ディスコ半導体拡散炉事業からの撤退と開発費約50億円の損失計上

製品としては成功していた前工程の事業を、関家憲一社長はなぜ十年で畳んだか

時期 1992年3月
意思決定者(推定) 関家憲一 社長
論点 本業外の新規事業からの撤退と事業領域の絞り込み
概要
ディスコは1990年代の初めに、半導体製造の前工程で使う拡散炉(熱処理炉)の事業から撤退し、十年で投じた約50億円の開発費を損失として確定させた。ダイシングソーで後工程の寡占を築いた同社が、前工程へ広げた唯一の飛び地を畳んだ判断で、決めたのは創業者の跡を継いだ関家憲一社長であった。
背景
ディスコは切断砥石とダイシングソーで国内95%・世界80%のシェアを握り、後工程では取り切った状態にあった。次の伸び代を求めて半導体前工程の縦型拡散炉へ進み、十年で約50億円を投じたが、そこには既に強い装置メーカーが並んでいた。
内容
拡散炉は製品としては完成し技術的な評価も得たものの、量産化に届かず事業として成立しなかった。半導体需要の低迷で本体も苦しくなるなかで開発を打ち切り、投じた開発費を損失として処理した。参入を決めたのは創業者で父の関家三男氏であった。
含意
撤退の後、ディスコは基軸となる技術から離れない方針を選び、切る技術の派生としてウエハー裏面を削るバックグラインダを育てた。1997年には行動規範「ディスコ・バリューズ」で事業領域を「切る・削る・磨く」に限る。失敗が判断基準の明文化を促したとみることができる。
筆者の見解

動いている製品を畳むということ

この撤退を、本業外へ手を広げた多角化の失敗と読むだけでは足りない。拡散炉は技術的な評価が高く、製品としては成功していたと関家憲一社長自身が認めている。国内95%を握った後工程に伸び代は乏しく、前工程は数少ない次の市場でもあった。売れない製品ではなく、動いている製品を畳む判断であった。それでも止められたのは、参入を決めたのが創業者であり父の関家三男氏だと名指しできる立場に、後を継いだ息子が座っていたからだとみられる。

もっとも、その判断が早かったとはいえない。開発は十年に及び、費やした約50億円は撤退の時点で戻らない金であった。止める決め手も、基軸技術という理屈より、このまま続ければ後が危ないという資金繰りの側にあった。基軸を外れたことへの反省を語ったのは撤退から二年後の1995年であり、事業領域を「切る、削る、磨く」と言葉にしたのは1997年である。教訓は失敗の直後ではなく、それを言い直した時に働き始めるといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

砥石屋が握った後工程の寡占

ディスコの前身である第一製砥所が広島県呉市で工業用砥石の製造販売を始めたのは1937年5月であった。切断用の薄い砥石で万年筆のペン先や半導体ウエハーの加工へ用途を広げ、1975年2月には半導体用ダイシングソーを開発して販売を始めている。1977年4月には社名をディスコへ改め、砥石屋から精密装置メーカーへ移った。砥石と装置、その使い方までを一社で抱えたことが、他社が容易に真似できない強みとなった[1][2]

1980年代半ばのディスコは、ダイシングソーで国内の95%、世界でも80%というシェアを握っていた。当時の紹介記事によれば、資本金19億円・売上高175億円・経常利益30億円強・従業員600人という規模で、IBMやテキサス・インスツルメンツから日立・東芝まで、世界の約300の半導体工場に装置が入っていた。中堅企業でありながら、半導体後工程の一角をほぼ独占する存在であった[3]

「横への拡大」としての縦型拡散炉

後工程の切断で市場をほぼ取り切った同社が次に向かったのが、半導体製造の前工程であった。1986年1月の記事は、ディスコが「横への拡大」を期して前工程への進出を実現したとし、その製品を次世代の技術といわれる縦型拡散炉と紹介している。拡散炉はウエハーに不純物を拡散させる熱処理装置で、切断とも研磨とも工程が違い、装置を買う相手先も同じではなかった[4]

関家憲一社長は後年、この事業を半導体製造の前工程に関わる熱処理炉の開発と説明し、投じた開発費は十年間で約50億円に上ったと語っている。着手は1980年代の初めまで遡る計算になる。売上高175億円・経常利益30億円強という当時の規模に照らせば、軽い負担ではなかった。しかも進出した先には既に強い装置メーカーが並んでおり、それまで手がけてきた砥石や切断とはあまり関係のない分野であった[5]

決断

製品は完成し、事業は成り立たなかった

撤退が固まったのは1990年代の初めである。関家憲一社長は「93年には半導体の前工程で使う拡散炉の事業から撤退し、50億円もの開発費を捨てました」と述べ、技術的な評価は高かったが事業としてはうまくいかなかったと振り返っている。製品としては成功したものの量産化に届かなかったというのが、当事者の総括であった。売れない製品を畳むのとは、性質の違う判断であった[6][7]

打ち切りを急がせたのは、会社そのものの苦しさであった。関家憲一社長は、企業が苦しいときにこれを止めなければ後が危ないと考えて止めたと説明している。半導体需要が落ち込み、単体の売上高が1990年3月期の160億円から1992年3月期の130億円へ縮んだ時期にあたる。十年続けた開発をここで断ち、費やした約50億円を戻らない金として処理した[8][9]

参入を決めたのは、創業者であり関家憲一社長の父でもある関家三男氏であった。関家憲一社長は後年、どんな事業をなすべきか、何をすべきでないかについて、新規参入を決めた当時の社長である父を含めて会社としての判断基準が曖昧だったと語っている。手を広げすぎたと言えばそれまでだとも述べており、需要の低迷や競合の強さを撤退の理由には挙げていない。総括は市場環境ではなく、自社の判断の質へ向けられていた[10]

結果

基軸技術への回帰と業績の立て直し

撤退の後、ディスコは基軸となる技術から離れないという方針を選んだ。関家憲一社長は、基軸技術を中心に展開するのがいちばん確かで、そのなかで大企業が手を出さないニッチを狙うのだと語っている。切る技術から派生させたのが、デバイスを形成したウエハーの裏面を薄く削るバックグラインダであった。磨くというより薄皮を切り取るという発想で分野を広げたと同氏は説明しており、1995年の時点でこの方式の砥石は世界の八割で使われていた[11]

業績は数年で立ち直った。単体の売上高は1995年3月期に250億円・当期純利益17.3億円、1997年3月期には377億円・当期純利益45.1億円まで伸びている。1999年12月には東京証券取引所市場第一部へ株式を上場する。1989年10月の店頭登録から十年での市場一部入りであった。撤退で削いだのは前工程という新市場への足がかりであり、手元に残したのは切断と研磨という一本の技術系統であった[12][13]

判断基準を言葉にする

関家憲一社長が撤退から引き出したのは、事業の是非を決める基準が社内に無いという認識であった。急成長の過程で経営幹部の価値観がばらばらになり、次世代の幹部と議論がかみ合わなくなっていたと同氏は語る。1996年から経営トップと若手幹部10人程度のチームで価値観を一から議論し直し、その成果を行動規範「ディスコ・バリューズ」としてカードにまとめ、社員へ配ったのが1997年であった[14]

そこで定めた事業領域が「切る、削る、磨く」であった。新規事業もこれらの技術を土台にした分野しかやらないと関家憲一社長は明言し、かつては顧客の要望や社内提案に片端から挑戦して失敗したと認めている。何でもできると錯覚していたという振り返りは、拡散炉の十年に向けられていた。余分な投資はしなくなったという言葉が、撤退の後始末を締めくくっている[15]

出典・参考
  • 決断 1986年1月号(サバイバル出版)
  • 商工ジャーナル 1995年6月号(商工中金経済研究所)関家憲一氏談話
  • 日経ビジネス 2003年7月7日号 関家憲一氏談話
  • ディスコ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
  • 戦略経営者 第9巻第5号(通巻91号)掲載の業績推移
  • 証券 第52巻第2号(通巻611号)掲載の業績推移

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