商品が要るという言葉で受け止めていた

  • 日経ビジネス 1996年8月19日号
    • [63]1996年7月にマイクロソフト日本法人にワード専門の営業部隊「パーソナルシステム事業部ワードスワットグループ」が発足し、東京に6人、大阪と名古屋に各1人を配置した。同社で1商品に特化した営業部隊は初めてであった
    • [64]1996年7月にマイクロソフト日本法人にワード専門の営業部隊「パーソナルシステム事業部ワードスワットグループ」が発足し、東京に6人、大阪と名古屋に各1人を配置した。同社で1商品に特化した営業部隊は初めてであった
    • [65]マイクロソフトは1995年10月発売のワード95から初めて自社開発のかな漢字変換ソフトを搭載し、次期バージョンの変換ソフトの開発担当者を3〜4倍に増やした
    • [66]ワード95はウィンドウズ95に完全対応して長いファイル名や複数ページの同時表示が可能だったのに対し、1995年8月発売の一太郎6.3はウィンドウズ95の特徴を生かし切れず、完全対応は一太郎7を待つことになった
    • [67]ワード95はウィンドウズ95に完全対応して長いファイル名や複数ページの同時表示が可能だったのに対し、1995年8月発売の一太郎6.3はウィンドウズ95の特徴を生かし切れず、完全対応は一太郎7を待つことになった
  • 日経ビジネス 1993年9月13日号
    • [68]浮川初子氏は、ウィンドウズの普及で応用ソフトの競争が激しくなるなか、より大きく成長するには表計算やデータベースで世界市場に通用する商品を開発することが必要だと述べた
定価を半分に下げて地位を守る

一太郎の累計出荷は、1996年4月の時点で500万本を超えていた。その同じ4月にマイクロソフトがインターネット対応を強めたワードのセットへ1万2000円という希望小売価格を付けて売り出し、4万円の一太郎6.3に迫ると、販売本数ではワードが一太郎を抜いたとの観測も一時出た。7月に定価を2万円まで下げて応じたジャストシステムの一太郎は持ち直しつつあり、取締役販売推進部長の喜屋武博氏は、プレインストールや法人向けライセンスという売り先もあって小売店を通る分は全体の25%にすぎず、市場全体でならシェアの目減りは大きくないと説明した。1998年1月には、表計算ソフトのエクセルとワードをまとめて買うようパソコンメーカーに事実上迫った疑いで、公正取引委員会がマイクロソフトの日本法人へ立ち入り調査に入っている

  • 日経ビジネス 1996年8月19日号
    • [69]一太郎シリーズの累計出荷本数は1996年4月に500万本を超えた
    • [70]1996年4月にマイクロソフトがインターネット対応を強化したワードのセットを希望小売価格1万2000円で投入して4万円の一太郎6.3を追撃し、一時はワードの販売本数が一太郎を上回ったとの見方も出たため、ジャストシステムは同年7月に定価を2万円へ値下げし、一太郎は盛り返しつつあった
    • [71]1996年4月にマイクロソフトがインターネット対応を強化したワードのセットを希望小売価格1万2000円で投入して4万円の一太郎6.3を追撃し、一時はワードの販売本数が一太郎を上回ったとの見方も出たため、ジャストシステムは同年7月に定価を2万円へ値下げし、一太郎は盛り返しつつあった
    • [72]1996年4月にマイクロソフトがインターネット対応を強化したワードのセットを希望小売価格1万2000円で投入して4万円の一太郎6.3を追撃し、一時はワードの販売本数が一太郎を上回ったとの見方も出たため、ジャストシステムは同年7月に定価を2万円へ値下げし、一太郎は盛り返しつつあった
    • [73]喜屋武博・取締役販売推進部長は、一太郎の販売ルートにはパソコンへのバンドルや企業向けライセンス販売もあり小売りルートは全体の25%程度にすぎないため、市場全体で見ればシェアはそれほど落ちていないと述べた
  • 日経ビジネス 1998年3月9日号
    • [74]1998年1月13日、マイクロソフトの日本法人は、パソコンメーカーに表計算ソフトのエクセルとワープロソフトのワードの一括購入を強要した疑いで公正取引委員会の立ち入り調査を受けた
参考文献[57]-[74]
  • 日経ビジネス 1993年9月13日号
    • [57]マイクロソフトはワード購入時に他社のワープロソフトを店頭へ持参すれば半値以下に割り引くキャンペーンを行い、業界ではこれが1985年の発売以来150万本を販売し国内シェア6割とされる一太郎の狙い撃ちであることが常識とされたが、一太郎は店頭の販売ランキングで常にトップを維持した
    • [58]マイクロソフトはワード購入時に他社のワープロソフトを店頭へ持参すれば半値以下に割り引くキャンペーンを行い、業界ではこれが1985年の発売以来150万本を販売し国内シェア6割とされる一太郎の狙い撃ちであることが常識とされたが、一太郎は店頭の販売ランキングで常にトップを維持した
    • [59]マイクロソフトはワード購入時に他社のワープロソフトを店頭へ持参すれば半値以下に割り引くキャンペーンを行い、業界ではこれが1985年の発売以来150万本を販売し国内シェア6割とされる一太郎の狙い撃ちであることが常識とされたが、一太郎は店頭の販売ランキングで常にトップを維持した
    • [60]アスキーの西和彦社長は、一太郎には女性的な親切さときめ細かさ、すなわち使い勝手の良さがあり、男性が開発を担当する他社製品にはまねできないと分析した
    • [61]ジャストシステムは一太郎を武器に年商100億円を超える国内有数のパッケージソフトメーカーに成長し、600人の社員の半数が開発部隊であった
    • [68]浮川初子氏は、ウィンドウズの普及で応用ソフトの競争が激しくなるなか、より大きく成長するには表計算やデータベースで世界市場に通用する商品を開発することが必要だと述べた
  • 日経ビジネス 1995年12月4日号
    • [62]1994年度の売上高は195億円、経常利益は29億円であった
  • 日経ビジネス 1996年8月19日号
    • [63]1996年7月にマイクロソフト日本法人にワード専門の営業部隊「パーソナルシステム事業部ワードスワットグループ」が発足し、東京に6人、大阪と名古屋に各1人を配置した。同社で1商品に特化した営業部隊は初めてであった
    • [64]1996年7月にマイクロソフト日本法人にワード専門の営業部隊「パーソナルシステム事業部ワードスワットグループ」が発足し、東京に6人、大阪と名古屋に各1人を配置した。同社で1商品に特化した営業部隊は初めてであった
    • [65]マイクロソフトは1995年10月発売のワード95から初めて自社開発のかな漢字変換ソフトを搭載し、次期バージョンの変換ソフトの開発担当者を3〜4倍に増やした
    • [66]ワード95はウィンドウズ95に完全対応して長いファイル名や複数ページの同時表示が可能だったのに対し、1995年8月発売の一太郎6.3はウィンドウズ95の特徴を生かし切れず、完全対応は一太郎7を待つことになった
    • [67]ワード95はウィンドウズ95に完全対応して長いファイル名や複数ページの同時表示が可能だったのに対し、1995年8月発売の一太郎6.3はウィンドウズ95の特徴を生かし切れず、完全対応は一太郎7を待つことになった
    • [69]一太郎シリーズの累計出荷本数は1996年4月に500万本を超えた
    • [70]1996年4月にマイクロソフトがインターネット対応を強化したワードのセットを希望小売価格1万2000円で投入して4万円の一太郎6.3を追撃し、一時はワードの販売本数が一太郎を上回ったとの見方も出たため、ジャストシステムは同年7月に定価を2万円へ値下げし、一太郎は盛り返しつつあった
    • [71]1996年4月にマイクロソフトがインターネット対応を強化したワードのセットを希望小売価格1万2000円で投入して4万円の一太郎6.3を追撃し、一時はワードの販売本数が一太郎を上回ったとの見方も出たため、ジャストシステムは同年7月に定価を2万円へ値下げし、一太郎は盛り返しつつあった
    • [72]1996年4月にマイクロソフトがインターネット対応を強化したワードのセットを希望小売価格1万2000円で投入して4万円の一太郎6.3を追撃し、一時はワードの販売本数が一太郎を上回ったとの見方も出たため、ジャストシステムは同年7月に定価を2万円へ値下げし、一太郎は盛り返しつつあった
    • [73]喜屋武博・取締役販売推進部長は、一太郎の販売ルートにはパソコンへのバンドルや企業向けライセンス販売もあり小売りルートは全体の25%程度にすぎないため、市場全体で見ればシェアはそれほど落ちていないと述べた
  • 日経ビジネス 1998年3月9日号
    • [74]1998年1月13日、マイクロソフトの日本法人は、パソコンメーカーに表計算ソフトのエクセルとワープロソフトのワードの一括購入を強要した疑いで公正取引委員会の立ち入り調査を受けた

1995年〜ネットワークへの賭けと店頭公開による資金調達

待たずに自らネットワークを作る

浮川和宣氏は、ネットワーク社会ができあがるのを待つより、自分で網を張ってそれを商売にすると語り、ジャストシステムは1995年8月、パソコン通信サービスのジャストネットを始めた。接続の入口には一太郎6.3が置かれ、手元のパソコンから直接つなげる機能が組み込まれた。サービスは二層で組まれ、会員には専用の領域を用意してそこから外のサーバー群へ出られるようにし、会員以外にも一部を開いた。家庭への普及ではパソコンが10万円かかることが壁になるため、任天堂およびスクウェアとゲームソフトの合弁会社を設立し、ゲーム機からの接続も置いた。会員は1996年8月に10万人へ届こうとしており、同年度の目標は30万人であった

  • 日経ビジネス 1995年12月4日号
    • [75]1995年8月にパソコン通信「ジャストネット」を開始した。浮川和宣氏はネットワーク社会ができるのを待つのではなく自らネットワークを構築して事業化しようと思い立ったと述べた
    • [76]1995年8月にパソコン通信「ジャストネット」を開始した。浮川和宣氏はネットワーク社会ができるのを待つのではなく自らネットワークを構築して事業化しようと思い立ったと述べた
    • [77]一太郎6.3には手元のパソコンから簡単にインターネットへアクセスできる機能を組み込んだ
    • [78]ジャストネットは会員だけが集まる領域からインターネットへ出られる構成で、非会員もジャストネットのサービスの一部を利用できた
    • [79]パソコンは安くなっても10万円かかるため家庭への普及には限界があるとして、任天堂とスクウェアとともにゲームソフトの合弁会社を設立し、ゲーム機からネットワークへつなぐ道を用意した
  • 日経ビジネス 1996年8月19日号
    • [80]ジャストネットの会員は1996年8月時点で間もなく10万人に達し、同年度の目標は30万人であった
資金調達のために国内で公開する

1997年の株式公開に向けて、浮川和宣氏は狙いを資金調達に置いた。以前は公開をさほど意識していなかったが、米国での企業提携や買収まで含めて事業を広げるには内部留保だけでは足りないと判断した。公開の場としては米国の店頭市場も真剣に検討し、日本の店頭市場より利点が多いと感じていた。それでも国内を選んだのは、米国で株式を公開しながら日本で事業を続けて日本の公開制度の不備を論じるのは筋が通らないという理由からであった。1995年4月には米国子会社をシリコンバレーに設け、1996年4月にはピッツバーグのカーネギーメロン大学の近くへ先端技術研究所を開いて同大学の教授を所長に迎えた。株式は1997年10月に店頭登録銘柄として公開された

  • 日経ビジネス 1995年12月4日号
    • [81]浮川和宣氏は株式公開の狙いを資金調達に置き、以前は公開を意識していなかったが事業展開には株式市場からの資金調達が必要で内部留保だけでは限界があると述べた
    • [82]浮川和宣氏は株式公開の狙いを資金調達に置き、以前は公開を意識していなかったが事業展開には株式市場からの資金調達が必要で内部留保だけでは限界があると述べた
    • [83]浮川和宣氏はNASDAQへの公開も真剣に検討し日本の店頭市場より公開のメリットがあると感じたが、米国で公開しながら日本で事業を続けて日本の公開制度を批判するのは筋が通らないとして国内公開を選んだ
    • [84]浮川和宣氏はNASDAQへの公開も真剣に検討し日本の店頭市場より公開のメリットがあると感じたが、米国で公開しながら日本で事業を続けて日本の公開制度を批判するのは筋が通らないとして国内公開を選んだ
  • 日経ビジネス 1996年8月19日号
    • [85]1995年4月に米国シリコンバレーへ米国子会社を設立し、1996年4月にピッツバーグのカーネギーメロン大学近くに先端技術研究所を開設して同大学教授を所長に迎えた
  • ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
    • [86]1997年10月に店頭登録銘柄として株式を公開した
ソフトを部品に割って基本ソフトから離れる

マイクロソフトの基本ソフトの上で版を重ねていく限り、新しい基本ソフトへの対応の速さでワードに並ぶことはできないとの見通しから、基本ソフトに縛られない作りが目指された。その手段として採ったオブジェクト指向という新しい設計手法は、罫線描画や印刷などの働きを細かな部品に分け、要る部品だけを組み合わせて動かすもので、大規模なパッケージソフトで実現すれば世界で初めての例になるはずだったが、これを取り入れたことこそが一太郎7の開発を遅らせた最大の要因となった浮川和宣氏は後に、基本ソフトを開発する部隊と応用ソフトの部隊のあいだで情報が自由に行き来しており、他社より早く情報が流れていると述べている。発売時期は当初の1996年2月から4度延びて9月13日に落ち着き、この時点でも売上に占める一太郎の比率は7割であった

  • 日経ビジネス 1996年8月19日号
    • [87]マイクロソフトのOS上でバージョンアップを繰り返す限り新OSへの対応の早さでワードにかなわないため、一太郎の部品化は特定のOSに依存しない環境で威力を発揮するとされた
    • [88]一太郎7の開発が手間取った最大の理由はオブジェクト指向の採用で、罫線を引く・印刷するといった機能を持つ部品にソフトを分け、大規模なパッケージソフトで部品化すれば世界初の事例となるはずであった
    • [89]一太郎7の開発が手間取った最大の理由はオブジェクト指向の採用で、罫線を引く・印刷するといった機能を持つ部品にソフトを分け、大規模なパッケージソフトで部品化すれば世界初の事例となるはずであった
    • [90]一太郎7の開発が手間取った最大の理由はオブジェクト指向の採用で、罫線を引く・印刷するといった機能を持つ部品にソフトを分け、大規模なパッケージソフトで部品化すれば世界初の事例となるはずであった
    • [92]一太郎7の発売時期は当初の1996年2月から4度先延ばしされて同年9月13日となり、この時点で売上高に占める一太郎の比率は7割であった
  • 日経ビジネス 1998年3月9日号
    • [91]浮川和宣氏は、米国マイクロソフト本社の資料によれば基本ソフトの開発部隊と応用ソフトの部隊の間で情報の行き来は自由であり、他のソフト会社より早く情報が流れていると述べた
参考文献[75]-[92]
  • 日経ビジネス 1995年12月4日号
    • [75]1995年8月にパソコン通信「ジャストネット」を開始した。浮川和宣氏はネットワーク社会ができるのを待つのではなく自らネットワークを構築して事業化しようと思い立ったと述べた
    • [76]1995年8月にパソコン通信「ジャストネット」を開始した。浮川和宣氏はネットワーク社会ができるのを待つのではなく自らネットワークを構築して事業化しようと思い立ったと述べた
    • [77]一太郎6.3には手元のパソコンから簡単にインターネットへアクセスできる機能を組み込んだ
    • [78]ジャストネットは会員だけが集まる領域からインターネットへ出られる構成で、非会員もジャストネットのサービスの一部を利用できた
    • [79]パソコンは安くなっても10万円かかるため家庭への普及には限界があるとして、任天堂とスクウェアとともにゲームソフトの合弁会社を設立し、ゲーム機からネットワークへつなぐ道を用意した
    • [81]浮川和宣氏は株式公開の狙いを資金調達に置き、以前は公開を意識していなかったが事業展開には株式市場からの資金調達が必要で内部留保だけでは限界があると述べた
    • [82]浮川和宣氏は株式公開の狙いを資金調達に置き、以前は公開を意識していなかったが事業展開には株式市場からの資金調達が必要で内部留保だけでは限界があると述べた
    • [83]浮川和宣氏はNASDAQへの公開も真剣に検討し日本の店頭市場より公開のメリットがあると感じたが、米国で公開しながら日本で事業を続けて日本の公開制度を批判するのは筋が通らないとして国内公開を選んだ
    • [84]浮川和宣氏はNASDAQへの公開も真剣に検討し日本の店頭市場より公開のメリットがあると感じたが、米国で公開しながら日本で事業を続けて日本の公開制度を批判するのは筋が通らないとして国内公開を選んだ
  • 日経ビジネス 1996年8月19日号
    • [80]ジャストネットの会員は1996年8月時点で間もなく10万人に達し、同年度の目標は30万人であった
    • [85]1995年4月に米国シリコンバレーへ米国子会社を設立し、1996年4月にピッツバーグのカーネギーメロン大学近くに先端技術研究所を開設して同大学教授を所長に迎えた
    • [87]マイクロソフトのOS上でバージョンアップを繰り返す限り新OSへの対応の早さでワードにかなわないため、一太郎の部品化は特定のOSに依存しない環境で威力を発揮するとされた
    • [88]一太郎7の開発が手間取った最大の理由はオブジェクト指向の採用で、罫線を引く・印刷するといった機能を持つ部品にソフトを分け、大規模なパッケージソフトで部品化すれば世界初の事例となるはずであった
    • [89]一太郎7の開発が手間取った最大の理由はオブジェクト指向の採用で、罫線を引く・印刷するといった機能を持つ部品にソフトを分け、大規模なパッケージソフトで部品化すれば世界初の事例となるはずであった
    • [90]一太郎7の開発が手間取った最大の理由はオブジェクト指向の採用で、罫線を引く・印刷するといった機能を持つ部品にソフトを分け、大規模なパッケージソフトで部品化すれば世界初の事例となるはずであった
    • [92]一太郎7の発売時期は当初の1996年2月から4度先延ばしされて同年9月13日となり、この時点で売上高に占める一太郎の比率は7割であった
  • ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
    • [86]1997年10月に店頭登録銘柄として株式を公開した
  • 日経ビジネス 1998年3月9日号
    • [91]浮川和宣氏は、米国マイクロソフト本社の資料によれば基本ソフトの開発部隊と応用ソフトの部隊の間で情報の行き来は自由であり、他のソフト会社より早く情報が流れていると述べた

1997年〜店頭公開直後の初の赤字と損益分岐点の引き下げ

公開直前に製品群をそろえる

一太郎に頼るだけでは大きく伸びられないというのが会社の判断だった。そこで表計算ソフトの三四郎をてこ入れし、データベースソフトの五郎を新たに開発した。三四郎自体は1993年9月に発売済みの製品で、データベースソフトもこの時点で研究が6年に及んでいた。これらの新製品は、1997年10月に予定した店頭公開に先立って世に出された。1997年9月には一太郎に表計算ソフトなどを組み合わせた一太郎オフィスも発売し、1998年3月末までに出荷180万本、売上金額170億円を見込んだ。開発のために3年前から毎年100人単位で人を増やし、1997年10月の最も多い時期には派遣社員400人を含めて1700人に達していた浮川和宣氏は後に、これらの新製品のほとんどをマイクロソフトが品揃えしているからという理由で開発したと述べている

  • 日経ビジネス 1998年3月9日号
    • [93]一太郎だけでは大きな飛躍は見込めないとして表計算ソフト「三四郎」を機能強化しデータベースソフト「五郎」を新たに開発し、1997年9月に一太郎と表計算ソフトなどをセットにした「一太郎オフィス」を投入して1998年3月末までの出荷本数180万本・売上金額170億円を見込んだ
    • [95]店頭公開後に業績を大きく伸ばそうとして、パソコンソフトの新製品を公開直前にいくつも投入し、ほとんどがゼロからの立ち上げだったためかなりのコスト負担になった
    • [96]一太郎だけでは大きな飛躍は見込めないとして表計算ソフト「三四郎」を機能強化しデータベースソフト「五郎」を新たに開発し、1997年9月に一太郎と表計算ソフトなどをセットにした「一太郎オフィス」を投入して1998年3月末までの出荷本数180万本・売上金額170億円を見込んだ
    • [97]新しいソフトの開発のため3年前から毎年100人単位で増員し、1997年10月のピーク時には派遣社員400人を含め1700人に達した
    • [98]浮川和宣氏は、業績拡大を狙って開発した新製品のほとんどはマイクロソフトがそろえているからという理由で開発したと述べた
  • 日経ビジネス 1993年9月13日号
    • [94]表計算ソフト「三四郎」は1993年9月に発売され、新たな大型商品として期待されたデータベースソフトは同時点で6年間の研究を続けていた
公開から5カ月で初の赤字へ落ちる

1998年3月期、ジャストシステムは1979年7月の創業以来初めての赤字に転落した。一太郎オフィスの出荷は80万本、売上金額は74億円と、見込みの半分に満たなかった。前年から続くアジアの通貨危機に、1997年11月の三洋証券の倒産、北海道拓殖銀行の破綻、山一証券の自主廃業が重なり、消費は冷え込んだ。売上高は公開目論見書で396億円、1997年11月の中間決算の段階でも364億5200万円と見込んでいたが、実際には240億800万円にとどまった。最終損益も30億3300万円の黒字予想が45億2000万円の赤字に変わった浮川和宣氏は自分の力が足りなかったと認める一方、消費がここまで極端に落ち込まなければ赤字にはならなかったはずだとも語った。一太郎頼みの収益構造では、その不振がそのまま業績の悪化につながるという点は、2年前から指摘されていた

  • 日経ビジネス 1998年3月9日号
    • [99]1998年3月期にジャストシステムは1979年7月の創業以来初の赤字に転落し、売上高は公開目論見書の396億円・1997年11月19日の中間決算発表時の見通し364億5200万円から240億800万円へ、最終損益は30億3300万円の黒字から45億2000万円の赤字となる見込みとなった
    • [100]一太郎オフィスの1998年3月末までの出荷本数は80万本、売上金額は74億円に終わる見込みとなった
    • [101]1997年のアジア通貨危機に続き同年11月に三洋証券の倒産、北海道拓殖銀行の破綻、山一証券の自主廃業が相次いで消費が急速に冷え込み、浮川和宣氏は力不足を認めつつ極端な消費の低迷がなければ赤字転落はなかったと述べた
    • [102]1998年3月期にジャストシステムは1979年7月の創業以来初の赤字に転落し、売上高は公開目論見書の396億円・1997年11月19日の中間決算発表時の見通し364億5200万円から240億800万円へ、最終損益は30億3300万円の黒字から45億2000万円の赤字となる見込みとなった
    • [103]1997年のアジア通貨危機に続き同年11月に三洋証券の倒産、北海道拓殖銀行の破綻、山一証券の自主廃業が相次いで消費が急速に冷え込み、浮川和宣氏は力不足を認めつつ極端な消費の低迷がなければ赤字転落はなかったと述べた
  • 日経ビジネス 1996年8月19日号
    • [104]1996年時点で売上に占める一太郎の比率は7割で、インターネット事業が収益源として確立していないなか一太郎が不振に陥れば収益悪化に直結すると指摘されていた
損益分岐点を210億円まで下げる

立て直しの骨格は、費用を回収できる売上高を下げることに置かれた。事業の絞り込みはすでに前年から始まっており、1996年には自社製グループウェアの提供をやめてイントラネットに経営資源を振り向けていた。新体制の計画では、研究開発費45億円と宣伝広告費など30億円、合わせて75億円をすぐに削り、損益分岐点の売上高を300億円から210億円程度に引き下げる。人員は派遣を含めた1700人体制から1000人体制へ戻す目標を置いた。正社員については定年退職などの自然減で百数十人を減らし、1999年春の新卒採用も見合わせる。性能の数を競った3年間に一太郎への開発投資が細っていたことを浮川和宣氏は認め、立て直しの第一条件はマイクロソフトと異なる土俵に戦いの場を移すことだと述べた。会社は身売りのうわさを否定し、地元のメーンバンクである百十四銀行の支えを受けて、1999年3月期の黒字化を目標とした多角化で広げた面積を畳み、最初に持っていた一点へ戻る作業であった。

  • 日経ビジネス 1998年3月9日号
    • [105]損益分岐点となる売上高を現在の300億円から210億円程度へ下げ、研究開発費で45億円、宣伝広告費とその他諸経費で30億円、合わせて75億円をすみやかに削減するとした
    • [107]損益分岐点となる売上高を現在の300億円から210億円程度へ下げ、研究開発費で45億円、宣伝広告費とその他諸経費で30億円、合わせて75億円をすみやかに削減するとした
    • [108]派遣社員を合わせた人員数を1000人を目標に削減し、正社員は定年退職など自然減を中心に百数十人を減らし、1999年春採用の新卒採用は見合わせるとした
    • [109]浮川和宣氏は再建の第1条件をマイクロソフトとは違う土俵で戦えるようにすることとし、ここ3年は新製品の開発に重点を置いたため一太郎への開発投資が若干低下したと認めた
    • [110]浮川和宣氏は身売りの噂を否定し、四国に本店を置くメーンバンクの百十四銀行から資金手当ての面で応援を受けているとして1999年3月期の黒字転換を掲げた
  • 日経ビジネス 1996年8月19日号
    • [106]ジャストシステムは1991年に独自のグループウェアを発売していたが、今後はイントラネットが主流になると割り切ってグループウェアを捨て、イントラネットへ経営資源を集中した
参考文献[93]-[110]
  • 日経ビジネス 1998年3月9日号
    • [93]一太郎だけでは大きな飛躍は見込めないとして表計算ソフト「三四郎」を機能強化しデータベースソフト「五郎」を新たに開発し、1997年9月に一太郎と表計算ソフトなどをセットにした「一太郎オフィス」を投入して1998年3月末までの出荷本数180万本・売上金額170億円を見込んだ
    • [95]店頭公開後に業績を大きく伸ばそうとして、パソコンソフトの新製品を公開直前にいくつも投入し、ほとんどがゼロからの立ち上げだったためかなりのコスト負担になった
    • [96]一太郎だけでは大きな飛躍は見込めないとして表計算ソフト「三四郎」を機能強化しデータベースソフト「五郎」を新たに開発し、1997年9月に一太郎と表計算ソフトなどをセットにした「一太郎オフィス」を投入して1998年3月末までの出荷本数180万本・売上金額170億円を見込んだ
    • [97]新しいソフトの開発のため3年前から毎年100人単位で増員し、1997年10月のピーク時には派遣社員400人を含め1700人に達した
    • [98]浮川和宣氏は、業績拡大を狙って開発した新製品のほとんどはマイクロソフトがそろえているからという理由で開発したと述べた
    • [99]1998年3月期にジャストシステムは1979年7月の創業以来初の赤字に転落し、売上高は公開目論見書の396億円・1997年11月19日の中間決算発表時の見通し364億5200万円から240億800万円へ、最終損益は30億3300万円の黒字から45億2000万円の赤字となる見込みとなった
    • [100]一太郎オフィスの1998年3月末までの出荷本数は80万本、売上金額は74億円に終わる見込みとなった
    • [101]1997年のアジア通貨危機に続き同年11月に三洋証券の倒産、北海道拓殖銀行の破綻、山一証券の自主廃業が相次いで消費が急速に冷え込み、浮川和宣氏は力不足を認めつつ極端な消費の低迷がなければ赤字転落はなかったと述べた
    • [102]1998年3月期にジャストシステムは1979年7月の創業以来初の赤字に転落し、売上高は公開目論見書の396億円・1997年11月19日の中間決算発表時の見通し364億5200万円から240億800万円へ、最終損益は30億3300万円の黒字から45億2000万円の赤字となる見込みとなった
    • [103]1997年のアジア通貨危機に続き同年11月に三洋証券の倒産、北海道拓殖銀行の破綻、山一証券の自主廃業が相次いで消費が急速に冷え込み、浮川和宣氏は力不足を認めつつ極端な消費の低迷がなければ赤字転落はなかったと述べた
    • [105]損益分岐点となる売上高を現在の300億円から210億円程度へ下げ、研究開発費で45億円、宣伝広告費とその他諸経費で30億円、合わせて75億円をすみやかに削減するとした
    • [107]損益分岐点となる売上高を現在の300億円から210億円程度へ下げ、研究開発費で45億円、宣伝広告費とその他諸経費で30億円、合わせて75億円をすみやかに削減するとした
    • [108]派遣社員を合わせた人員数を1000人を目標に削減し、正社員は定年退職など自然減を中心に百数十人を減らし、1999年春採用の新卒採用は見合わせるとした
    • [109]浮川和宣氏は再建の第1条件をマイクロソフトとは違う土俵で戦えるようにすることとし、ここ3年は新製品の開発に重点を置いたため一太郎への開発投資が若干低下したと認めた
    • [110]浮川和宣氏は身売りの噂を否定し、四国に本店を置くメーンバンクの百十四銀行から資金手当ての面で応援を受けているとして1999年3月期の黒字転換を掲げた
  • 日経ビジネス 1993年9月13日号
    • [94]表計算ソフト「三四郎」は1993年9月に発売され、新たな大型商品として期待されたデータベースソフトは同時点で6年間の研究を続けていた
  • 日経ビジネス 1996年8月19日号
    • [104]1996年時点で売上に占める一太郎の比率は7割で、インターネット事業が収益源として確立していないなか一太郎が不振に陥れば収益悪化に直結すると指摘されていた
    • [106]ジャストシステムは1991年に独自のグループウェアを発売していたが、今後はイントラネットが主流になると割り切ってグループウェアを捨て、イントラネットへ経営資源を集中した

第3章 2000-2008 (気が向いたら執筆します!) xfyへの先行投資と連続赤字

第4章 2009-2026 (気が向いたら執筆します!) キーエンスとの資本提携と通信教育「スマイルゼミ」への転換

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

歴史年表 1979〜2025年

ジャストシステムの沿革1979〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1979〜1991年日本語処理への一点集中ジャストシステムを創業
浮川和宣ジャストシステムを設立
浮川和宣日本語処理システム「KTIS」を発表
浮川和宣日本語ワードプロセッサ「一太郎」を発売★★
浮川和宣大阪営業所を開設
浮川和宣東京支社を開設
1992〜1999年製品多角化による赤字転落浮川和宣店頭登録銘柄として株式を公開
浮川和宣文書検索・要約システム「ConceptBase Search」を発売
浮川和宣「一太郎オフィス8」の失速による初の赤字と、人員削減を伴う外部資本の受け入れ

1997年10月に店頭公開したジャストシステムが、主力に据えた新製品"一太郎オフィス8"の販売不振によって1998年3月期に創業以来初の赤字へ転落し、人員と経費の圧縮、ソニーからの第三者割当増資による資本増強で立て直しにかかった経営判断である。

詳細を読む
★★★
浮川和宣人員削減とソニーへの第三者割当増資で再建に着手★★
浮川和宣小学生用日本語ワープロソフト「一太郎スマイル」を発売
2000〜2008年xfyへの先行投資と連続赤字浮川和宣オンラインショッピングサイト「Just MyShop」をオープン
浮川和宣オンラインストレージ「InternetDisk ASP」を提供開始
浮川和宣Blast Radius社の「XMetaL」事業を譲受しJUSTSYSTEMS CANADA, INC.に事業移管
2009〜2026年キーエンスとの資本提携と通信教育「スマイルゼミ」への転換浮川和宣45億円の払い込みと引き換えに議決権の4割を明け渡す資本提携

2009年4月3日、ジャストシステムがキーエンスとの資本・業務提携を発表し、キーエンスを割当先とする第三者割当増資で約45億円を調達した経営判断である。増資後のキーエンスの持株比率は43.96%となり、創業者の浮川和宣氏は13.43%の第2位株主に下がった。

詳細を読む
★★★
福良伴昭IBM Corporationから「ホームページ・ビルダー」のプログラム著作権と商標権を取得
福良伴昭ファイルサーバー統合管理システム「GDMS」を発売
福良伴昭ノンプログラミングWebデータベース「UnitBase」を発売
福良伴昭売り切りのソフト販売から家庭向け通信教育への事業の組み替え

2012年11月20日にジャストシステムが小学生向けのタブレット通信教育"スマイルゼミ"を発表し、同年12月17日に開講した経営判断である。学校向け学習ソフトで13年かけて蓄えた知見を家庭向けに転用し、パッケージソフトの売り切りから月額課金へ収益の受け取り方を移した。

詳細を読む
★★★
福良伴昭中学生向け通信教育「SMILE ZEMI」を提供開始
関灘恭太郎元従業員の無断取引を受けて4期分の有価証券報告書を訂正し、内部統制を立て直した選択

2018年度、法人向け事業の一部製品をめぐり、元従業員が会社の認めていない契約条件に基づく取引を無断で行っていた事実が判明した。これにより第38期第1四半期の四半期報告書と決算短信の提出に遅延が生じ、過年度の有価証券報告書等の訂正に至った。会社と利害関係を有しない外部の専門家から構成される特別調査委員会を設置し、その調査費用と過年度決算訂正のための費用256,291千円を特別損失に計上している。 2018年9月14日、第34期から第37期までの有価証券報告書と内部統制報告書、第35期第2四半期から第37期第3四半期までの四半期報告書8本の訂正報告書を、遅れていた第38期第1四半期報告書とともに関東財務局長へ提出した。

詳細を読む
関灘恭太郎米国向けHome Learning Service「Smile Zemi」(Grade K)を提供開始
出典・参考 6件
出典・参考
  • ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
  • 日経ビジネス 1993年9月13日号
  • 日経ビジネス 1995年12月4日号
  • 日経ビジネス 1996年8月19日号
  • 日経ビジネス 1998年3月9日号

免責事項およびポリシー