米国に足りなかったのは砥石そのものではなく、切断という結果に責任を持つ担い手だった。関家憲一氏の総括は、砥石の販売のために機械を手がけ、いつの間にか精密機械メーカーへ変わっていたというものとして読める。分業が常識の業界で三者分の役割を一社に抱えるのは当時の規模には重かったが、そうしなければ砥石が売れなかったから抱えたのであり、戦略的な選択ではなく、ほかに道がなかったとみるべきだろう。
ただ、この体制が初めから強みだったわけではない。開発には七年を要し、最初の機械は半導体の工場では使えないと突き返され、切り方の方式も一度は誤っている。呉の自社工場は参入に反対し、工作機械メーカーにも下請けにも断られた。三位一体という言葉が社章の説明として語られるのは、国内95%を取り切った後である。強みの理屈は、たいてい優位に立った後に整えられるといえる。