拡散炉事業の打ち切り(1992年・ディスコの決断)更新:2026/07/24論点量産に届かない新規事業から撤退するかディスコ:業績の推移売上高(億円)当期純利益率(%)データ出所半導体拡散炉事業からの撤退と開発費約50億円の損失計上何をなぜ決めたか:半導体拡散炉事業からの撤退と開発費約50億円の損失計上概要ディスコは1990年代の初めに、半導体製造の前工程で使う拡散炉(熱処理炉)の事業から撤退し、十年で投じた約50億円の開発費を損失として確定させた。ダイシングソーで後工程の寡占を築いた同社が、前工程へ広げた唯一の飛び地を畳んだ判断で、決めたのは創業者の跡を継いだ関家憲一社長であった。背景ディスコは切断砥石とダイシングソーで国内95%・世界80%のシェアを占め、後工程では取り切った状態にあった。次の伸び代を求めて半導体前工程の縦型拡散炉へ進み、十年で約50億円を投じたが、そこには既に強い装置メーカーが並んでいた。内容拡散炉は製品としては完成し技術的な評価も得たものの、量産化に届かず事業として成立しなかった。半導体需要の低迷で本体も苦しくなるなかで開発を打ち切り、投じた開発費を損失として処理した。参入を決めたのは創業者で父の関家三男氏であった。含意撤退の後、ディスコは基軸となる技術から離れない方針を選び、切る技術の派生としてウエハー裏面を削るバックグラインダを育てた。1997年には行動規範"ディスコ・バリューズ"で事業領域を"切る・削る・磨く"に限る。失敗が判断基準の明文化を促したとみられる。いつ何が起きたか7件考察:動いている製品を畳むということ考察考察:動いている製品を畳むということこの撤退を、本業外への多角化の失敗と読むだけでは足りない。拡散炉は技術的な評価が高く、製品としては成功していたと関家憲一社長自身が認めている。国内95%を握った後工程に伸び代は乏しく、前工程は数少ない次の市場でもあった。売れない製品ではなく、動いている製品を畳む判断であった。それでも止められたのは、参入を決めたのが創業者であり父の関家三男氏だと名指しできる立場に、後を継いだ息子が座っていたからだと推察される。もっとも、その判断が早かったとはいえない。開発は十年に及び、費やした約50億円は撤退の時点で戻らない金であった。止める決め手も、基軸技術という理屈より、このまま続ければ後が危ないという資金繰りの側にあった。基軸を外れたことへの反省を語ったのは撤退から二年後の1995年であり、事業領域を『切る、削る、磨く』と言葉にしたのは1997年である。教訓は失敗の直後ではなく、それを言い直した時に働き始めるといえる。Yutaka Sugiura, 2026年7月参考文献参考文献参考決断 1986年1月号(サバイバル出版)商工ジャーナル 1995年6月号(商工中金経済研究所)関家憲一氏談話日経ビジネス 2003年7月7日号 関家憲一氏談話ディスコ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】戦略経営者 第9巻第5号(通巻91号)掲載の業績推移証券 第52巻第2号(通巻611号)掲載の業績推移次に読む決断ディスコの意思決定1975年ディスコディスコダイシングソーを自社開発切断装置の自社開発と、砥石・装置・使い方を一社で担う体制への転換1975年2007年ディスコディスコ経費管理レベルと4年累計20%目標市況の谷でも利益を確保する収益構造への転換と、経費支出の段階管理の導入2007年同じ問い:集中のための事業売却2001年神戸製鋼所神戸製鋼所マイクロンに株式譲渡テキサス・インスツルメンツとの合弁の全株式売却による半導体撤退2001年2006年エバラ食品工業エバラ食品工業日本冷食をサンマルコ食品へ譲渡冷凍食品・広告代理店・物流へ展開した周辺事業からの全面撤退2006年1973年三菱鉛筆三菱鉛筆ROYALSOVEREIGN買収手芸用品・粘着テープ・化粧品・印章への多角化と、英企業の買収・売却1973年1993年いすゞ自動車いすゞ自動車GM説得で乗用車撤退いすゞの乗用車事業からの全面撤退と商用車・ディーゼルへの集中1993年1988年阪急阪神HD阪急阪神HD球団をオリエント・リースへ譲渡球団経営という本業外の資産の手放しと、プロ野球からの全面撤退1988年×出所