野村マイクロ・サイエンス米GE製ろ過膜の輸入販売から超純水製造システムへの転換と、米アクアメディア社からの技術導入
膜を売るか、膜を組み込んだ装置を売るか——創業5年で売る単位を組み替えた技術導入
- 概要
- 1974年1月、米ゼネラル・エレクトリック社製の超精密ろ過膜を輸入販売してきた野村マイクロ・サイエンスが、米アクアメディア社から超純水技術を導入し、膜を組み込んだ超純水製造システムを設計・施工して売る装置メーカーへ業態を移した経営判断。
- 背景
- 創業時の同社は極東10カ国の独占販売権を持つ輸入商社で、価格も供給も膜を作る米GEの側にあった。一方、国内のフィルター需要が年6億円規模だったのに対し、フィルターの応用機器の需要はすでに年100億円を超えていた。
- 内容
- 1972年12月に米GEと共同で膜の製造会社NPC社を設立して株式23%を取得し、1973年11月には技術面の母体であった北興化学工業ニュクリポアー部門の人員・資産を統合。そのうえで1974年1月に米アクアメディア社の超純水技術を導入した。
- 含意
- 売る単位が部品から一式へ移り、装置を納めた後に消耗品の販売と水質分析・保守が続く関係が生まれた。1976年に製薬会社、1983年に韓国の半導体メーカーへ装置が渡り、2025年3月期には連結売上964億円の水処理装置単一事業となっている。
売る単位を、部品から一式へ
1970年10月にGEと北興化学工業が掲げた開発目標は、純水製造装置・廃液処理装置・アルコール類のろ過殺菌装置・空気浄化装置の4つであった。並んでいるのは膜ではなく、どれも膜を組み込んだ装置である。極東10カ国の独占販売権を持ちながら売る単位を部品から一式へ移したのは、膜の性能を値段に換えられるのが装置を組む側だったからだとみられる。1972年のNPC社への出資も、1973年の部門統合も、その一式を自前で組むための順序であったといえる。
ただ、1974年の超純水技術は自前の開発ではなく、GEに続く二度目の借り物であった。1981年に栗田工業の中村貞夫社長が超純水装置の市場を語った講演に同社の名はなく、装置メーカーになってからも10年近く、業界のなかでは小さな存在にとどまっていた。転換がすぐ実を結んだわけではない。それでも、売る単位を装置へ移していたからこそ、韓国で9社に断られた末にサムスン電子と取引が始まったとき、装置の後ろに保守と消耗品が積み上がる関係を築くことができた。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
NASAが生んだろ過膜を売るための会社
1969年4月、東京都中央区日本橋本石町に野村マイクロ・サイエンス株式会社が設立された。目的は、米国ゼネラル・エレクトリック社(GE)が開発した超精密ろ過膜「ニュクリポアー」の日本および極東地区での独占販売である。この膜は、GEの放射線事業部の核センターがポリカーボネートの超薄皮膜に原子炉で発生する中性子を照射し、エッチングしたもので、均一なシリンダー状の穴を1平方センチメートル当たり10億個まであけることができた[1][2]。
この膜は、もともとNASAのプロジェクトから生まれた素材で、当時は学術研究用に用途が限られ、産業への応用は米国でも1960年代半ばに考えられ始めたばかりであった。GEは血液からがん細胞を分離する医学研究に使っていたが、選択ろ過ができ、わずかな目詰まりも逆洗いして連続使用できるという特性から、産業用途への関心が急に高まっていた時期にあたる。新しい素材が売り物を探している段階であったといえる[3][4]。
膜そのものより、膜を組み込んだ機器
会社の座組は、日経ビジネスの1970年10月19日号が伝えている。北興化学工業が対GEの窓口として野村海外事業と共同出資し、資本金2億5000万円で「野村マイクロサイエンス」を設立、すでにGEから極東10カ国におけるニュクリポアーの販売権を取得していた。同誌が記す当時の社長は野村康三氏である。北興化学工業は国内で三番目の農薬専業メーカーで、公害問題や農薬の需要鈍化に対し、毒性の知識を逆に用いて浄化の方向へ多角化の糸口を求めた会社であった[5][6]。
膜そのものの市場は、当時まだ小さかった。国内のフィルター需要は数年前まで年間6億円程度と推定され、技術の高度化とともに年30〜40%の伸びが見込まれていたのに対し、フィルターの応用機器の需要はすでに年間100億円を超えていた。需要先の4割を占めた弱電業界では、集積回路の歩留りが25%にとどまり、残る75%は使いものにならないといわれていた。この膜で超純水をつくって素材を洗浄すれば歩留りが上がるとして、集積回路の製造には導入が始まっていた[7][8]。
決断
膜の上流と製造を先に押さえる
1970年10月下旬、GEと北興化学工業は、産業向けの応用機器を共同で開発し生産する包括的な提携に調印した。開発成果は両社で共有し、極東地域では野村マイクロ・サイエンスを通じて販売する取り決めで、当面の開発目標として①純水製造装置②廃液処理装置③アルコール類のろ過殺菌装置④空気浄化装置の4つが掲げられた。並んでいるのは膜ではなく、いずれも膜を組み込んだ装置である[9]。
装置を売る前に、同社は膜そのものの押さえ方を二段構えで変えている。1972年12月、GEと共同で米国にNuclepore Corporation(NPC社)を設立し、その株式23%を取得した。極東の独占販売権を持つとはいえ、価格も供給量も膜を作る側が握る関係に変わりはない。製造会社の株主に回ったのは、その関係に一枚噛んでおく手であったとみることができる[10]。
翌1973年11月には、技術面の母体であった北興化学工業ニュクリポアー部門から人員と資産を引き受け、自社に統合した。有価証券報告書の沿革は、この統合を「ニュクリポアー・メンブレンと関連機器の製造販売体制の一体化を図る」ためと記している。膜と、膜を組み込む機器を、同じ会社のなかで作って売る形がここで整った。設立から4年半で、輸入販売の会社は製造の機能を内側に抱えたことになる[11]。
1974年1月、超純水製造システムへ
1974年1月、野村マイクロ・サイエンスは米国アクアメディア社の超純水技術を導入し、超純水製造システムに進出した。1970年に掲げられた開発目標の筆頭「純水製造装置」は、自力の開発ではなく二度目の技術導入によって立ち上がった。売る単位は、膜という部品から、膜・イオン交換樹脂・配管・制御を組み上げた一式へ移る。装置を設計して据え付ける仕事は、部品を輸入して卸す仕事とは、要る人も要る時間も違っていた[12]。
導入した技術は、ろ過膜だけの延長ではなかった。1976年3月には逆浸透膜(RO)によるパイロジェン除去システムを開発し、国内の製薬会社へ納入している。半世紀後、内田誠社長は「もともとは製薬用水向け超純水製造装置でスタートした会社」と振り返り、設立直後から製薬会社向けに製薬用水の装置を納めていたと述べた。半導体より先に、医薬が装置の顧客であった[13][14]。
結果
導入から国産化へ、そして業界の隅で
1980年7月、逆浸透装置の国産化を図るため、米アクアメディア社・日揮株式会社との3社合弁で日本アクアメディア株式会社を設立した(出資比率33.3%、1991年8月に株式会社ナムテックへ商号変更)。技術導入から6年で、輸入していた装置を国内で作る側へ移した形になる。プラントエンジニアリングの日揮を合弁に迎えたのは、装置を据え付ける工事の側の力を借りるためであったとみられる[15]。
もっとも、1970年代を通じて超純水の市場を押さえていたのは同社ではなかった。1981年11月、栗田工業の中村貞夫社長は日本証券アナリスト協会の講演で、RO装置と純水装置の組み合わせにより日本電気・東芝・ソニー・日立などから次々と発注を受け「現在はオルガノさんと市場を分けているが、40%ないし45%のシェアを得ている」と語っている。半導体向け超純水を論じたこの講演に、野村マイクロ・サイエンスの名は出てこない[16][17]。
装置のあとに残るもの
装置を売る会社になって10年後、同社は国外に販路を求めた。1983年2月、韓国の三星半導体通信(当時)へ超純水装置を輸出している。内田誠社長は2024年に、韓国の潜在顧客へ営業をかけて9社に断られ、唯一取引が始まったのが現在のサムスン電子であったと明かし、野村マイクロ・サイエンスが半導体向けの事業に入れたのもサムスン電子のおかげだと述べている。装置の主な行き先が、医薬から半導体へ移り始めた[18][19]。
2025年3月期の連結売上高は964億円、営業利益は154億円に達した。事業は水処理装置の単一セグメントで、超純水製造装置の設計・施工・販売とメンテナンスを一体で担う。装置を納めた後も、フィルターやイオン交換樹脂といった消耗品の販売が続き、各国で採取した水を日本の本社へ持ち帰って分析する仕事も残る。膜を一度売って終わる商いのままであれば、この形は生まれていない[20][21][22]。
- 日経ビジネス 1970年10月19日号「超精密ろ過材利用へGEと北興化学提携」
- 野村マイクロ・サイエンス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- 証券アナリストジャーナル 1981年第19巻第12号「栗田工業」(中村貞夫氏 日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
- 週刊東洋経済 2024年3月9日号「発見!成長企業 【6254】野村マイクロ・サイエンス 半導体需要急拡大が追い風 超純水装置メーカーの強み」
- 野村マイクロ・サイエンス 公式サイト IR FAQ