1979年〜 徳島から生まれた国産日本語処理ソフト企業
- 1979年 ジャストシステムを創業
- 1981年 ジャストシステムを設立
- 1982年 日本語処理システム「KTIS」を発表
- 1985年 日本語ワードプロセッサ「一太郎」を発売
- 1988年 大阪営業所を開設
- 1989年 東京支社を開設
徳島発の夫妻創業企業が握った日本語入力の標準
1979年7月、徳島県徳島市で浮川和宣・初子夫妻はジャストシステムを創業した。6年間勤めた船舶用電機メーカー・西芝電機を退社した浮川和宣氏は「サラリーマンでは家族を養えない」と考え、初子夫人の実家の応接間を改造したオフィスで、東芝系オフィスコンピューター(オフコン)の販売代理店として事業を始めた。東芝のオフコンを選んだのは、その漢字処理機能が当時最も進んでいたためで、いずれ日本人一人ひとりがコンピューターを扱う時代には日本語、特に漢字の扱いが鍵になるという読みが方針の核にあった。東京・大阪に集まるソフトウェア業界のなかで、地方都市の夫婦が立ち上げた会社という出発点は珍しかった。1981年6月には株式会社ジャストシステムを設立して個人事業から法人へ移し、ソフトウェア開発と販売を本業に据えた。 [1][2][3][4][5][6]
- ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
- [1]1979年7月 徳島県徳島市でジャストシステムを創業
- [2]創業者は浮川和宣・初子夫妻
- [3]創業地は徳島県徳島市
- [4]1981年6月 株式会社ジャストシステムを設立(個人事業から法人化)
- 日経ビジネス1991年7月15日号「21世紀への100人 浮川和宣氏」
- [5]浮川和宣氏は西芝電機退社後、初子夫人の実家を改造したオフィスで東芝系オフコン販売代理店として創業した
- [6]東芝のオフコンを選んだ理由は漢字処理機能が当時最も進んでいたため
創業当初は酪農家向け飼料配合管理ソフトなど特定業種向けの業務用ソフトが主力だった。1979年に手がけたビニールハウス用フィルムの販売管理システムは、発注元・吉田種苗の細かな要望を技術担当の初子氏が手弁当で聞き入れて作り込み、その後7年間手直し不要なほどの完成度で地元徳島での技術評判を築いた。1983年には一太郎の前身「JSワード」を開発したが、商標を契約上握っていたのはアスキーで、自社ブランドとして世に出せなかったことに社員は落胆した。開発を通じ、アスキーでマイクロソフト部門を統括していた古川享氏(後のマイクロソフト会長)が初子氏の著作権意識の高さに感心し、アスキーからワープロソフトを販売する話が進んだ。1984年夏、社員10人に満たない中で仕上げた最初のワープロソフトがアスキーの商品として世に出た後、IBMパソコン向け「JXワード」の開発でわずか3カ月で自社ブランド商品を完成させた。 [7][8][9][10][11]
- 日経ビジネス1993年9月13日号「挑む 浮川初子氏」
- [7]創業当初は酪農家向け飼料配合管理ソフト等、特定業種向けの業務用ソフトが主力だった
- [8]1979年のビニールハウス用フィルム販売管理システムは吉田種苗の発注で初子が手弁当で開発し、7年間手直し不要なほど完成度が高かった
- [9]1983年開発の一太郎前身「JSワード」の商標はアスキーが保有していた
- [10]古川享氏(後のマイクロソフト会長)が初子氏の著作権意識に感心しアスキー経由の販売が進んだ
- [11]1984年夏に最初のワープロソフトを完成、後にIBM向け「JXワード」で自社ブランド商品を完成させた
1982年10月、日本語処理システム「KTIS」を発表した。これが後の日本語入力「ATOK」の原型にあたり、ローマ字やかなの打鍵を漢字交じり文へ変換する仕組みを実用水準で提供した。ATOKは「Advanced Technology Of Kana-kanji transfer」を語源とし、日本語かな漢字変換の精度を競う分野で同社の名を知らしめた。日本語入力という、欧文ワープロにはない日本固有の難題を製品化した点が、徳島の小さな開発会社を技術面で際立たせた。1985年8月に発売する日本語ワードプロセッサ「一太郎」の中核も、このATOKによる変換技術が担っており、KTISの発表は同社の主力製品群を貫く技術基盤の確立を意味した。 [12][13][14]
- ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
- [12]1982年10月 日本語処理システム「KTIS」を発表(後のATOKの原型)
- [13]KTISは後の日本語入力ATOKの原型にあたる
- [14]1985年8月に日本語ワードプロセッサ「一太郎」を発売
- ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
- [1]1979年7月 徳島県徳島市でジャストシステムを創業
- [2]創業者は浮川和宣・初子夫妻
- [3]創業地は徳島県徳島市
- [4]1981年6月 株式会社ジャストシステムを設立(個人事業から法人化)
- [12]1982年10月 日本語処理システム「KTIS」を発表(後のATOKの原型)
- [13]KTISは後の日本語入力ATOKの原型にあたる
- [14]1985年8月に日本語ワードプロセッサ「一太郎」を発売
- 日経ビジネス1991年7月15日号「21世紀への100人 浮川和宣氏」
- [5]浮川和宣氏は西芝電機退社後、初子夫人の実家を改造したオフィスで東芝系オフコン販売代理店として創業した
- [6]東芝のオフコンを選んだ理由は漢字処理機能が当時最も進んでいたため
- 日経ビジネス1993年9月13日号「挑む 浮川初子氏」
- [7]創業当初は酪農家向け飼料配合管理ソフト等、特定業種向けの業務用ソフトが主力だった
- [8]1979年のビニールハウス用フィルム販売管理システムは吉田種苗の発注で初子が手弁当で開発し、7年間手直し不要なほど完成度が高かった
- [9]1983年開発の一太郎前身「JSワード」の商標はアスキーが保有していた
- [10]古川享氏(後のマイクロソフト会長)が初子氏の著作権意識に感心しアスキー経由の販売が進んだ
- [11]1984年夏に最初のワープロソフトを完成、後にIBM向け「JXワード」で自社ブランド商品を完成させた
「一太郎」首位獲得と直販網が支えた大口顧客基盤
1985年8月、日本語ワードプロセッサ「一太郎」を発売した。かな漢字変換のATOKを組み込んだ「一太郎」は、操作性と変換精度の両面で支持を集め、日本のパソコン向け日本語ワープロ市場で首位のシェアを取った。官公庁・教育機関・一般企業へ広く普及し、Microsoft Officeが日本市場へ本格参入する1990年代後半まで、国産ワープロソフトの代表として使われ続けた。当時のパソコンは英語圏の製品が前提で、日本語を扱うには専用の変換技術と作画機能が要った。「一太郎」はその要求に応える国産品として支持され、徳島本社のソフトウェア会社が、全国の事務現場で日々使われる製品を生んだ点に、この時期の同社の到達点があった。 [15][16]
- ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
- [15]1985年8月 日本語ワードプロセッサ「一太郎」を発売
- [16]「一太郎」はかな漢字変換のATOKを組み込んでいる
一太郎発売の年に9億円だった年間売上高(86年4月期)は、5年後には97億円(91年4月期見込み)へ急拡大し、社員も28人から約500人に膨らんだ。もっとも急成長は順風ばかりではなかった。一太郎を現行の第4版へ移行する際、開発の遅れから出荷時期が2度延期されたうえ、ようやく出荷にこぎ着けた製品に動作不良の欠陥が見つかり、最終的に16万本の回収に追い込まれる騒動が起きた。浮川和宣氏はこれを「発売時期を巡る私の判断ミス」と全面的に認め、当時300人近くになっていた社員とともに危機を乗り切った。その年も同社は難なく増収を確保し、誠実な対応と改訂内容の先進性がかえって一太郎への評価と人気を高める結果となった。 [17][18][19]
- 日経ビジネス1991年7月15日号「21世紀への100人 浮川和宣氏」
- [17]一太郎発売の年9億円(86年4月期)だった売上高が5年で約97億円(91年4月期見込み)に急拡大、社員は28人から約500人に増えた
- [18]一太郎第4版移行時の欠陥で16万本の回収騒動が発生した
- [19]浮川和宣氏は欠陥騒動を「発売時期を巡る私の判断ミス」と認め、社員とともに危機を乗り切った
製品の普及と並行して販売網も広げた。1988年5月に大阪営業所、1989年6月に東京支社、1991年6月に名古屋営業所を順に開設し、三大都市圏での営業拠点を整えた。開発の中核を徳島に置いたまま、首都圏・関西・中部の販売を自社の拠点で直接押さえる体制を組み、地方発の創業企業から全国規模で製品を届ける会社へと事業の幅を広げた。販売網の整備は、官公庁や教育機関といった大口顧客への営業を進めるうえでの足場となった。「一太郎」シリーズが築いたこの顧客基盤は、後年スマイルゼミへ事業を転換するまで、同社が日本のIT業界で存在感を保つ土台となった。 [20][21][22]
- ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
- [20]1988年5月 大阪営業所を開設
- [21]1989年6月 東京支社を開設
- [22]1991年6月 名古屋営業所を開設
- ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
- [15]1985年8月 日本語ワードプロセッサ「一太郎」を発売
- [16]「一太郎」はかな漢字変換のATOKを組み込んでいる
- [20]1988年5月 大阪営業所を開設
- [21]1989年6月 東京支社を開設
- [22]1991年6月 名古屋営業所を開設
- 日経ビジネス1991年7月15日号「21世紀への100人 浮川和宣氏」
- [17]一太郎発売の年9億円(86年4月期)だった売上高が5年で約97億円(91年4月期見込み)に急拡大、社員は28人から約500人に増えた
- [18]一太郎第4版移行時の欠陥で16万本の回収騒動が発生した
- [19]浮川和宣氏は欠陥騒動を「発売時期を巡る私の判断ミス」と認め、社員とともに危機を乗り切った