オービック商号変更に合わせた会計機販売から情報処理サービス・自社開発ソフトへの転換

ハードを渡す代理店にとどまるか、業務そのものを商品にするか——大阪ビジネスがオービックへ改称した1974年の選択

時期 1974年1月
意思決定者(推定) 野田順弘 社長
論点 事業モデルと商品の定義
概要
1974年1月、中古会計機と事務機器を売る株式会社大阪ビジネスが商号を株式会社オービックへ改め、本店を大阪市南区塩町通へ移した。同じ時期から、メーカーのハードを渡す代理店の商売を、業種ごとの業務システムを自社で作って売る情報処理サービスへ組み替えた。
背景
1968年に会計機その他の事務機器の輸出入・国内販売を目的として設立された同社は、三菱電機系列のオフィス向けコンピュータとソフトの販売代理店として出発した。ハードを右から左へ渡す商売では、利益の幅も顧客との関係の深さも代理店の側で決められなかった。
内容
商号変更とともに、東京・大阪の二本社制、機能別子会社の連続設立、社内のソフト資産共有システム「フレックス・ライブラリー」、自社ブランド「OFFICE」の投入と、ソフトを自前で持つための仕掛けを積み上げた。ゴルフ場やホテルの予約システムのように、業種の業務そのものを商品として売る形へ移した。
含意
ハードを材料と見なし、ソフトの付加価値で稼ぐという商品の定義変更が、1981年時点で売上高80億円超・経常利益10億円程度という利益率へつながった。1997年の統合業務ソフト「OBIC7シリーズ」まで、商品の作り方はこの時期に決まった型を引き継いでいる。
筆者の見解

誰の都合で商品の値段が決まるか

1974年の改称でオービックが手放したのは、社名に入っていた地名と、事務機商という職業の定義であった。メーカーの機械を運ぶ限り、値段も納期も新製品の周期も供給側が決め、代理店に残る取り分は運賃と据え付けの手間に近づく。予約システムを商品と呼び、機械を材料と呼び替えた野田順弘氏の言い方は、値付けの根拠を機械の原価から顧客の業務へ移す宣言でもあった。6人の技術集団という出発点を持つ会社が、技術者を抱える理由をここで初めて事業の説明と一致させたとみることができる。

この転換は、同時に会社の作り方も決めた。ソフトを自前で持つと決めれば、書ける人間を社内に置き続けるほかなく、新卒を採って育てる採用と、部品を社内に貯めるフレックス・ライブラリーが、商品の側から要請される。1997年に出した統合業務ソフト「OBIC7シリーズ」も、業種ごとの業務を標準の部品に落として売るという点で、1980年の「OFFICE」と同じ作りをしている。大阪ビジネスという社名を返上した1974年1月から、この会社が会計機の箱を並べる商売へ戻ったことは一度もない。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

会計機を運ぶ商店として始まった大阪ビジネス

1968年4月、野田順弘氏が大阪市西区阿波座南通に株式会社大阪ビジネスを設立した。設立の目的は会計機その他の事務機器等の輸出入および国内販売で、扱う品も、売り先も、社名も、大阪の事務機商という枠に収まっていた。野田氏は高校卒業後に近鉄百貨店で企業向けの事務機器を売り、働きながら大学の夜間部に通ったが、営業成績を上げても夜学卒というだけで評価されない体質に嫌気がさして退職している。海外の事務機器メーカーの営業を経て、三菱電機系列のオフィス向けコンピュータとソフトの販売代理店として独立した[1][2]

会社は最初の5年で商圏を三大都市圏へ広げた。1969年5月に本店を大阪市東区常盤町へ移し、1971年11月に東京支店、1973年12月に名古屋支店を開いている。1972年8月には株式会社オービーシステムを設立し、開発の受け皿を社外に一つ置いた。もっとも、門前払いの続く事務機の飛び込み営業に人はなかなか居つかず、会社の成長は人材の成長がすべてだと痛感した野田氏は、中途採用をやめて新卒を一から育てる採り方へ切り替えている。売る商品よりも先に、売る人の作り方が決まった[3][4]

メーカーのハードを渡すだけの商売

当時のディーラーの立ち位置を、野田氏はのちにこう説明している。「一般にディーラーというのは、メーカーから供給されたハードをユーザーに渡す。つまりハードを売るわけですが、われわれの場合、ハードをメーカーから頂き、それにソフトウェアをつける」。前段が1970年代前半までの大阪ビジネスの商売にあたる。機械の値段も、供給の量も、次の機種が出る時期もメーカーが決め、代理店の側に残るのは販売手数料と据え付けの手間であった[5]

一方で、社内には別の性格も同居していた。設立当初の陣容は6人程度の技術集団で、専門的な技術者の集まりであるという性格は創業から十数年を経ても変わらなかった。野田氏は現場主義を設立当初からの理念に据え、ユーザーの現場に入って泥臭い悩みを失敗を重ねながら解決してきた蓄積は誰にも負けないと語っている。顧客の業務を知る技術者を抱えながら、商品はメーカーの機械であるという不釣り合いが、業態を変える前の同社の姿であった[6][7]

決断

1974年1月、社名から「大阪」と「ビジネス」を外す

1974年1月、商号を株式会社オービックへ変更し、本店を大阪市南区塩町通へ移した。設立から6年足らずで、地名と業種を並べただけの社名を捨てている。改称は看板の掛け替えにとどまらず、事務機・会計機の販売から、情報処理サービスと自社で開発したソフトウェアを売る商売へ、扱う商品の定義を移す作業と同時に進んだ。会計機の値段で語られる会社であるかぎり、顧客の予算はハードの償却期間に縛られ、技術者を抱える意味も薄いままであった[8]

改称の後は、組織を機能ごとに割る作業が続いた。1976年1月に東京・大阪の二本社制を敷いて福岡支店を開き、同年7月に株式会社オービックオフィスオートメーションを設立している。1979年11月には本店を大阪市南区順慶町通へ移すとともに同社の中部法人を置き、1980年12月に株式会社オービックビジネスコンサルタント、1981年9月に株式会社オービックビジネスソリューションを設けた。売る機能、作る機能、地域を担う機能を別法人に分け、社数を増やしながら網を張る形をこの時期に固めている[9]

商品はハードではなくシステム

何を売る会社にするかについて、野田氏の説明は具体的であった。「ゴルフ場やホテルに出すというのは、予約システムを売る、システムそのものが商品なんです。ハードそのものは、商品としてみれば材料に過ぎない」。機械に業種ごとの業務を載せ、その業務を商品として値付けする。顧客が買うのは計算機ではなく予約の受け方であり、値段の根拠は機械の原価ではなく業務の設計に移る。ソフトの開発そのものが利益となったことで利益率が高まったと、野田氏は同じ誌面で述べている[10][11]

業務を商品にするには、作ったものを社内に残す仕掛けが要る。1978年ごろに始めた「フレックス・ライブラリー」は、書いたソフトを完成品のパッケージとして固めるのではなく、自社の業務に合わせて選び直せる部品の形で蓄える仕組みで、稼働効率と教育の時間を縮めた。1980年には過去に売ったオフコン用ソフトを集大成した自社ブランド「OFFICE」を、翌1981年には日本語に対応した「OFFICE 0」を市場へ出している。技術者の頭にあった手順が、社名を持つ商品として棚に並んだ[12][13]

結果

オフコンのトップディーラーと自社ブランドの併存

業態を移してからも、ハードの販売量そのものは落ちていない。三菱電機のMELCOMシリーズを主力に据えたまま、1981年中には受注累計5,000台の達成を見込むところまで来ており、誌面はオフコンのトップディーラーとしての地位を確実に高めていると記した。拠点の作り方にも同社の癖が出ている。東京・大阪・名古屋・福岡の本支店に加え、横浜・京都・北九州には地域密着型の独立法人を置き、東京・大阪・名古屋・福岡には現地独立会社のオービックサプライを構え、実務者を養成するオービックビジネススクールも1981年に始めた[14][15]

数字の面では、1981年時点で売上高は80億円を超え、経常利益は10億円程度、グループ全体の売上高は100億円を超えた。オフコンを並べて売るだけの会社では届きにくい利益の幅であり、ソフトを自前で持つ判断がここで報われている。開発の体制もこの直後に厚くなった。1982年8月に株式会社オービックシステムエンジニアリング(大阪)、1983年4月に同(東京)、同年10月に同(名古屋)、同年11月に新潟オービックシステムエンジニアリングを設け、システム開発の要員を地域ごとに抱える形へ進んだ[16][17]

出典・参考
  • オービック 有価証券報告書 第39期(2006年3月期)【沿革】
  • マネジメント 1981年12月号「ソフト開発に徹する独立系トップディーラー」(国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 週刊東洋経済 2009年2月7日号「中途採用ゼロ、独自の新人育成で好業績」

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