ディスコ切断装置の自社開発と、砥石・装置・使い方を一社で担う体制への転換

売るのは砥石か、切るという結果か——米国での失敗が砥石屋に迫った問い

時期 1975年2月
意思決定者(推定) 関家三男(社長)・関家憲一 後の第2代社長
論点 砥石専業からの業態転換と装置の内製化
概要
砥石メーカーであった第一製砥所は、自社の極薄切断砥石を使いこなす装置を自ら設計し、1975年2月に半導体用ダイシングソーの販売を始めた。砥石・装置・使い方の三つを一社で担う体制へ移り、1977年4月には商号をディスコへ改めている。
背景
1968年に40ミクロンの切断砥石を作り上げ、翌1969年には米国へ販売拠点を置いた。砥石そのものには関心が集まったものの、それを活かす切断用の機械が現地になく、売り込みは行き詰まって撤退した。
内容
工作機械メーカーには装置の開発を断られ、下請けでも思うものができず、技術者を招いて自社に機械部を立ち上げた。開発は七年に及び、当初採ったマルチブレード方式は半導体の切断に向かないと分かる。一号機の完成は1975年であった。
含意
装置と消耗品を一社で持つ形は他社が真似しにくく、1980年代半ばにはダイシングソーで国内95%・世界80%のシェアとなった。「切る・削る・磨く」に絞る今日の骨格は、この転換で据えられたとみることができる。
筆者の見解

砥石屋が機械を作るということ

砥石を売るために機械を作り、気がついたら精密機械メーカーになっていた——関家憲一氏の総括はそう読める。米国で欠けていたのは砥石ではなく、切るという結果を引き受ける主体であった。分業が当たり前の業界で三者ぶんを一社に抱えるのは、当時の規模からすれば重い。それでも抱えたのは、抱えなければ砥石が売れなかったからであり、戦略として選んだというより退路が無かったからだとみられる。

ただ、この体制が初めから強みだったわけではない。開発には七年を要し、最初の機械は半導体の工場では使えないと突き返され、切り方の方式も一度は誤っている。呉の自社工場は参入に反対し、工作機械メーカーにも下請けにも断られた。三位一体という言葉が社章の説明として語られるのは、国内95%を取り切った後である。強みの理屈は、たいてい勝った後に整えられるといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

薄さを競った砥石屋

第一製砥所が広島県呉市で工業用砥石の製造販売を始めたのは1937年である。1940年代に入って砥粒を樹脂で結ぶレジノイド砥石が業界へ入り、低い温度で成形できることから薄い砥石が作れるようになった。戦後の住宅復興期には家庭用の積算電力計に入る磁石を切るため、1.5ミリ厚の砥石を開発している。1956年には万年筆メーカーの依頼で、ペン先の溝を切る砥石を手がけた[1]

薄さの競争は、やがてミクロンの領域へ入った。大手の半導体メーカーから、七〇ミクロンかそれ以下になれば半導体の加工におもしろいと示唆され、1968年には40ミクロンの砥石までこぎ着けている。この砥石は日刊工業新聞社の十大新製品賞の第一号を受けた。当時はまだシリコンバレーという呼び名すら無かったが、米国で半導体産業が立ち上がる兆しは見えていた[2]

研削から切断へ絞る

昭和三十年代の末、同社は研削砥石から退いて切断砥石に特化する。提案したのは創業者である関家三男氏の子息、関家憲一氏と関家臣二氏の兄弟で、二人とも慶應義塾大学の文科系出身であり技術屋ではなかった。古手の技術者からは抵抗もあったが、関家三男氏の決断で進路が決まる。零細な企業が大企業と同じ製品を扱っていては伸びないという読みであった[3]

切断砥石は、使い方の蓄積とひとまとめにして売られた。営業に回った関家臣二氏は、鉄、銅、アルミ、ガラス、結晶材料と、砥石で切れそうなものを片端から切り、材料に応じた使い方を体得したと語っている。使い方というソフトを付けて高付加価値化したというのが本人の説明であり、のちに三位一体と呼ぶ体制の一角は、この時期に経験として溜まっていた[4]

決断

米国で砥石だけが売れなかった

1969年、同社はシリコンを切る用途を狙って米国へ出た。有価証券報告書の沿革には、同年12月に米国販売拠点として DISCO ABRASIVE SYSTEMS, INC. を設立したと記されている。砥石そのものには確かに関心が集まった。ところが、その砥石を活かせる切断用の機械が現地に無く、結局は撤退したと関家憲一氏は述べている[5][6]

つまずきの原因は、業界の分業にあった。切断装置の砥石は砥石メーカー、機械は工作機械メーカー、そして使い方はユーザーが考えるというように、三者はばらばらであった。ディスコはその三つを一社でやらなければいけない羽目になった、これが強みになったと関家憲一氏は振り返っている。同社のマークに引かれた三本の線は、砥石・機械・応用の三位一体を表している[7]

七年かけて機械を作る

最初は工作機械メーカーへ装置の開発を依頼したが、相手にされなかった。やっと見つけた下請けでも思うものができず、自社で設計するほかないという結論になる。工作機械メーカーの技術者を一人スカウトし、機械部長として据えてようやく開発が動き出した。装置への参入には社内の反対もあり、広島・呉の自社工場はそっぽを向いたと後年の記事は伝えている[8][9]

砥石を開発した1968年から七年ほどは失敗が続いた。最初の機械は切れることは切れたが、水をまき散らして音も大きく、これでは半導体の工場では使えないと言われている。当初は半導体メーカーの提案でマルチブレード方式を採ったが、ICの切断には一枚ずつ高速で切るシングルブレード方式のほうが優れていた。原型となる一号機ができたのは1975年である[10]

結果

米国への再挑戦と後工程の寡占

1975年5月、一度は退いた米国の展示会に一号機を出品したところ、引き合いだけで500社を超えた。有価証券報告書の沿革は、同年2月に半導体用ダイシングソーを開発して販売を始め、精密ダイヤモンド工具へ進出したと記す。1977年4月には商号を第一製砥所からディスコへ改めた。砥石を売るための機械が、会社の看板を替えたことになる[11][12][13]

1980年代半ばには、ダイシングソーで国内の95%、世界でも80%というシェアを握った。資本金19億円・売上高175億円・経常利益30億円強・従業員600人という規模で、IBMやテキサス・インスツルメンツから日立や東芝まで、世界の約300の半導体工場に装置が入っていた。同じ領域には20社から30社が参入したが、残ったのは同社を含めて世界で四社であった[14]

消耗品と装置の両輪

三位一体の効き方は、後年の取材でも同じ言葉で説明されている。利益率の高い消耗品である砥石が安定した利益の基盤となり、装置専業のメーカーには無い強みになった。顧客の要求に応えられないとき、装置だけの会社なら他社から買った砥石のせいにできるが、両方を手がける同社には言い逃れがきかない。客が本当に欲しいのは砥石でも装置でもなく結果であると溝呂木斉社長は語っている[15]

使い方を売る仕組みも、形を変えて残った。本社に置かれたアプリケーションラボには77部屋の実験室と200台を超える装置があり、世界中の半導体メーカーや電子部品メーカーが持ち込む加工実験を原則無償で引き受けている。2013年の時点で年に2000回から3000回の加工をこなしていた。1970年代に組み上げた砥石・装置・応用の並びが、そのまま今日の競争力の説明になっている[16]

出典・参考
  • 決断 1986年1月号(サバイバル出版)
  • 商工ジャーナル 1995年6月号(商工中金経済研究所)関家憲一氏談話
  • 週刊東洋経済 2007年1月20日号「企業・産業 シリコンサイクルに負けない経営 もう赤字にはならない! ディスコ“大改革”の中身」
  • 週刊東洋経済 2013年11月22日号「すごい現場、すごい場所 3 切る・削る・磨くを極める ディスコ アプリケーションラボ」
  • ディスコ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
  • オール大衆 第34巻18号掲載の業績推移

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