1980年〜 公認会計士が「自分の手で作りたい」と興した会社と、最初の資金難
- 1980年 公認会計士業からの転身と会計ソフト事業会社の設立、沖電気から得た1億円の製品開発への全額投入 帳簿を検める側にとどまるか、作る側へ回るか——製品の完成と同時に運転資金が尽きた創業期
- 1981年 オービック・ビジネス・コンサルタントへの商号変更と本店の新宿区移転
- 1983年 業務ソフト「TOPシリーズ」の発売
- 1986年 東京支店・大阪営業所の開設
「企業として会計システムを」という誘いから始まった設立
株式会社オービックビジネスコンサルタントは、1980年12月に東京都千代田区で設立[1]された。設立時の商号は株式会社ビック・システム・コンサルタント・グループ[2]といい、コンピュータの販売とプログラムの製作、システム設計を事業目的に据えた[3]。創業者の和田成史氏は1952年8月に東京都で生まれ[4]、1975年3月に立教大学経済学部を卒業[5]したのち、1976年に大原簿記学校の会計士科に勤めた[6]。23歳で公認会計士の二次試験に合格[7]し、1979年に同校を退職、1980年3月に公認会計士として登録した[8]。会社を興したのは、その9か月後である。 [9]
- 有価証券報告書
- [1]1980年12月に東京都千代田区で設立された
- [2]設立時の商号は株式会社ビック・システム・コンサルタント・グループだった
- [3]設立時の事業目的はコンピュータの販売業務、コンピュータプログラムの製作及びシステム設計業務だった
- [9]公認会計士登録の9か月後にあたる1980年12月に会社を設立した
- 週刊東洋経済 2000年2月5日号
- [4]創業者の和田成史は1952年8月30日に東京都で生まれた
- [5]和田成史は1975年3月に立教大学経済学部を卒業した
- [6]和田成史は1976年に大原簿記学校の会計士科に勤めた
- [7]和田成史は23歳で公認会計士の二次試験に合格した
- 日経ベンチャー 2001年9月号
- [8]和田成史は1979年に大原簿記学校を退職し、1980年3月に公認会計士として登録した
設立の話を持ちかけたのは、和田氏ではなく相手の側だった。和田氏は公認会計士としてオービックに出入りし、そこでオービック社長の野田順弘氏と知り合った[11]。和田氏が26歳、野田氏が40歳ほどの頃[12]、年末か年始の挨拶に訪れた席で、会計士としてではなく企業として会計システムの仕事をやってみないか、自分も出資すると持ちかけられた[13]。予想もしなかった話だったと和田氏は後に振り返ったが、その場で二つ返事で引き受けた[14]。出資は設立時の一度きりで、和田氏は後年、オービックから経営に口を出されたことも金融支援を受けたこともないと語った[15]。野田氏はその後、オービックの社長を務めながらオービックビジネスコンサルタントの会長を兼務した[16]。 [10]
- 日経ベンチャー 2001年9月号
- [10]和田成史は公認会計士としてオービックに出入りしていた
- [11]出入り先でオービック社長の野田順弘と知り合った
- [12]誘いを受けたのは和田成史が26歳、野田順弘が40歳ほどの頃だった
- [13]野田順弘は会計士としてではなく企業として会計システムの仕事をやらないか、自分も出資すると持ちかけた
- [14]和田成史は予想もしなかった話だとしながら二つ返事で引き受けた
- [16]野田順弘はオービック社長でありながらOBCの会長を兼務した
- 週刊東洋経済 2000年2月5日号
- [15]オービックからの出資は設立時の一度だけで、経営への関与も金融支援もなかった
和田氏が誘いに乗ったのは、会計士の仕事が行き詰まったからではない。公認会計士としての仕事は順調で、そのうえで、これからは会計システムが重要になる、できることなら自分の手で作ってみたい[18]、と考えた。自分でやれば、会計士として学んだことをすべて盛り込み、自分なりの理想を追求したシステムが構築できる。リスクについては、変化そのものであり、変化こそ成長の機会だと捉えた[20]。和田氏はのちに経営理念として、自由で公平な職場づくり、採用と教育に重点を置いた人材育成、革新と戦略を追求する企画・製品開発の3点を挙げた[21]。1981年5月、商号を株式会社オービック・ビジネス・コンサルタントへ改め、本店を東京都新宿区へ移した[22]。 [17][19]
- 日経ベンチャー 2001年9月号
- [17]創業前の公認会計士としての仕事は順調だった
- [18]これからは会計システムが重要になり、できることなら自分の手で作りたいと考えていた
- [19]自分でやれば会計士として学んだことをすべて盛り込み理想を追求したシステムを構築できると考えた
- [20]リスクを変化と捉え、変化こそが成長の機会だと考えていた
- 証券アナリストジャーナル 1999年11月号
- [21]経営理念は①自由と公平な職場作り②採用と教育に重点を置いた人材の教育と企業成長③革新と戦略を追求する企画・製品開発の3点だった
- 有価証券報告書
- [22]1981年5月に商号を株式会社オービック・ビジネス・コンサルタントへ変更し本店を東京都新宿区へ移転した
- 有価証券報告書
- [1]1980年12月に東京都千代田区で設立された
- [2]設立時の商号は株式会社ビック・システム・コンサルタント・グループだった
- [3]設立時の事業目的はコンピュータの販売業務、コンピュータプログラムの製作及びシステム設計業務だった
- [9]公認会計士登録の9か月後にあたる1980年12月に会社を設立した
- [22]1981年5月に商号を株式会社オービック・ビジネス・コンサルタントへ変更し本店を東京都新宿区へ移転した
- 週刊東洋経済 2000年2月5日号
- [4]創業者の和田成史は1952年8月30日に東京都で生まれた
- [5]和田成史は1975年3月に立教大学経済学部を卒業した
- [6]和田成史は1976年に大原簿記学校の会計士科に勤めた
- [7]和田成史は23歳で公認会計士の二次試験に合格した
- [15]オービックからの出資は設立時の一度だけで、経営への関与も金融支援もなかった
- 日経ベンチャー 2001年9月号
- [8]和田成史は1979年に大原簿記学校を退職し、1980年3月に公認会計士として登録した
- [10]和田成史は公認会計士としてオービックに出入りしていた
- [11]出入り先でオービック社長の野田順弘と知り合った
- [12]誘いを受けたのは和田成史が26歳、野田順弘が40歳ほどの頃だった
- [13]野田順弘は会計士としてではなく企業として会計システムの仕事をやらないか、自分も出資すると持ちかけた
- [14]和田成史は予想もしなかった話だとしながら二つ返事で引き受けた
- [16]野田順弘はオービック社長でありながらOBCの会長を兼務した
- [17]創業前の公認会計士としての仕事は順調だった
- [18]これからは会計システムが重要になり、できることなら自分の手で作りたいと考えていた
- [19]自分でやれば会計士として学んだことをすべて盛り込み理想を追求したシステムを構築できると考えた
- [20]リスクを変化と捉え、変化こそが成長の機会だと考えていた
- 証券アナリストジャーナル 1999年11月号
- [21]経営理念は①自由と公平な職場作り②採用と教育に重点を置いた人材の教育と企業成長③革新と戦略を追求する企画・製品開発の3点だった
最初の製品ができた時点で資金が尽きた
設立にあたって和田氏が用意した資金は、オービックからの出資だけではない。和田氏の事務所が開発したシステムの販売権を、沖電気が1億円で買い取った。この1億円を元手に製品開発へ着手し、ピーク時には80人近いプログラマーが開発に加わった[24]。ところが製品ができあがったのは、その1億円をちょうど使い切る頃だった。売る物ができた時点で、手元の資金は尽きた。手元に運転資金がなければ会社は続かないため、和田氏は取引銀行につなぎ融資を求めた[26]。当時27歳の和田氏には、担保に入れられる資産がなかった[27]。 [23][25]
- 日経ベンチャー 2001年9月号
- [23]和田成史の事務所が開発したシステムの販売権を沖電気が1億円で買い取った
- [24]1億円を元手に製品開発へ着手し、ピーク時には80人近いプログラマーが携わった
- [25]1億円を使い切る頃に最初の製品が完成し、その時点で資金が尽きた
- [26]運転資金を確保するため銀行からつなぎの融資を受けた
- [27]当時27歳の和田成史には担保になる資産がなかった
和田氏は父に頼み込み、担保として父の土地を差し入れてもらった[28]。父に判を押してもらったときの気持ちを、和田氏は後年、絶対に成功させるという執念だけだったと述べ、うまくいかなかったらどうしようとは考えたくもなかったし、実際に考えもしなかったと語った[29]。借り入れでつないでいる間に販売収入を上げなければ、会社は立ち行かない。和田氏を含む社員4人は、3か月で1000万円という販売目標を立てた。この額を売らなければ資金が回らないという計算だった。ふたを開けてみると、3か月で1300万円が売れた[32]。 [30][31]
- 日経ベンチャー 2001年9月号
- [28]融資の担保には和田成史の父の土地を入れた
- [29]父に判を押してもらったときの気持ちは絶対に成功させるという執念だけだった
- [30]借り入れでつないでいる間に販売収入を上げる必要があった
- [31]和田成史を含む社員4人で3か月1000万円の販売目標を立てた
- [32]実際には3か月で1300万円が売れた
最初に製品を買ったのは、社員10人から20人ほどの会社のオーナー経営者がほとんどだった[33]。客の前で実際に操作してみせると反応がよく、デモを見た客の半分ほどが製品を買った[34]。それでも資金の面では2年ほど苦労が続き、専務を務めた和田成史氏の妻で公認会計士の和田弘子氏は、この時期にストレスから直径5センチほどの円形脱毛症になった。もっとも和田弘子氏は経営の第2位として管理部門を統括し、会計士としての知識を生かして投資判断を担った[37]。和田成史氏は、夫人との間で家庭に仕事を持ち込まない主義を通した[38]。1983年11月には業務ソフト「TOPシリーズ」の販売を始めた。1986年9月には東京支店と大阪営業所を開いた。 [35][36][39]
- 日経ベンチャー 2001年9月号
- [33]最初の顧客は社員10人から20人ほどの会社のオーナー経営者がほとんどだった
- [34]デモを見た客の半分ほどが製品を購入した
- [35]専務は和田成史の妻で公認会計士の和田弘子であり、創業後2年ほどは資金繰りに苦労し円形脱毛症になった
- 有価証券報告書
- [36]1983年11月に「TOPシリーズ」の販売を開始した
- [39]1986年9月に東京支店と大阪営業所を開設し、以後1988年に名古屋、1990年に福岡、1993年に仙台へ拠点を広げた
- 週刊東洋経済 2000年2月5日号
- [37]和田弘子は経営の第2位として管理畑を統括し、会計士の専門知識を生かして投資判断を担った
- [38]和田成史は夫人との間で一切家庭に仕事を持ち込まない主義を貫いた
- 日経ベンチャー 2001年9月号
- [23]和田成史の事務所が開発したシステムの販売権を沖電気が1億円で買い取った
- [24]1億円を元手に製品開発へ着手し、ピーク時には80人近いプログラマーが携わった
- [25]1億円を使い切る頃に最初の製品が完成し、その時点で資金が尽きた
- [26]運転資金を確保するため銀行からつなぎの融資を受けた
- [27]当時27歳の和田成史には担保になる資産がなかった
- [28]融資の担保には和田成史の父の土地を入れた
- [29]父に判を押してもらったときの気持ちは絶対に成功させるという執念だけだった
- [30]借り入れでつないでいる間に販売収入を上げる必要があった
- [31]和田成史を含む社員4人で3か月1000万円の販売目標を立てた
- [32]実際には3か月で1300万円が売れた
- [33]最初の顧客は社員10人から20人ほどの会社のオーナー経営者がほとんどだった
- [34]デモを見た客の半分ほどが製品を購入した
- [35]専務は和田成史の妻で公認会計士の和田弘子であり、創業後2年ほどは資金繰りに苦労し円形脱毛症になった
- 有価証券報告書
- [36]1983年11月に「TOPシリーズ」の販売を開始した
- [39]1986年9月に東京支店と大阪営業所を開設し、以後1988年に名古屋、1990年に福岡、1993年に仙台へ拠点を広げた
- 週刊東洋経済 2000年2月5日号
- [37]和田弘子は経営の第2位として管理畑を統括し、会計士の専門知識を生かして投資判断を担った
- [38]和田成史は夫人との間で一切家庭に仕事を持ち込まない主義を貫いた